ぼくの近代建築コレクション
東京の都心と下町を中心に、戦前に建てられた古い建物の写真を投稿していきます。
 



ヤマト科学ビル
中央区日本橋本町2-1
1985(昭和60)年4月14日

中央通りの、今なら日本橋三井タワーの北の交差点を東へ入ったところにあった。写真左手に行くと昭和通り。撮影時には向かいに繊維会館の旧ビルがあった。写真のビルは、現在は建て替わって「ヤマト科学本社ビル」になっている。
写真右の古いビルもヤマト化学のものらしい。青森銀行が入っているビルは「東京薬業会館」。この辺りは江戸時代からの薬品問屋の町だ。同じ通り沿いにタケダや田辺製薬がビルを構えている。
昭和7年の火保図では「森川商店」となっている。同図で写真右のビルは単に「倉庫」。ヤマト科学のHPを見ると、創業は1889(明治22)年で「倭屋森川惣助商店」という名称だった。
『日本近代建築総覧』に「ヤマト科学工業K.K.、日本橋本町3-1、S4、RC5」というのが載っている。写真のビルとは所在地と階数が異なるので別物らしい。

コメント ( 3 ) | Trackback ( 0 )





石井鉄工所月島工場。中央区月島3-26。1988(昭和63)年1月17日

月島西仲通り商店街の南のはずれの十字路の角にあった建物。写真左奥へ行くと月島川で、西仲橋を渡ると勝どき1丁目に入る。
撮影時の住宅地図では「石井駐車場管理事務所」で、建物の南側が大きな駐車場になっている。その事務所なら1室で足りるから、他に入っている会社があるのだろう。昭和25年頃の火保図では「石井鉄工所月島工場」である。なるほど、建物はいかにも大きな工場の事務所棟だ。写真左手の向かい、月島3-27のほとんどが撮影時にはやはり駐車場になっていて、そこが月島での石井鉄工所の主要工場だったようだ。
現在、「レジデンスシャルマン月島」というマンションが建ったが、そこに「石井鐵工所」の本社がある。石井鐵工所は1900(明治33)年に月島で創業。鉄塔、ガスタンク、プールなど大型施設の製作が得意なようだ。昭和12年に本社を丸の内に移したが平成16年に月島に戻した。



石井鉄工所月島工場、西側。1989(平成1)年11月26日


駐車場から見た南側。2001(平成13)年10月20日

普通の人はこんな建物に目を向けることはないと思うが、当ブログのコンテンツと似たところのある下記のサイトで取り上げている。
都市徘徊blog 慶応機械開発研究所
廃景録>消えた近代建築>石井鐵工所



東側の玄関。2001(平成13)年10月20日

コメント ( 1 ) | Trackback ( 0 )





特油商会。中央区月島3-14。1988(昭和63)年1月17日

清澄通りから西へ入って次の四つ角。写真右へ行くと清澄通り、左へ行くと西仲通り商店街の南の端、駿河屋酒店の角に出る。
撮影時の住宅地図では、「特油商会、住宅、山崎牛乳神戸ビーフ」と並んでいる。昭和25年頃の地図では、「特油荒物店、住宅、明治牛乳」。さらに戦前の昭和10年頃の地図には、住民の記憶による書き込みであるが、「油屋、三河屋酒店、マトバ牛乳」、下の写真右の家が「高橋和菓子」である。とすると、特油商会と山崎牛乳は戦前から続いている商家なのかもしれない。
下の写真で、右の家の前に打ちぬいたあとの鉄板が積み上げてある。プレス工場なのだろうか。現在は特油商会の隣の民家がビルに、下の写真右端の家は立体駐車場になった。



1989(平成1)年11月26日

コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )





鳥辰。中央区月島1-5。1988(昭和63)年1月17日

清澄通りと月島西仲通りへ向かう横丁の交差点の角。写真左奥へ行くと、西仲通りの看板建築「第三鹿島酒店」の角に出る。鳥辰の右は千鶴美容院。
現在も店は入れ替わったり廃業したりしているが、角の看板建築の家とその奥の二軒長屋の建物は変わらない。



二軒長屋。1989(平成1)年10月29日

写真右の看板建築が鳥辰の入っている家。二軒長屋の右側は稲見炭店。黄色の丸い看板が懸かっているが、練炭の看板である。ガラス戸には「木炭」と書いた紙が貼ってある。長屋の左は「長沢自転車店」だった家。
下の写真では稲見炭店の右のブロック塀に「ダイヤアイス」と書かれている。さいころ状の氷のことで、氷も売っているのだ。あるいは氷屋といったほうが正確なのかもしれない。戦前の火保図に建物の「炭ヤ」の注の書き込みで「のしろ氷屋(冬はたいこ焼屋)」とある。



稲見炭店。1991(平成3)年1月20日

コメント ( 3 ) | Trackback ( 0 )





