ぼくの近代建築コレクション
東京の都心と下町を中心に、戦前に建てられた古い建物の写真を投稿していきます。
 




東京ファスナー。千代田区岩本町3-8.1988(昭和63)年8月5日

靖国通りの岩本町交差点と大和橋交差点の間。3階建てのビルは、左が「光洋クロージング」(看板は「光洋の紳士服」)、右が「東京ファスナーニット部」。昭和22年の航空写真に写っているビルではないかと思うが、だとすると戦前に建てられた可能性もある。『 東京DOWNTOWN STREER 1980’s>千代田区岩本町~その二』には間近で撮った写真が載っている。横丁の入口には「岩本町繊維問屋街」のアーチが架かっている。


日東ビル。岩本町3-9
1986(昭和61)年12月30日

写真手前の駐車場には、後に1枚目の写真右の「NOF神田岩本町ビル」が建つ。撮影時では「東誠ビル(事業用地)」。ひどく汚れて廃墟のように見えるビルだが、「スミハン」というメンズウエアの店が営業中だ。この日東ビルは『日本近代建築総覧』に「建築年=昭和4年、設計=復興建築助成会社」で掲載されている。角のアールにも窓をめぐらしているのと、窓の上下の庇で平行線を目立たせたモダンな外観である。2003(平成15)年に解体された。
日東ビルは『岩本町~その二』にもあるが、『 消えた近代建築>日東ビル』と『 建築・都市徘徊>日東ビル』が取り上げている。

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参松工業。千代田区岩本町3-11。1986(昭和61)年12月30日

田島ビルの前を少し東に行った並びにあった。参松工業は大正5年創業の菓子食品製造の会社だったが2004年に倒産し、建物は2007年に解体されたという。現在は数棟の建物をまとめて大きなビルに建て替わった。
『日本近代建築総覧』に「建築年=1933(昭和8)年、設計=横山虎雄」となっている建物。前面の2階まではクラシックな外観だが、少し引っ込んで4階建てになっている。――『 東京DOWNTOWN STREER 1980’s 』の「 千代田区岩本町~その二」の写真が分かりやすい。このサイトでは、この辺りの、撮影時の1982年ではだれも注目していない木造の家並みが記録されていて貴重だ。今ではそのほとんどがビルに替わってしまった――3・4階部分は2階までの正面とはまるで合わないから増築したものかもしれない。壁は2階部分と同じタイルが貼られているが、増築時に2階の正面も同じタイルで改修したもののようだ。(『 都市徘徊blog>参松工業』)。



参松工業付近の裏。1989(平成1)年10月8日

神田川の和泉橋から見た柳原通りの裏側。写っているビルのなかで現存するビルがあるかどうか分からない。右から、三星ビル、空き地、渡部ビル(渡部ハガネ)、プルータス、参松工業、サンヤング(三弥衣料)、北代ビル、イワモトチヨビル。
参松工業の建物は屋上に木が生えているからRC造と思えるが、表から見えるビルと同じ建物ではなさそうだ。昭和30年ごろの火保図に、神田川沿いに四角いコンクリートの建物が、参松工業の倉庫のような感じで書き込まれているからその建物かもしれない。

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田島ビル。千代田区岩本町3-11
1986(昭和61)年12月30日

上の写真は神田川に架かる和泉橋の袂、柳原通りの昭和末年の家並み。写真左が昭和通りで、家並みの後ろは神田川である。靖国通りの裏通りになってしまったが、関東大震災後に靖国通りが通される以前は市電が走っていた通りである。電車唱歌に「両国よりは更になほ、柳原河岸とほりすぎ・・・」とある。
建物は左から、田島ビル、三星ビル、車庫、㈱豊泉商店。田島ビルは昭和30年頃の地図では「東陽興業合資会社」とあり、 田島ルーフィングが建てたものではないようだ。三星ビルは1960(昭和35)年に三星産業が建てたもの。三星産業は田島ルーフィングの同属会社。この2棟の跡地に現在の田島ビルが1994(平成4)年に完成している。車庫になっているビルは縦長窓でタイル貼りの、外観はかなり古そうだが戦後の建築である。昭和44年の地図では「東北衣料産業㈱」。写真右の駐車場になっている空き地は、昭和44年の地図に「洋食喫茶・花富士」、昭和30年頃の地図に「のみや花富士」となっている。

