ぼくの近代建築コレクション
東京の都心と下町を中心に、戦前に建てられた古い建物の写真を投稿していきます。
 




美加和家、美容院トミタ。静岡県伊東市松川町。2006(平成18)年11月24日

キネマ通りの中ほどを中央商店街の通りが直交している。蓋式のアーケード街の中央商店街の通りを南西に抜けたところに写真の建物がある。
看板建築の二軒長屋に見える建物。屋根の庇が壁面より前へ出ていて看板建築とは言い難いが、二階の壁はトタンか何かで石積み風に模様を入れて、銅版風に緑色に塗っている。トミタ美容院の入口周りの造作が見もので、タイル張りの円柱を置き、バルコニー風の局面の看板、タイル張りの床や腰壁と、昭和30年代の様式を伝えている。
2015年5月に行ったときには外の鉢植えが置き場の棚ごとなくなっていた。


ピンク座。伊東市松川町
2015(平成27)年5月29日

トミタから県道12号(修善寺街道)へ出る手前にあるストリップ劇場。建物は木造二階建てのアパートである。
温泉街にはその構成要素としてストリップ劇場が必要だった。とは言っても、社員の慰安旅行で宴会の後に温泉街に繰り出す、という風習も絶えてしまった。今、鑑賞した後はわびしくなるのでは、と危惧しつつ自分の財布から金を出して入場する人は、文化・風習を絶やしたくないという殊勝な人なのだと思う。

コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )





田代果物店。静岡県伊東市中央町。2006(平成18)年11月25日

通りに「猪戸通商店街」のゲートがかかっている。いちょう通りの交差点から南へ、寺田川の温泉橋まで、猪戸1・2丁目の東に沿った通りである。写真は、湯の花通り-キネマ通りと宵町通りの間。
「猪戸(ししど)」のシンボルが猪(いのしし)ということらしく、街灯には丸の中に猪が描かれた模様がある。猪戸通りの北の入口に当たるスルガ銀行の駐車場には猪の銅像があり、猪戸通りの由来を書いたプレートが台座についている。また、南の入口である温泉橋の親柱には猪の飾り物が乗っている。
現在はゲートが取り外され、街灯まで別のものに取り換えられた。




上:杉本商店。伊東市中央町
2006(平成18)年11月24日
左:スナックM。2015(平成27)年1月19日

杉本商店は1枚目写真のゲートの後ろに写っている。間口の大きい立派な出桁造りの商家で、看板に「創業大正八年」とあるから、畳屋を開業してそろそろ100年を迎えるという老舗。
シネマ通りの南に「宵町通り」という横町があって飲み屋街になっている。写真のスナックは宵町通りのさらに1本南の路地にあるが、同じ飲み屋街の1軒といっていい。

コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )






アマノ理容室。神田小川町1-11
2007(平成19)年1月4日

靖国通りの南の裏通りが外堀通りに出るあたりに割と最近まであった銅板貼り、洋瓦のマンサード屋根の3階をもつ看板建築。『日本近代建築総覧』に「天野理容店、建築年=昭和3年、構造=木造」と出ている。
『看板建築』(藤森照信・増田彰久、三省堂、1988年、1500円)に家の間取りが載っている。建坪は10坪。1階は床屋の椅子が4脚の店。2階は6畳と4畳半の居間、3階は6畳の居間の後ろに4畳くらいの板の間。1階の店を人に貸して老夫婦二人で余生を暮らすには適当、といった感じだが、ここに一時は家族5人と職人2人が暮らしたらしい。下町で商売する人の環境は多くがそんなものだったのだろう。
都市徘徊blog>天野理容室(2007.11.22)』では、ドアの脇に貼られた閉店の挨拶を記録している。「…ビル建設のため(2007年)十月三十一日をもって…」。現在は「ローレルアイ千代田淡路町」(2010年12月築、19階建)というマンションが建った。

コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )





林文具店。千代田区神田小川町1-9。1989(平成1)年11月12日

靖国通りの1本南の裏通りが写真左の通りで、写真右へいく通りは靖国通りへ出る横町。林商店は今も健在で、「たばこ・洋品雑貨」の看板をあげている。ほとんどタバコ屋と言っていいようだ。その右の2軒(喫茶店einとテキスタイルの日装株式会社)は取り壊されて3台分の時間貸し駐車場になっている。
写真の3軒は、古い航空写真で見ると戦前築の1棟の家のようである。林商店の外観は戦前の建築のようには見えず、戦後の改装によるものかと思う。



