ぼくの近代建築コレクション
東京の都心と下町を中心に、戦前に建てられた古い建物の写真を投稿していきます。
 




大倉山記念館。横浜市港北区大倉山2-10。2000(平成12)年1月26日(5枚とも)

住所の大倉山は、太尾町(ふとおちょう)だったのが住居表示の変更になった2007(平成19)年11月からで、つい最近決まった住所だ。東急東横線の大倉山駅や、記念館のある丘の名称として聞きなじんだ地名なので、一般に分りやすいと思われたのと、やはりかっこいいからだろう。記念館の旧住所は太尾町706。
「大倉精神文化研究所」として1932(昭和7)年に建った建物。研究所は1981(昭和56)年に運営が難しくなって横浜市に土地を売却、建物を寄贈した。1984(昭和59)年に「横浜市大倉山記念館」として開館した。研究所は記念館内に存続している。




ネットなどでは出てこない資料と思われるので、『かながわの近代建築』(河合正一著、神奈川合同出版・かもめ文庫、昭和58年、630円)の「大倉精神文化研究所」の記述を紹介する。

 大倉山の丘の上に建つこの特異な建物は、着工後3年かかって昭和7年に実業家・大倉邦彦によって建造された。
 洋紙業で成功した大倉は、学問の世界にも情熱を注ぎ、東西文化の融合に意欲を示した。そして私財を投じ、学問・信仰・修行を合致させた研究機関として、「日本文化の精髄を発揮し進んで世界文化に貢献」することを目的とし、「弘く世界史を貫く人類文化の普遍的意義に通暁すると共に深く我が国の精神文化を請究する」ために財団法人・大倉精神文化研究所を設立した。
 大倉は研究所設計を、長野宇平治に依頼した。ロマン主義の作風から出発したこの建築家は、数多くの銀行建築等を手掛けて古典主義に傾いていた。そしてプレ・ヘレニズムと称される様式で、この研究所をまとめ上げた。
建物は、全体的にはヘレニズム様式を基調としながら、その細部に神社、仏閣、古紋様の意匠を配するなど、建築主の意図をよく帯しており、ギリシャ神殿風の正面入り口と塔屋部をもつ中央館の両側に東・西館がつながり、殿堂、道場を配し、書庫、研究室もある。
 外装には千歳石を用い、銅板棒葺の屋根を架けている。
 創設以来、戦前・戦後を通じ財団の研究所として用いられているが、昭和56年4月に横浜市へ土地を売却、建物を寄付し、建物が存続する限り永久使用の契約を交わしている。その結果、土地は横浜市緑政局、建物は同都市計画局が管理し、その一部を財団法人・大倉精神文化研究所が使用している。
設計:長野宇平治、施工:竹中工務店、竣工:昭和7年4月(1932)、構造:鉄骨鉄筋コンクリート造地下1階・地上3階建

建築様式は今では「クレタ・ミケーネ文明の様式」としたほうがいいようだ。パルテノン神殿は紀元前438年だが、クレタ島のクノッソス宮殿はそこから1000年遡る。



「精神文化」というとなにやら怪しい気分がしなくもないが、辞書にある「学術・思想・宗教・哲学・道徳・芸術など、精神活動によって生み出される文化の総称。→物質文化」(大辞泉)と受け取っていいようだ。研究所のHPによると、設立の趣旨は「東西両洋における精神文化及び地域における歴史・文化に関する科学的研究及び普及活動を行い、国民の知性及び道義の高揚を図ることにより、心豊かな国民生活の実現に資し、もって日本文化の振興及び世界の文化の進展に寄与する」ことを目的とする、とある。精神とは日本精神をいうようだが、大倉の著作も読まないでは確かなことは言えない。研究の方法としてまず、本を集めて図書館を造ることをしているのは、合理的に思える。
「東西両洋」の考えは、大倉邦彦が上海の東亜同文書院に学んだことが大きく関わっていると思う。1906年にそこを卒業すると大倉洋紙商工の天津出張所に就職する。中国語の技能が買われたのだろう。大倉洋紙店の社長になれたのもきっかけは東亜同文書院といえる。
大倉は1926年に図書館の建物を見るために世界一周する。そのときヨーロッパの西洋建築についての造詣を深めたのかもしれない。「マンガで学ぶ大倉邦彦物語」にはサグラダ・ファミリアの前に立つ大倉の1コマがある。

