ぼくの近代建築コレクション
東京の都心と下町を中心に、戦前に建てられた古い建物の写真を投稿していきます。
 




稲荷町駅出入り口。台東区東上野3-33。1986(昭和61)年頃の

東京地下鉄道の上野-浅草間の地下鉄工事は関東大震災から2年後の1925年9月27日に着工された。オープンカット工法で深度1.5メートルの路下式で、開通したのは1927(昭和2)年12月30日。道路の下に溝を掘って蓋をしたようなものだ。写真の出入り口は開業時に造られたもの。戦前の地下鉄駅出入り口は駅ごとにデザインを変えたようだ。
浅草通り南側の渋谷行きの2基と北側にある浅草行きとではデザインが少し異なる。浅草行きのほうの階段降り口上部は階段状の飾りがない。また、降り口の反対側に丸窓があるが、渋谷行きのほうは壁もない。改装されているのだろうか。
写真左のビルは元浅草2丁目の永寿総合病院。



森山商店。東上野3-33。1987(昭和63)年5月1日

稲荷町駅出入り口のある稲荷町交差点から上野寄りに1本目の横丁。
角の森山商店の取扱商品は看板に「染料・塗料・和物」とあるが、「ばしょう」は何だろう? 窓の上の羽のような看板は芭蕉(バナナ)の葉ということになるから、商品とすれば沖縄の芭蕉布かもしれない。


渡辺商事。東上野3-33。1988(昭和63)年5月1日

森山商店の写真の右端に写っている。道路の角に建っているのでわりと目立つ建物だ。日本伝統の出桁造りを元に、1階の軒を省略してベランダを置いてしまい、防火のため銅板を貼ったという造りだ。

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大倉商事ビル。中央区銀座2-3。左:1997(平成9)年4月13日、右:1987(昭和62)年3月15日

並木通りに面して建っていた。横長の窓などの外観は銀座7丁目の電通ビルに似ている。昭和10年代の建築ではないかと思う。大倉商事が入居したのがいつのことか分からないが、それ以前の「中島ビル」といった頃は「富士フイルムKK」が入っていた。
北隣の並木座の入る三木ビルは昭和11年12月竣工の古いビルだが、6・7階が増築され、階段室の窓はつぶされて竣工時の面影はほとんどない。『震災復興〈大銀座〉の街並みから―清水組写真資料』(銀座文化史学会編、平成7年刊)の昭和12年11月撮影の三木ビルの写真では大倉商事ビルはまだ建っていない。


左:大倉商事ビル南側。1986(昭和61)年9月7日。右:裏側。1987(昭和62)年5月31日

「ウィキペディア」によると、大倉商事は大倉喜八郎によって1873年に大倉組商会の名で設立された。戦後の財閥解体により総合商社の大倉商事として再出発したようだが、1998年8月に自己破産を申請して倒産した。
この場所は「萬朝報」の本社があった場所だ。やはり「ウィキペディア」によると、黒岩涙香道が1892(明治25)年に創刊した新聞で、当時は京橋区弓町。1900年には発行部数が東京の新聞中でトップになる。1940(昭和15)年10月、東京毎夕新聞に吸収された。

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谷川煙草店。中央区日本橋人形町1-8。1987(昭和62)年3月8日
人形町通りの西の裏通り。写真右奥へいくと玉ひでの角に出る。



清水湯。日本橋人形町1-8。1987(昭和62)年6月7日

洋風の外観の銭湯は都内では珍しい。一度だけ見学がてら入ったことがあるが、中の様子などは忘れてしまった。『東京路上細見2』(林順信著、平凡社1987年刊)には「洗い場に入ると、吹き抜け部分が八角形の塔になっていて、扇形の緑色のガラスとともに、不思議な空間をつくり出している。頭上の塔の窓からは、隣接する高層ビルがのぞく。」とある。


清水湯
1985(昭和60)年1月

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左:中島米店。中央区日本橋人形町1-16。1990(平成2)年2月4日
右:鴻生館(旅館)。日本橋人形町1-16。1985(昭和60)年1月

