ぼくの近代建築コレクション
東京の都心と下町を中心に、戦前に建てられた古い建物の写真を投稿していきます。
 




明治書院。千代田区神田錦町1-16。1985(昭和60)年2月24日

本郷通りの、靖国通りとの小川町交差点の少し南にあった。「建築年:1932(昭和7)年、設計:復興建築助成会社、施工:藤木工務店」となっている。スクラッチタイル貼りのロマネスク様式の中に古典様式をはめ込んだように見える。一見、銀行のような印象も受ける。
明治書院は国語の教科書を中心とした出版社で、創業は1896(明治29)年という老舗だ。明治書院のHPを見るとぼくでも名前を知っている編集者や執筆者が出てくる。
現在はエムズスクエアという2003(平成15)年に竣工したビルが建ち、明治書院は新宿区大久保へ引っ越してしまった。エムズスクエアは明治書院神田錦町ビルという別名もあるようで、明治書院の持ちビルらしいから安定経営に役立っているのだろう。



1986(昭和61)年6月8日

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都庁第一本庁舎。千代田区丸の内3-5。1991(平成3)年4月21日

上の写真は、1991年4月1日に都庁は新宿に移っているから、正確には旧都庁というか都庁跡である。丹下健三の設計で1957(昭和32)年に完成した。当時の都知事は安井誠一郎。2月22日が落成式だったが、その日、石橋湛山首相は辞意を発表して25日には岸信介内閣が成立している。同年6月に東京タワーの建設が始まり、村野東吾が設計した読売会館(有楽町そごう)も同じ年の完成で、11月に「有楽町で逢いましょう」が売り出された。



1985(昭和60)年11月10日

第一本庁舎には次の部署が入っている。案内板を書き写したものだが、記録として書き出しておく。
知事・副知事室、企画審議室(調整部・計画部・調査部)、情報連絡室(報道部・広報公聴部・情報公開部=都民情報センター・記者クラブ、総務局(知事室・総務部・人事部・行政部・災害対策部・多摩島しょ対策部・勤労部・法務部・統計部・学事部・同和対策部)、財務部(経理部・主計部・管財部・用地部・庁舎管理部・営繕部)、主税局(総務部・税務部・課税部・資産税部・徴収部)、出納長室、環境保全局(大気汚染コントロールセンター)、第一ホール(会議室・第一本庁舎案内所・食堂・売店・入札室・発注室)。
第一ホールとは本庁舎の中央後ろに出っ張っていた部分のことらしい。

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桜蔭学園。文京区本郷1-5。1988(昭和63)年1月31日

写真左へ下がっていく道は白山通りの水道橋交差点へ出るが、忠弥坂という。右奥へ少し上がっているが玄関がある辺りで坂は終了して、標高21mほどの本郷台地の西の縁になる。右奥へ行く道路の両側に桜蔭学園の校舎が立つ。
写真の建物は設計・施工=大林組で1931(昭和6)年に竣工した。今では数少ないスパニッシュ様式の建物で、学校の格式を誇示するためにも取り壊すわけにはいかないのではないかと思う。



玄関がある東側。1988(昭和63)年10月16日



忠弥坂から見上げた西側。1988(昭和63)年1月31日

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文京区立元町小学校
文京区本郷1-1
上:1988(昭和63)年10月10日
左:2000(平成12)年11月23日

元町小は1998(平成10)年4月に真砂小と合併して本郷小学校になった。その校舎は旧真砂小の場所だ。元町小だった時代の写真は上の1枚しか見つからなかった。外堀通りに面した元町公園の脇を北へ入る坂道から見上げた写真で、これなら今でも撮れる。この坂道は無名のようだ。
建物は昭和2年竣工、設計=東京市、施工=芝江初五郎。
左の写真は東側の正門のところで、門に「本郷小学校」の表札がかかっている。本郷小学校になった後、新校舎の建設のため1999年4月から2001年12月まで旧元町小の校舎が使われた。

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お茶の水職業訓練所。文京区本郷2-4。1988(昭和63)年10月16日

本郷給水所の西の向かいにある現・トーキョーワンダーサイト本郷。TWS本郷の開設は2001年。石原都知事の四男・石原延啓が原画を描いたというステンドグラスで有名になったが、今もあるのだろうか。
住宅地図では「都立お茶の水高等職業訓練校事業内訓練教室」で、角の看板の字がそれに当たるのだろう。建物上部の壁にも消えかけているが字が書いてあり、影になっている横の壁も汚れかもしれないが字の跡とも見えなくはない。水平線を強調した戦前のモダン建築のようだが詳細はなにも知らない。



