ぼくの近代建築コレクション
東京の都心と下町を中心に、戦前に建てられた古い建物の写真を投稿していきます。
 



フジハウス
文京区本郷6-6
2012(平成24)年4月28日(3枚とも)

先日、図書館で『杉浦茂 自伝と回想』(杉浦茂・他著、筑摩書房、2002年)という本を見かけて借りてきた。ぼくが小中学生だった1950年代、少年雑誌で傾倒したのが手塚治虫、小松崎茂、杉浦茂であった。読んでみると以前読んだことがあると分ったが、内容は覚えていないので再読した。杉浦の書いた自伝「遠い記憶」は体調の悪化のためだろう、途中で終わっていて分量も少ない。
「昭和11年、私はなんの意味もなく、本郷帝大(東大)前の森川町の「不二ハウス」に移り住んだのであった」とあって、杉浦は隣人からアパートの経営者が徳田秋声だと聞かされて仰天する。なにも知らずに越してきたのである。杉浦は昭和7年4月に田河水泡に弟子入りした。昭和11年というと、田河のアシスタントを務めながらボチボチ雑誌に漫画が掲載されていた頃だと思う。
杉浦が入居したのは2階の6畳。端の部屋を有名な哲学者岡邦雄―ぼくは知らない―が使っていたという。電話は管理人室の隣にあるだけで、秋声に電話があると、管理人夫婦のどちらかが管理人室の裏庭に面した窓を開けて「先生ーっ、お電話ですよおー」と叫ぶ。秋声は母屋から下駄をつっかけて庭を横切り、裏口から廊下を玄関へ急ぐ、という具合だったという。「昭和16年から17年にかけて、私は東横線の妙蓮寺に住んでいた」とあるから、不二ハウスにいたのは5年間ほどだったらしい。
ぼくは「徳田秋声旧宅」はその場所くらいは知っている。改めて住宅地図をみて「フジハウス」が徳田旧宅に隣接して記載されていたので驚いた。あわてて昨日、本郷へ出かけて写真を撮ってきた。これでめでたく今年のゴールデンウイークは名所へ出かけたことになった。



写真のフジハウスが、杉浦が住んだのと同じ建物かどうかは分らないがその可能性はありそうである。Goo古地図の航空写真では昭和22年と38年の両方に、同じ建物で写っている。ふたき旅館が取り壊されていて、フジハウスの西側が見えていた。そこに白く塗った下見板の出窓がある。昔は建物の壁全体がそのようなものだったのかもしれない。


徳田秋声旧宅

ぼくは徳田秋声の小説はまったく読んだことがないので、秋声に関してもなにも知らない。自然主義の大家ということだが、日本の自然主義文学はほとんど私小説と同義らしい。
「徳田秋声旧宅」で都の史跡に指定されたのは昭和39年4月28日。建物がいつ建ったのかはあまり関心がもたれないようで、ネット上では判らなかった。秋声がここに移ったのは明治38年。今は取り壊されてしまった本郷館は明治38年に建築されたというが……。
2階が洋風である。洋間の書斎だろうか。

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上総屋商店。神奈川県足柄下郡箱根町強羅。1991(平成3)年12月22日

強羅駅の駅舎は昭和52年に建替えられたものだが、駅前広場に面して並んでいるみやげ店は建物も商店も昔からあまり変わっていないようだ。小林物産店などは、関東大震災後に東京の下町に建てられた長屋の店舗と同じ形式に見えて、やはり昭和初期の建築かと思わせる。上総屋商店は1930(昭和5)年頃の創業の酒屋というから建物も創業時のものかもしれない。上総屋商店の右は小川商店。



小林物産店。1991(平成3)年12月22日

ぼくが小学校低学年の頃まで祖父の別荘が強羅にあって、夏の何日かをそこで過ごした。木造平屋の庭もないような家で、もしかして借りていたのかもしれない。大文字焼きも何回かそこで見たわけだが、その祭日には強羅駅前の広場に縁日の露店が出たようだ。ぼくが5歳のときだとすると1949(昭和24)年だが、ぼくは一人で5円玉をにぎりしめて薄荷パイプを買ってきたのを憶えている。夜だったと憶えているのだが暗くなってから幼児を一人で外に出すとも思えないので明るいうちだったのかもしれない。露店のおじさんに5円玉を渡すとおじさんは一番安そうなパイプを渡してくれた。ちょっと不満だったのだが一応納得して帰ったのであった。「こっちがいい」などと自己主張しない性格はほとんど生まれつきのようである。

