ぼくの近代建築コレクション
東京の都心と下町を中心に、戦前に建てられた古い建物の写真を投稿していきます。
 




都立白鴎高校。台東区元浅草1-6。1986(昭和61)年頃

現在のきれいな校舎は1989(平成1)年12月に完成した。その前の校舎が写真のもので、『総覧』に「都立白鴎高校(旧東京府立第1高等女学校)、元浅草1-6-22、建築年=1928(昭和3)年、構造=RC3、設計=岡田信一郎・東京府営繕課、備考=「建築世界」S2.07による。セセッション風。」となっている建物。
同窓会の会費を払っていないので大きな声ではいえないが、ぼくが50年前に通っていた高校である。その校舎が恐れ多くも岡田信一郎が関わっていたとは当時は知らなかった。昭和初期に建てられた近代建築だとも意識しなかった。それは当然としても、府立第一高女とは耳にしたが、学校の歴史などにも無関心だった。
岡田信一郎は古典様式の建物を多く設計しているようだが、公立の学校では金をかけられず、わりとあっさりした普通の学校建築になっている。全体は校庭を囲むように「コ」の字型の平面。北側の中央棟の真ん中にアーチの開口部がある。左翼棟の先端に体育館、右翼棟の先端に柔道場や音楽室などが入る部分がくっついている。
シンボルとしての時計塔と入り口のホールがセセッション風といえるのかもしれない。



ぼくが在籍していた当時は、1クラス50人で1学年8クラス、そのうち2クラスが女子だけのクラスだった。つまり全校生徒は1200人。8割がた台東区と中央区に住んでいる生徒で、次いで足立区、荒川区、千葉県といった辺りだ。今はどうなのか検討もつかない。



校舎の南西部分。右の校舎本体とは別棟かもしれない。1階は柔道場。




左上:出入り口のホールから左右の廊下につながるドア。このドアは新校舎の3階に移設された。
右上:右翼棟の付け根。半円窓があるとはしらなかった。
左:右上写真の左にも写っている洗い場。銘文には「クラブ歯磨寄贈」と読めるのだが卒業生の会社だろうか。

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左:八百作。神奈川県三浦市三崎3-2。1994(平成6)年5月2日
右:清月堂。2007(平成19)年11月17日

三崎公園のほうから三崎銀座商店街に入ってすぐのところ。いづみ屋や松浦洋品店の向かいである。三崎公園に向いたさくら屋食堂から奥へ、タナカ(CD・テープ・ビデオ)、八百作、清月堂と同じ建物の左側の嘉山畜産海南店、右側の銘菓処清月堂、路地があってその奥に喫茶店のバロン、洋風看板建築のマツウラ(カバン・袋物専門店)、蔵造りの魚問屋、三崎堂書店、松月商店と並ぶ。
八百作は2階正面を鋼板のようなもので張り替えてしまったので建物の感じも変わってしまった。


マツウラ鞄店
2007(平成19)年11月17日

松浦洋品店が向かい側にある。同じ経営者の店かどうかは知らないが関係はありそうだ。シャッターが下りていて営業しているのかどうか心配だ。

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松浦洋品店
神奈川県三浦市三崎3-3
1994(平成6)年5月2日

三崎銀座のポピーの前を南にいくと、伏見時計店、松浦洋品店、米山船具店と並んでいる。現在、3軒とも建物は変わっていないが、松浦洋品店は閉店してしまったようだ。
松浦洋品店の建物は商店としてはたぶん三崎で最も豪華なものだろう。多少キッチュな感じもするが、それは看板建築には付き物の要素だ。三崎ではこういう西洋古典様式風の柱などで飾った建物は他に見かけなかった。これだけのものになれば十分観光スポットにもなる。店が閉まってしまったということで、取り壊しにならないか心配である。

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ポピー。神奈川県三浦市三崎3-3。1994(平成6)年5月2日

左写真は三崎公園から三崎銀座商店街へ入ったところ。写真右端は商店街入口角のいづみ屋洋装店。いづみ屋は公園のロータリー側にも向いているが商店街側が正面になるようだ。いづみ屋から左奥へ、志村金物店、榎本商店(カッパ、長靴)、重美屋(寿司、うなぎ)、ポピー(『 三崎 古い町並み見学』による)。
ポピーは現在では下右写真のように、看板もなくシャッターも下りていてなんの店だか分からない。手がかりは下左写真で、ブラウスが飾られているので婦人服の洋品店だろうか? 重美屋は3階建てのビルに建て替わって、天丼でも食べにちょっと入るような感じの店だったのがゆっくりとマグロ料理を楽しむような感じになっている。


ポピー。左:1994(平成6)年5月2日、右:2007(平成19)年11月17日

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いづみ屋洋装店。神奈川県三浦市三崎3-3。2007(平成19)年11月17日

写真左に山田屋酒店が見えている。右手は洋品のいづみや。その左の「三崎銀座商店街」の看板を下げた街燈のところを入ると狭い道路の両側に店が並んでいる。正面に木造3階建てのさくらや食堂、その左の出桁造りの商店が漁具船具の葉山商店。その左へも商店街が続く。
三崎公園のロータリー前から商店街の入り口を見ただけで、なにやら期待がもてそうな気分になる。マグロ料理のことではなく建物のことである。



左:1994(平成6)年5月2日、右:2007(平成19)年11月17日

同じ構図で古い写真があったので並べてみた。

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山田屋酒店。神奈川県三浦市三崎4-8。2007(平成19)年11月17日

