ぼくの近代建築コレクション
東京の都心と下町を中心に、戦前に建てられた古い建物の写真を投稿していきます。
 



天神山レストラン
文京区本郷6-18。1986(昭和61)年5月

本郷通りの棚澤書店の裏手にあった建物。写真右奥が棚澤書店で、本郷通りの裏通りとの角を占めていた。現在は「パークホームズ本郷東大前」(2013年12月築、14階建て52戸)というマンションに替わった。
建物はこの辺りに多いアパートかと考えていたが、洋瓦や建物角の八角柱のような造作など、ただのアパートではないような気もする。建築時期が戦後のような気がするがなんとも決めがたい。1966(昭和41)年の地図に「天神山レストラン」とあった。「レストラン」というから洋食のレストランだと思うが、建物の雰囲気は中華に似合っているように思う。「洋食レストランの草分け」としているサイトがあった。1974年の地図では個人名になっているので、1970年頃に閉店したようである。
「天神山」がなんだか分からない。神社の乗っている山のような感じなので、戦後に廃止された映世神社の小山かと考えてみたが……。「洋食レストランの草分け」が本当なら、創業は明治のはずだ。その頃なら映世神社は森川町の中心になる場所だったのだと思う。その防空壕が掘られたという小山を天神山と通称したかどうかだ。映世神社については『第八回「わが町探訪 第三回『映世神社』」を参照した。



天神山レストラン。2000(平成12)年5月5日

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冨士総業。文京区本郷6-24。2007(平成19)年2月16日

本郷通りの棚澤書店の一つ北のブロック。写真左端が法律書の伸松堂書店で、以下、小川クリーニング店、冨士総業(美津濃スポーツ特約店)、二軒長屋、山猫軒(洋食レストラン)。
小川クリーニング店は1974年の地図では「尾張屋履物店」、以下、同地図では「冨士屋、森江書店・浪江、森永商店〈燃料店〉」。冨士総業は営業しているようには見えない。丈の高さが目立つスクラッチタイル張りの看板建築だ。二軒長屋は3階建ての住宅に建て替えられた。山猫軒は「ホーメストハイツ本郷」(1992年3月築、10階建て)というマンションの大通り沿いの2階建て部分だ。



ヴァリエテ本六、柏林社書店。本郷6-25。2007(平成19)年2月16日

冨士総業から一つ北のブロック。言問い通りとの本郷弥生交差点が近い。写真左から、すみれ堂(せんべい)、ヴァリエテ本六(古本とギャラリー)、大阪屋(茶とのり)、大阪屋住居?、柏林社書店。
すみれ堂は2013年2月いっぱいで閉店した。「慶應書房」の看板をつけているのが「ヴァリエテ本六」で、2006年5月の開店という(本6通信>お茶とおせんべい…)。「H6」の看板は「本六」で本郷6丁目のことだろう。大阪屋はすみれ堂閉店前に閉店しているらしい。いかにも老舗らしい柏林社の渋い看板建築が見逃せない。

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三陽電気商会。文京区本郷6-18。2007(平成19)年2月16日

本郷通りの喫茶店「こゝろ」のすぐ北の並び。写真左の家は「おかめや化粧品店」の長屋。三陽電気の家は西洋建築の飾りを配した看板建築で、右半分はモルタルで塗りこめてしまったのだろうか。セセッションのような感じもある。
隣の南陽堂も洋風の看板建築。貸店舗の貼紙がある。店名から古書店だったかと思っていたが、1986年に撮った写真には硝子戸に「書□(宕に似た字)展」のポスターが見えて、書道用具の店だったのかもしれない。その写真は前を車がよぎってしまい残念ながら公開できるようなものではない。『日本近代建築総覧』に載っているが「南陽堂、文京区本郷6-18-10、構造=木2」としか記載がない。
南陽堂の右は「円城寺時計店」と「高原自転車店」の二軒長屋。現在、その長屋は「スワンレイク本郷」(2016年7月築、10階建て9戸)というマンションに替わってしまった。



三陽電気商会。2007(平成19)年2月16日

三陽電気の右側は1974年の住宅地図では「テーラー西岡」。1986年の写真では赤ちょうちんが吊るされていて、そこに「ちゃんこ浅瀬川」と書かれている。念のためネットでチェックしたら、大相撲の力士に淺瀬川という人がいた。ウィキペディアには「現在は東京都文京区本郷で、相撲料理店「ちゃんこ 浅瀬川」を経営している」とある。その店は本郷5丁目の本郷通りの裏手になるのだが、移転したのだろうか?