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強羅花壇
神奈川県足柄下郡箱根町強羅
1991(平成3)年12月22日

現在は強羅花壇という高級旅館の懐石料理のレストランとして使われている洋館。「懐石料理花壇」に「旧閑院宮邸について」という藤森照信東京大学教授の簡単な解説が載っている。設計は陸軍技師の柳井平八、施工は松村組、1930(昭和5)年6月20日の完成である。
柳井平八(1888-1945)は 「歴史が眠る多磨霊園>柳井平八」によると、東京高等工業学校(現・東京工業大学)を1910(明治43)年に卒業して陸軍建築部に就職、陸軍関係の建築技師として勤務した。また、宮家、靖国神社の建築物や軍関係の私邸などを建築した。
洋館の建主である閑院宮載仁(かんいんのみやことひと)親王は陸軍の軍人で、昭和6年から15年にかけて参謀総長を務めた人。宮様の軍人はお飾りであることが多いようだがこの人がどうだったかは知らない。日露戦争では騎兵第2旅団長で、けっこう活躍したようであるが、黒溝台会戦の前に総司令部付に移動している。危険な部署から引き上げたのだろうか。ちなみに、騎兵第1旅団長が秋山好古である。

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強羅ホテル。神奈川県足柄下郡箱根町強羅。1991(平成3)年12月22日

箱根登山鉄道の強羅駅のすぐ前にあったホテル。『日本近代建築総覧』に「建築年=1938(昭和13)年、構造=RC4階建て、設計=土浦亀城、施工=大蔵土木」となっている。とても戦前の建築とは思えないデザインで、「バウハウスの流れをくむモダニズムを取り入れた斬新なデザイン」(ウィキペディア)、あるいは「土浦亀城のインターナショナルの作品として最高のもの」(『近代建築ガイドブック』)ということだが、日本の建築史からみてもわりと重要な建物になるのではないかと思える。
強羅ホテルは1942(昭和17)年に東京急行電鉄が買収したが、1945(昭和20)年には国際興業が東急から買い取っている。1985(昭和60)年から富士屋ホテルが運営するようになったが、建物の老巧化で1998(平成10)年3月で廃業した。(ウィキペディア)


2001(平成12)年11月12日

廃業して3年ほど経つがまだ解体されていなかった。フリーマーケットの会場になっている。

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蕎麦処名古屋。千葉県松戸市松戸。1989(平成1)年4月2日

山田屋畳店の並び、すぐ南のところ。写真左の岡村タバコ店は健在で建物もそのままだが、その右のそば屋と奥の民家、写真右のブロック塀の家はすっかり取り壊されて67坪の空き地になっている。現在、角町交差点の北に同じ名古屋という店があるから、そこに移ったのだろう。
『昭和の松戸誌』(渡邉幸三郎著、崙書房出版、平成17年)の「昭和12年の家並み図」では「姓不詳の菓子屋」に当たると思われる。



宮田倉庫。松戸市松戸。2006(平成18)年5月25日

蕎麦処名古屋の前の県道5号流山街道を南へ進んだところにある古い蔵。写真左は廃業したガソリンスタンドである。GSの場所は「昭和12年の家並み図」では、「宮田」で「現在(平成17年)キグナスGS経営」、倉は「宮田倉庫」で「そのまま」、となっている。GSは信号のある交差点角にあるが、その交差点の北西角は、『昭和の松戸誌』で「宮田商店」で、その建物は昭和12年当時のままで残っている。『昭和の松戸誌』では明記していないが、この宮田商店(薪炭雑貨商、廃業)がGSと倉庫の持ち主なのかもしれない。