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飯島遊技場。静岡県伊豆の国市伊豆長岡1033。1998(平成10)年9月6日

現在、「一條」「金城館」「いずみ荘」といった旅館が面している「温泉場出逢い通り」の四つ角の西角にあった遊技場。伊豆箱根バスの「御幸町(みゆきちょう)」バス停がある。右後ろは「ときわ旅館」で、今は「一條」に替わって「スーパーコンパニオン付き宴会のお宿」だそうだ。
写真の遊技場(普通は射的場といいそう)はバルコニーの囲いの赤茶色のタイル張りの壁が目立つ。「ボットル」の表記がユニーク。

下写真は横へ回り込んだもので、隣の看板建築の商店が並んでいる。看板の「丸京商店」が読める。その両側に商品名が書いてあるのだが、目をこらすと「雑貨、文具」の文字がなんとか浮かんできた。店の左に写っている街灯は今も使われている。柱の上部、腕の下に針金を曲げて作ったアヤメの飾りが取り付けられている。「あやめ御前」にちなんだもの。
現在は2棟とも取り壊されて、駐車場になっている。


丸京商店。伊豆の国市伊豆長岡1033。1998(平成10)年9月6日

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洋風看板建築。静岡県伊豆の国市伊豆長岡1054。1998(平成10)年9月6日

伊豆長岡温泉に一泊のバスツアーで行ったときに、旅館にいったん入った後に町に出て撮った写真。ほんの少し歩いただけだったらしく写真は5枚しか撮っていない。上の写真がその1枚目で、「温泉場出逢い通り」という通りにあった看板建築の商店。そこから推定して、泊まったのは「山田屋」かもしれない。『ウィキペディア>伊豆長岡温泉』によると、山田屋旅館は2013年9月で閉館し、2018年には解体されている。
伊豆の国市は2005年4月に田方郡伊豆長岡町、大仁町、韮山町が合併して成立した。また「温泉場出逢い通り」という道路の愛称は、伊豆の国市が募集し2015年に選定した11路線の内のひとつ。撮影時はまだ田方郡伊豆長岡町(いずながおかちょう)で、もちろん温泉場出逢い通りの名称もない。
写真の建物は、戦前に建てられた看板建築のように見える。2階の窓の庇が壁とカーブでつながっている。現在は「ヴァンベール」(2001年7月築、3階建)というマンションになっている。



八百勝。伊豆の国市伊豆長岡1047。1998(平成10)年9月6日

1枚目写真の北に続く家並み。入母屋屋根の「八百勝」は、今も営業しているのかは分らないが建物は健在。その右の看板建築は袖看板の文字が「伊松商店」と読める。今は取り壊されて駐車場。さらに右の切妻屋根3階建ては「町重」という魚屋。

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岡本クリーニング店。静岡県熱海市中央町(ちゅうおうちょう)4。2011(平成23)年5月20日

前の通りは「あたみ梅ライン(県道11号熱海函南線)」で、左へ行くとすぐ、清水町通り-本町通りとの市役所前交差点。岡本クリーニング店の建物は看板建築風に壁で屋根を隠したアパート形式の建物。ほぼ正方形の平面だ。壁の塗装が剥げかけているが、2012年に改修して外観はいくらか変ってしまった。建物の前に残っていたアーケードもついでに取り払ったようだ。



多田医院。中央町15。グーグルマップ・ストリートビュー(2014年8月)より

岡本クリーニング店の、あたみ梅ラインの向かい側に「多田医院」がある。ごく普通のクリニックに見えて、注意も払わず写真も撮っていないのだが、グーグルマップで見ると、奥に長くかなり大きい建物である。後の方は病室になっていたのではないか、とすると、以前は病院で「多田病院」といったのかもしれない。木造2階建ての病院というのは、今は考えられない。昭和25年の熱海大火後、じきに建てられた建物と思われる。

『熱海温泉誌』(熱海市教育委員会制作、熱海市発行、2017年、3000円+税)に、糸川の赤線と関連して「多田病院」が出てくる。その部分を引用すると「戦前から糸川地区では性病予防のために、女性たちに定期検診を受けさせ、小料理組合が指定した多田病院がこれにあたってきたが、占領期は静岡軍政部からたびたび性病検診を厳密にするように指令が出され、米軍提供のペニシリンによる治療も始まった。GHQは占領軍兵士が性病に罹ることを恐れ、日本の女性側を性的に管理しようとした。」。また、ジャズ喫茶ゆしまのママの評言が収録されている。「週一度、土屋さんの店(ゆしま)の前を、多田病院に向かう女の子たちがぞろぞろと通って行くとき、「今日は何?」と声を掛けると、彼女らは無言のまま笑顔で通り過ぎたものだ。」。


