ぼくの近代建築コレクション
東京の都心と下町を中心に、戦前に建てられた古い建物の写真を投稿していきます。
 




藤田観光ビル。中央区新富1-10。1987(昭和62)年4月29日

写真右奥へ行くと、通りの右に当ブログ前回の東京リスマチックのビルを見て平成通りに出る。住宅地図で藤田観光ビルとなっているビルは古いビルには違いないが、戦前ということはない。近いうちになくなるのだろう、ということだけで撮っておいた。ビルの角の店はマドンナという喫茶店。



藤田観光ビル。1986(昭和61)年頃

新富ホールの開店10周年を祝う花輪が出ている。「ホール」と花輪でパチンコ屋かと思うが、パンチンコの文字は見当たらない。入口上の看板は「文化会館/新富ホール」、入口右に「麻雀ドラ」の袖看板ある。花輪の送り手は「砂永守」と「冠二郎」が読み取れる。
手前の角、3階に「日本芸能審査協会」の袖看板が出ている。



旧亀田医院。新富1-11。1987(昭和62)年5月

写真右端に藤田観光ビルが写っている。手前の空地の看板は「(株)再春館製薬所/本社ビル建設予定地」。その塀の後ろは細い路地である。

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東京リスマチック。中央区新富1-8。1987(昭和62)年1月15日

そばやの写真左手の方が平成通りに面していて、左手が八丁堀の方向。右手は横丁に入って新大橋通りへぬける。角のそばやは「乃哩清」と読める。


東京リスマチック
1985(昭和60)年11月

2階に「東京スタジオ」の看板、その上には「アプリケーター・トルクメーター/サンセイ理工(株)」の看板が架かっている。

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新月堂。台東区浅草橋5-14。1987(昭和62)年頃

武蔵屋酒店の長屋の向かい。住宅地図では右から、小林広告、新月堂、富士そば、関製本で、ビルは都立忍岡高校。お祭りは鳥越神社の例大祭。



八木野商店(新月堂の角を南に入ったところ)。1988(昭和63)年4月10日


新月堂
1987(昭和62)年頃

2・3階の雨戸の戸袋には日本の伝統的模様が施されている。上は麻の葉と網代、下のは亀甲だろうか。

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浅草教会向かいの長屋。台東区浅草橋5-19。2005(平成17)年4月9日

手前はカトリック浅草教会で写真左手へ行くと蔵前橋通りに出る。当ブログでは珍しくごく最近の撮影である。昭和末年頃にもこの前は歩いているはずだが写真を撮っていなかったようだ。こうなってからでは商店名などは不明になってしまう。写真右手後ろのマンションは当ブログ前回のタマオキ薬局があった長屋の跡に建った「ムサシノコート浅草橋」。現在もこのままになっているかもしれない。板でふさがれた4軒が1棟の長屋のように見える。



兼松電機。2005(平成17)年4月9日

1枚目の長屋を北側から撮ったもの。写真右端が兼松電機で、まだ営業しているのだろうか。


2014.12.09追記
まだ空き家になる前の様子をとらえた写真が見つかったので追加する。撮った場所が判らなくなっていたのが、最近やっと判明した。1987(昭和62)年6月7日、鳥越祭の日の撮影。1986年の地図で「前田、鈴木、吉田、村田、栗谷、根岸、兼松電気、小林、桜井、車庫、豊田、タマオキ薬局」という記載。
現在はTimesの駐車場で、写真右のほう、蔵前橋通りの裏通りとの角に「ムサシノコート浅草橋」(1枚目写真に写っている)というマンションである。


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武蔵屋酒店。台東区浅草橋5-19。1988(昭和63)年12月31日

前の通りは都立忍岡高校の北側の通りで、写真左手に浅草教会がある。看板建築の商店長屋で、まったく同じ四軒長屋が2棟並んで建っていた。写真では壁面や戸袋が白く飛んでしまっているが、下の写真のように薄い茶色である。
現在は「ムサシノコート浅草橋」という1995年2月竣工のマンションになっている。



タマオキ薬局。浅草橋5-19。1988(昭和63)年4月10日

1枚目の写真の左側(西側)の棟。

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カトリック浅草教会・正門。台東区浅草橋5-20。1988(昭和63)年12月31日

