ぼくの近代建築コレクション
東京の都心と下町を中心に、戦前に建てられた古い建物の写真を投稿していきます。
 




大沢園。文京区根津2-31。1987(昭和62)年4月18日

当ブログ前回の1枚目の写真の左奥から逆方向を撮影したもの。
写真左の出桁造りの店は大沢園という茶舗(茶店や茶屋では誤解されそうだし、葉茶屋というのもあまり一般的ではないようなので茶舗を使う)。建物右にタバコのショーケースがあるが、水色のタイルで塞がれている。
銅版貼りの看板建築はほうきの製造卸、榊原商店。『不思議の町根津』(森まゆみ著、ちくま文庫、1997年)では、大正8年に開店し、建物はそのときのものという。ぼくには看板建築というのは関東大震災後のものという思い込みがあるので、この店の正面も昭和初期の改装かもしれないと思っている。



左:大沢園。1992(平成4)年4月29日。右:榊原商店。1990(平成2)年9月16日

『東京DOWNTOWN STREET 1980’s』というブログの 『文京区根津』および 『文京区根津~その二』という記事に1982年2月に撮影された写真が数多く掲載されていて興味深い。もちろん藍染大通り沿いの建物も載っている。
大沢園の左隣のビルは1986年の住宅地図に「特売堂」となっていて、どんな店なのかは分からなかった。『文京区根津~その二』には、その店の写真があり、菓子店だったと分かった。トタン波板の壁の2階建ての簡素な店舗で「菓子の特売堂」の看板を壁に貼っている。


近影
2007(平成19)年12月15日

わずか4年前の写真だが、前記の『東京DOWNTOWN STREET 1980’s』の最近の写真では、大沢園は取り壊されていて、右の住宅は建て替わっている。

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旧三河屋酒店。文京区根津2-31。1989(平成1)年9月10日

藍染大通りの中ほど、南側の町並み。写真右端は岡村建設の事務所かと思う。ここまでは芋甚のある30番地。路地(入るとすぐ細密ペン画の杉山八郎画伯のギャラリーがある)があって、その先は仕舞屋が多いので、『不思議の町根津』(森まゆみ著、ちくま文庫、1997年)を参照して昔の商売がなんだったかを挙げてみる。
まず元酒屋だった出桁造りの家(空き家というよりほとんど廃屋に見える)、元うなぎ屋梅月、竹細工職人の榎本家、「照明・電気工事」の看板がある店、元すし屋、榊原商店、大沢園(茶)、5階建てのビル、である。
現在では元酒屋の家と榊原商店の右隣の家が建て替わったり、大沢園が取り壊されたが、大きな変化はないように見える。



左:1986(昭和61)年4月、右:1992(平成4)年4月29日

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サイタ質店。文京区根津2-31。左:2000(平成12)年5月3日、右:1989(平成1)年2月26日

台東区と文京区の境の道、藍染川が流れていた通りの1本西の裏の路地にある古い質屋。サイタ質店の前の路地は、サイタ質店の路地といえば分かるほど有名な質屋である。 『谷根千ウロウロ>サイタ質店』によれば、江戸時代から巣鴨で商売をしていたのが1907(明治40)年にここに移って開業したという。建物はそのときのものだそうだ。左写真で「質サイタ」の看板の下に「サイタ不動産」の看板がある。アパートや駐車場を持っているのである。


やま。根津2-32
2002(平成14)年4月28日

サイタ質店の向かい側。居酒屋「やま」の水色のトタン張りの建物は四軒長屋で、goo地図の昭和22年航空写真に写っている。

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尾張屋。文京区根津2-30。1989(平成1)年2月26日

藍染大通りにある有名なあんみつ屋。看板には尾張屋としか出ていないのに「芋甚(いもじん)」で通っている。『不思議の町根津』(森まゆみ著、ちくま文庫、1997年)によると、焼き芋屋を始めた初代主人が甚蔵という名前だったからだ。名古屋の人だったから尾張屋である。明治末の創業で、震災で芋屋はやめたというから焼き芋屋であった期間は15年ほどに過ぎない。かってに芋甚と呼んだ近所の人々が、アイスクリームの店になっても、子供に「芋甚で小倉アイスを買っといで」といえば、子供も芋甚というようになるわけだろう。建て替わったビルの看板には「芋甚」の字が大きく入っている。
店の横がテイクアウトの売り場で、その下の壁の張り紙と上の暖簾に「昭和焼」とある。どんな食べ物だか知らないが、前書には「昭和焼の前身『パンジュウ』やアイスキャンデーを発明」とある。アンパンのようなものかと想像したが、ネットを見ると今川焼きである。
1992年にここでミツカンを食べたときには、あんみつ300円、ところてん270円、コーンアイス100円という値段だった。