渋木燃料店。松戸市松戸
2009(平成21)年1月28日

GSの交差点を東へ入るとすぐ常磐線の線路で、先に進むには写真左に写っている歩道橋を渡るしかない。『昭和の松戸誌』によると、この道は、古作(船橋市)-松戸線の県道で、園芸学校(現千葉大園芸学部)正門(現存)から大橋・紙敷方面へ延びていた道だという。松戸市南部の台地の農家はここで踏み切りを渡って市場へ野菜を運んだらしい。園芸学校の生徒もこの道を登下校したのだろうか。

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山田屋畳店。千葉県松戸市松戸。2007(平成19)年3月28日

旧水戸街道を角町の三叉路から、葛飾橋のほうではなく、南へ行ったすぐのところ。正式には千葉県道5号松戸野田線である。この県道は国道6号(水戸街道)の下をくぐると県道1号市川松戸線になるから、普通は市川への主要幹線道と認識されている。旧水戸街道とは別れるわけだが、ここから少し先までは旧街道のたたずまいが残っている。現在では古い商店は軒並み閉店して、建物も急速に住宅への建て替えが進んでいる。
『昭和の松戸誌』(渡邉幸三郎著、崙書房出版、平成17年)の「昭和12年の家並み図(1993年調査)」では、初代の姓が山田だったのでそれを屋号にして現在は3代目、荒物屋を営業したこともあるという。



丸松松戸市青果市場。松戸市松戸。2012(平成24)年3月27日

1枚目写真右の横丁を入ると青果市場がある。青果市場の裏は常磐線が通っているが、その辺りは低地で、通りから入る横丁は坂道である。県道が自然堤防の微高地に乗っていることがよく判る。
『昭和の松戸誌』では「葛飾食品市場」で、「(昭和12年では)松戸唯一の市場で昭和2年設立」。
みたところほとんど廃墟である。建物は屋根を架けるだけのものだが、いつ頃に建てたものなのだろうか。市場の事務所は駐車場の手前にプレハブの平屋で別にある。この建物だとオート三輪が似合うような……

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旧宇田川煎餅屋。千葉県松戸市小山。左:2012(平成24)年3月27日、右:同年2月4日

旧水戸街道の葛飾橋通りで、 文七森田商店の並び。左写真左手に、江戸川堤防の上を流山方向へいく流山街道のバイパスの起点である小山交差点がある。昭和初期に建てられたと思える古い家が並んで残っている。昔は商店だったのだろうが、今は住居にしている場合が多い。この家並みの後ろはすぐ江戸川堤防だ。
『昭和の松戸誌』(渡邉幸三郎著、崙書房出版、平成17年)の「昭和12年の家並み図」を照らし合わせて戦前の店名を推測してみる。左写真左の平屋の看板建築は「岩間」という軍人の家で戦後、炭屋をやったという家、としておく。店の構えは炭屋を開店したときにこしらえたものだろう。その右隣は宇田川煎餅屋。その右に路地が入っていて、家の側面が見えている。右写真左の白い壁の家は永戸パン屋。その右は廃屋で、すでに天井も崩れかかっている。たぶん、長谷部小鳥屋か。



1段目写真の裏側。2012(平成24)年3月27日

葛飾橋通りは堤防の上から平地の旧水戸街道へつなぐ通りだから小山交差点付近は盛土で坂道にしてある。1段目写真のあたりも盛土したらしく、堤防との間は窪地だ。通りの側が1階でも裏に回ると2階建てで、旧宇田川煎餅屋の横を入る路地も坂道である。そこを下ってもすぐ堤防になるだけで、裏側を通っている道路はない。そんなところに入り込んでは、そこに建っている家の人から見れば裏側を見られるだけのことで愉快ではないだろう。ぼくも申し訳ないとは思ったが、好奇心には勝てない。
『昭和の松戸誌』によると、戦前、この窪地に「村田瓦屋釜場」があった。「堤防下には村田瓦屋が二基の釜場を設け、住居の両側に細工場、周りは乾燥用棚や松葉の山で、釜脇には一面に瓦が干してあった」そうである。

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せきね生花店。千葉県松戸市小山。2006(平成18)年7月29日

