ぼくの近代建築コレクション
東京の都心と下町を中心に、戦前に建てられた古い建物の写真を投稿していきます。
 



三ツ輪肉店。中央区銀座7-7。左:1986(昭和61)年12月30日、右:1985(昭和60)年6月2日

銀座6丁目の交詢社ビルの向かい。三ツ輪肉店左の古いビルは大日本印刷ビルである。
正面1・2階を洋式建築風に飾り立てている。3・4階の窓は改装されているようで、全体とアンバランスだ。撮影時の住宅地図だと「マツチビル」。
銀座三ツ輪はそのHPによると、明治24年創業の松坂牛など高級牛肉の老舗。ぼくにはちょっと縁がないようだ。



1986(昭和61)年12月30日

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大日本印刷ビル。中央区銀座7-7。左:1986(昭和61)年5月11日、右:1988(昭和63)年2月21日

銀座6丁目の交詢社ビル(上右の写真の右に写っている)の向かい。撮影時には角の大日本印刷ビルから西へ、三ツ輪肉店のビル、丸嘉宝石店の3棟の古いビルが同じブロックに並んでいた。1991(平成3)年に改築されて「DNP銀座ビル」になっている。
ニューヨークの摩天楼に似たようなアールデコのビルがありそうだ。いくらかゴシックの要素もあるだろうか。
銀座コンシェルジュ>DNP大日本印刷」によると、大日本印刷は1876(明治9)年に印刷会社「秀英社」として創立された。銀座の数寄屋橋の近くだという。その場所と思われるところに、1894(明治27)年に建てた工場の建物に関しては「日本最初の鉄骨造―秀英社印刷工場―」というサイトがある。大震災後に印刷工場は市ヶ谷に移転したが、1927(昭和2)年に写真のアールデコ調のビルを建てて秀英活字の販売拠点とした。日清印刷と合併して「大日本印刷」と改名したのは1935年。このビルは、竣工時は「秀英社ビル」だったわけだ。

左:1986(昭和61)年5月11日、右:1985(昭和60)年6月2日

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日本館。台東区浅草1-24。1986(昭和61)年10月26日

すし屋横丁のほうから六区の映画館街に入っていくと、最初に左手に見える映画館だった。日本館を過ぎてから両側に映画館が立ち並ぶわけで、死角のような場所のせいか、一般的な本などでは日本館の写真をあまり見かけない。
大倉土木(現・大成建設)の設計・施工による昭和3年竣工の建物である。松竹のマークがあるから松竹の所有する劇場なのだろう。ほかの六区の劇場と比べると躯体自体は普通のビルに近いし、装飾もあっさりしている。竣工時もこんなものだったのだろうか。『日本近代建築総覧』の備考に「構成派的」とあるから、正面の立方体を組み合わせたような表現は竣工時のままなのかもしれない。

左:1987(昭和62)年4月4日、右:1988(昭和63)年5月1日

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富士銀行雷門支店。台東区雷門2-16。1988(昭和63)年5月14日

はとバスの通る大通りは浅草通りで、浅草仲見世の入口にある雷門からすぐ西のところ。撮影時の住宅地図では、富士銀行雷門支店から右へ、新谷ビル、三善堂(仏壇)、駐車場、ブラザーミシン。
建物は戦後の建築である。昭和26年頃の火保図には載っているので戦後まもなく建てられたものだろう。同図では「浅草支店」だ。外観は古典様式を簡略化したようにも見え、銀行建築にはまず信頼感を出すという気分の時代だった。
このビルは平成16年2月にオオゼキという食料品中心のスーパーマーケットになった。



北陸銀行浅草支店。雷門2-12。1986(昭和61)年10月26日

前の通りは雷門の前から南に通じている通りで、通称・並木通り。昭和30年頃の建築と思う。昭和26年頃の火保図ではまだ「山屋酒店」になっている。窓枠・付け柱・軒に曲線が使われ、窓も大きくて信頼性より明るく親しめるような銀行というイメージを出した外観だ。

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鎧河岸の倉庫。中央日本橋小網町8。1966(昭和41)年8月