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東京電力山崎発電所早川取水堰
神奈川県足柄下郡箱根町湯本。2011(平成23)年11月24日

国道1号の旭橋と函嶺洞門との間、国道のすぐ脇に見られる早川のダムである。この規模では正式にはダムとは言わず取水堰というらしいが、まあダムでいいだろう。右岸の柱のような構造物の、船のような平面形と、その形のまま入口の前に突き出した庇の造形に惹かれるものがあった。
調べてみると、 『山口文象のモダニズム建築 作品新発見か』というサイトが見つかった。HPは伊達美徳という人が製作している 『まちもり通信』で、『山口文象人と作品』の中のレポートのひとつである。伊達氏は都市計画やまちづくりなどの専門家らしく、山口文象に関する著書もある。『新発見か』では雑誌「建築土木工事画報」(1936年11月号)の記事を紹介して、山崎発電所の入口に当たる上屋と取水堰を山口文象の設計だろうとしている。1936(昭和11)年の完成である。
ダムの両端の建て屋は、「当初は可動性のローリング・ゲートだったので、そのゲートの左右に巻上機用の建て屋が対の形で建っている」もの。左岸のプレハブのような建て屋は現在のゴムゲート式に改造したときに建てたものだろうという。


山崎発電所
箱根町湯本
2011(平成23)年11月24日

山崎発電所は取水堰から2km下流の同じ箱根町湯本の山崎地区にある。国道のすぐ脇にあり、登山電車からもよく見えるのだが、ぼくは今まで気がつかなかった。左の写真では建物の特徴がよく判らないが、敷地の外からではこの角度で撮るしかなかった。『新発見か』にはすばらしい写真が載っている。
発電機は地下にあるわけだが、水導管を箱根登山鉄道の線路をくぐるようにしたからだろう。観光地としての美観に配慮したからでもあるしい。 『水力発電所ギャラリー>山崎発電所』によると、運用開始:1936(昭和11)年10月、出力:最大1500KW、常時1080KW、有効落差:59.05m、取水位標高:107.14m、放水位標高:41.48m。
取水堰からの水路は湯本用水路というらしいが、一部は、江戸時代の工事による荻窪用水を改修したものらしい。ちゃんと調査すればおもしろい発見がありそうだ。

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元タクシー会社の民家。神奈川県足柄下郡箱根町塔之沢。2006(平成18)年5月20日

国道1号の函嶺洞門と千歳橋の間、新玉の湯旅館の向かいにあった民家。新玉の湯と同時に解体されたのかもしれない。
神奈川の近代建築探訪』> 湯本~塔ノ沢の看板建築』によると、元タクシー会社で、昭和6年の建築。函嶺洞門の完成と同時期、千歳橋の完成する前に建っていたことになる。わりと状態がいいのは、ずっと人が住み続けてきたからだろうか。1階の窓と柱の間の壁に会社名を書いた跡がある。上の2文字は「箱根」と推定できる。
下の写真の家は上写真の民家の隣にあった建物。店舗のようにはみえないから旅館の寮だったのかもしれない。



千歳橋袂の廃屋。2006(平成18)年5月20日

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新玉の湯。神奈川県足柄下郡箱根町塔之沢。2006 (平成18)年5 月20日(4枚とも)

