ぼくの近代建築コレクション
東京の都心と下町を中心に、戦前に建てられた古い建物の写真を投稿していきます。
 




NTT浅草電話局。台東区雷門1-4。1986(昭和61)年10月26日

浅草電話局の正面は浅草通り。写真では目立たないが網がかぶせられている。竣工時には塔屋のような階段室の右にも左側の本体の3分の1くらいの幅でビルがあったようだが、写真右のNTT浅草ビルを建設するときに削られたらしい。
『日本近代建築総覧』には「浅草電話局旧館、S4、RC2、設計:東京市?」。大震災後に建てられた他の電話局と共通のデザインで、現在では大塚電話局別館が残っているが、他には知らない。電話局の古いビルが取り壊された後は駐車場になっている。



NTT浅草電話局・西側。1988(昭和63)年5月1日

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2軒長屋。文京区根津1-24。1988(昭和63)年11月3日

根津神社の参道にあたる、そう広くもない通りだ。武田表具店から1ブロック根津神社よりの場所で、武田表具店の家も屋根の軒先が写っている。写真左の家は建物本体の両端に玄関と小部屋を突き出していて、その間を庭にしている2軒長屋だ。



山の湯の並び。根津1-22。1990(平成2)年5月6日

1枚目の写真の2軒長屋の向かい。写真左端が山の湯。出桁造りの家の前面を看板建築風にした建物が、入口と脱衣所になっているようだ。
写真手前の家は現在も1階の瓦がトタン板に変わっただけでそのまま使い続けられている。手前の空地もまだ家が建っていなくて、写真の景観はあまり変化していない。

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武田表具店。文京区根津1-23。1988(昭和63)年11月3日

不忍通りから根津神社に至る道路の北側。写真奥が不忍通り。「名糖牛乳」の看板の家のあたりはビルに変わったが、そこから手前の武田表具店までは今もそのままだ。武田表具店は玄関を横丁側にしたり瓦屋根を葺き替えたりはしているが、見た感じはほとんど変わらない。表のガラス障子に「武田、屏風、表具、襖額」と書いた4枚の半紙が貼ってある。ということは、たぶん商売をやっているのだと思う。



根津クリーニング店。1枚目の写真と同じ場所を逆方向から。1990(平成2)年5月6日


理髪店
1990(平成2)年5月6日

2枚目の写真の右の家。どうみても商売はやめている。

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岡三証券浅草支店。台東区雷門2-11。1987(昭和62)年4月4日

浅草の雷門から駒形橋詰の駒形堂に通じる並木通り西側の昭和末年の街並み。左から、岡三証券、並木のやぶそば、おりや、鈴木バルブ店、駐車場、12番地になって北陸銀行。
現在、並木通りの西側はほとんどが新しいビルに建て替わっているが、やぶそばと鈴木バルブ店は写真の建物のまま。岡三証券のビルは空き家のようだが残っている。周りを含めてビルを建てる計画なのかもしれない。
『東京の下町』(杉原残華著、昭和29年、住吉書店刊)という本に、昭和20年代末の「並木町通り」の様子が書かれていた。杉原残華は小唄や都都逸の作家だったらしい。
浅草のどこがさびれたといつて駒形堂から雷門に至る旧並木町通り程淋しくなつたところは一寸ない。中には立派になつたじやないかと言う人もあるかも知れない。成程建物は立派な洋風のものが沢山建つた。然しそのどれもが銀行か保険会社か証券会社の建物ばかりである。(中略)駒形堂のあたりから一丁あるかないかのこの区間と、雷門から田原町までの一停留場との間のL字型のところに一体こういう金融機関の建物がどの位あるか、数えて見たら第一銀行、東京銀行、埼玉銀行、三菱銀行、三井銀行、協和銀行、富士銀行その他を合せて二十一店あつた。

1986(昭和61)年10月26日

岡三証券ビルは『日本近代建築総覧』では「S10、設計・施工:日本鉄筋ブロック建築合資会社設計部」。
昭和26年の火保図では「埼玉銀行雷門支店」。それ以前のことはまだ調べがつかない。

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大東京火災海上保険浅草支店。台東区雷門2-4。1986(昭和61)年10月26日

江戸通りと浅草通りが交わる駒形橋西詰交差点のそばにあった。写真の前の通りは並木通りで、右に行くと雷門にぶつかる。
渡辺仁の設計で昭和2年の竣工。以前は第一勧銀駒形支店、さらにその前は第一銀行である。写真では正面の左が写っていないが、左右対称。外観では階数が分かりにくいが3階建てだ。
現在はあいおい損保台東ビルに変わった。撮影時には大東京火災のすぐ北にあった岡三証券もそのビルに入った。


浅草大栄ビル(埼玉銀行浅草支店)
雷門2-18
1987(昭和62)年4月4日

大東京火災から2ブロック北へいった向かい側にあった。昭和30年代の建築かと思う。

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海老屋美術店。中央区日本橋室町3-1。1985(昭和60)年4月14日