東京証券取引所のそばにある鎧橋から東証とは反対の小網町の川岸を撮影したもの。大震災前には鎧河岸といって倉庫が立ち並んでいたらしいが、その頃の名残のような蔵の形の倉庫が写っている。おあつらえ向きに川岸の柳まである。ただし40年前の景観だ。
橋際から倉庫までの間が開いているが、昔からの橋際の広場らしい。現在も同じでトイレが設置されているのも撮影時と同じだ。
昭和30年頃の火保図には「柏倉庫(正確には○の中に柏の字を入れた記号)」となっている。写真左後方の2階建てのビルは、同図では「東京藁工品KK」でコンクリート造りの建物。撮影した時代が異なるからその会社のままかどうかは分からない。壁面に写っている字は「柏」と「鞄」のように見える。東京藁工品の裏に「駒木銀次郎」邸の記載がある。当ブログ「かづさや」の1枚目の写真に写っている住宅がそれだ。
戦前の昭和8年の火保図になると、東京藁工品のところは「駒木商店」である。「古今・お江戸日本橋」というサイトの「日本橋“町”物語>日本橋小網町」のページにある「天保元年(1830)創業の荒物雑貨の駒木商店」だろう。大正6年の「営業者姓名録」には「小網町3丁目には荒物海草問屋の駒木」が載っているという。同サイトでは商売が続いているような感じだが、ネット検索では出てこないので廃業したらしい。
次に1986(昭和61)年の住宅地図を見る。駒木銀次郎邸は「ぺんてる㈱別館」となっていて、今では「ぺんてるビル」になっている。川岸の倉庫があった場所は「駒木ビル」になっている。現在では「エクサムビル」というのに変わったらしい。
以上からなにが分かるかというと、明確にはなにもないのだが、なにやら柏倉庫と駒木商店が関連していそうな雰囲気がするのである。

先日、駒木商店で使われていた看板が見つかったので、駒木商店の家族に返還したい、というコメントが「かづさや」の記事に寄せられた。商品の看板で、津川安正堂の敷島香・京廣香・養老香(線香らしい)と柴田商店の衛生消毒箸というものだ。線香のほうの特約店は「駒木銀三郎」となっている。

追記(2009.07.15)
駒木商店の子孫の方からコメントを頂き、写真の倉庫が駒木商店のものだったこと、その倉庫の場所に駒木ビルを建て、1980年代まで商売が続いていたことなどを教えていただいた。
駒木商店の店主は代々駒木銀三郎を名乗り、5代目まで続いた。
写真の倉庫は駒木商店のもの。写真左奥の2階建ての建物が駒木商店の店舗で、壁面に「駒」の字が認められる。コンクリート造りのように見えるが木造である。店の後ろにある日本家屋の住居も含めて、関東大震災後の大正末の建築だという。
住居をぺんてるに売却したのは1956(昭和31)年頃で、1970年代に店を売却して倉庫のところに駒木ビルを建て、「株式会社駒木」として荒物問屋の商売を続けてきたが1980年代に廃業した。

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藤屋ベーカリー。中央区佃3-5。1989(平成1)年12月31日

清澄通りに面した木造長屋の商店。写真左に麻生商店が見えている。麻生商店から右へ丸久屋ふとん店と勝又商店だが、これがたぶん二軒長屋。その右も同じ造りの二軒長屋だ。



五軒長屋。佃3-5。1991(平成3)年1月20日

清澄通りの初見橋交差点のすぐ北の横丁を東南に入ったところ。今は中央佃郵便局があるが、そのすぐ先にあった。現在は駐車場になっている。
初見橋の架かっていたのは佃川で、佃3丁目の川岸には倉庫が立ち並んでいた。写真の道路はその倉庫の表側になり、今も長屋の向かいに何棟か倉庫が見られる。

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法務省本館。千代田区霞が関1-1。1986(昭和61)年8月17日(1~4枚目)