函嶺洞門と千歳橋の間の国道沿いに新玉の湯(しんたまのゆ)という旅館があった。撮影時にはすでに廃業していたが、半年後には解体された。現在はその跡地で函嶺洞門のバイパス工事が進んでいる。バイパスは函嶺洞門の箇所だけで、そこを二重にしてお互いに一方通行にするのかもしれない。洞門内では大型バスどうしのすれ違いが困難なのだろう。
新玉の湯が「あらたまのゆ」ではなく、「しんたまのゆ」だと知ったのは、『 Dialogue with Ruins … 新玉の湯』に載っていたパンフレットの英語表記「The Shintamanoyu」によってだった。
『Japanese Old Photographs In Bakumatu-Meiji Period』の古写真(目録番号:4536)の説明文に「明治20年頃開業した新玉の湯である。塔ノ沢村の総代堀貞蔵が、玉の湯旅館を読売新聞社主子安峻に譲渡し、新たに建設したもの」とあり、「新」が付いているがかなりの老舗である。玉の湯旅館というのは、現在の福住楼のところにあった「洗心楼玉の湯」のことらしい。



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函嶺洞門。神奈川県足柄下郡箱根町湯本。2006 (平成18)年5 月20日

函嶺洞門は箱根国道に設けられた落石覆(らくせきおおい)という落石から道路を守るための建造物。RCラーメン構造で、形状からは開腹隧道ともいった。工期は1930(昭和5)年4月から翌昭和6年10月。工事中だった1930年11月26日に発生した北伊豆地震――丹名盆地直下を震源とする丹名断層などの活動による地震。M7.3、三島で震度6、横浜でも震度5――では工事現場でも崖崩れがおき、1立方mほどの石にも直撃されたが、施設の有効性が証明されたという。
『土木建築画―昭和7年5月号』の「国道一号線足柄下郡湯本町地内に築造せる開腹隧道に就て」には、場所の説明に「函嶺親不知の異名」という言葉が出てくる。洞門の天井の上に1.5mの厚さに土を盛った。今はそこに木が茂っている。入口上部中央の名板には元は枠があったようだ。また入口の柱には街灯が取り付けられていた。歩道の川側の欄干はコンクリート製だったらしい。



会館橋。箱根町湯本。2006 (平成18)年5 月20日

函嶺洞門から小田原側のすぐそばに早川の対岸へ渡る会館橋という橋がある。渡ったとこで、駐車場のような広場があるだけだ。撮影時では箱根町の管理で「臨時無料観光駐車場」となっていたが、今はバイパス工事用の用地になっているらしい。
かつてはここに「箱根観光会館」があった。食堂と土産店のある主に団体用の施設だったのではないかと思う。昭和63年の空中写真には写っている。会館橋はその名称からして箱根観光会館と一体で架けられたものらしい。昭和30年代の建設かと考えているが、ネット上ではまったく情報がない。端の四隅にだけスクラッチタイルを貼った低い欄干があり、函嶺洞門を意識した造りなのかもしれない。

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旭橋。神奈川県足柄下郡箱根町湯本
左:1991(平成3)年8月23日、右:2011(平成23)年11月24日

国道1号の函嶺洞門・旭橋・千歳橋がまとめて「箱根地区国道1号施設郡」の名称で土木学会の推奨土木遺産に認定されたのは2005年。この制度は2000年に発足している。推奨理由は「箱根駅伝のコース上にあり、橋がRC下路式タイドアーチ、洞門は中国の王宮をイメージしたデザインのRC6連など観光地箱根に相応しいデザイン」だからだ。
旭橋と千歳橋の完成はともに1933(昭和8)年。下路式鉄筋コンクリートアーチ橋という構造で、タイドアーチというスタイルになる。長さは旭橋が39.5m、千歳橋が25.05m。アーチの先端に、橋によって異なる親柱と街灯が付いている。1991年の旭橋の写真では街路灯はなくなっているから、推奨土木遺産になってから復元されたらしい。
旭橋は早川に対して斜めに架けられているので左右のアーチがずれている。施工がやりにくくなかったかと思ってしまう



