ぼくの近代建築コレクション
東京の都心と下町を中心に、戦前に建てられた古い建物の写真を投稿していきます。
 




化研病院。千葉県市川市国府台6-1。2006(平成18)年4月2日

JR市川駅や京成国府台駅の北に、弘法寺や千葉商科大などがある台地が北に続いている。北総台地の西端になるのだろう。その台地にじゅんさい池の谷が北に入り込んでいる。谷はじゅんさい池の北端で終わっているように見えるが、実は枝分かれしてまだ北に続く。東側の谷はすぐ終わってしまうが、枝分かれした谷の間の半島状の台地に式場病院と化研病院が乗っている。標高は25mくらいか。
化研病院は2006年から建物を全て建て替える工事を進めてきて、つい最近完成した。ここに出した写真は取り壊しを数日に控えた建物をかろうじて記録できたもの。
化研病院は正式には化学療法研究所所属病院である。化学療法研究所と附属病院は結核治療の研究を目的に1939(昭和14)年に設立された。化研病院のHPの沿革から病棟等の建てられた年を拾ってみると、1939.3=78床。1939.10=恩賜館。1942.3=第3病棟。以降は戦後で、1949.9=第5病棟。1966.12=一般病棟(現外来管理棟)。以下1977年まで、リハビリ施設、東病棟、南病棟が建っている。
写真の病棟がどれに当たるかは分からないが、開設時に最初に建てられた診療棟である可能性もあると思う。昔の郊外の病院はこんな風だったのかなと、わけもなく懐かしい感じがしてくる。


化研病院。2006(平成18)年4月4日

写真右奥の和式の建物が恩賜館。化研病院のHPには、『明治6年青山御所内に造営、御学問所として使用された後、明治25年に宮内大臣官房内に移築、昭和11年まで使用されていました。昭和13年に宮内省(当時)から下賜され、その建材をいただき原型のまま再築、「恩賜館」と名づけられた由緒ある建物です。』とある。


恩賜館。2007(平成19)年6月27日
病院建替えのため、恩賜館は東の谷の斜面に移された。建替えられた病院の後ろになって前からは見えないが、斜面の木立の中にあるので場所は悪くない。ビニールシートはいずれ飛び石にでも置き換えられるだろう。


恩賜館。2007(平成19)年6月27日
上から見下ろすとなにやら鎌倉のような風景が……。

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板根商店。台東区浅草橋3-8。1987(昭和62)年頃
忍岡高校入口交差点の北西角にあった店。写真左手へ行くとすぐ浅草消防署で、蔵前橋通りに出る。


サンライトの並び。浅草橋3-8。1986(昭和61)年4月6日
写真右端の家の右が1枚目の写真の板根商店になる。喫茶店の右の3階建ての家は住宅地図では「サンライト」だが、見たところ商売しているようには見えない。総3階建てに見える日本家屋がある。その構えから、そばやなどの食べ物屋だったのではないか。

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早川商店の並び。台東区浅草橋3-7。1987(昭和62)年頃

看板建築の商店が5軒並んで残っている。銅板張りの前面が残されている2軒の家はファサードのデザインがそっくりだ。左の家の看板の字は「川崎雑貨店」。
『東京路上細見4』(清水谷考尚・子守隆吉著、平凡社・1989年刊)には、『家は昭和3年の建築、明治からこの地で飴づくりと卸を営む、初代が創始した金太郎飴が同店の名物だったが現在は製造していない、その他は同店で製造した飴を売る』とある。

早川商店
1987(昭和62)年頃

看板の絵は金太郎が飴の塊を伸ばしているところだろうか? かすれている字は「梅干飴」「さらし飴」か?
現在も建物は現存しているが商売はいつのまにか辞めてしまっている。店の前にすわっているおばあちゃんは今も健在だろうか。

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関谷ビル。台東区浅草橋3-1。1987(昭和62)年10月4日

江戸通り沿いにあった小さなビル。忍岡高校の北を東西に通じる道路が江戸通りに出る角で、写真右方向が浅草の方向。
周辺は空襲で焼けた地域で、このビルも内部が消失したのを修復して使い続けていたわけだ。スクラッチタイルのような色だが、それより小さいようなので別のタイルだろう。

関谷ビル
1986(昭和61)年4月6日

関谷商店が家主で、シモジマと中山歯科が部屋を借りているらしい。

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日本橋消防団第六分団本部。中央区日本橋1-1。1985(昭和60)年4月14日

西河岸橋の南東の橋詰にあった。写真右は栄太郎ビル。建物名称は板の表札に書かれていたものだが、実質は倉庫だろう。日本橋消防団は第7分団まであって、第6分団の受け持ち区域は日本橋1,2,3丁目、八重洲1丁目である。
現在は立て替えられたが、修繕して残しておけば実用的にも問題なさそうだし、いい記念物になったと思うのだが。


西河岸橋。中央区八重洲1。1987(昭和62)年6月28日

西河岸橋は石町1・室町1と日本橋1・八重洲1の間に架けられている。日本橋川の日本橋と一石橋の間にある橋。中央通りと外堀通りの間にある通りを渡すわけだが、この通りは八重洲側が「八重洲仲通り」、室町側が「日銀通り」というらしい。
大震災前は、この辺りの日本橋川の南(右岸)が西河岸、北側は裏河岸といった。
写真の橋は大正14年8月の竣工。低い親柱の上に街灯を乗せていた。欄干は竣工時のもの。
平成2年に改装工事が入って欄干や親柱は新しくなった。

