ぼくの近代建築コレクション
東京の都心と下町を中心に、戦前に建てられた古い建物の写真を投稿していきます。
 




中山商店。中央区日本橋箱崎町20。1990(平成2)年(月日不明)

日本橋箱崎町を東西に通っている「箱崎湊橋通り」(平成4年度制定)。写真右へ行くと湊橋。建物は左から、巴屋そば店、とんかつ立樹の跡の駐車場、伊藤、中山商店のビル。日本橋三ツ矢ビル(三ツ矢ハイヤー、裏は旧日本橋高校)。現在は写っている建物は全て建替えられている。
巴屋は2014年に廃業した。2020年頃に建物もなくなり駐車場になっている。昭和11年の火保図に「ソバヤ」となっているので、戦前からのそば屋だったのかもしれない。「中山商店」の4階建のビルは昭和30年頃の火保図にはないからそれ以降の建築。現在は「ITOビル(伊藤ビル)」(1993年築)という8階建てのオフィスビルに替わっている。日本橋三ツ矢ビルは2020年に取り壊されて「BIASTA日本橋箱崎」(2021年2月築、8階建)というオフィスビルが建った。

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大和田本店。中央区日本橋人形町2-7。2004(平成16)年10月25日

人形町通りの人形町交差点の裏手にあったうなぎの「大和田本店」。2012年2月で閉店した。店主の健康上の問題という(『まさひろ瓦版>「大和田本店」が閉店』)。老舗のうなぎ屋なのに割と安価ということで繁盛していたようだ。その後、建物を修復、改装して「やきとん居酒屋 筑前屋人形町総本店」が2012年5月に開店した。

大和田本店の開業がいつなのか、また大和田といううなぎ屋は全国にあるようだがどういう関係になるのかは知らない。人形町の店が「本店」と名乗っていいのだろうか、とも思ってしまう。
建物は戦前築のようには見えない。周囲は空襲での焼失を免れた地区だが、戦後まもなく建てられたものかと思っていた。『 FOOD STADIUM>ニューオープン』に「(元のうなぎ店が)築80年が経過しており」とあり、それだと1932(昭和7)年頃の建築になる。昭和8年の火保図(当時の住所は浪花町8)では「スシヤ」だが、大和田の建物がその地図のものか微妙な時点だ。
昭和25年の「人形町全町詳細図」に広告を出していて、それには「大和田本店 人形町店のうなぎと新日本料理 人形町八百浅横丁電…」。八百浅は人形町通りにあった。

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ラビット、寿司幸。中央区日本橋人形町1-12。2003(平成15)年2月15日

新大橋通りの水天宮交差点あたりが、東西に通っているとすると、その北側の裏通り。「リガーレ日本橋人形町」という39階地下2階335戸の高層マンションが2007年10月に建ったが、それに建て替わる前の街並みである。
当ブログ「北村商店、他/人形町1丁目(2007.01.22)」で、同じ街区を人形町通りに近い方から西を見た写真を掲載してある。その記事の1枚目写真の奥から撮ったのが今回の写真。上左の写真では、旧記事の「東京木坂」が「介護ショップ・ラビット」に替わっている。その左に「炉ばた焼き・ふじ」。上右写真は下写真の右に続く「寿司幸」と1980年頃では「小野自動車」となっている建物。たぶん魚久(うおきゅう)からの三軒長屋と思われる。



沢田酒店。日本橋人形町1-12。2003(平成15)年2月15日

ラビットから寿司幸までの家並み。ラビットの右から「東京織物小売協同組合、沢田酒店、魚久、寿司幸」。沢田酒店は「小島屋」が屋号らしく、写真の袖看板は「小嶋屋 沢田商店」となっているようだ。昭和30年頃の火保図に「小島屋S(Shop、商店)」で載っている。当時の住所は蛎殻町2-5。

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左:茶ノ木神社。中央区日本橋人形町1-12。1983(昭和58)年3月
右:ほうらく。日本橋人形町1-13。1984(昭和59)年?
 