中島米店の屋号は下総屋。戦前から続いている米屋のようだ。
米屋にプラッシーは付物だったが現在は店頭に自販機は置いていない。「ウィキペディア」を読んでみると、プラッシーは武田食品(現ハウスウェネスフーズ)の商品だった。ハウスウェネスフーズはハウス食品の関連会社だが、武田食品は武田薬品の子会社だった。一般には「タケダ・フード」と呼ばれていたという。
鴻生館は看板はそのままだが旅館は廃業したらしく、現在は建築関係の出先事務所のようである。戦前の地図では「福興館」とう名前になっている。玄関周りの和風の造りを見ていると、旅館以外のなにものでもない、という気になってくる。


1983(昭和58)年3月

鴻生館と中島米店は隣どおし。人形町通りの西の裏通りにある。写真右の鮒忠は建物正面がテントの看板で隠されているが建物の角から洋風模様のレリーフが覗ける。3軒とも健在。

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旧千代田古書店。中央区日本橋人形町1-11。1985(昭和60)年10月10日

まつむらパンの斜め向かい。角の家はいまだに残っている。いつ頃まで営業していたか知らないが、以前は千代田古書店だった。もう30年以上前になるが、SFマガジンのバックナンバーをよくここで買っていた。結局いまだにあまり読んでないのだが。
隣は「澤井家政婦紹介所」。





左:オギハラ美容院とフジサワ理髪店。日本橋人形町1-11。1986(昭和61)年9月7日
右:高柳豆腐店(写真左)。日本橋人形町1-8。1987(昭和62)年4月29日

フジサワ理髪店は当ブログ前回の東京木坂の向かい。
高柳豆腐店は千代田古書店の1本北の横丁。隣のモルタル塗りの家は建て変わっているが高柳豆腐店は建物とも健在。

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まつむらパン店。中央区日本橋人形町1-12。1987(昭和62)年6月

左右の道路は人形町通りの西の裏通り、奥へ行く道路は新大橋通りの北の裏通り。現在、高層マンションを建築中のブロックである。角の家はテントに「サンドイッチパーラーまつむら」の字を入れているが店舗は向かいのビルだ。隣(写真右)のビルもまつむらのものらしい。
昭和30年代と古い話になるが、もうとっくに廃校になっている区立有馬中学では弁当を持っていかないとパンを買うのだが、その業者がまつむらだった。食パンにひき肉のペーストを塗った「肉」をよく頼んだ。
浅田肉店は二階が浅田軒ですき焼きなどを出した。写真奥には東京木坂、小島酒店などの看板が認められる。



北村商店。日本橋人形町1-13。1987(昭和62)年2月1日

新大橋通りの富士銀行蛎殻町支店があった交差点の富士銀行の斜め向かい。



るぴなす(喫茶店)。日本橋人形町1-12。1987(昭和62)年4月29日

北村商店の写真の左奥に写っている建物。右の山崎ふとん店との間の路地を奥へいくと茶の木神社がある。日本橋七福神の一つになっているので正月には賑わう。高層マンションになってこの路地は消滅した。


東京木坂
日本橋人形町1-12
1986(昭和61)年10月21日

他にはあまり見かけないデザインの建物で、洋風と和風がごっちゃになったような感じだが銅板ワークはかなりのもの。袖看板も銅版貼りの板に金文字を貼ったこったものだ。文字は「西陣帯地問屋/株式会社東京木坂」。マンションの建設が始まるまで残っていたが、別の店になって真っ白に塗られてしまっていた。

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三原堂。中央区日本橋人形町1-14。1983(昭和58)年5月

水天宮交差点の人形町1丁目方面。水天宮境内から撮った写真の遠景に写っていたものをトリミングしたものなので、前に街灯などが入り込んで邪魔になっている。三原堂の写真左には「だるま」という銅版貼りの建物の料理屋があったが写真では取り壊されている。
ビルの右は3階建ての建物が2軒並んでいるように見えるが、表側が改装されているだけで同じビルである。その左の方の店は「なかや」というみつまめ屋で、店名を知らずに「ふくふく饅頭」といっていたが、そこのアイス最中が懐かしい。
三原堂のビルは1987(昭和62)年には建て変わって「三原堂本店ビル」が竣工している。