三崎港を前にした三崎公園(ロータリーの島が三崎公園なのだろうか?)の前の商店。正面に大きな破風を置いた立派な店舗である。1階の屋根は入母屋屋根のようだから入母屋破風になるのだろうか? 後ろの2階建ての壁がモルタル塗りなのは耐火建築を意識しての造りだろう。昭和5年頃の建築という。
正面の看板は枠に文字を置いただけで素通しである。建物を隠さないための工夫かもしれない。看板の左下に木彫りのフクロウをとまらせているのは鳥除けだそうだ。(『 かなたび/2011.01.19』)
写真左には蔵が建っている。前期サイトには関東大震災にも焼失しなかったものという。



1994(平成6)年5月2日

初めて三崎港を訪れたときの写真。山田屋の隣の家が伊東屋商店として営業している。こちらも酒店。たしかに、漁師や船員はやたらと酒を飲むようなイメージがある。

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蔵前別館。台東区浅草橋3-5
1987(昭和62)年6月7日

前の道路は蔵前橋通りの南を東西に通っている、一方通行だがわりと広い道路である。区立育英小学校のはす向かいになる。大きな看板がかかっているので、ぼくは料理屋か旅館のような印象を受けたのだが実際はどうなのかは知らない。あるいは呉服店かなにかかもしれない。現在は看板を下ろしてしまったが建物はそのままだ。
一見して昭和初期に建てられた看板建築に見える。撮影当時は蔵前別館の前の通りを西へ行ったすぐの忍岡高校入口交差点の周辺は、戦前のままの木造の家が立並んでいたから、この家も、と考えたわけだ。しかし、この辺りから東側は空襲で焼き払われていた。昭和22年の航空写真ではまだ家は建っていない。どうやら昭和25年頃に建った看板建築ということになる。

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銅板貼り民家。台東区鳥越1-20。1988(昭和63)年12月31日

おかず横丁の近くの路地の中の民家。家内工業的な職場を兼ねた家だったかと思う。正面は銅板を貼っているが商店ではないので看板建築という感じはしない。銅板の各ピースが大きいように思う。戸袋と窓の庇は看板建築によく見る造りだ。
Googleマップを見たら家はなくなって、跡地は駐車場になっていた。


東京さくら会。鳥越1-20
1986(昭和61)年4月6日

上写真の民家と同番地だが蔵前橋通りの横丁に面していた家。住宅地図では「東京(常会)さくら会」の記載。さくら会とはなんだか分からないが堀江達也後援会連絡所の看板があるからそれと関係しているのだろうか? この家の写真はこの1枚しかないので、撮影後じきに取り壊されたかと思う。跡地は現在駐車場になったままだ。左隣(写真右)は鈴木工務店で、現存。そのため写真の家の住所が判明した。

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万世橋交番。千代田区神田須田町1。1983(昭和58)年8月

万世橋の袂にあった交番の遺構。写真を見ると中央線のガードの下に半分押し込まれている。写真右の煉瓦の壁は万世橋駅の遺構で、駅の開業は1912(明治45)年4月1日。辰野金吾が設計した東京駅に似た立派な駅舎だった。『 西平の神田探偵団 万世橋レンガ交番の旅(須田町派出所の行方)』というサイトに万世橋駅の正面を捉えた絵葉書を載せていて、そこにこの交番が写っている。万世橋駅と同時に建てられた交番だろうという。鉄道博物館(1936年)の建設にともなって脇にどかされたらしい。昭和30年頃までは交番として使用されていたという。
小金井公園に江戸東京たてもの園が開園したのは1993(平成5)年3月28日。万世橋交番はそれに展示できるように、1992年末、同園に移設された。前記サイトには「冷たい雨の中、そのままの姿で徹夜作業でそっくり大型トレーラーに積み込まれ」とある。



1987(昭和62)年2月1日

万世橋の北のたもとには、もうひとつの遺構、都電の架線柱があったことをブログ『 東京DOWNTOWN STREET 1980’s 豊島区~トロリーバスの遺構?』でkenmatsu氏が報告している。この貴重な鉄柱はゴミとして処分されたらしい。たてもの園に限らず、公園などに保存されている都電の車両の脇に移設しておけばよかったのにと思うが、ぼくがこの架線柱を目にしても都電とは結びつかず、見過ごしているに違いない。
『須田町派出所の行方』には交番の跡地の写真を出している。そこに「若林名刺印刷」の店が記録されている。若林名刺印刷の右にもう1軒あったようで、それらが撤去された後が『1980’s』の写真になるのだろう。


2008(平成20)年3月18日

万世橋袂の小屋の後ろに写っている黒っぽい柱が都電の架線柱。遠景に写っていたのをトリミングしたのでぼけているが、柱頭に球をつけたようなタイプのものと分かる。

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加古川理容室。台東区鳥越1-11。2008(平成20)年3月1日

約200mあるという鳥越おかず横丁の中心あたりの四つ角。正面が3階建ての看板建築の家が加古川理容室。その左右の家は今はしもた屋だが、左の日本家屋は元は八百屋だったらしい。おかず横丁は11時から19時まで車両通行止め。1989(平成1)年に撮ったこの辺りの写真では13時から21時の標識になっていた。
下の写真は同じ四つ角の反対側。石津酒店の後ろに日本家屋の元商家があるが、松山タバコ店だった家。『下町残照』(村岡秀男、朝日新聞社、1988年)にはタバコ屋と名鉄宅急便取次店をしていた昭和62年撮影の写真が載っている。その文章にご店主の談で、店主の父上が大工で、昭和7年頃に自分で建てた家だという。


石津酒店。1-4。2008(平成20)年3月1日

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