当ブログ前回の新大橋通りの家並みの裏に路地が通っていた。「リガーレ日本橋人形町」(39階地下2階335戸、2007年10月築)に飲み込まれて消滅した。その路地の東端に近い辺りに茶ノ木神社があった。今はリガーレ日本橋人形町の敷地、元の場所の近くに移築されている。
社は地下鉄日比谷線の工事で取り壊され、工事終了後に再建されたもの。昭和37・38年頃と思われる。
 
居酒屋の「ほうらく」は水天宮交差点から1本西の横丁を北へ入ったところにあった。ほうらくの左は新大橋通りとの角にあった「マルマン靴店」。ほうらくの右は「木村ビル」で、茶ノ木神社のあった路地との角にあった。建築計画の告知板が出ているが、「藤和日本橋人形町コープ」というマンション(12階建70戸)が1986年1月に完成している。


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蘇州、リラ。中央区日本橋人形町1-13。1987(昭和62)年(月日不明)

写真の通りは新大橋通りで、右へ行くとすぐ水天宮交差点。この辺りは戦災の被害を免れていて、写っている2階建の店舗の中には戦前から建っているものもあるかもしれないが、それと分る特徴がみえない。右のビルは「藤和日本橋人形町コープ」というマンションで1986年1月築、12階建70戸。そのマンションの左から写真左枠外の交差点までが、現在はマンションに替わった。「リガーレ日本橋人形町」という39階地下2階335戸の高層マンションで、2007年10月築。
写っている店は、1986(昭和61)年の住宅地図を参照すると、左から「東京事務用品」(美容室の看板の文字が読める)、居酒屋の「あつみ屋」、中華料理「蘇州」、喫茶「リラ」、「理髪一番」、「橋本印舗」、蕎麦の「松屋」、中華料理「台華菜館」、その2階に「バーバー日本橋」。昭和30年頃の火保図に、「橋本印舗」と「台華(中華)」が載っている。当時の住所は蛎殻町2-1で、新大橋通りを都電が走っていた。

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志乃多寿司総本店。中央区日本橋人形町2ー10
1985(昭和60)年8月4日

甘酒横丁の人形町通りに近いほうにある「人形町志乃多寿司」の旧ビル。ビルの前にいろいろと邪魔なものが映り込んでいてビルの詳細がよく分らないが、旧ビルを撮った写真はこの1枚しかなくて、けっこう珍しい写真かもしれない。
志乃多寿司総本店は1877(明治10)年創業という老舗。いなり寿司・のり巻きが主力の大阪寿司の店だ。ここからのれん分けされたのが「神田志乃多寿司」「四谷志乃多寿司」「浅草志乃多寿司」。
現在のビルは「メインステージ日本橋人形町」(2000年9月築、12階建49戸)というマンション。写真右は「井上美容室」で、現在も写真の建物で営業中。「パーマ」の看板は今はない。

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岩井つづら店。中央区日本橋人形町2-10
上:2010年10月19日、左:1985(昭和60)年8月3日

岩井つづら店は甘酒横丁と人形町通りの裏通りとの角にある。テレビの人形町を散歩する番組でよく登場する。地下鉄人形町駅から明治座への往復で甘酒横丁を通る人は多いから、小さな店ながら目にした人は多いと思う。最近(2014年)、写真の建物が建て替わって3階建のビルになったので、旧店舗を記録しておく。
この周辺は空襲から免れているが、つづら店の建物は戦後のものと見当が付く。1947(昭和22)年の航空写真を見ると、甘酒横丁の北側が一列に白っぽく写っている。どうも、建物疎開で甘酒横丁が広げられて、戦後にまた建てられた家が写っていると思われる。

『東京路上細見2』(林順信著、平凡社、1987年、1900円)から岩井つづら店を記述した箇所を紹介する。

 角の「岩井つづら店」。ここのようにすべて手作業でつづらをつくる店は東京全体でも2、3軒のこるだけという。つづらは、竹で組んだかごに和紙を貼り、漆で上塗りをし、家紋を入れる。軽くて通気性のあるつづらであるが、庶民のものであった柳行李(やなぎごうり)と比べると高級品であり、昔は歌舞伎などの役者の衣装入れに用いられた。今では5000円ほどの小箱が、ネクタイ入れ用に結婚祝いとして贈られることもあるとか。店の中には黒と赤のつづらが天井まで積み上げられ、和紙を貼ったかごは店先の歩道で乾かされている。4代目の当主、奥さん、息子さんが、ここで和紙貼り以降の作業をする。竹の目をきれいに出すように和紙を貼るのがポイントで、漆塗りにほこりは大敵と岩井さんは言う。アンティーク好きの若い人や外国人の注文や、全国からの注文があって、手に入れるには半年待たねばならないそうだ。



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松島神社
中央区日本橋人形町2-15。1986(昭和61)年4月13日

