ぼくの近代建築コレクション
東京の都心と下町を中心に、戦前に建てられた古い建物の写真を投稿していきます。
 




東京YWCA会館。神田駿河台1-8。1987(昭和62)年1月1日

YWCAという組織に特に関心はないが、ちょっと調べてみた。東京YWCAのHPによると「Young Women's Christian Associationは、キリスト教を基盤に、世界中の女性が言語や文化の壁を越えて力を合わせ、女性の社会参画を進め、人権や健康や環境が守られる平和な世界を実現する国際NGOです。」とある。NGOとはNon-Governmental Organizationsで非政府組織と訳す。
日本のYWCA(東京YWCAも)は1905年に設立され、東京YWCAの初代会長は津田梅子。

東京YWCA会館。1987(昭和62)年頃

スパニッシュ様式の建物は、設計=ヴォーゲル、施工=辻組、1929(昭和4)年の建築、ということだが、『東京建築懐古録』(読売新聞社編、1988年読売新聞社刊)に、もう少し詳しく書かれているので参照してみる。
建設を指揮したのがエマ・カフマン女史という人で、本部から派遣されたカナダの人らしい。設計者と施工業者を決めたのも彼女である。辻組は福岡の業者だが、カフマンは先代社長の辻長次郎をアメリカに視察と勉強に遣っている。着工は昭和2年10月で、辻組は全社上げて会館建設に取り組んだという。
玄関の上の文字は「東京基督教女子青年會館」。

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神田消防署駿河台出張所。神田小川町3-8。1987(昭和62)年1月1日

靖国通りの駿河台交差点のすぐそばに今もある。
撮影時には銀座や築地に戦前に建てられた消防署がまだあったが、この消防署もなんとなくそれらと共通した感じで、やはり戦前の建物だろう。


裏側。1987(昭和62)年1月1日
二階部分は増築。神田消防署のHPに「昭和55年7月:駿河台出張所の改築工事を実施した。」とあるからそのときのものか。一応まだ、火の見やぐらが空にそびえている。


2007(平成19)年4月7日
最近神保町を歩いたら、手前にあったビルが解体されて側面が見えていた。


クロサワビル。神田小川町3-8。1987(昭和62)年12月31日
消防署の手前にあったビルがこれ。店はクロサワ楽器らしい。自分でもなぜこんな写真を撮ったのかわからない。

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東和販売。神田小川町3-8。1987(昭和62)年9月6日

明大通りを御茶ノ水駅から下りてきて駿河台下交差点に出る少し手前である。写真左のビルは笠原書店だが1986年にはあった看板が撤去されている。
東和販売のビルはどうみても教会のようで、建設するときに教会に見えるように造ろうとしたのは間違いない。実際に礼拝室でもあったのだろうか。

東和販売。左:1986(昭和61)年10月、右:1987(昭和62)年9月6日


千代田区立小川小学校。神田小川町3-6。1988(昭和63)年頃

お茶の水小学校>学校沿革史によると、明治33年開校。平成5年に錦華小、西神田小と統合してお茶の水小になった。お茶の水小の校舎は旧錦華小の場所。小川小の跡地は小川広場という公園になっている。跡地の使い方としてはなんだかもったいないような…。
写真の校舎は昭和3年、銭高組の施工による。
大好き神田>小川町北三町会で小川小の航空写真が見られる。

小川小・東側
1988(昭和63)年1月15日

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稲川楼(銭湯)。神田小川町2-4。1985(昭和60)年10月

場所は靖国通りの北の裏通り。大好き神田>小川町北部二丁目町会>稲川楼の歴史によると、看板にあるよう明治2年創業し、平成4年に廃業している。写真の建物については言及していない。空襲では焼け残った地域だが造作が簡易すぎるようにも見え、戦後の建築かもしれない。


東京共成社の並び。神田小川町2-6。1985(昭和60)年10月

靖国通りから北へ、日大理工学部の前を通ってJRお茶の水駅の方へ上がっていく通りがある。「お茶の水仲通り」という愛称がついたらしい。写真は靖国通りから入ってすぐのところ。大協石油駿河台給油所ごしに、左から、東京共成社(ビニール艶出し加工)、山内商店、丸十(パン)、姑娘菜館、名古屋きしめん。


東京共成社。1988(昭和63)年6月5日

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玉屋、キッチンあけぼの。神田小川町1-7。1987(昭和62)年1月1日

本郷通りに面している。左に行くとすぐ靖国通りとの小川町交差点になる。洋風のかわいい看板建築が並んでいて、形はわりと似ているのに、黒と白、水平線と垂直線の飾り、と張り合っているようにも見える。まだ現存しているかもしれない。
通りを右(南)へ行くとすぐ美土代町のYMCAがある。明治時代にはここ小川町1丁目の南部は美土代町4丁目だ。


及川かばん店・日光電波。神田小川町1-1。1988(昭和63)年1月15日

靖国通りから南に入る横丁の角にあった。大通り沿いにあったから見ている人も多いと思う。
現在は「日光ビル」になっているから、日光電波が建てたものだろうか。

及川かばん店・日光電波
1985(昭和60)年7月21日

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墨田区役所第一庁舎。墨田区横網1-6。1988(昭和63)年4月10日