千歳橋。箱根町塔之沢。2006(平成18)年5月20日

1919(大正8)年に公布された道路法は自動車を想定した新しい基準になった。それによる国道の改良工事が実施されていくが、第一次道路改良計画が1920(大正9)年度から30年間の長期計画として始まる。横浜市から箱根塔ノ沢までは神奈川県によって1931(昭和6)年度より開始された。(『日本の土木遺産』〔土木学会編、講談社ブルーバックス、2012年〕参照)
この改良工事以前は、1875(明治8)年に、小田原宿上方見附から湯本まで、地元住民らの私費で有料の人力車道を建設した。箱根板橋や風祭の辺りでは現国道1号の北を通っている旧道のことだろう。1887(明治20)年には、富士屋ホテルが私費で塔ノ沢から宮ノ下まで有料の人力車道を開設した。外人客を歩かせるわけにはいかなかったわけだ。
1925(大正14)年7月、関東大震災による復旧工事で「箱根国道」(箱根板橋-元箱根)が開通する。 『土木建築画報・大正15年12月号』の「箱根の国道改修工事」によると、湯本村の旭橋から温泉村宮の下までの復旧改修工事は、岩盤切取り作業とその土止石垣が主である。橋梁三箇所を含んだ工事費は約61万円。設計は神奈川県土木課、工事主任は神奈川県小田原土木出張所長・三宅静太郎、工事請負は今井定吉、鈴木新三、田中留吉、田中捨吉等、としている。1925年7月11日に富士屋ホテルで「箱根国道開通式」が挙行されている。
国道1号に指定されたのは1952(昭和27)年12月で、新道路法による。(『ウィキペディア>箱根国道』参照)

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本牧亭。台東区上野2-6。1984(昭和59)年10月

本牧亭は1857(安政4)年に開設され、1876(明治9)年に鈴本亭(現・鈴本演芸場)に引き継がれた。1950(昭和25)年に、鈴本演芸場の席亭によって再建され講談専門の席になった。写真の建物は1972(昭和47)年に改築されたもののようである。講談が好きな人は歳をとり、新たに好きになる人はほとんどいないという事情からだろう、1990(平成2)年に閉館された。本牧亭は日本料理もやっていた。昨年(平成23年)9月に黒門小学校近くに移っていた店も閉店した。



広小路横丁。台東区上野2-1。1984(昭和59)年10月

中央通りと春日通りが交わる上野広小路交差点のすぐ北に「広小路横丁」の看板が架かっている横丁である。撮影時にもその名称があったかどうかは知らない。写真正面は「名曲喫茶・ウィーン」。JRお茶の水駅のそばにヨーロッパの城を模した建物で同名の喫茶店があるが、同じ会社が出店しているのだろうか? 「行徳」(写真では看板だけ)と「甘味・はる乃」は今の地図に見つかる。

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池之端京屋。台東区上野2-12
1989(平成1)年頃

守田宝丹本店の隣が池之端京屋。江戸指物の店で、明治末創業の老舗である。漆器も扱っている。江戸指物の家具を普通に実用として使う環境はすでにない。伝統的な日本芸能に携わっている人が求める以外には、趣味の世界かと思う。
今はビルに建て替わっているが、写真はその前の銅板貼りの看板建築の店舗。こういう建物は関東大震災後に建てられたものと大方は決まっている。昭和22年の航空写真では周囲は焼き払われているが、京屋の一角は焼けていないように見える。
京屋の右に見えているのはコジマビルと三社会館池の端ビル。コジマビルの看板を現在のものと比べたのだが、4Fの「スナック淳子」が変わらずに営業を続けているかもしれない。三社会館ビルはレンガ風のタイルを貼った小さい縦長窓の、かなり古そうなビルだ。

1986年の住宅地図を眺めていて、仲町通りに知っている店を1軒見つけた。中央通りに近いほうで、ジャズ喫茶の「イトウ」。知っているとはいっても一度入っただけのことだ。『 東京ジャズ喫茶紀行 上野』には「壷屋」の解説のなかで、「・・・硬派で鳴らすジャズ喫茶の超有名店「イトウ・コーヒー」・・・既に閉店してしまって久しい・・・会話禁止の生粋のジャズ喫茶。 また、ジャズを流す前から営業を続けており、確か東京で何番目かに古い喫茶店。 ・・・ドア・ガールと言って、常に美人ウェイトレスも雇っていた店。」などと書かれている。店内は中央の通路の左右に二人がけシートが奥のスピーカーに向いて並んでいた、と思う。

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