ぼくの近代建築コレクション
東京の都心と下町を中心に、戦前に建てられた古い建物の写真を投稿していきます。
 




トミー・リーアル・アドバイザー(不動産)。中央区新富1-4。1988(昭和63)年2月14日

前の通りを右に行くとすぐ新金(しんかね)橋がある。そこを渡れば銀座1丁目で、京橋小学校の跡地に建った京橋プラザの前を通って昭和通りの新京橋交差点に出る。新金橋は大震災後に築地川と京橋川とをつなぐ堀川を開鑿した時に架けられた橋だ。川が首都高速道路に変わったときに、ここに首都高への入口を造っているので、ぼくはそのときに架け替えられているのではないかと思っている。



トミー・リーアル・アドバイザー。1994(平成6)年10月9日

1枚目の写真から6年後で、隣の出桁造りの家がなくなって空地になっている。
角の不動産屋の家はモルタル仕上げの看板建築だが、縞模様に色をつけている。この家だけならわりと近年の造作かと思って済ませていられるのだが、ここ新富町には他にも何軒か看板建築の壁面に色をつけている建物が見られる。その色調は白が混ざった淡い色、あるいは写真の家のようにくすんだ色で、けばけばしさはない。いったいいつ頃の造作なのか気になる。ただし現在ではそういう建物はほとんど残っていない。

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新大橋通り。中央区日本橋人形町1-13。1987(昭和62)年2月1日

現在は「日本橋人形町一丁目地区再開発」で、39階建ての高層マンション「リガーレ日本橋人形町」が完成した。310戸を募集して8.6倍の応募があったそうだ。
写真はたぶん再開発など話にも出ていない頃の新大橋通りの人形町1丁目の街並み。
住宅地図では左から、東京事務用品(1階には美容室が入っている)、兜屋ビル・あつみや、香、中華料理・蘇州(緑の日よけは「麻雀7」)、喫茶・リラ、理髪一番、橋本印舗、そば・松屋、台華菜館(2階に「バーバー日本橋」)で、右端のマンションが日本橋人形町コーポ。バス停は「水天宮前」。



新大橋通り北の裏通り。人形町1-13。1987(昭和62)年頃

現在は「リガーレ日本橋人形町」になり、向かい側も再開発によって低層のビルが建ったが、その間の道路になった。写真左奥が人形通り。
住宅地図では右から、東京織物、木坂、炉ばた焼き・ふじ、三和(うなぎ・喜久川)、(路地)、浅田軒(肉店、2階がすき焼き)、まつむらパン、(横丁)、まつむら(店舗)。


茶の木神社
人形町1-13
1985(昭和60)年1月

1枚目の写真、新大橋通りのすぐ裏に平行して路地が通っていた。茶の木神社はその路地の人形町コープの裏にあった。現在は高層マンションの敷地になって、少し移動して横丁に出てきている。
日本橋七福神の布袋尊になっているから、正月には賑わう。

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細沼食料品店。中央区日本橋人形町2-13。1985(昭和60)年2月

人形町通りの北東に平行して通っている大門(おおもん)通りである。昭和10年頃の地図に同じ場所に細沼の名前が出ている。建物は震災後のタイル張り看板建築のように見えるが、昭和25年頃の地図では「コンクリート3階建て」となっている。写真では見えないが奥に3階部分があるので、その建物だろう。



鴇田(ときた)煙草店。人形町2-11。1987(昭和62)年6月7日

1枚目の写真の右側にも写っている。写真左奥が人形町通りの方向だが、助川歯科、趣味の家具と婚礼調度品・大和屋の看板が見える。



大真寺。人形町2-11。1985(昭和60)年頃

人形町通りと大門通りの間の裏通りにあったのだが、移転したらしい。あるいはどこかの寺に吸収合併されたのかもしれない。昭和25年頃の火保図では「喜八堂」、イラストマップ1977年版では「道了尊」として載っている。「喜八堂」が寺ではなく商店かなにかだったとすると、この寺はその後に建てられたのだろうか? 人形町には神社は幾つもあるのだが寺は他にあったろうか?

