ぼくの近代建築コレクション
東京の都心と下町を中心に、戦前に建てられた古い建物の写真を投稿していきます。
 




東京大学法文2号館。文京区本郷7-3。2007(平成19)年12月15日

上の写真は、正門-安田講堂のイチョウ並木の側が法文2号館の表側とすると、南に向いた裏側で、しかもさらに南に張り出した部分。法文2号館を代表するような写真ではないが、他に撮っていないようである。
法文2号館は『日本近代建築総覧』では「東京大学法文経2号館、建築年=昭和2(1927)~13(1938)年、構造=SRC3~4階建、設計=内田祥三、備考=第Ⅰ・Ⅱ期大倉土木、第Ⅲ期大林組、第Ⅳ・Ⅴ期大林組、大Ⅵ期松本土木」。
国指定文化財等データベース』には「西端部は法学部3号館を意識したL字型の平面構成となる。法文1号館とも、近年4階の1部が増築された」とある。4階の増築は工学部6号館、法学部3号館にも施工されているが、法文1・2号館がその第1期で、1976(昭和51)年の完成。
『東京大学本郷キャンパス』(東京大学出版会、2018年、2800円+税)には、「法文1号を嚆矢とする屋上の増築は、デザイン的には非常に斬新なものであった。設計を担当した香山壽夫助教授(当時)は、旧建築の模型を何度も作っては壊して検討したという(しかし、残念ながら居住性が悪くて住人には不評であった)」とある。

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東京大学法文1号館。文京区本郷7-3
2007(平成19)年12月15日

正門から安田講堂へのイチョウ並木の街路景観は本郷キャンパスの象徴である。その東西軸の街路を挟んで建っている同じ外観の建物が法文1号館と法文2号館。また、両館のアーケードを貫ぬく南北軸のイチョウ並木が、やはり東大の象徴的な景観になっている。
法文1号館は『日本近代建築総覧』では「東京大学法文経1号館、建築年=昭和2(1927)~10(1935)年、構造=SRC3~4階建、設計=内田祥三、施工=竹中工務店、備考=第Ⅰ期竹中工務店、第Ⅱ期大倉土木、島藤、第Ⅲ期大林組、地下1」。1970年代では経済学部もこの校舎を使っていた。各工期がどの部分になるのか分からないが、施工者がそれぞれ異なるのが不思議である。
東京大学>国の登録有形文化財』によると、「西側部分(現在の文学部教室)は、昭和4年2月竣工」ということなので、中央部が第Ⅰ期なのかもしれない。
東大研究室>法文1号館にみる大震災の記憶』によると、法文1号館の場所に震災前には通称「八角講堂」といった法科大学講義室があった。内田祥三はその八角講堂の土台をそのまま利用して法文1号館を建設することにした。そのため、西側の形状が角を削ったような形になったという。

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東京大学正門及び門衛所。文京区本郷7-3。2012(平成24)年4月28日

『東京大学本郷キャンパス』(東京大学出版会、2018年、2800円+税)によれば、正門のデザインは濱尾新(はまおあらた、1849-1925、帝大第3・8代総長)の注文による。「先づ日本的なもので、天地をあらはし、武士道の精神を示すべし」と言って営繕課技師の図案を蹴って、東京市内を巡回して赤坂見附の閑院宮邸の冠木門を見つけた。それをモデルに、営繕課の山口孝吉が製図、細部の意匠と扉を伊東忠太がデザインした。新旧の門の写真の古い絵葉書を貼った写真帖のようなものが当書に掲載されていて、そこに「東京帝国大学正門/大正元年/浜尾新発意/伊東忠太考案/山口孝吉施工」と書いてある。

帝国大学営繕課は1894(明治27)年に設置された営繕掛と明治40年頃に置かれた臨時建築掛とが1912(明治45)に統一して「営繕課」に格上げされた。その初代課長が山口孝吉。山口は1897(明治30)年、東京帝大工科大学造家学科卒業。1900(明治33)年、文部省建築課嘱託になり、帝大の建設に携わる。1907(明治40)年に帝大技師となり、営繕課長の彼が中心になって帝大の校舎が建設された。関東大震災後、それらの校舎はほとんどが建替えられたわけだが、「理科大学科学教室(化学教室東館)」が残っている。

東大新聞オンライン>COLUMN 2019.01.15 本郷キャンパス建築めぐり 明治期煩悶時代の正門』には、「明治45年7月10日に図書館で行われた卒業証書授与式の天皇陛下行幸をもって開門しました。正門の高さは、正門の行幸の際の騎馬儀杖兵の槍先を考慮したためともいわれています」とある。明治天皇は1912(明治45)年7月30日に崩御したからその直前である。『ウィキペディア』には「天皇は明治45年7月11日の東京大学卒業式に出席したが、気分は悪かったという」とあった。
明治天皇は1899(明治32)年に東京帝国大学の卒業式に臨席、優等卒業生に銀時計を下賜された。以降、それが恒例になり、1918(大正7)年まで続いた。「恩賜の銀時計」である(今日は何の日? 歴史辞典0710)。