前の通りは、江戸川に架かる葛飾橋(旧葛飾橋)から松戸市街へ向かう通りで、『昭和の松戸誌』(渡邉幸三郎著、崙書房出版、平成17年)では「葛飾橋通り」としている。最初に水戸街道の橋が出来たのは江戸期からの渡船場があったところで、1911(明治44)年11月だから、ずいぶんとのんびりした話だ。木橋で橋げたも多かったから船の航行が大変で、関東大震災で痛んだこともあって、少し下流の現葛飾橋のところに鉄橋で架け替えられたのが1927(昭和2)年7月である。葛飾橋通りはそのとき、水戸街道に接続するために新たに通されたものだ。
写真の家は、『昭和の松戸誌』の「昭和12年の家並み図」を見ると、「小川部品屋」と「魚石の跡地」に当たると思われる。「小川部品屋は自動車部品取扱い店。隣の魚石が対面に移った後、跡地に店を拡張。今は胡録台に移転健在」と解説されている。



文七森田商店。松戸市小山。1989(平成1)年4月2日

葛飾橋通りが昭和初期に開通してすぐに建てられた店舗である。『昭和の松戸誌』によると、「文七森田商店は江戸期の船頭文七で、この通りの開通に伴い、和田と魚石(同じ並び)と三軒がはしりで開店した。現在金物屋で健在」。「和田」とは、写真右へ行った角町交差点に近いところに今もある和田酒店のこと。
写真は20年以上も前のものだが、今も景観はそのままである。

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島喜株式会社倉庫。中央区日本橋箱崎町1。1987(昭和62)年6月7日

日本橋川の河岸地にあった倉庫。湊橋から豊海橋までの日本橋川沿いは旧町名では北新堀町といった。新堀または新堀川とは日本橋川の湊橋から隅田川に出るところまでの古い名称である。対岸の霊岸島が江戸初期に埋め立てられて、日本橋川が延長されたところからの名称だと思う。北新堀町は江戸初期には町屋として成立していた。また、河岸沿いの通りに永代橋が架けられたから相当な賑わいをみせた。永代橋が明治30年に新川のほうに架け替えられると、たちまち寂しくなってしまったらしい。
写真の倉庫は昭和11年の火保図に「コンクリート造3階建」となっている倉庫。昭和30年頃の火保図では「南国船舶KK北新堀倉庫」。3階建てと近代化しているが形は江戸期からの伝統的な蔵のままである。
現在はプレイアデ箱崎(1999年10月竣工、10階建)というオフィスビルに建替わっている。写真右奥の関モータースは、建物は壁を張替えたりしているが商売も続けている。


布目ビル。日本橋箱崎町1
1987(昭和62)年6月7日

やはり日本橋川の河岸地にあったビル。昭和11年の火保図に「寺内回漕店(コンクリート造)」、昭和30年頃の火保図では「東京港支店(コンクリート造4階建)」である。現在はこの敷地のままで少し高層化して建替えられている。

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森川屋。中央区日本橋箱崎町24。1990(平成2)年

湊橋の通りのすぐ裏の路地で、写真左奥が隅田川大橋の通りとその上に高速9号深川線。箱崎町24番地は現在では写真左の23番地と共に再開発されて、「日本橋箱崎ビル」(1996年3月竣工、17階建)という1棟のビルにまとめられた。したがって写真の路地も消滅している。
二軒長屋が一列に並んで建っている。手前は二件長屋の半分が残った形で、取り壊されたのは中田タバコ店だった家。残った一軒の看板を見ると、当地の開発が住友不動産によるもので、ビルの施工はフジタ工業が含まれていることが分かる。森川屋は二軒長屋を1棟使っている。「魚萬」の文字が2階の壁にあって、以前は魚屋だったのだろうか。
下左写真は1枚目の写真の裏側。下右写真の銅板貼り看板建築は三祥印刷。三祥印刷の左隣の家が取り壊されて空き地になっているが、その空き地が下左写真手前の空き地だ。


左:森川屋の裏側、右:三祥印刷。1990(平成2)年



二軒長屋。左:1985(昭和60)年9月29日、右:1990(平成2)年

左写真は隅田川大橋の通りのすぐ西の裏通り。手前の家の横側が右写真左の家で二軒長屋である。出入り口は別だが、1階は共にガレージにしている。この家は1枚目の写真の右端にも写っている。

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