ぼくの近代建築コレクション
東京の都心と下町を中心に、戦前に建てられた古い建物の写真を投稿していきます。
 




田中バーバー。文京区根津1-19。1988(昭和63)年11月3日

写真右奥へ行くと不忍通りの根津小学校入口交差点に出る。右端に鶴棲荘の木と板塀が写っている。
旧町名でいうと、田中バーバーのところは四つ角になっていて、そこから不忍通りの側が根津八重垣町、田中バーバーの側が根津神社までを含めて根津須賀町、その向かいが根津小学校のある根津清水町。根津遊郭があった頃は、その裏通りになるあたりらしい。



右奥への道は不忍通りの裏通りで、奥には今も山下医院などの古い家が残っているが、田中バーバーの角の一角は取り壊されてコインパークになっている。1992(平成4)年4月29日

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毎日新聞販売所。文京区根津1-18。1989(平成1)年2月26日

不忍通りの根津小学校入口交差点を小学校の方へ入った横丁から不忍通りを見ている。写真左は交差点角の毎日新聞販売所で、不忍通りに面した正面がどうなのか気になるがその写真は残念ながらない。現在は2階建ての家に替わって根津交番が置かれている。
不忍通りの向かいは根津2丁目で、トラックの入っていく狭い横丁が根津観音通り商店街だ。角の店は「あざみや」。日除けのテントに「Yシャツ」の文字が見えるが洋品店だろうか。




鶴棲荘
上:1989(平成1)年2月26日
左:1988(昭和63)年11月3日

1枚目の写真から左へいくと隣が上写真右の家で、この家は今も残っている。その隣に写真のような下見板貼りの住宅があった。住宅地図には「鶴棲荘」とある。現在は「アールヴェール根津弥生坂」(1996年竣工)というマンションになっている。

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東京都公害研究所
千代田区有楽町2-7
1984(昭和59)年9月3日

東京都公害研究所の建物は有楽町マリオンの裏、現在の有楽町イトシアの丸井のビルのところにあった。丸井を入れるのは無理だが、4階建てのイトシアプラザをこの公害研究所のビルにもってくればそのまま使えたような気がする。今ならテナント料は高くても入る店はあるだろう。
写真右の看板の字は「公害研究所/展示コーナー/ご自由におはいりください」。
『日本近代建築総覧』では「東京都公害研究所(旧東京市電気研究所)。T14。RC5。森山松之助。銭高組。地1」。
電気研究所についてはなにも分からないが、東京市電気局(現東京都交通局)と関連があるのかもしれない。だとすると、公害研究所の北に1965(昭和40)年に建った交通会館とも関連がありそうだ。1947(昭和22)年の千代田区詳細図には「電気博物館」になっている。
公害研究所は現在の「東京都環境科学研究所」で、『東京都環境科学研究所>研究所の歩み』によれば、1968(昭和43)年4月に発足している。同サイトに美濃部都知事が玄関右側に看板を掲げる写真が載っている。東京都公害局の設置は少し遅れて1970(昭和45)年10月。1985(昭和60)年4月に「環境科学研究所」と改称して江東区へ移転している。たぶんその後すぐに建物は解体されたのだろう。


有楽町変電所
1987(昭和62)年3月15日

東京都公害研究所の裏は駐車場になっていたが、その片隅に立っていた東電の変電所。写真では公害研究所の建物は解体されていて、跡地はやはり駐車場になっている。
こんな建物を撮ってもしかたがない、と思っていたがやはり気になるので1枚だけ撮ったものだ。東京市電気局の施設として建てられたのかもしれない。

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吉野家。千代田区神田須田町1-10。1985(昭和60)年2月24日