東京大学正門及び門衛所。2012(平成24)年4月28日

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2010年頃から、東大本郷キャンパスの再整備が急に進みだしてようで、今も工事中の建物が幾つもある。本郷キャンパスの建物はその配置計画も含めて、関東大震災後に内田祥三(うちだよしかず)によって造りあげられたといっていい。なんとなくいつまでもそのままの状態でいくような気がしていたが、当然、そういうことはない。なくなった建物があれば、まったく新しい建物も増えた。そこで、東大の建物を本ブログにまとめてみることにする。参考資料として最近出版された『東京大学本郷キャンパス』(東京大学出版会、2018年、2800円+税)を多用する。


安田講堂。文京区本郷7-3。左:1988(昭和63)年1月30日、右:2012(平成24)年4月28日

安田講堂(東京大学大講堂)は関東大震災前に計画され、工事が着手された建物だ。『東京大学本郷キャンパス』には、正門からイチョウ並木の先に大講堂を置くという構想は濱尾新(1849-1925、帝大第3・8代総長)から出たものという。1912(大正1)年には正門が完成し、イチョウ並木も整備された。1921(大正10)年に安田善次郎から100万円の寄付があり、建設が具体化していく。
「ウィキペディア」では、「内田祥三が基本設計を行い、弟子の岸田日出刀が担当した。……1921年(大正10年)に起工し、関東大震災による工事中断を経て1925年(大正14年)7月6日に竣工」。鉄筋コンクリート造(一部鉄骨造)、地上7階地下1階。
『近代建築ガイドブック[関東編]』(東京建築探偵団著、鹿島出版会、昭和57年、2300円)では「設計については諸説あるが、学生時代から縦線を強調したデザインをよくした若き岸田日出刀と思われる。ゴチックのコンセプトと、表現主義的なモチーフをおりまぜた、様式より近代への懸樋である。全体のまとめは師の内田祥三であろうが、岸田の代表作となっている」としている。
「LIXIL」が発行している『LIXIL eye』という冊子の『生き続ける建築-6 内田祥三』には、内田の大講堂正面外観の図が載っていて、そのキャプションに「実施案以前の内田案には、「goth式ガ余リニ鮮明ナルコトガ如何ナルモ□□ヤ佐野」と付されている。この後、岸田のE.メンデルゾーン好きにいささか閉口させられる内田だが、大講堂で自案を捨て、似た構成で外観の異なる岸田案を推すに至る背後には、佐野〈利器〉のこの意見があったことになる。……」とある。




上:2007(平成19)年12月15日
左:2012(平成24)年4月28日

「ウィキペディア」によれば、1968(昭和43)年の東大紛争後、20年間も閉鎖されていたが、1988(昭和63)年から1994(平成6)に修復工事が行われた。富士銀行など旧安田財閥ゆかりの企業の寄付があった。1991(平成3)年には講堂での卒業式が復活している。
『東京大学本郷キャンパス』によれば、閉鎖中の1976(昭和51)年に、渡邊定夫教授の設計によって、安田講堂の前の広場の地下に中央食堂が建設された。
2011(平成23)年の東日本大震災の被災を調査した結果、躯体の耐震性と天井などの安全性が懸念された。創建当時の姿に戻す復元を目指す改修が行われる。ただし、講堂としての機能性を重視し、改変も許容するという柔軟な方針がとられた。創建時は自然光を構内に導いていたが、それを復活したのが特筆に値する。創建以来、最も大規模なものになったこの工事は2014(平成26)年に竣工した。



2007(平成19)年12月15日

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カフェー ホームランだった家。墨田区墨田3-12。2019(平成31)年3月2日

玉の井に赤線があった頃に「柳通り」と言われた路地のような裏通りにある、どうということもない住宅だが、カフェーだった名残りの円柱が残っている。『玉の井 色街の社会と暮らし』(日比恆明著、自由国民社、2010年、2800円)の地図によると、「ホームラン」という店だ。円柱は4本で、コンクリート洗い出しの表面。2か所の出入り口の左右にあったのだろう。家の左側の角の入口はトタンで囲った物置小屋で隠れてしまっている。2階の前面にはバルコニーがあったのかもしれない。

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相川ゴム工業所。墨田区墨田3-12
2019(平成31)年3月2日