中央通りの三井本館のあるところのひとつ北のブロック。海老屋美術店(骨董)、玉貞人形店、内藤ビルと並んでいる。
海老屋はそのHPによると1673(延宝1)年、京都で開業している。御所の御用職だったので明治維新に天皇の上京と共に現在の地に移ったそうだ。写真の建物は洋風のファサードを持つ戦前の看板建築のようにも見えるがどうなのだろう。戦前の火保図では海老屋ではなく「アサヒバー」となっていて、その建物とも決められない。同じ地図で近所に海老屋を探すと、中央通りの向かいに「海老屋」とある家がある。戦後に建てられたものだろうか。
人形店が集中していたという十軒店は、内藤ビルあるいはその北の協和銀行があった辺りで、中央通りの両側にまたがっていた。ごく小さい町域である。大正元年地籍図には「永徳齊人形店、光月人形店、久月人形店」の記載がある。玉貞人形店は昭和30年頃の火保図にあるが、写真のビルの斜向かいになっている。玉貞は十軒店の歴史を伝える唯一の店としてここでがんばってきたが、数年前に閉店したという。


内藤ビル。1985(昭和60)年8月4日

『日本近代建築総覧』によると、「竣工:大正12年、設計:内藤正一」。関東大震災の年に完成したらしいが、大震災の前なのか後なのか気になる。
内藤ビルの右側の空地は協和銀行日本橋支店を取り壊した跡である。協和銀行のビルは清水組の設計施工で昭和5年の完成、オーダーを並べたいかにも銀行らしいビルだったようだ。また、海老屋の角を西に入ったところに小西六の古いビルがあったはずだが、どちらも撮り損ねた。

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大栄ビル。中央区日本橋室町1-1。1985(昭和60)年12月31日

帝国製麻株式会社(現・帝国繊維株式会社)の本社ビルとして辰野金吾の設計で日本橋のたもとに建てられた。竣工は1912(大正1)年、1913年、1914年のどれかである。妻木頼黄のデザインによる日本橋の竣工は1911(明治44)年であり、明治を代表する二人の設計家の作品が同じ場所に、そう時を隔てることなく出現したわけだ。古い日本橋の写真にはほとんどが帝国製麻ビルが一緒に写っている。
橋の上に首都高速ができたのは1964(昭和39)年で、それ以来橋とビルとの一体の景観は切り離されてしまった。当時はだれも景観などは考えなかった。今になって首都高を取り外そうなどと言い出しているが、現在の景観もすでに45年の歴史的景観になっているし、反省材料ということも含めて今のままでいいのではないか。


左:1984(昭和59)年6月24日、右:1985(昭和60)年9月8日

東京市道路元標が橋の中央から大栄ビルの前に移されたのは、日本橋を渡る都電が廃止された昭和48年3月である。道路元標は電車の架線の電柱でもあった。
大栄ビルの塔屋の部分は階段室で、鋼鉄製の螺旋階段が収められている。窓も螺旋状に並んでいる。


大栄ビルの道路側
1987(昭和62)年4月5日

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不忍通りの裏道。文京区根津1-15。1992(平成4)年4月29日

画面の左方向に不忍通り、右方向に根津小学校がある位置。平成になった頃までは両側に関東大震災後に建てられた木造の民家や長屋がかなり見られた。現在は「コーポ根津清水(区立住宅)」や文京根津郵便局の入るマンションなどが建って、古い家屋は見られない。


左:長屋。文京区根津1-15。1989(平成1)年4月29日
右:下見板貼りの家。文京区根津1-16。1992(平成4)年4月29日

左写真は不忍通りの文輝堂付近から裏の路地へ通じている横町で、正面に1枚目の写真にある長屋が写っている。
右写真の家は長屋のような造りだが玄関は1箇所のようだから一戸建ての住宅なのだろうか。和風の下見板張りで連子窓の家。

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旅館上海楼。文京区根津1-20。2002(平成14)年4月28日

根津神社の南に根津小学校があるが、上海楼はその中間にあった。根津教会のすぐ近くだ。2005年初頭に取り壊されて、現在は「ハピネ文京根津」というマンションに変わった。まだキャッシュに残っていたホテル旅館の情報サイトに「宿泊料:9,500~11,000円、24室」とあった。
上海楼という名前は遊郭を連想させる。根津遊郭は根津権現の造営とともに自然発生的に産まれたようだが、正式に幕府の許可を取って再興されたのが1868(慶応4)年。明治初期には大繁盛したという。深川の洲崎に移転させられたのは1888(明治21)年6月である。「上海」が日本で一般的になるのは昭和になってからだと思う。
種村季弘著『江戸東京《奇想》徘徊記』に「(上海楼は)往年は東京で一、二を争う中華料理の宴会場で、文士の出入りもしきり」 (ブログ「本読みの快楽」/2005.02.11) と書かれているという。「往年」は戦前のことのように受け取れる。
古い航空写真で、昭和38年の写真に写っている建物だろう。昭和22年の写真とは異なり、外観からも昭和30年頃の建築に見える。



弥生アパート。文京区根津1-19。1989(平成1)年2月26日

1枚目の上海楼の写真で左の道の向かい側である。写真右奥のビルが根津小学校。
昭和30年頃に建てられたアパートに見える。建物中央にわりと立派な玄関があり、建物の縦軸に廊下が通っているのだろう。このアパートは見た目よりも古くて、昭和22年の航空写真に写っている。

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根津教会並びの長屋。文京区根津1-19。1992(平成4)年4月29日

『東京路上細見1』(林順信著、平凡社、1987年)に「九尺二間(くしゃくにけん)の裏長屋」という言葉で紹介されている。間口9尺、奥行き2間の4軒長屋である。
下見板の壁がトタン板で補強されたり、出窓風の窓がアルミ枠の引き戸に換えられたりしている。



1989(平成1)年4月29日
現在はトタン板の補強部分が増えて、下見板の壁は1軒分だけになっている。長屋の左角の家の鉢植えの木が生長して屋根に届いていた。

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