左:北側の玄関。1988(昭和63)年10月30日
右:北側にある別館との間を奥に入ると塔屋が見える。1986(昭和63)年4月10日


南に隣接する日大第一高校から撮影。1988(昭和63)年10月30日
区役所の塔屋と東京都慰霊堂の三重塔の先端が重なってしまった。


墨田区役所別館。横網1-7。1989(平成1)年10月29日
第一庁舎の北側にあった。このビルはたぶん本所郵便局として建てられたものだと思う。ちょっと調べれば分かるのだろうが、どうもめんどくさい。
正面の交差点の信号機には「墨田区役所」の表示があるが、今はどう変わったのだろう?

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墨田区役所。墨田区横網1-6。1989(平成1)年10月29日


墨田区役所。1988(昭和63)年4月10日

昭和22年に本所区と向島区が合併して墨田区が成立したとき、区は昭和5年4月竣工の旧本所区役所を墨田区役所第一庁舎として使い続けた。
清澄通りに面した表面から見ると、水平線の強調とアーチ窓の連続が気持ちいい。アーチからの連想でロマネスク系かと考えないでもないが、入口の上のバルコニーや建物の角にアールを付けたところは検見川送信所が思い浮かんでしまう。




南に隣接する日大第一高校からの撮影。1988(昭和63)年10月30日

南側の角
1986(昭和61)年7月6日

映画「男はつらいよ」シリーズにこの区役所が出てくる作品があった。冨田均著『東京映画名所図鑑』(1992年、平凡社)を見ると、『噂の寅次郎』という1978年の作品で、大原麗子が離婚届を出しに行く区役所だという。余談だがこのシリーズでいちばん笑えるのは「おばちゃん」のせりふだろうか。同シリーズには浅草の国際劇場と神田一ツ橋の岩波書店が出てくる作品があった。

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大東信用金庫本店
墨田区両国4-31
1990(平成2)年3月25日

前の通りは京葉通り。現在は東京東信用金庫の両国本部のビルに変わった。
京葉道路と清澄通りが合わさる緑1交差点を中心に、二つの大通り沿いに銀行が集中していた。緑1丁目と両国4丁目には昭和60年の地図では、太陽神戸、富士、中央信金、三菱、協和、第一勧銀、三和が見つかる。ぼくにはこれらの名前のほうが分かりやすい。

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内職補導所。江東区門前仲町1-19。1992(平成4)年3月20日

撮影時は「江東区内職公共職業補導所」、1997(平成9年)から「第三あすなろ作業所」という障害者通所施設になっている。
知らないと分かりづらい場所かもしれない。永代通り、葛西橋通り、それに清澄通りで囲まれた中にある。まだ現存するから、江東区では貴重な昭和初期の建物でもあり、なんとか使い続けて欲しい。


内職補導所。1992(平成4)年3月20日

以下、『東京建築回顧録Ⅲ』(読売新聞社編、1991年読売新聞社刊)の内容をまとめてみる。
昭和6年に建てられた建物を東京市が買収し、翌7年に民生食堂「東京市深川食堂」を開設する。昭和恐慌で疲弊した市民の救済策である。昭和13年に「東京市深川栄養食配給所」、19年に「都民食堂」と名を変えて、戦後まで低所得者向けの食堂としてにぎわったという。
昭和23年に「亀戸公共職業安定所深川分室」と転換する。32年に「都内職公共職業補導所」、36年に「都江東内職公共職業補導所」、54年に「江東区内職補導所」と、管轄や業務内容が変わっている。
平成元年に壁の塗り替えや窓枠の入れ替えなどの改修をして「若竹福祉作業所」となった。


第三あすなろ作業所。2003(平成15)年1月25日

階段室の窓と6個の円の装飾(窓だったかもしれない)はチョーモダンで、建った時は近所の深川の住人を驚かせたことだろ。昭和40年代の建築といっても通りそうだ。玄関のある正面を見ると、どうにか戦前の建物という感じがする。

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田島病院。墨田区両国2-19。1991(平成2)年5月2日

両国駅西口のすぐ南にあった。写真左が総武線の高架(バスの後ろに上部だけ写っている)で、前の道路を左に行きガードを潜ると右に両国駅のクラシックな駅舎、続いて両国国技館だ。
田島病院の開院は1929(昭和4)年だから、このビルを病院として建てて開業したものだろう。
現在は建て変わって「ザ・ホテルベルグランデ」というホテルになり、病院はホテルの裏に移った。写真では看板が外され、入口の看板もないから、すでに移転済みである。


田島病院。1986(昭和61)年9月7日

建物の平面はL字形で、左写真の後方で東側に曲がっている。
右写真の入口の左上に赤ランプが取付けられている。古い個人医院にたまに見られるのだが、病院・医院の、あるいは救急指定の目印だったのではないかと考えている。


追記(2011.04.19)

田島病院の裏側。1992(平成4)年4月29日

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