多田医院。中央町15。グーグルマップ・ストリートビュー(2015年2月)より

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上:アトミックカフェ。静岡県熱海市中央町5
2011(平成23)年5月20日
左:ジャズ喫茶ゆしま。2015(平成27)年11月20日

手前の通りは「あたみ梅ライン(県道11号熱海函南線)」で、「糸川べり」の旧赤線地区の、通りに面した南西部分が写っている。右の路地は赤線地区の中心部へ入っていくような道になる。路地の入口に古いアーチが残っている。「糸川花街」のネオンが取り付けられていたアーチである可能性が濃厚だ。

通りに向いた左の二軒長屋の内、左は「ドライ専門」の看板が読める。右のテナント募集の張り紙の方は2階の壁の上の方に「お弁当 ソフィア熱海店」の看板があるから、その店だったのだろうか。2013年頃に取り壊されて、今は駐車場になっている。
写真右の路地との角は「バー アトミックカフェ」、そこから路地に入って隣がジャズ喫茶の「ゆしま」。『熱海経済新聞(2021.03.18)』によれば、店のママは1921(大正10)年生まれ、東京赤坂出身。疎開で熱海に来て気に入ったので移住したという。「湯島天神近くの別邸に住んでいたこともあったため、「ゆしま」というなじみのある地名を店名にしたという。開業した1952(昭和27)年当時は、熱海大火の復興期」。当時、ママは32歳だ。「初はBGMとしてジャズを流す「純喫茶」だったが、1966(昭和41)年に「ジャズ喫茶 ゆしま」に改称した」。その頃は熱海のホテルで演奏するバンドマンが200~300人いて、彼らが店に集まってきたという。
今でも店に立つらしいママとジャズの出会いはなんだったのだろう? ご主人の趣味を引き継いだのだろうか。家庭環境のせいだとすると、歌謡曲くらいしか聴かないような家庭とはちょっと違っていたと思われる。

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スナック千夜
静岡県熱海市中央町(ちゅうおうちょう)9
上:2011(平成23)年5月20日
左:2009(平成21)年2月20日

糸川の南の裏通りの旧カフェー街にある、元はカフェーだったかと思われる建物。写真右の緑の日よけは「スナック亜」。右奥の路地を出た通りは「あたみ梅ライン(県道11号熱海函南線)」。
隅切りの角の2つの戸袋に植物とその上の壁に波上の鷹のレリーフが施されている。
2009年の写真では「千夜」の袖看板と同じ看板が角の1階の壁(今は窓になっている)にもあり、その右の入口に縦長の看板があった。2010年頃に廃業したのかもしれない。今は袖看板も外されている。
千夜の路地側の隣は「しのぶ」という居酒屋。その小さな建物の裾に豆タイルが残っている。赤線の遺構だろうか。



麺彩、拓伸商事。中央町6。2015(平成23)年5月20日

「スナック亜」の並びも元カフェーだったと思われる外観の2軒の家が並ぶ。「味くら 麺彩」の看板の家は「賃貸物件」のビラが貼られている。ストリートビューを見ると今は「Project M」というカフェバーだ。隣のフリーハンドで描いたような曲線の白い壁の家は「拓伸商事」という不動産屋だが骨董屋が本業かもしれない。

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伊太利an。静岡県熱海市中央町(ちゅうおうちょう)7。2015(平成27)年11月20日

糸川の南の河岸の通りにあるアパート風の建物の角が「伊太利an」というピザが評判のイタリアン料理の店。同じ建物に「酒処 吾妻」という居酒屋も入っている。
りょうかん>インタビュー・原芳久(ピザハウス伊太利an)』によると、伊太利anは1976(昭和51)年の開業。店主は熱海の人で開業したときは25歳。今はサイトで見る限り割と見栄えのいい渋いおやじさんだ。店の外観と店名がマッチして洒落ているが、「設計屋さん」の考えだったらしい。店が開くのが17時だから観光客は来にくいかもしれない。