福寿酒造、巴屋、松竹庵。日本橋人形町1-14。1983(昭和58)年10月

人形町通りの三原堂ビルに続く商店。『日本橋にんぎょうちょう』(人形町商店街協同組合篇、昭和51年刊)の付録の『人形町々並細見図』では、写真の建物が建った時と思われる大正15年では「ネル・セルいづみや、巴屋煙草店、松島屋食料品店」。巴屋は明治33年の地図から出ている。
昭和30年頃の火保図では、ビルに「三原堂菓子店、木島糸店、越前屋KK」続いて「伊藤靴店、巴屋タバコ、クツ店」。
巴屋の2階上のアーチの飾りの内側の英字は「CIGARS CIGARETTES」。

追記(2007.07.14)
三原堂と三原堂喫茶部の昭和4・5年のマッチラベル。
人形町の古川商店(ハンドバッグ)の古川茂氏からお借りしてコピーしたもの。

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鈴友株式会社。台東区台東2-32。1985(昭和60)年10月27日

前の通りは前回の記事にある「徒竹町大通」。
前から見ると総3階建てに見えるが、横には3階の窓がないのでどうだろう。3階にあたる壁は瓦屋根を隠しているだけかもしれない。



鈴友・横面。1988(昭和63)年12月31日
中央2階に引っ込んだベランダがある。その下の車庫はたぶん玄関だったのだろう。


鈴友・ベランダ
1988(昭和63)年頃

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中村屋フードショップ。台東区台東2-32。1989(平成1)年2月21日

通りの角に面した商店長屋。中村屋お献立センターの右は替栄(サンエイ)菓子店で、看板の文字は「雪印アイスクリーム/パン・菓子他 替栄」。その右は廃業したようだが住宅地図では「お徳」。
人文社発行、地形社編『昭和十六年大東京三十五区内』が台東区>台東区の明治大正昭和で見られる。その地図では写真右へ行く通りは「徒竹町大通」となっている。当時の町名は竹町で右へ行けば御徒町に入る。左に行けば清洲橋通りの佐竹通り南口交差点に出る。地図の解説文によると、写真右へ少しいった右側に「新東京」という映画館があって昭和48年頃まで営業していたという。住宅地図では「新東京ビル」となっている。



新星出版社。台東2-24。1988(昭和63)年頃

現在の新星出版社は台東4丁目にあるから、写真のビルは旧本社だろうか。あるいは本社とは別の事業所だったかもしれない。
スクラッチタイル張りのようだから戦前の建築だと思うのだが、玄関の造りがすこし見劣りするようで、決めがたい。
「謎だ!OHara」氏から寄せられた情報によると、「菓子会館」だった建物で、その後「金明」という衣料品店が入っていたこともあるという。

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NTT東京市外電話局。千代田区大手町2-2。1985(昭和60)年11月4日

日本電信電話公社が民営化されたのは1985(昭和60)年4月1日。普通は電電公社といわれ、民営化後は日本電信電話株式会社になってNTTといわれるようになったのかと思ったら、NTTの英字略語は公社のときから使われていたという。
昭和55年発行の道路地図では「丸の内電話局」で、「大手町電話局」というのが逓信総合博物館の北にある。
電話局の建物は2棟がくっついて上の写真は南棟(ぼくのかってな命名)で、「ヒ」の字型の平面をしている。歴史的建築総目録DBによると「名称:丸の内電話局、竣工:大正12年、設計:逓信省」。そうすると完成直後に関東大震災に見舞われたのだろうか。



NTT東京市外電話局。1986(昭和61)年6月1日

歴史的建築総目録DB によると「旧名称:中央電話局、竣工:昭和2年、設計:逓信省(中山広吉)、施工:大林組」。
建築史で有名な山田守設計の東京電信電話局はNTT東京市外電話局の東側にあった。1925(大正14)年9月の竣工だが取り壊されたのは1969(昭和44)年で、異常に早いように思える。構造的な欠陥でもあったのだろうか。この建物だけは実物を見たかった。



NTT東京市外電話局・北側。1986(昭和61)年6月1日

前の道路は左へ行くとJRの高架をくぐって常盤橋へ通じる。
現在は「アーバネット大手町ビル」となって、入り口前の広場に「東京市外電話局誕生の地」碑がある。NTT東日本>エリア情報>電話ゆかりの地に「明治23年(1890年)12月16日辰の口に東京電話交換局が開設され、明治25年7月7日に大手町に移転しました。東京市外電話局、東京電話番号案内局として日本の電話交換業務の中心的役割を果たしました。(昭和62年8月建物再開発にともない、輝かしい歴史の幕を閉じました...)」という説明文がある。

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