ぼくの近代建築コレクション
東京の都心と下町を中心に、戦前に建てられた古い建物の写真を投稿していきます。
 




暗闇坂下の三角地。文京区弥生2-1。1989(平成1)年9月10日

写真のキャプションが探偵小説のタイトルのようになってしまったが、ごく客観的に表現しただけである。写真の後方が東京大学で、ボイラー室の煙突やその後ろに東大附属病院の建物が見えている。東大の敷地に沿っている道が暗闇坂だ。つまり写真の手前から左右どちらの道を行っても暗闇坂に出る。その辺りは坂を下りてきてほぼ平らになるところで不忍池も近い。写真左手の道の左側は民家が建っているが、その民家の裏側は台東区池之端2丁目で、忍岡小学校裏手の寺が密集しているところだ。
写真の古い民家は戦後まもなくの建築だと思う。手前角の家は健在なので、今の景観もあまり変わらない。



真工館。弥生2-3。1989(平成1)年9月10日

暗闇坂沿いに弥生美術館がある。いつかは入ってみたいと思っている美術館だが実行力がないからいまだに未見である。そのすぐ横を入ってきた辺りに写真の木造アパートがあった。写真右奥へ行くと暗闇坂。このアパートは昭和初期に建てられたと思われる。中庭がある「ロ」の字形平面の下宿屋である。住宅地図では「真工館」の名称で、東大工学部の学生が多く下宿していたのかもしれない。
このあたりは東大本郷地区と浅野地区の間のゆるい斜面で、1887(明治10)年には警視局(現警視庁)の射的場が造られたところ。射撃練習場のことを当時は射的場といったらしい。『五千分の一東京測量原図―1883(明治16)年』でその位置と形状がよく分かる。『遺跡開設板を設置』によると、1883(明治15)年には宮内省所轄地になり、東京共同射的会社射的場となる。1888(明治21)年に大森に移転するまでの10年間だけの存在だった。
写真手前の十字路が射的場の中心辺りになりそうである。

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住吉共同住宅15号館。江東区住吉1-19。1986(昭和61)年4月13日

住吉公園を囲む同潤会アパートの南側の2棟で、手前が15号館、どこから、とはっきりしないが右奥に14号館。
右写真は15号館の中心の角を中庭から撮ったもので、本などでもよく見るアングルだ。建物の軸になるところで、中は吹き抜けのロビーのような空間で、有名な螺旋階段がある。その肝心の螺旋階段はなぜか撮影していない――ネットなら『風呂屋の煙突>旧同潤会猿江裏町共同住宅』の写真が素晴らしい――。他の、敷地の角に建つL字形平面の棟は、たぶんこういう無駄な空間は造らず、普通に部屋にしているのだと思う。「猿江裏町共同住宅」の18棟ある建物のなかでも、特別な空間だという意識で造られていると思う。やはり自分なりに撮影しておくのだった。

写真右手に庇の短い2つ並んでいる窓がある。その間が建物の切れ目で、そこから右は14号館。1991(平成3)年6月16日



14号館を中庭から。1991(平成3)年6月16日

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住吉共同住宅10号館。江東区住吉1-19。1991(平成3)年6月16日(3枚とも)

住吉公園(中庭)を囲む同潤会アパートの中で東側の棟。写真右(北)には公園への通路を隔てて11号館があり、これが住利公園北交差点に面している。
喫茶店エコーにはパックマンのゲーム機があるのだろう。今でも観光地の喫茶店なんかにはゲーム機のテーブルがあったりする。



中庭の東北の角。写真左が12号館、その右がL形の平面の11号館、写真右が10号館。



住吉共同住宅17号館。江東区住吉1-18

住吉公園を囲むアパートの建つ街区の西の街区に立っていた同潤会アパート。あそか病院と同じ街区で、ここにも16・17号館があった。2棟がすきまなく並んでいるが、写真左手の電柱の辺りで切れていると思う。
『廃景録>同潤会 住利アパート』によると、住利アパートの中で最後に解体された。