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山一機業、山田タバコ店。日本橋大伝馬町4
左:1987(昭和62)年9月13日、右:1990(平成2)年2月4日

人形町通りから住友銀行人形町支店の角を入ったところで、向かいは住友銀行の裏の駐車場になる。
右の写真の左に写っている福原ビルを鍵形に囲むようにして、古い建物が残っている。現在はその古い建物がそっくり取り除けられて空地になっているようだ。


山一機業。1990(平成2)年2月4日


小笠原モーター。日本橋大伝馬町4。1990(平成2)年2月4日
写真左手へ行くとすぐ江戸通りに出る。小笠原モーター左の路地を入ると、右側にやはり商店長屋が続いていた。

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住友銀行人形町支店。日本橋大伝馬町5。1986(昭和61)年2月9日

写真はビルの左が切れてしまっている。ビルは玄関を中心に正面は左右対称である。前の通りは人形町通りで写真左が人形町方向。
1929(昭和4)年竣工、設計:住友工作部、施工:藤木工務店。
『帝都復興せり!(平凡社、1988年刊)』の写真のキャプションに『長谷部鋭吉が率いた住友工作部は華麗な洋式建築を多数手がけた優秀な集団だった。古典主義をみごとにこなす。』とある。長谷部鋭吉は1909(明治42)年、帝大建築学科を卒業して住友本店臨時建築部(後に住友営繕)に入社。1933(昭和8)年、独立して長谷部竹腰建築事務所を設立した。代表作はもちろん大阪の旧住友銀行本店(第1期=1926、第2期=1930)だ。
ネットの写真を見ただけだが、神戸住友ビル(1934昭和9年)、やはり神戸の同和火災海上ビル(1935昭和10年)は長谷部竹腰建築事務所の作品だが、基本的なデザイン構成は人形町支店と似ている。つまり、縦長のアーチの枠に1・2階の窓を収めたものを並べ、左右上部を四角い窓で囲むというものだ。人形町支店のような建物は他にもあったと思われる。


住友銀行の裏側。1987(昭和62)年4月5日
後ろに平屋の部分が延びているが戦後の増築のようだ。


住友銀行人形町支店。1985(昭和60)年4月29日
1枚目の写真と逆の方向から撮ったものだがこれもビル全体が入っていない。建物南の角に出入口があり、北側とは出入口の位置が異なる。

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タキトミ運送部。日本橋大伝馬町10。1985(昭和60)年10月20日

タキトミは繊維関連の問屋らしい。以前は滝富商店。かってな想像だがタキトミビルの賃貸の収入が多いのではないか。写真右奥へいくと人形町通りに出る。
「歴史的建築総目録DB」には「名称:東京セイワタキトミK.K.運送部、建築年:昭和8年、設計:田中建設事務所、施工:小沢建設」。昭和7年の火保図では「龍富商店雑貨部」だが「瀧富」の間違いかもしれない。
ビルの前の道路は、今は江戸通りの裏通りであるが、江戸時代の奥州街道の道筋にあたるらしい。明治になっても主要道路で、鉄道馬車が通った時代もある。通旅籠町の大丸屋下村呉服店という江戸時代から知られた店があった場所は、タキトミの斜向かいにあたるようだ。1653年創業の小津和紙店もこの旧奥州街道沿いに開業していまだに動かない。

タキトミ運送部。左:1986(昭和61)年2月9日。右:1985(昭和60)年10月20日
一階柱の上部の飾りはなんの模様だろう。水牛を正面から見てるような気がしてしかたないのだが。

タキトミ運送部の上部
1986(昭和61)年2月9日

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左:福井ビル。右:山城屋。台東区浅草橋2-6。1987(昭和62)年頃

前回の小林酒店と同じ通りを少し東に行った辺りだ。
福井ビルの正面上部の壁面に装飾が剥がれたような跡がある。モルタルのレリーフでもあったのだろうか。3階の窓の上下に角だけ庇があるが、そこだけ残ったものかもしれない。
看板は「(株)エースボタン」「(株)フロンティア喜世分室」「ドレミ」。「ドレミ」は喫茶店らしい。
山城屋は店名の文字が一部剥がれているが「山城屋洋品店」と読める。商売はやめたようだ。

福井ビル
2005(平成17)年4月9日

福井ビルと山城屋の現状である。
この写真を撮ったときは、ビルの後ろから歩いてきたので古いビルを発見した気になっていた。正面から見ても以前撮影した建物とはしばらく気がつかなかった。

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小林酒店、ポリゴン理髪店。台東区浅草橋2-8。1987(昭和62)年頃
柳北小学校の南の道路を東へ行ったところ。看板建築が2棟並んでいた。


正面からの写真。1992(平成4)年5月2日


土田商店。浅草橋2-8。1992(平成4)年5月2日
1枚目の写真の右端に写っている民家が取り壊されて、路地に向いていた土田商店の家の側面が見えている。

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