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楠亭。文京区本郷1-28。1988(昭和63)年2月21日

春日通りの真砂坂上交差点から南に入り壱岐坂通りに出る通りの中間あたりにあった。現在はマンションのビルになってレストランの楠亭もそこで営業している。
写真は楠亭の南の駐車場から撮ったもの。駐車場は本郷MKビルに変わったが、当時の住宅地図では「川口梱包運輸」となっている。



楠亭の前の楠。1988(昭和63)年2月21日

巨大な楠の木は江戸時代から知られていたらしいが、今もマンションの前にそびえている。


楠亭
1989(平成1)年5月5日

司馬遼太郎の『街道をゆく 本郷界隈』に楠亭の記述がある。楠木正成がどうとか、というところは飛ばして、江戸期は甲斐庄喜右衛門という旗本の屋敷だったという。明治になって楠と改名、明治期は屋敷を維持する。以下、文章を引用する。
 あらたに所有した人は古屋敷をとりこわして、大正ふうの木造西洋館をたてた。このあたらしい持ちぬしは駒沢という人だったそうで(近所に住んでおられた上村明(あき)さんの話)、その後、いまの当主の中山弘二氏の父君がゆずられた。
 いまの当主の中山弘二氏は昭和初年うまれで、この家で育った人である。
 透きとおったような感じの紳士で、この西洋館を愛し、クスノキを大切にしてきた人で、ついに建物と木を保存するため、永年つとめてきた国鉄を退職して、
「楠亭(くすのきてい)」
というフランス料理屋をはじめられた。


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魚志ん。文京区湯島3-32。1985(昭和60)年頃

湯島天神から男坂を下りて最初の四つ角から北を見ている。写真右奥が春日通りの切通坂の下。ほとんど同じ造りの三階建ての日本家屋が2軒並んで立っていた。関西料理・魚志んと三好菓子店である。こんな家の並びは他にはまずないから、写真のいい被写体になっていて当時はかなり有名だったと思う。



三好菓子店。1987(昭和62)年頃

むりやり合成した写真。魚志んの建物は工事用のシートが掛けれていて解体中かビルの建築中だ。三好菓子店は1階の屋根にあった看板が外されていて商売をやめたらしい。隣のスクラッチタイル張りの家は左側を白く塗ってしまっている。写真右の黒い家は羽黒洞(古美術)。


三好菓子店
1985(昭和60)年頃

昌平橋の通りから入る路地から、木造三階建ての三好菓子店を正面から撮ったもの。魚志んの古い建物もあったのだから2軒をきちんと入れた写真を撮っておけばよかった。

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サヌキヤ氷店。文京区湯島3-34。1989(平成1)年頃

春日通りの切通坂を下りてきて天神下交差点の手前を南に入ったところである。千代田線が下を通っている452号線の西の裏通りになる。
撮影時の住宅地図では左から「サヌキヤ(氷)」「中華大増」「坂田屋」「朝日タイル」。現在ではサヌキヤは建物もこのままで商売も続けているようだ。大増の建物は、最近だと思うがなくなって空地になっている。撮影時も看板を白く塗りつぶしているので廃業していたのかもしれない。坂田屋の日本家屋は健在である。



坂田屋。1988(昭和63)年頃。1枚目の写真と同じ家並みを南側から見る。



タノ。湯島3-34。1989(平成1)年頃

神田の昌平橋から北へ不忍池で不忍通りに入っていく大通りであるが、この通り沿いに何件か看板建築が立っている。千代田線湯島駅の入口が見えているが、写真右手にすぐ春日通との天神下交差点。古い家は、お酒・藤紫乃、さんどういっち専門店・タノ、2階にヘアーサロン・タノ、つたや化粧品店。藤紫乃の建物上部に「パーマネント」の文字が残っているが「タノ」のことだろうか?