三谷葬儀社。中央月島3-7。1989(平成1)年11月26日

清澄通りと月島西仲通りの中間の四つ角。写真左へ行くとそば屋の久月の角である。洋風にした看板建築に見えるが建物の後ろに屋上への出入り口があり、陸屋根の屋上になっているように見える。昭和22年の航空写真に写っているのがそのような建物なので、やはり戦前の建築なのかもしれない。
三谷葬儀社はそこのHPによると、1936(昭和11)年の創業という。現在は4階建ての小さなビルになっているが、建物左の部分が一戸建てのようになって残っている。



三谷葬儀社の裏の家。1990(平成2)年1月21日

1枚目の写真右奥の裏通りから撮ったもの。下見板貼りの家は、前記した航空写真では空地になっているのでたぶん昭和25年頃に建てられたものではないかと思う。
現在は取り壊されて、この家の奥のほうまで空地になっている。三谷葬儀の並びを含めて再開発するのだろうか。

コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )





旧増田畳店。中央月島3-6。1989(平成1)年10月29日

月島西仲通りの「久月」といそば屋の角を西へ曲がったところ。「増田畳店」の看板が残っている四軒長屋である。下の写真が現在の様子で、四軒長屋とその並びの建物は今も残っている。20年たって長屋は少しずつ改装が加えられているが畳店の看板はなぜかそのまま。現在の航空写真を見ると、この長屋の裏にも同じような長屋があるようだ。下の写真左の赤い日除けの日本家屋は「宮本タバコ店」。
写真左奥のビルは「まるは大洋研究所、大洋漁業倉庫」。下の写真では「オーベル月島リバージュグラン」(2001年8月竣工)というマンションに替っている。



四軒長屋の現状。2008年10月7日

コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )





サカモト煙草店。台東区小島1-13。2005(平成17)年4月8日

小島1丁目の地域のちょうど中心辺り。4軒長屋といっていいのか、4軒の店が入った集合店舗だ。トタンの壁は錆が浮き出てきていて塗装し直したほうがいいように思うが、被写体としては古さが出ているほうが面白い。
煙草屋の角に床屋の看板が出ている。店の横の下にタイルが貼ってあるが、床屋だったときの名残かもしれない。煙草屋の左は「寿司哲」だった店。今は店の造りを取り払って車庫にしている。


三和防錆、岡崎光英堂。小島1-13
1987(昭和62)年6月7日

1枚目の写真で左(北)へ行ってすぐ右へ折れたところ。写真右のモルタル塗り看板建築は四軒長屋で現存している。今は「三和防錆」の看板はなくなっている。その左の建物は「岡崎光英堂」。今はタワー駐車場になっている。

コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )






三ツ輪呉服店。台東区鳥越1-21
上:1989(平成1)年1月29日
左:1986(昭和61)年4月6日

上写真左手の道路は鳥越おかず横丁の裏通りのひとつ。清洲橋通りに近い辺りである。昭和初期に建てられたと思われる看板建築や日本家屋の商家が並んでいる。通りの向かいも同様で、現在もこの家並みはあまり変わらない。
三ツ輪呉服店の家は、現在では看板を下ろして民家として改装されている。ベランダのある日本家屋の家は、そのベランダの手すりが鉄だかアルミのものに替えられた。

コメント ( 1 ) | Trackback ( 0 )





ドルフィン。台東区鳥越1-31。2005(平成17)年4月9日(2枚とも)

水戸屋紙工の裏の狭い道路。ごく最近の撮影だから現在も家並みはそのままだと思う。写真中央の看板建築は外観から見て関東大震災後の家だと思う。銅板貼りにしている場合が多い形だが、鳥越・小島にはトタンの波板を貼った家も多く見かける。建材として、トタンの波板が昭和の初期にすでにあったのかどうかぼくは知らないが、建てられた当時のものではなく後の改修によるものではないかと疑っている。
写真右の家は1986年の住宅地図に「ドルフィン」となっている家。撮影時も同じ商売なのかどうかは知らない。



1枚目の写真で左のほうに写っている家。住宅になっているようだ。やはりトタンの波板が使われている。平屋の家はパン屋か不動産屋だったような構え。すずらん形の軒灯に注目だ。左の家は町工場だろうか。

コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )





水戸屋紙工。台東区鳥越1-31。1989(平成1)年1月29日(2枚とも)

今回の2枚の写真に写っている建物は全部が今も健全である。入っている会社も変わっていないのではないかと思ってしまうが、勿論それは判らない。
1986年の住宅地図では、写真中央が「水戸屋紙工」、その左、四つ角のところが「東部ファスナー販売ソーコ」。
前の道路は右へ行くと清洲橋通りの佐竹通南口交差点に出る、割と広い通りだ。撮影時ではパーキングメータが通りの両側に設置されていた。現在は歩道ができて駐車できなくなった。


稲生縫製所。鳥越1-30

1枚目の写真で左手へ少し行ったところ。中山ビルと東京YKKビルに挟まれて日本家屋の商家が残っている。この家は『下町残照』(村岡秀男著、朝日新聞社刊、1988年)に載っている。ご主人の談によると「家は昭和3年の建築、仕事は特殊な寸法の白衣を縫っている」ということだ。
「稲生縫製所」の名称は、個人宅のようになるのを遠慮してぼくがかってに付けてしまった。

コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )



« 前ページ