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住吉共同住宅12・13号館。江東区住吉1-19。1986(昭和61)年4月13日

住利アパートといわれていた同潤会アパートの住吉1丁目に建てられたアパート。写真は毛利1と住吉1との間の通りに建っていた建物で、細長い12号館の両端に平面がL字形の11号館と13号館がくっついて3棟が並んでいた。写真右の角にあるほうが13号館になるが、12号館との境がよくわからない。花屋のあびこまでが13号館だと思うが。
住吉共同住宅の第2期の工事になるもので、昭和4年2月の起工、5年2月の竣工である。




上:住吉共同住宅12号館
1991(平成3)年6月16日

住吉1にあった10~15号館は広い中庭を囲んで建っていた。地図には「住吉公園」とある。写真は12号館を公園から見たもの。写真左手の12号館と直角になっているのが13号館。中庭は建物に沿って駐車場になっていて、その駐車場に囲まれる形で公園になっていた。


左:13号館の西面
1991(平成3)年6月16日

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住吉共同住宅1号館。江東区毛利1-8。1986(昭和61)年4月13日

同潤会住利アパート(猿江アパート)は毛利1丁目の1~9号館(140戸)の第1期と住吉1丁目の10~17号館の第2期に分けられる。第1期の工事は大正15年7月に起工、昭和2年10月の竣工。施工は大林組。
現在は再開発されて「ツインタワーすみとし毛利館」(1994年11月完成)の高層マンションになった。
一般に「住利アパート」といわれるが、建設当初の正式名称は「猿江裏町共同住宅」といった。1943(昭和9)年に町名変更で住吉町ができたのに伴って「住吉共同住宅」に変更した。以前のスラム街のような不良住宅から同潤会アパートに替わって「住みよくなった」という意味がこめられているらしい(『消えゆく同潤会アパートメント』(河出書房新社、2003年)参照)。
写真は毛利1と住吉1の間の通り沿いに建つ1号館。向かいの南側には12号館のやはり細長いアパートがあり、商店街になっている。


左:1枚目写真左手の理髪店を正面から撮ったもの。1991(平成3)年6月16日(右も)
右:1号館の中央に空けられた通路を入って振り返ってみた。1991(平成3)年6月16日



毛利1丁目の9棟の建物の中心に児童公園がある。上の写真はその公園から見た東側にある5号館、写真右手は3号館。1991(平成3)年6月16日

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東町アパートメント。江東区住吉1-18。1991(平成3)年6月16日(2枚とも)

同潤会の住利(すみとし)アパート(または猿江アパート)が建つ街区に隣接して、あそか病院と並んでいた同潤会アパートである。昭和5年6月の竣工で、江戸川アパートを除けば他の同潤会アパートより遅い。通りに面した3戸は1階が店舗、2階がその住居として1体になっている。戸数は18で、申込倍率は9.4倍だった。
住利アパートは震災前の不良住宅を解消する目的で建てられたので、他の同潤会アパートとは性格が少し違うという。不良住宅地区改良法(昭和2年成立)のモデル事業として内務省に委託されて同潤会が実施した事業である。それに反して、東町アパートは普通の同潤会アパートとして建てられたようで、「○号館」ではなく、特に「東町アパートメント」の名称にしたのだと思われる。竣工時の町名が深川東町だったようだ。(『消えゆく同潤会アパートメント』(河出書房新社、2003年)参照)



写真右はあそか病院南病棟、左のビルがあそか病院本館だろうか。

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あそか病院。江東区住吉1-18。左:1986(昭和61)年4月13日、右:1991(平成3)年6月16日