多町大通りが靖国通りに出てきた交差点で、写真右奥は多町大通り。角に、ビルになる前の牛丼の吉野家が写っている。その右に4棟の古い建物が並んでいるが、不思議とこれが今も残っている。
1986年の住宅地図では、左から、「空家」「吉野家と和栗」「いもや(天婦羅)とKEI」「支那(中華料理)とパンセ」「アンドー」「相子(喫茶店)」。
昭和30年頃の火保図にすでに「相子(かし)」が載っている。角の家は「神田洋品店」だ。


左:1987(昭和62)年12月31日、右:1994(平成6)年2月6日

1枚目の写真右手の家並み。喫茶店の相子は屋上に小屋を造ってしまったが、店の看板は1985年のものから変えていない。支那は3枚の写真にある看板が3枚とも異なる。2007年に撮った写真を見るとまた変わっている。

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吉川商店。千代田区神田須田町1-4。1987(昭和62)年9月13日

靖国通りの南の裏通りになる。外堀通りから多町大通りを渡って中央通りの須田町交差点に出る道路だ。吉川商店は米屋のようだが、今は吉川ビルになって米屋は廃業したようだ。「ヨシムラ」の袖看板の文字は「九代目吉村金兵衛分家 創業明治27年 印鑑と印刷 ヨシムラ」。この吉村印舗の建物が今も替わっていない。


左:久保田織物。神田須田町1-6。1987(昭和62)年12月31日
右:民家。神田須田町1-8。1987(昭和62)年1月1日

久保田織物は1枚目の写真の右端にかろうじて写っている。建物は現存している。建物横の防火用水の水槽は処分されたらしく、今は見当たらない。
右写真の看板建築は多町大通りの靖国通り近くの「庄之助」の角を西へ入ったところ。写真右の空地は「田丸電機、都ビル」の2枚目の写真の駐車場。今はビルになった。2階前面を出窓にした変わった造りだ。正面からも撮影しておけばよかった。

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ヨシムラ。千代田区神田多町2-6。1988(昭和63)年6月5日

多町大通りの塩栄青果店から10軒ほど北へいった辺りの街並み。写真右から、「高久」「ウツキ」「MORE」の入る建物、住宅地図で「田草川」となっている家、3階建の「ヨシムラ」、「トヨタレンタリース神田営業所」、「トライ」「相馬○○」の三鉄ビル、「深津商店」、「神田加藤ビル」である。
現在は2003年6月に開業したホテル「京王プレッソイン神田」が建った。写真の建物で残っているのは竣工まもない加藤ビルだけだ。


左:ヨシムラ。1988(昭和63)年6月5日。右:至誠堂医院。1989(平成1)年3月12日

木造3階建ては法律上禁止されていた、という話は本などで見かける。それでも都内に、今はどうか分からないがまったくないわけでもない。禁止される前に建ててしまったのか、禁止されているのを知らずに建ててしまったか? とにかく堂々の総3階建てで、正面最上部の窓は屋根裏ではあるが4階のものらしい。
すでに店名は塗りつぶされて空家になっているのかも知れない。昭和30年頃の火保図では「株式会社戸沢産業」である。同図には深津商店が「深津家具製作所」となっている。
至誠堂医院は塩栄青果店と同じブロックで、北の路地の角にあった。ネット検索すると神田司町の住所で出てくるからそちらに移ったらしい。

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塩栄青果店。千代田区神田多町2-6。1987(昭和62)年12月31日

一八通りと多町大通りが交差する多町2丁目交差点を西から見ている。写真左からサカエヤクリーニング店、大信不動産、塩栄青果店の古い建物は今も残っていて、空襲での焼失を免れたこの辺りの戦前の町の様子をかろうじて伝えている。この写真では右端にまだ看板建築が見えているが、その建物を撮っていなかったので、この写真で言及しておく。
写真右端の「賀茂鶴」の看板が「しげ福」で、飲み屋だろう。その手前が「傘長」。傘長は手書きで扇子や提灯に江戸文字を書く店で、創業は嘉永5(1852)年という。番傘に字を書いていたのが屋号の由来らしい。多町の歴史を語るには欠かせない店であるようだ。
「まちブログ―神田周辺(2009.12.05)」は傘長が日本橋丸善で行なったイベントを紹介した記事だが、昭和8年の「神田仲通り街路灯建設記念」絵葉書が載っている。神田仲通りとは今の一八通り。その写真では傘長の看板は「傘」の一文字のようだ。傘長の手前の看板建築の家は薬屋である。