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エチソウビル。文京区本郷2-39。1986(昭和61)年5月

今も本郷通りの本郷3丁目交差点の少し南に、変わらずに立っている。1階の店舗は写真では、酒蔵駒忠、般若亭、珈琲店・白樺、リーチ麻雀・太郎、家庭料理・久良。現在も駒忠、白樺、太郎はまだがんばっている。それらの店の看板を、建物に合わせてもう少し渋くできないかと思うが、よけいなお世話か?
1924年の建設で、越前屋惣兵衛という人が建てたのだそうだ。



エチソウビル。1988(昭和63)年1月31日

現在はエチソウビルの隣の中華料理・大岡が入っていた大岡ビルのほうが建て変わってしまっている。写真右のバス停は「本郷三丁目」。地下鉄の本郷三丁目駅はエチソウビルのすぐ裏手で、同番地である。

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パールハウスビル。中央区銀座5-1。左:1987(昭和62)年10月4日、右:1987(昭和62)年12月27日

このビルの裏は泰明小学校で、地図で見ると小学校の敷地にあるような感じの場所にあった。『近代建築ガイドブック』(鹿島出版会、昭和57年)という本で戦前の建設ということは知っていたのだが、まともな写真を撮れないでいるうちにいつのまにか消えてしまった。
写真では「月光荘本社ビル」の看板が懸かっている。右写真の右は鳳鳴春という中華料理屋。この建物も古そうである。知らなけばなんということもないビルだ。壁面をアルミで覆ったのは改修によるもので、竣工時はまた違った感じだったのかもしれない。
歴史的建築総目録DBによると「旧名称:徳田ビル、建設年:昭和7年、設計:土浦亀城、施工:松井組」。

土浦亀城をネット検索すると、銀座の「シネパトス」(ウィキペディア)、あるいは「傳八ビル(三原橋センター)」(Kai-Wai散策>傳八ビルのルーツ)が挙がった。銀座の三原橋に1952年に建ったガラス窓を大きく取った2階建てのビルである。昭和30年頃の火保図には2棟あるビルの南側のに「銀座セントラルビル」の記入がある。一見してパールハウスビルとの共通性が見られて興味深い。『帝都復興せり!』(松葉一清著、平凡社、1988年)には、『(徳田ビルは)流線型意匠の代表作。船をイメージの出発点に置いたと思われる。』とある。傳八ビルのデザインにそのまま当てはまる。

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タダイシ。中央区日本橋人形町1-16。1985(昭和60)年8月4日

人形町通りの西側。写真左から、タダイシ(手芸材料)、佐野時計店、扇屋(はきもの)、樋口鞄店。佐野時計店が今もそのままだ。


左:洗心堂。1985(昭和60)年10月10日
右:東海(和菓子)、酒井布団店。1983(昭和58)年3月

1枚目の写真左の路地。洗心堂は喫茶店で矢印のとおり少し奥にある橙色の看板のところ。現在はタダイシと洗心堂の建物は取り壊されて駐車場になっている。
右の写真は路地の奥から撮ったもの。東海のワッフルをしばらく食べていない。


かねまん
日本橋人形町1-16
1985(昭和60)年8月3日

1枚目の写真の少し北に行ったところ。写真右端が甘酒横丁交差点の角の須賀ビル(須賀屋果物店)。写真左から、つるや(洋装品)、かねまん(ふぐ料理)、日野屋(和装小物)。
かねまんはふぐ料理の店として有名で、創業は明治13年という。今はビルになって4人で入れば10万円だが、昔の店舗はとてもそんなふうには見えない。

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愛法ビル。中央区銀座1-8。左:2005(平成17)年8月31日、右:2007(平成17)年10月8日

表側は中央通りに面している「つばめグリル」のビルである。写真はその裏側。このビルは表と裏では間口が異なるので裏から古いビルを見ても表のつばめグリルと同じビルとはなかなか分からない。つばめグリルがこのビルに入ったのは1946年という。
左の写真の手前の空地は愛法ビルの北側で宝光ビルというのがあったが、再開発が進められている。
ビル中央の柱の張り紙は、ビルに入る人への警告である。内容は、「このビルは1929(昭和4)年竣工で、平成14年9月に耐震調査をした。その結果は主要構造体のコンクリートや内部鉄筋が劣化していて耐震性に疑問がある。特に1階床のコンクリートは落下の危険性がある。テナントに立ち退きを要求したが1軒に拒否されて係争中。立ち入る人は以上の事情を理解して自己責任で入るように」という意味のことだ。所有者・管理者は「エヌ企画」となっている。



愛法ビルの上部。2007(平成19)年3月9日

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