写真の通りは「大門通り」で、新大橋通りから北へ入ってすぐのところ。玉垣が写っているだけで、建物の様子はさっぱり分らない。桜が咲いていたから撮ったのだろう。それでもビルに変わる前の様子の写真は珍しいだろうから掲載してみた。
現在は「松島ビル」(1994年築、11階建)の1階に収まっている。
この辺りの住所は大震災前は「松島町」といった。松島神社にちなむ町名で、1713(正徳3)年の起立。1933(昭和8)年2月に「蛎殻町4丁目(大門通り東側)、人形町1丁目」に、1976(昭和51)年1月に「日本橋人形町2丁目」に変更された。
中央区立図書館>地域資料室』で、「松島神社」を画像データ検索すると、1981(昭和56)年撮影の拝殿と社務所を収めた貴重な写真が見られる。

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問屋橋交番、黒川商店。中央区日本橋久松町3。2004(平成16)年2月7日

浜町川は1950(昭和25)年には神田川の合流点から小川橋(金座通り、久松警察署のところ)まで埋め立てられ、露天商の換地になって小さな家が建ち並んだ。『東京戦後地図 ヤミ市跡を歩く』(藤木TDC著、実業之日本社、2016年、2640円)の記述は当ブログ前回の『問屋橋商店街』で紹介したが、そこの「蛎殻町グループ」というのは新大橋通り沿いに出店していた露天商を指すのではないかと思う。千代田区側の埋立て地は○○会館と言った集合建築が建ったのに対して、中央区側では、通り(西通り)側と、その裏側(浜町川西際)との2列に個々に家が建っていった。裏側の路地の商店は「問屋橋商店街」を形成したが、最近になってマンションなどに建て替わってきて、商店街の実態はすでになくなった。
写真は問屋橋商店街の問屋橋から栄橋の間。



左:夢幻の月、2011(平成23)年3月25日
右:上田印房、グーグル地図ストリートビュー(2010年1月)より

左写真手前の家は黒川商店との2軒長屋だったのを、黒川商店を取り壊して駐車場にしていた。「夢幻の月」の看板を出しているのは菓子店だろうか。小豆色の日よけに「夢幻の月」の字を入れているからそれが店名だったらしい。奥のサッポロビールの看板は「家庭料理 者那」。「はな」と読む。
栄橋側の角は「上田印房」。昭和30年頃の火保図に載っている。埋立て地に家を立てて以来2010年までは変わらない外観を保ってきたと思われる。
2021年になって、日本橋久松町3にあった建物は交番を除いて取り壊された。12階建マンションの建築計画告知板が出ている。

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松月堂パン店。中央区東日本橋3-1。左:2011(平成23)年3月25日、右:2016(平成28)年4月23日

写真の路地は浜町川を埋め立てた跡で、千鳥橋と問屋橋の間になる。写真のように小さな飲食店が立ち並んでいたが、路地の東側が2016年にまとめて取り壊され、西通りの小さなビルなどと共に「パークホームズ日本橋橘町」(2020年10月築、13階建80戸)というマンションに建て替わった。「橘町」は現在の東日本橋3丁目の旧町名で、1971(昭和46)年に現行住居表示になった。
上左写真で「おひげ寿司」があるのは日本橋富沢町になる。同写真で松月堂は店頭にテーブルを出して弁当を売っている。右写真で松月堂の看板の右が居酒屋の「ふる里」。




パリドール、寿司留。東日本橋3-1
左:2011(平成23)年3月25日
右・下:2016(平成28)年4月23日

1枚目写真の奥へ移動して撮った写真。左写真の手前の店は、ガラスドアに「自家焙煎珈琲工房/カフェ・パリドール」の張り紙がある。寿司留の右は「おとうふ」の幟を出している。「栃屋」という豆腐屋らしい。昭和30年頃の火保図に「留すし|豆腐」の記載があるから建物を建てて以来、変わらずに続いてきた2軒なのだろう。

写真の路地は南へ、久松小学校の通りへ出るまで続いていて「問屋橋商店街」というそうだが、今はすでに消滅したといっていい。『東京戦後地図 ヤミ市跡を歩く』(藤木TDC著、実業之日本社、2016年、2640円)には、「(浜町川の埋立て地の)中央区側では人形町から水天宮交差点にかけて並んでいた露店業者が別の蛎殻町グループと合同で橘町、久松町にかけて94店が入居する長い連鎖式マーケットを建設、「問屋橋商店街」と命名して営業した。……」とある。

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