一二三寿司は伊太利anと同じ街区のちょうど反対側の角。建物はアパート風の外観だが幅が狭く、一二三寿司1軒で使っているように見える。1975年頃の開業らしい。ごく普通の寿司屋のようだ。
一二三寿司の横の路地側の隣が「らーめんせんか」という看板建築風の家があったが、今は取り壊されて駐車場になってしまった。



一二三寿司、らーめんせんか。中央町7。2009(平成21)年2月20日

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神戸酒店。静岡県熱海市銀座町(ぎんざちょう)8。2011(平成23)年5月20日

歩道に簡単なアーケードがあるのが熱海の「本町通り」で、右奥への横町が「浜町通り」。本町通りは熱海銀座商店街の西(山側)の入口の交差点から南西に、市役所前交差点までの通りをいう。どういうわけか通りにはそういう表示が見当たらない。糸川の御成橋袂に東海バスの「本町商店街」停留所があるだけだ。本町通り商店街は銀座通りのような観光客向けの商店街と違って一般の住民用の商店が多い。「本町」は「熱海ニューフジヤホテル」がある辺りの旧町名。
神戸酒店の建物は二階建てなので木造だと思うがかなり大きい建物だ。団体旅行で賑わった頃にはこういう大きい酒店は数多くあって、どれも忙しかったのだろう。戸袋になまこ壁のような模様を入れた和風の外観だが、軒には洋風のコーニスを巡らしている。
2012年に取り壊されて、今はファミリーマートに替わっている。

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上:スナック ピカソ、左:ママドライ
静岡県熱海市銀座町(ぎんざちょう)8
2009(平成21)年2月20日

熱海銀座通りの南に、平行して「浜町通り(熱海浜町通り商店街)」という裏通りがある。銀座通りと糸川の間に通っている。「浜町」というのは明治-昭和初期の頃の地名らしい。その地名が載っている地図では浜町通りは仲町と荒宿の間で、浜町は仲町の東(海岸より)になっている。
「スナック ピカソ」は浜町通りの西寄り、熱海銀座に抜ける路地の角にある。円形の袖看板で店名が分ったが店は廃業している様子だ。今も、袖看板はなくなっているが建物はそのままで残っている。

ピカソと路地を介して並んでいたのが左写真の3棟の家。今は「C’est Mignon(セミニョン)」というブティック&カフェに建て替わっている。2010年12月のオープン。おじさんには無関係な店のようだ。

下の写真の「マシュミエール」というフランス料理のレストランはピカソのすぐ東の並びにあった。外観からもうかがえるが、ちょっと高級なレストランだったらしい。2014年に取り壊されて、今も空地のまま。右の路地は行き止まりに見えるが、地図で見ると浜作(和食店)の裏を通ってピカソの路地に出られるらしい。
ピカソ、ママドライ、マシュミエールには、軒に歯形の模様がコーニスのように飾っている。なぜ共通した飾りがあるのか不思議だが、それがないと間の抜けた感じになってしまいそうだ。


マシュミエール。熱海市銀座町8。2011(平成23)年5月20日

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本家ときわぎ。静岡県熱海市銀座町14。2004(平成16)年12月5日

熱海銀座通りの西側(山側)の入り口の交差点に面した、寺院かと思うような純日本建築の店舗が和菓子の「本家ときわぎ」。そのHP『和菓子ときわぎ』に、「大正7(1918)年、初代が熱海銀座の本町通りに「熱海 本家ときわぎ」を開店。後に銀座の四つ角に移転。昭和19年の熱海本町大火(3月6日、本町火災、郵便局など85戸焼失)で焼失。終戦後、昭和20年に京都から宮大工を招致して2年半をかけて昭和23年に現在の宮造りの店舗が完成した」とある。
「本町通り」はときわぎの交差点から南西に向かう商店街。「本町」とは熱海ニューフジヤホテルのある辺りの旧町名で、大湯間歇泉(おおゆかんけつせん)を中心にした、江戸・明治期の熱海の中心街。

昭和25年の熱海大火では、火は四つ角の向かい側まで迫ったが、そこで風向きが変わり、焼失を免れたという。焼けるものと覚悟して避難していた店の人が戻ってみると、店の二階に進駐軍の兵隊が大勢、バケツを持って立っていたそうだ。

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