写真の建物(あそか病院南病棟)は1992年頃に解体されて、現在は12階建ての立派なビルに替わった。『総覧』では「あそか会あそか病院(第一期)、建築年=1930(昭和5)年、設計=柴垣鼎太郎(ていたろう)、施工=松井組、表現主義式建築と記載/「同病院40年の歩み」による」である。竣工時は各階の窓の上下に建物を巻く形で横線の張り出しがある。「表現主義式」というのは角の玄関の造形なんかをいうのかも知れないがよく分からない。
『あそか会』によると、あそか病院の開設は昭和5年11月。九条武子の意志を継いだ田中もと女史や大谷紝子(きぬこ)の奔走によるという。西本願寺との関連が深いようだ。



あそか病院・南面。1991(平成3)年6月16日

『総覧』には「あそか会あそか病院(第二期)、建築年=1937(昭和12)年、設計=川元建築事務所、施工=鴻池組」が載っている。あそか会のHPに「新館外来棟完成(昭和12年10月)」として写真が載っている。あそか病院と同番地なので近接して建てられたと思うのだが、昭和38年の航空写真では確認できなかった。

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松本家住宅。千代田区神田多町2-9。1987(昭和62)年12月31日

多町はかつて、青物市場があった。その神田青物市場は震災後の昭和3年に秋葉原に移り、今はまた大田区東海に移った。松本家は江戸時代から続く青物問屋で、屋号を伊勢長という。多町の市場は問屋集合市場で、このような個々の店舗で道路にまで商品を置いて、個別に小売商と応対していたらしい。
建物は昭和6年の建築で国登録有形文化財である。横丁の側はモルタル塗りになっているが、現在は和風の下見板に改装され、2階右の防火壁が取り外されている。オリジナルに近い姿に直されたのだろうと思う。



栄屋ミルクホール。神田多町2-6。1988(昭和63)年8月14日

あるいは松本家以上に有名な建物かもしれない。逆光のへたな写真で、肝心の「ミルクホール」の白い暖簾も出ていないが、右手のガソリンスタンドが写っている。今はマンション(ガラステージ神田、2005年7月竣工)が建っているが、神田須田町1-6の「共同石油神田中央SS」である。


谷川印刷。神田多町2-11
1987(昭和62)年1月1日

多町大通りの松本家と栄屋の中間あたり。写真左手は「大精電気」。現在は「第19岡崎ビル」(1991年4月竣工)。

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紙伝商店。千代田区神田多町2-9。1987(昭和62)年12月31日

手前は一八通りで、左手に行くと外堀通りの司町3丁目交差点。右手の路地の突き当たりは松尾神社だが写真ではよく分からない。紙伝商店(文具)の建物には「建築計画のお知らせ」が架かり、前に突き出ている飾り窓の中は空っぽだ。店名から、かなりの老舗のように感じられるが、今はネット検索ではヒットしない。
現在は「田中ビル別館」という5階建ての小さなビルになっている。ちなみに写真左のビルが「田中ビル」。



明治洋紙店。神田多町2-11。1987(昭和62)年12月31日

手前の空地は神田司町になり、司アパートの跡。家並みの前にある道路は右(南)へ行くと神田小学校(現千代田小学校)の前を通って神田警察通りの神田電話局前交差点に出る。サンケイ新聞須田町販売所のビルと「なお井」(飲み屋)の間の路地を入ると松尾神社の前を通って多町大通りの松本家の角に出る。ストリートビューを見ると写真中央の明治洋紙店から右の建物とその店とは替わっていない。

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大信不動産。千代田区神田多町2-9。1986(昭和61)年6月8日

神田多町の中心、多町大通りと一八通りの交差点の角に正面を向けた洋風の看板建築。戦前の建物がしだいに消失していくなかで、建築当時の表面が見られる建物として永くがんばってきたが、つい最近取壊されたという。昭和30年頃の火保図では「塩崎洋服店」。
『神田 大信不動産』によると、大信不動産がこの建物で営業を始めたのは昭和40年2月。



サカエヤクリーニング店。大信不動産隣の銅板貼り看板建築。2軒長屋の形だが右側のほうが戸袋の幅だけ広い。1989(平成1)年3月12日

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