芋甚の隣の二軒長屋。『不思議の町根津』によると、石川書店の開業は昭和13年。1989(平成1)年9月10日

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今井雑貨店。文京区根津2-29。1988(昭和63)年11月3日

不忍通りの根津神社出口交差点。角の家は今井雑貨店で、同じ家にみぞぶち文具店。そこから左、藍染大通りに入って、ダンディ(スナック喫茶)、岩村塗料、田辺クリーニング店、北川商事、越後屋豆腐店、天野ビルと並んでいる。
『不思議の町根津』(森まゆみ著、ちくま文庫、1997年)によると、今井商店は元は榮堂という洋菓子店だった。不忍通りに面した2階には洋風のベランダがあった。その写真が当書に載っている。撮影時の数年前に写真のように改装したらしい。


カナデン。根津2-29
1992(平成4)年4月29日

1枚目の写真で北川商事とした建物。写真ではガラス戸に「セラミック カナデン」と読める。『不思議の町根津』によると、大黒屋という洋食屋だったという。
隣の越後屋は同書によると「ここで豆腐屋は百年つづいている」というから、今では創業120年の老舗である。

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東京新橋組合事務所。中央区銀座7-16。1988(昭和63)年10月9日

新橋演舞場の近くの裏通りにあった新橋花柳界の組合の事務所だった建物。1986年の住宅地図では「東京新橋組合第一部」となっていて、写真右奥は野崎産業のビル。1969年の地図では「新橋組合事務所」、右奥は「小松料亭(西松)」。さらにさかのぼって昭和30年頃の火保図では、銀座東7-5の住所で「東京新橋組合 森きく」である。
銀座7・8丁目から築地4丁目にかけては、昭和30年代からすればかなり小さくはなったと思うが、新橋花柳界を構成する料亭が集まっている。
現在はオフィスビルに替わって組合事務所は銀座8丁目に移っている。野崎産業のビルも建て替えられている。
『東京路上細見2』(林順信著、平凡社、1987年)では日吉組の俥宿(くるまやど)と説明されている。現在も日吉組の事務所は、東京新橋組合に置いているようだ。

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佐伯商店。中央区築地4-10。1991(平成3)年5月5日

築地場外には新大橋通りと平行な3本の道路が通っている。築地場外がある場所は関東大震災以前まで、西本願寺の支院がぎっしり立ち並んでいた。3本の道路はその当時からあった、いわば参道である。中央市場が築地に建設されたのに伴い、ほとんどの寺院が移転したが4寺が今も残っている。
写真の通りは3本の道路の真ん中のもので、築地場外マップでは築地中通りという。右奥が晴海通り。3階建てのビルのような外観の建物は3軒の商店が入る集合店舗。上から見ると寄棟の瓦屋根で、木造の看板建築だ。入っている店は、佐伯商店、川名商店、九竜商店。現在は、川名商店(煮干)は変わらないがその両側は、下の写真のように鮮魚(まぐろ・カニ)の斎藤水産・まぐろ屋である。
「BS」の看板が九竜商店でその隣の洋風の建物は路地の角にある。路地の先に見えているのは商店かもしれないが、ことによると法光寺かもしれない。法光寺は1988年に火災で本堂を焼失し、1993年に越谷へ移転している。この法光寺の過去帳に斎藤十郎兵衛の名前が見えるそうである。浮世絵師の東洲斎写楽の正体は能役者の斎藤十郎兵衛ではないかと言われている人物だ。



仁科商店。2011(平成23)年11月7日

洋風の集合店舗で、むねた商店(せんべい)、仁科商店(こんにゃく・香辛料)、小見山商店(割箸・経木)が入っている。この3軒は少なくともこの20年変わっていない。

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吹田(すいた)商店
中央区築地4-11
1999(平成11)年