三陽電気商会
1988(昭和63)年10月23日

この写真では三陽電気の正面もパネルで覆われている。元の壁面は横だけが見られるわけで、それを撮った写真だ。手前のコインランドリーが「かめや」という店名だったと判る。

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棚澤書店。文京区本郷6-18。2007(平成19)年2月16日

写真左の横丁が本郷通りの東大正門前交差点の一つ北の横丁。二軒長屋のように見える棚澤書店の建物は2002(平成14)に国の登録有形文化財(建造物)に登録された。そのデータベースによると、「建築年代:明治期、構造:木造2階建・瓦葺」。解説文は「……2軒長屋を用いた店舗である。東を正面とし,2階建,切妻造・桟瓦葺,平入,正面半間下屋庇付の形式で,軒は出桁造である。東大周辺に形成された近代商家の町並景観を伝える建物として欠かせない存在となっている」。やはり元は二軒長屋だった。
文京の古本屋>読みもの>第五回:棚澤書店』には、「先代の店主が明治38年に上京、本郷の古書店で修行後、大正9年に独立して東大農学部前で棚澤書店を開業。昭和6年に現在の店、当時は洋品店だったのを借りて支店とした。昭和16年に強制疎開によって本店を引き上げた。戦後、土地ごと買い取った」ということが書かれている。



こゝろ、おかめや。本郷6-18。2007(平成19)年12月15日

棚澤書店の隣が昭和30年開業という喫茶店の「こゝろ」。新仮名遣いではひらがなの繰り返し記号は使わなくなったようだが、その表記にこだわりがあるのかと思ったら、ドアのほうは「こころ」だ。どちらでもいいらしい。
Kai-Wai散策>COFFEE こゝろ(2005.09.22)』には建物に関して店主に聞いた話を記している。開店当時は隣の「おかめや」化粧品店と同じ長屋だったのを、1968(昭和43)年に改装したのだという。3階建てにしたのだからほとんど改築したのだろう。改装時に店を二つに区切って左側をトリスバーにした。1974(昭和49)年の住宅地図では「バーファンシー/コーヒーこころ」の記載だ。正面のドアがファンシーの入り口だが、現在は「通路兼物置のようになって」いるそうだ。
数年前に長屋の後ろにあった民家を何軒かまとめてマンションが建った。その「パークホームズ本郷東大前」(2013年12月築、14階建て52戸)の入り口と前の庭は「おかめや」とその隣のコインランドリーだった長屋を取り壊して造っている。

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喫茶ルオー。文京区本郷6-1。2007(平成19)年2月16日

本郷通りの東大正門の斜向かいで、写真左のビルが本郷郵便局。
大通り沿いの古い木造店舗は、写真では右から「ハセガワ企画印刷(プリント・ショップ、貸店舗の貼紙)、喫茶ルオー、東村正平(都市総合不動産鑑定所、貸店舗の貼紙)、貸店舗」。営業しているのはルオーだけで、ストリートビューで見ると今も同じ状態だ。1986(昭和61)年の住宅地図では「タイガー、ルオー、トームラ、ラーメン堀川」、1974(昭和49)年でははっきりは読めないが「ラーメン狸小路・牛めし古川、新井計器店、トームラ洋装店、琳狼閣書店」だろうか。なぜかルオーの文字がない。
ルオーは昭和27年の開店という有名な老舗。琳狼閣書店は、今は春日通り沿いの本郷7丁目にある。
角のプリント・ショップだった建物は、横から見るとRC造のように見える。3階建ての琳狼閣書店だった建物のファサードが面白いデザインだ。戦後の改修によるものなのかもしれない。

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海上自衛隊館山航空基地。千葉県館山市富士見。2004(平成16)年11月27日

海上自衛隊館山航空基地は旧海軍の航空隊の基地だったのを、1953(昭和28)年に当時の海上警備隊が「館山航空隊」を設立して開設した。自衛隊の発足は翌年である。建物等は旧海軍のものを引き継いで司令部庁舎も最近まで使ってきたが、2015年に建て替えられて、新庁舎が完成後解体されたようだ。
旧海軍の「館山海軍航空隊(館空)」は1930(昭和5)年の発足。基地は関東大震災で隆起した海岸を埋め立てて造成した。飛行場にしてはずいぶんと狭いが、艦載機のパイロット養成が主眼で、空母への発着の訓練を行う施設だった。
上の写真で右に写っている2階建ての建物は「教育資料館」かと思う。旧海軍の兵舎だった建物だ。本部の前にある白い柵のようなものは国旗掲揚台で、やはり旧海軍からのもの。




館山航空基地の周りには館空(たてくう)関連の建物も残っている。正門の近くには「第二海軍航空廠館山補給工場」が民間の倉庫として使われている。また基地の北東の海岸べりに、監視所だったと思われるコンクリート造の廃墟が残っている。

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洲埼灯台。千葉県館山市洲崎。2004(平成16)年11月27日