蔵前橋通りと清澄通りが交差する鳥越1交差点から南東に入ったところ。浅草教会は20番地のほとんどを占めているが、西側、北側、東側は商店や住宅が取り囲むように建っていて、南側に門を開けている。
現在は、教会は同じ場所に建て変わっているが、CSタワーという商業ビルに敷地を譲ったかしたらしく、以前の半分くらいになった。
上の写真は建物の配置がなんとか分かるので、まず出しておく。写真右手の2階建ての家が司祭館、その前の平屋の建物はなんだか分からない。門柱の間の奥に礼拝堂(としておく)、写真左が聖パウロ聖堂。写真では露出過多で読めないが、左の門柱に「浅草カトリック教會」と書かれたタイルの表札がある。



司祭館。1988(昭和63)年頃



聖パウロ聖堂。1988(昭和63)年12月31日



聖パウロ聖堂。1988(昭和63)年頃

1988年12月撮影の3枚目の写真では入口や窓が板で塞がれている。解体直前ということだ。このときは当然正門は閉まっていただろうから、ぼくは工事用車両が出入りするらしい東側の塀の切れ目から侵入したらしい。4枚目の写真は、イチョウの葉が茂っているから同じ1988年の夏かと思うが、あるいはその1年前かもしれない。
関東大震災後に間に合わせに建てた仮建築が今まで残ってしまった、という感じがする。聖パウロ聖堂が大きい教会なら大聖堂に当たるのだろうが、お寺が併設している幼稚園のように見える。


礼拝堂。1988(昭和63)年12月31日
教会とは縁がないから、この小さなお堂がどういうものなのかは知らない。中にマリア像でも祭ってあるのかもしれない。


教会から見た清洲橋通り沿いの商店の裏側。教会の敷地の西側で、 加島酒店の並びを裏から見たもの。(2011.08.16追記)

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加島酒店。台東区浅草橋5-20。1988(昭和63)年12月31日

清洲橋通りの鳥越1交差点の少し南で、写真左の商店の裏は浅草カトリック教会がある。写真右にその門が見えている。現在は1991年竣工のCSタワーという18階のビルに変わった。
角が加島酒店で左が「はらた」というてんぷら屋らしい。次がオザキ時計店。



三洋冷熱。浅草橋5-20。1988(昭和63)年12月31日

蔵前橋通りの1本裏の通りにあった。加島酒店と同じブロックだが浅草教会をはさんで対角線の反対側だ。

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柳水鮨。台東区浅草橋5-21。1986(昭和61)年4月6日

蔵前橋通りの鳥越1丁目交差点。写真左手が蔵前橋の方向、右手が清洲橋通りで神田川・美倉橋の方向。現在、写真の21番地は3棟のビルに変わっている。
交差点角に柳水鮨の料亭のような日本家屋があり、そこから写真左へ、光田(看板の文字は「マフラー・スカーフ・ショール」などの文字が読み取れる)、銅版張りの民家、小林不動産、民家、純喫茶エンゼル。柳水鮨の右はニューエンゼルという喫茶店、駐車場、埼玉銀行鳥越支店である。エンゼルとニューエンゼルとはなにか関係があるのかも知れない。



三倉産業。浅草橋5-22。1988(昭和63)年頃

1枚目の写真の左に写っている3軒長屋。右にあった家がなくなって「建設予定地」の看板が立っている。長屋の建物はすでに空き家になっているのかもしれない。長屋の真ん中の赤い日よけの店は、住宅地図では「ニューセブン」で、ほとんど消えてしまっている文字がそのように読み取れる。

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すいせん。文京区湯島3-33。1989(平成1)年頃

昌平橋通りから天神石坂(男坂)へ向かう道へ入ってすぐの北側。写真に写っている建物は、たぶん今も変わっていない。
ネットで見ただけだが、「すいせん」は欧風料理のレストランで、「創業45年」というから撮影時には、すでに創業20年近くたっている。その右は現在「津乃國屋」という葬儀屋になっている。


看板建築の家
湯島3-33
1988(昭和63)年頃

現在は「湯島白梅亭」という和食の料理屋になっていて、銅版の壁面をくすんだピンク色に塗っている。

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太平社印刷所。文京区湯島3-33。1988(昭和63)年頃

昌平橋通りの西の裏通り。既出の三好菓子店の前の通りである。写真左よりの水色の看板建築が太平社で、三好菓子店の向かいになる。写真右端の建物は天神男坂からの横丁の角になり、住宅地図では町会事務所。


太平社印刷所
1988(昭和63)年頃

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