左:ティールーム・フレール、神田小川町1-7。右:琴菊、神田小川町1-9。2007(平成19)年1月4日

靖国通りの小川町交差点のそばの路地裏。フレールの建物は健在で、今は「リサイクルショップりめいん」という店に替わり、家の壁は黄色に塗りなおされている。
琴菊はフレールとは同じ四つ角に向かい合っていた。和食の飲食店だったような外観だが、写真からは営業していないようだ。現在は取り壊されて駐車場に。

コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )





木屋。千代田区神田小川町1-8。1987(昭和62)年9月13日

本郷通りの小川町交差点のすぐ北を東へ入ったところ。銅版張りの看板建築とモルタル塗の看板建築が並んでいる。店は左から、麻雀荘の木屋、桜鍋などの近江食堂、そして本郷通りとの角が深見酒店
木屋の建物は今も健在である。昭和25年頃の火保図に載っている。日大、中大の学生相手に開店したのだろうか。今は袖看板を外し、玄関わきに置かれた看板も出ていないので営業していないのかもしれない。しかし、ドアの「麻雀Kiya」の文字ははっきりしているし、外の鉢植えも手入れがされている。
近江と深見酒店は同じ1棟の建物に見える。現在は「神田小川町東誠ビル」(1991年2月築、11階建)。

コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )





日英商会。千代田区神田小川町2-1。1988(昭和63)年1月15日

靖国通りと本郷通りが交わる小川町交差点の西南の角。写真中央に日英商会ビル、その左に刃物と砥石の菊一文字東京支店、日英商会ビルの右に清雅堂印章店、田沢時計店、伊東歯科医院である。昭和25年頃の火保図では、「赤羽電気店、日米商会/写真、かめや(食堂?)、神沢、田沢時計店、伊東歯科」で、写真の日米商会、清雅堂、田沢時計店、伊東歯科がすでに載っている。
菊一文字はいつのまにか4階建てのビルに建て替わっていたが、2011年1月末で閉店して、現在は寛永堂という京都の和菓子の老舗の小川町店になっている。日米商会ビルは写真ではすでに解体に向けた工事に入っているようだ。9階建ての現在のビルが竣工したのは1989年6月。その右の3軒は今も建物はそのままで、清雅堂、松屋、上等カレー。
日米商会はネット検索で『内桶功一さんの神田の思い出談義(その4)2012.3.2』というサイトが見つかった。それによると、「カメラの日米商会」は、戦前は京橋に本店があつた三栄堂カメラの小川町店。戦後は都心の占領軍施設に近く、米軍からのDPEの客の方が多かったので日米商会を名乗る。やがて日本にはない特殊なフィルム・印画紙などを輸入して、大学や官庁に収めるようになる。特に近くの東京電機大学には頻繁に出入りしたという。現在はビルの運営が主な業務のようだ。

コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )





タムラ帽子店。千代田区神田小川町3-3。1987(昭和62)年1月1日

靖国通りの駿河台下交差点のすぐそばの昭和末の家並み。建物は左から、どうにんしゃパン店、ミカワヤ帽子店(千代田ビル)、竹見屋(画廊・額縁)、タムラ帽子店、崇文荘書店。
現在は写真両端のビルは変わらないが、その間の4棟が「神田小川町トーセイビルⅡ」(2008年4月竣工、9階建)に替わった。
タムラ帽子店は『日本近代建築総覧』に「タムラ帽子店、建築年=大正14年、設計・施工=竹内(大工)」で載っている。
『看板建築』(藤森照信・増田彰久、三省堂、1988年、1500円)に家の間取りが載っている。間口は2.25間だが奥行きは10間と深い。1階は前の半分が店舗、奥に台所や便所、2階は和室が3部屋、3階は前半分が倉庫らしい。著者は店の「ジイさん」から聞いた、家を建てる際に3階建ての図面を警視庁に持っていくと、3階建ては許可できないからマンサール屋根にしろ、と助言された話を書いている。
都市徘徊blog>神田小川町 タムラ帽子店(2006.01.18)』によると、タムラ帽子店は2005年11月に閉店し2006年1月に解体された。当サイトには2005年3月撮影の、店が営業中の写真が載っている。

コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )





平屋の長屋。墨田区墨田4-57。2009(平成21)年3月29日

墨田4丁目は鐘ヶ淵通りと荒川、東武伊勢崎線と水戸街道で囲まれる地域で、空襲での焼失を免れている。鐘ヶ淵通りが延焼を食い止めたようである。ただし今では戦前築の建物は10棟とはなさそうで、写真の建物はたまたま目についたもの。
平屋の五軒長屋と四軒長屋が並んでいる。昔は手前の駐車場にも五軒長屋くらいの長屋が2棟建っていた。どうも、周辺は長屋やアパートが密集していたような感じだ。昭和50年頃までは鉄工所、ゴム工業の工場などが近くにあったから、そこへ務める職工さんが暮らしていたかと想像する。



バーバー・コタカ。墨田4-54。2009(平成21)年3月29日

水戸街道と鐘ヶ淵通りの交差点が四つ木橋南交差点。その近くにある三軒長屋。以前は五軒長屋だったと思われる。写真右の空地は長屋の1軒が取り壊された跡で、その右に長屋の1軒が原型に近い姿で残っている。コタカとその右の2軒は2階の前面に1部屋増築している。現在、コタカは理髪店を廃業して、昭和の風情の店先は民家に改装されてしまった。

コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )





村上商店。墨田区墨田3-13。左:2008(平成20)年12月6日、右:2009(平成21)年3月29日

路地といってもいいような狭い道だが、『玉ノ井 色街の社会と暮らし』(日比恒明著、2010年、2800円)では「栄通り」で、「本通り」の北を平行に東西に通っている。左写真は通りの中ほどから東を見ている。この通りに赤線が引かれ、南側が赤線街だった。写真では南側の家並みは、看板建築風の村上商店(1985年の住宅地図による)が古い建物で、それ以外は割と新しい家ばかりである。その村上商店も現在は住宅に建て替えられた。
写真奥の白い壁の家のところを右へ入ると「銀座通り」で、同じところを斜めに戻るように入っている路地が「柳通り」。そして白い壁の家は既書の「昭和28年頃のカフェー街」では、カフェー「鹿島家」で、それが住宅に建て替わったものだ。鹿島家は『赤線跡を歩く』(木村聡著、ちくま文庫、2002年、950円)に3枚の写真が載っている「メリヤスの工場になっていた」建物。1985年の地図に「鹿島メリヤス工業所」とあった。

コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )





旧玉屋。墨田区墨田3-8。2013(平成25)年4月5日

スナック恋心の横を入ると四つ角があり、その手前に「別府温泉」という銭湯があった。『曳舟・向島に住む>別府温泉(2011.10.12)』によると、2000年頃に廃業したようで現在は個人住宅になっている。銭湯跡なので庭も広い邸宅だ。その角を東へ曲がったところに写真の白い壁の家がある。赤線だった時代のカフェーだった建物としてよく知られている物件だ。『玉ノ井 色街の社会と暮らし』(日比恒明著、2010年、2800円)の「昭和28年頃のカフェー街」の地図では「玉屋」という店だ。戦後にカフェーとして営業する目的で、カフェーの外観の特徴を取り入れて建てたものだろう。



左:旧ローズ美容室。墨田3-8。2013(平成25)年4月5日
右:清水パン店。墨田3-8。2009(平成21)年3月29日

左写真の家は旧玉屋と路地を挟んで並んでいる。『玉ノ井…』にはカフェーとしての店名の記載はないし、一見普通の住宅のようでもあるが、1階の庇とその角の丸み、角を三角に削って玄関を設けているのが怪しい。「ローズ美容室」は1968年の住宅地図から。
旧玉屋の向かい側が右写真の空地で、路地はすこし曲がっていろは通りに出る。写真奥の看板建築が正面をいろは通りに向けた「清水パン店」。大谷石の蔵も清水パン店のものらしい。
空地には「一福」というカフェーがあった。赤線廃止後はアパートに転向したらしく、1985年の地図では「一福荘」の記載。
現在は清水パン店はアパートに建て替わり、空地にも住宅が数軒建った。

コメント ( 3 ) | Trackback ( 0 )



« 前ページ