左:清栄内装。神田多町2-6。1988(昭和63)年8月14日
右:古賀酒店。神田多町2-4。1988(昭和63)年8月14日

左写真は塩栄の隣の「室内装飾・清栄内装」。右写真は清栄の向かいの辺り。砂場、古賀酒店、茂里屋パン店とも今も健在。茂里屋は元は下駄屋だったようだ。古賀酒店と茂里屋の建物は建替えてはいないが、正面は改装されている。

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かとう。千代田区神田多町2-6。1987(昭和62)年8月14日

十八通りの中央通りに近い四つ角で、「酒席・御食事 かとう」の建物は「酒処 かじや」に替わったが今も残っている。写真右奥に「天定」の日除けがあるが、これは替わっていない。かとうの左は、住宅地図では「住美ビル」「アコス」「しげ福」。昭和30年頃の火保図では、かとうは床屋になっている。
現在、かとうの左からその奥にかけては20軒位の家屋をまとめて「グランド・ガーラ神田」(2007年3月竣工)というビルに替わった。土地の買い上げがきれいにできなかったらしく複雑な平面をしている。


日興木材工業
神田多町2-4
1988(昭和63)年6月5日

写真右奥に一八通りに面した「かとう」が見えている。写真左端は「神和ゴム、便送組合」の跡で以下、「富士、日興木材工業」「ローリング興業社」「ムサシ堂釣具店」。
現在、トタン張りに見える看板建築の家は全部がなくなって、コインパークになっている。

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越後屋。千代田区神田多町2-7。1987(昭和62)年12月31日

神田多町(たちょう)の南は神田警察通りに面していて、町域の中央を十字形に多町大通りと一八通りが貫通している。その交差点が多町2丁目交差点で、写真の家並みは多町大通りに面した、神田警察通りと一八通りとの中間辺り。
看板から「スタンド割烹万里」「株式会社伸晃」「大衆麻雀ひさの」「新刊書籍雑誌㈲寿屋書店」が読み取れる。写真左の銅板貼りの家は「越後屋」。創業は明治末で100年以上続いている豆腐屋だという。家の正面中央に「後」の一文字が残っている。
ストリートビューを見ると越後屋の看板建築が現存していて、その右は空地になっている。


高山印刷、高橋輪業
1988(昭和63)年8月14日

上の写真の右に写っている二軒分の看板建築。高橋輪業の右のドアには「矢嶋事務所」の表札が。その右の入口は「ニューセントラルホテル」のものらしい。
現在は、ストリートビューで見ると、1階に「花与」が入ったビルになっている。

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精文堂。千代田区内神田2-16。1987(昭和62)年12月31日

前の通りは神田警察通り。神田司町のNTT神田電話局(NTT神田ビル)の斜向かいになる。現在では古河電工神田ビルが建っている場所だ。かつては神田旭町といった。
大通りに面した看板建築は五軒長屋のようで、横丁に入ったところの建物を画面に入れようとして、長屋の左側が切れてしまった。長屋は右の角から「精文堂本店(印鑑・名刺)」と「友朋社」、「牧野商事」、「にっしん(カメラ)」。その左は住宅地図では「内田染色工業」「コシバ」。



松井薬局。内神田3-23。左:1987(昭和62)年12月31日

1枚目の写真から左(東)へ2ブロック移った並び。写真左手はすぐ多町大通りとの交差点で、「フジヤパン店/内神田3」の写真に続いている。旧町名は神田多町1丁目。
角の「松井薬局」から「若松屋肉店」「谷酒店」。いずれも昭和30年頃の火保図に載っている商店だ。

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