2000(平成12)年11月23日

写真左奥へ行く道路は外堀通りへ下がっていく富士見坂という。坂道の両側の住宅地は空襲の被害を免れたようだが、職業訓練所だった建物の周辺は焼失区域で、右の木造家屋は戦後の建築だろう。
撮影時では「東京都教育庁」の看板が架かっているだけで、TWS本郷の開設準備中だったかもしれない。



全水道東京水道労働組合会館。本郷2-7。1988(昭和63)年10月16日

東京都水道局本郷給水所の敷地内にあった建物。現在の水道歴史館のところだ。写真左後方のビルは順天堂大学8号館。

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都庁西8号庁舎。千代田区丸の内3-5。1986(昭和61)年12月30日

丸の内の旧都庁の敷地内に赤煉瓦のけっこう大きい建物があった。1921(大正10)年に建てられているが、構造などは不明らしい。関東大震災に耐えたわけだから、ただのレンガ造りではないのかもしれない。
当時の都庁の案内板では「情報連絡室(ニュース取材室)、南多摩郡都市開発本部(建設計画部、水道部)」が入っている。

1986(昭和61)年5月18日(下も)



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旧内山歯科医院。中央区日本橋人形町1-4。1985(昭和60)年頃

現・日本橋小学校の前の通りにあった下見板の洋館。歯科医院をやっていた家である。札幌や函館なんかで見られそうなスタイルで、北海道の下見板の洋館はアメリカから伝わったらしい。映画からの知識だが、アメリカの田舎の家はだいたいが写真のようなスタイルのような気がする。東京の街中にあるのはかなり珍しいと思う。
昭和50年頃と思われる写真(『にほんばし人形町』人形町商店街協同組合編集、昭和51年)を見ると、カーポートの屋根はなくて玄関の上に車寄せとも見える庇がある。また、2階建てのほうの屋根のドーマー窓がない。この窓は近年造られたものだった。
写真左端の家は飲食店向けの器などを扱う教雅堂。さらにその隣が立花医院だ。
現在は1990年竣工の内山ビルに変わった。



平屋のほうの下見板に素人がやったような補修の跡が見える。2階部分のほうの壁はきれいだから、すでに補修してあるのだろう。1枚目の写真では平屋の部分もきれいに修復されている。1982(昭和57)年4月18日

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1階を車庫にした民家。中央区日本橋人形町1-6。1987(昭和62)年6月

東華小学校(現・日本橋小学校)正門向かいの民家で現存している。写真左へ続く家並みは「大竹文華堂」ですでに出した。



寿司芳。日本橋人形町1-7。1987(昭和62)年6月

人形町通りの西の裏通りで、写真右奥へ行くと東華小学校にぶつかる。角の寿司芳には「建築計画のお知らせ」の掲示板が出ている。その右へ、金券ショップ、「フジタ工業人形町オフィス」、「中静産業不動産」の看板が見える。
現在は寿司芳が寿司芳ビルという1階が飲食店の事務所ビルに、その右は立体駐車場になっている。

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興真牛乳売店。台東区東上野5-23。1989(平成1)年6月30日

清洲橋通りから上野学園のほうへ入る割と広い横丁である。牛乳屋の建物は5軒長屋だと思うが右端の家は上端の高さが異なる。その右端の家はなくなったが現存している。
ぼくは興真牛乳と書いたほうが感じ出るのだが、現在は「コーシン」と表記するらしい。店の右にある2台の販売機は「興真牛乳」だ。


スクラッチタイル貼りの民家
1991(平成3)年6月30日

1枚目の写真の左に写っている家だが、現在は取り壊された。
牛乳屋との間の路地は奥で左右に分かれて、両方の通りへ抜けられるようだ。

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大黒屋精肉店。台東区東上野4-17。1989(平成1)年7月23日

現在は台東保健所が建ち、その南の台東保健所前交差点の角。撮影時は東上野四丁目交差点で、写真左手が浅草通りに、右奥へ行くと昭和通りへ出る。
現在も建物は部分的に残っていて、肉店と同じ建物の左の一軒は外観も同じまま。



洋風2軒長屋。東上野4-17。1989(平成1)年7月23日

1枚目の写真の交差点を浅草通りのほうへ行った次のブロック。写真左端に写っている日本家屋がなくなって駐車場になっているほかは現在も変わっていない。

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