当ブログ前回で吹田商店の写真を掲載したが、別の写真があったので再登場である。晴海通りの向こうに小さく写っているだけだが店舗の全体と近くに寄っての店先の写真である。吹田商店の隣の看板建築の四軒長屋は、1986年の住宅地図では「高島屋海苔店、ヨネモト、東山堂(陶磁器・ガラス器)」。現在は「クロスフォー築地」というビルに替わって、吹田商店から米本珈琲本店まで、そっくりビルの1階に収まっている。
1枚目写真右手は築地4丁目交差点。角が和田老舗(什器)という店の2階建ての店舗がある。現在はこの建物は取り払われて、その後ろに下がって「築地和田老舗ビル」が建てられている。最近、晴海通り沿いに建ったビルは通りを広げるのか、後退して建てられている。今のところ歩道が広くなっただけで、そこにテーブルを出して商売している店もある。



大松商店。築地4-11。1991(平成3)年5月5日

吹田商店の角から築地場外に入ったところ。写真左奥が晴海通り。1986年の住宅地図では、角の吹田商店から右手前へ「富屋、喜多品、定松、大松商店、上野商事、赤鳥居本店」という記載。
喜多品と大松商店の間の建物は屋根が架かっているだけの空間で本体の建物はその奥にあるようだ。下の写真ではそこに「PALETTE CLUB」の看板が架かっている。イラストレータの養成学校ということだ。妙な立地ではあるが生徒には受けるかもしれない。
現在では「清水商店」の看板はなくなり、大松商店は「まぐろやき」の店になった。



左:1999(平成11)年、右:2011(平成23)年11月7日

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左:世界屋、大野屋。中央区築地4-9。1991(平成3)年5月5日
右:吹田(すいた)商店。築地4-11。1989(平成1)年11月5日

左写真の左端は黒田商店だが今は 江戸屋海産第三売場。そこの記事に一緒に掲載したほうがよかった写真である。世界屋とその右の大野屋はともに料理道具を扱う店で、両店とも今も写真と同じ古い建物で盛業中だ。大野屋の右に出ている屋根は新大橋通りの門跡通り商店街のアーケード。門跡橋なら晴海通りにあったが、門跡通りという名称はどういういわれがあるのだろう? 晴海通りの向かいに「大野屋商店」の建物が写っている。そこは今「パロス築地」という1999年11月に竣工した14階建てのマンションが建っている。
右写真は晴海通りの歩道から撮ったもので、吹田商店は昆布の専門店。現在は2007年10月に完成したビルの同じ位置で営業している。そのビルに、旧店舗の「株式会社/吹田商店」の金文字と2階の上の「古んぶ問屋」の文字とその飾り枠が再現されている。
写真奥の松沢商店は八百屋で、現在はビルに建て替わった。




三銀商店。築地4-11
1988(昭和63)年頃

右の道路が晴海通りの歩道でその奥が新大橋通りとの交差点。手前から、三銀商店(酒店)、伊勢啓(鰹節)。その先は写真では重なってしまっているが1986年の住宅地図では、「溝口商店・川又商店・新海商事、東山堂、ヨネモト、高島屋海苔店、吹田商店」である。
現在は三銀の裏にビルが建ってその前面、晴海通り沿いに、三銀商店、伊勢啓、鈴木水産の3棟の2階建ての商店が並んでいる。後ろのビルを建設するとき一緒に取り壊されて、ビルが出来上がると再び建て直したのかもしれない。

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河辺畜産
中央区築地4-9
上:1989(平成1)年11月5日
左:2011(平成23)年11月7日

新大橋通りの1本南、築地場外の「築地西通り」。川辺畜産とその左の山庄商店(野菜、くだもの)は地図では「住吉市場」となっていて、瓦屋根を見せた日本建築。川辺畜産の右奥のビルが山一漁業ビルで、その前面の平屋の店はそのビル前の敷地に建てられた小屋だと思う。このビルが建つ前は「築地湯」という銭湯があった。写真右端の平屋の倉庫のような建物が築地商事市場。
左の写真が現在の状況で、川辺畜産は建物はそのままで「築地すし鮮」に変わっている。築地場外ではここ10年ほどで、観光客や買い物客をあてこんで、すし店の出店が目立つ。





築地商事市場。1991(平成3)年5月5日

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