5枚目の写真を除いて、法務省本館として使われていた時代の写真である。戦災で内部を焼失し、1951年に修復された時の姿だ。

1886(明治19)年、第1次伊藤博文内閣の外務大臣井上馨は官庁集計画を内閣に臨時建設局を設置して実行に移す。外交の課題である不平等条約改正のためには、外国に文明国であることを示す必要があると考えたからだ。鹿鳴館の第2弾といっていいかもしれない。ドイツからヘルマン・エンデとヴィルヘルム・ベックマンを招致して都市計画と主な建物の設計を依頼する。二人は共同で設計事務所を持つドイツ建築界の大物だ。ところが井上の条約改正案は政府の一部や国民から猛反発を受けて、井上は辞任し計画も頓挫する。1890年には臨時建設局は廃止され、エンデとベックマンは首に。工事中だった大審院(最高裁判所)と司法省(法務省)は1895(明治28)年に完成する。



ドイツ・ネオバロック様式とされている。エンデとベックマンが帰国した後は河合浩蔵という司法省の技師が中心になって工事が進められたらしい。河合は官庁集計画に伴って、妻木頼黄、渡辺譲とともにドイツに留学している。


昭和の改修」による変更点は、1)建物の外壁の高さを2m低くし、2)二面のバルコニーの石造りの列柱を撤去し、3)屋根の勾配をゆるくして瓦葺きにする、となっている。



法務省赤レンガ棟。2007(平成19)年9月11日

1988(平成3)年から明治の竣工時の姿に復元する工事が始められ、1994(平成6)年に完成した。図面が残っていたのかと思っていたが、関東大震災でほとんど失っていて、写真などから復元されたらしい。
屋根が改修されたのが目立つが、建物中央部の2階前面の窓が取り外されてベランダに直されている。

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麻生商店。中央区佃3-4。1985(昭和60)年6月2日

小浦邸からビル1棟おいた並び。間口も大きく、こった造りの看板建築である。
看板に「機械工具」とある麻生商店は、東京都機械工具商業協同組合の会員データに「創業:昭和16年」という記述が残っていた。
k-kai氏の「廃景録>麻生商店」に「解体年:平成13年冬」とあり、平成6年4月撮影の写真では看板は外されベランダの手すりが壊れている。




上・左:1989(平成1)年12月31日

看板建築の2階の正面にベランダを設ける例は他にも見かけるが、たいていは形ばかりの奥行きの浅いものが多い。この建物のベランダは本格的だ。

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京橋消防署築地出張所。中央区築地7-8。1985(昭和60)年6月2日

築地消防署は、現在は聖路加病院の北側の明石町に移ったが、その前は築地7丁目にあった。前の道路は築地市場の海幸橋(今はない)からかつての新栄橋(あかつき公園を横切る道路になっている)へ通じている通りで、あかつき公園の近くである。
写真の庁舎は1929(昭和4)年の落成で11月6日に開所している。10月24日のニューヨーク株式市場の大暴落があった直後だ。完成時には鉄骨の火の見櫓があった。
古い地図を見ると消防署の裏に東京都立文教盲学校(戦前の地図では盲人技術学校)というのがあった。どういうものでどうなったかは知らないが一応記しておく。
『図説・占領下の東京』(佐藤洋一著、河出書房新社・とんぼの本、2006年)に、聖路加病院の屋上で占領軍が星条旗を上げている写真が載っている。その写真の遠景に新栄橋を含めてその一帯が写っていて、火の見櫓を載せた築地消防署と文教盲学校も写っている。



マルニ食品工場。中央区築地7-8。1987(昭和62)年5月24日

築地消防署からすぐ南へのところ。写真左の横丁に日よけを出しているのがマルニ食品工場。

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西川インテリア。中央区築地7-7。1986(昭和61)年6月

当ブログ前回の天龍の斜向かい。前の道路は備前橋から築地7丁目交差点の間になるが、関東大震災後に新しく通された。築地6と7丁目の境は写真の道路から1本南の細い道路で、その道路が大震災前の南小田原町2と4丁目の境。
お祭りは波除稲荷神社の例祭で、今は「つきじ獅子祭」の名称がある。
西川インテリアは昭和25年頃の地図に「西川室内装飾店」として出ている。建物は銅板貼りの2軒長屋らしいが、現在も右側の部分が現存している。


後藤ラジエターの洋風長屋
中央区築地7-7
1987(昭和62)年5月24日

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