洲埼灯台は洲崎(すのさき)という岬にあり、住所は館山市洲崎だから「洲崎灯台」でいいと思うのだが「洲埼灯台」と書くのが習慣らしい。洲崎灯台と書いている資料やサイトも普通にある。ここでは千葉県のHPの表記に倣った。
『ウィキペディア>洲埼灯台』によると「円筒形のコンクリートで建てられ、高さは15メートル、海面からは45メートルである。1919年(大正8年)〈12月15日〉に点灯。三浦半島最南端の東端にある剱埼灯台と共に東京湾へ出入りする船舶の目印となっており、同灯台とを結んだ線をもって東京湾の境界をなす。管轄:海上保安庁、第三管区海上保安本部」。平成27年3月に国登録有形文化財(建造物)に指定された。
房総半島の南端が西へ出ている部分を「西岬(にしざき)」といい、その先端が洲崎になる。西崎は陸軍の東京湾要塞地帯であり、海軍の「震洋」特攻基地が建設された。機会があったらそれらの跡を見てきたい。

左の写真は『千葉県の地理と歴史』(千葉地理学会編、野村出版、昭和43年、450円)から引用した「洲崎燈台付近」。今はただの広場のようになっているところにあった建物が写っている。

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新橋(下流側)。千葉県南房総市白浜町滝口(旧安房郡白浜町滝口)。2004(平成16)年11月27日

めがね橋が架かる長尾川の河口付近に架かる、やはり3連アーチの橋。親柱に「昭和四年八月竣工」と刻んである。竣工年からすると震災復興時に架けなおされた橋のようだが、かなり立派な橋で、昔はここが東西の往還だったかと思わせる。形は石造りアーチ橋なのだが確認できなかった。近年、モルタルで化粧直しされたのか、綺麗な外観である。親柱や欄干が和風なので、全体が和風に見える。
昭和になってから石造りアーチ橋を造るというのは珍しいと思う。RC造で形だけアーチ橋にするというのも考えにくい。明治21年架橋のめがね橋は、白浜町の海岸端にある「みずるめ」と呼ばれる石切場から切り出した石が使われた。材料が近くで手に入るのなら、それが使われたのかもしれない。また、めがね橋の架橋から40余年だが、その工事に携わった人が長老として健在で、新橋の架橋を指導したかもしれない、などとかってな妄想が起こる。



新橋(上流側)

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めがね橋。千葉県南房総市白浜町滝口(旧安房郡白浜町滝口)。2012(平成24)年6月27日

めがね橋は房総フラワーライン(1966年開通)が長尾川を渡る橋から上流に見える。「めがね橋」は通称だったと思う。昔は「長尾橋」といったようで「眺尾橋」とも表記されるようだが、千葉県が1989年に県有形文化財に指定したときに「めがね橋」で登録している。それに倣ったのか、2005年に土木学会推奨土木遺産に指定された際の名称も「めがね橋」だ。3連アーチなのでめがねには見えないのだが、まあいいか。
千葉県の近代産業遺跡>長尾橋』によると、3連の石積みアーチ橋で明治21年の架橋。施工者を石工の森善九郎としている。



土木学会推奨土木遺産>めがね橋』によると、めがね橋が架けられた地点を「館山市街から山あいを縫って白浜町へと抜ける県道、山裾を海岸線に沿って走る国道、さらに渓谷を刻みながら蛇行して流れる長尾川、それらが出会うまさに交通の要衝」としている。徒歩で川を渡っていた地域住民にとってそこに橋をかけるのは重大な関心事だった。工事費400円は長尾村民の寄付金によった。
1993(平成5)年から1995(平成7)年にかけて保存整備工事が行われた。○と+を組み合わせた高欄はそのときの復元。

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野島崎灯台。千葉県南房総市白浜町白浜。2012(平成24)年6月27日

野島崎灯台は房総半島の南端の野島崎(のじまざき)という岬に建つ。野島崎は地図で見ると伊豆半島のような形をしている。そのほぼ中央、海抜10mほどの、何回もの巨大地震によって隆起した海岸段丘にのっている。白浜町、その西の滝口といったあたりの海岸段丘は、はっきり判る段面は4つあり、その最も新しいのが1703(元禄16)年の元禄地震によるもので、そのとき野島という島だったのが地続きになったのが野島崎だという。関東大震災でも隆起して、海蝕棚が海面から現れて岩礁になっている。
建物は『千葉県>野島崎灯台』に、「幕末から明治初期に設置された条約灯台のひとつで、当初の灯台は、フランソワ・レオンス・ヴェルニー(1837~1908、フランス人技術者。1865~1876年にかけてドックや灯台、その他の近代施設の建設を指導し、日本の近代化を支援した)の設計により明治2年(1869)に竣工したが、大正12年(1923)の関東大震災で倒壊。大正14年(1925)に再建され、その後も太平洋戦争で被害を受けつつも、現在に至っている。」と記されている。戦争の被害とは昭和20年7月18日深夜の艦砲射撃のことらしい(YOMIURI ONLINE>振動に大音響 同級生奪う)。
平成24年2月に国の登録有形文化財に登録された。



野島崎灯台霧信号所。2004(平成16)年11月27日

犬吠埼灯台には「犬吠埼霧信号所霧笛舎」があり、それと同じ施設だろうと「霧信号所」とした。勿論今は使われていなくて、建物は廃墟だ。

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