銀月など、4軒のカフェーが入っていた長屋の向かいの長屋。古い航空写真を見ると、元は四軒長屋だったらしいが、両端が建て替わったようで、今は二軒長屋になってしまっている。その長屋に、「相川ゴム工業所」が入っている。
『玉の井 色街の社会と暮らし』(日比恆明著、自由国民社、2010年、2800円)の地図によると、この長屋に「ぎおん」と「第二福助」というカフェーがあった。赤線廃止の10年後の1968年の地図では「ぎおん/酒場/加藤」という記載。1978年の地図では「竹花工業所/相川ゴム工業所」。
場所は2棟の長屋に挟まれた行き止まりの路地だから、本来、他者は入ってはいけない路地である。ただこの路地にはカフェーの遺構であるタイル張りの円柱があり、住人が知らない人を目にしても、その目的が分かる。「変なものが好きだねえ」くらいに思って見逃してもらえるわけだ。

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銀月。墨田区墨田3-12。2019(平成31)年3月2日

玉の井に赤線があった頃に「柳通り」と言われた路地のような裏通り。3棟の戦前築の家が並んでいる。『玉の井 色街の社会と暮らし』(日比恆明著、自由国民社、2010年、2800円)の地図によれば、左手前が「八重菊」と「福助」というカフェーだった長屋。正面が4軒のカフェーが入っていた長屋で、その側面。その右が「ホームラン」というカフェーだった一軒家。
四軒長屋のカフェーは「銀月、うきよ、クモタ、あずま」である。その入口は上写真で八重菊と四軒長屋の間の路地を入っていかなければならない。その路地の写真が下の2枚で、奥は突き当り。目当ての豆タイルを貼った円柱が見える。今ではこれだけはっきりしたカフェーの遺構は何軒も残っていないだろう。
キューピーさんのコメントによると作家の清水一行(1931-2010年)の父親が「あずま」を経営していたという。『g2(ジーツー)』(講談社)という雑誌の2011年9月号に黒木亮という人が「兜町の男 - 清水一行と日本経済の興亡」という記事を載せていて、そこからの引用で『ウィキペディア』に、カフェーを開く経緯が書かれているが、詳しいことはよく判らない。「いろは通りから行くと花街の入り口近くにあり、上玉の女給7、8人を使って繁盛した」とあるが、場所があずまとは結び付かないうえ、女給7、8人を置くほどの大きさではないように思える。あるいはほかにも開業していたのだろうか?


カフェーが4軒入っていた四軒長屋。墨田3-12。2019(平成31)年3月2日

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カフェー 八重菊、福助。墨田区墨田3-12。2019(平成31)年3月2日

当ブログのコメントに、墨田区墨田の地区を中心に、特に玉の井についての貴重な情報を提供していただいているキューピーさんから、作家の清水一行について教えていただいた。なるほど、『玉の井 色街の社会と暮らし』(日比恆明著、自由国民社、2010年、2800円)の「玉の井出身の有名人」に載っている。また、『ウィキペディア』には玉の井との関連が述べられていた。清水一行の父親が経営していたカフェーはまだ残っているということなので、さっそく見に出かけた。

そのカフェーは、赤線があった時代に「柳通り」といった、くの字に曲がった路地のような道にある四軒長屋なのだが、ぼくは柳通りを歩くのは初めてだ。入り口からその路地を覗いても興味を引く建物が見えないし、柳通りという名称も知らなかったから、今まで入っていかなかった。今はその通りにあった古い建物のほとんどは建て替わっているのだが、数軒が残っているわけだ。
上の写真の家は波トタンで本来の外観を隠してしまっているが、奥に長い二軒長屋か三軒長屋らしい。『玉の井 色街の社会と暮らし』の地図に寄れば「八重菊」(建物の右側)と「福助」というカフェーだった。清水一行に関係する長屋は写真右の鉄板貼りの家。
赤線廃止後はカフェーの多くが飲み屋やバーに転業した。八重菊は1968年の住宅地図に「バーマリモ」と記載されている。

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日新商事㈱日本橋営業所。中央区日本橋本町3-10(現3-10)。2000(平成12)年2月17日

スエヒロ理容店だった建物がある交差点と同じ交差点に向いた看板建築風の建物。今は取り壊されて駐車場になっている。写真右の鳥居は宝田恵比寿神社で、べったら市のときは大変な賑わいだが、普段は来る人もいない。その前の通りには「えびす通り」という愛称がついている。
写真の建物は戦前に建てられたと決めていいかのかよく判らない。また特に興味を引く建物でもないが、こんなものが建っていた、という記録として出しておく。1970年代までは「相生産業㈱」だった。



左:ヨネタケ。日本橋本町3-8(現3-9)。2007(平成19)年3月26日
右:地酒堂歌仙。日本橋本町3-8(現3-9)。2016(平成28)年4月23日

左写真の出桁造りの家は1枚目写真左奥に写っている。今は改修されて「桐子モダン」という家具のショールームに替わった。
地酒堂歌仙はヨネタケの右の路地を入ったところ。花いっぱいの銅板貼り看板建築の右のビルにそばの「小倉庵本店」がある。昭和7年の火保図に「ソバヤ」と出ている店かもしれない。

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テーラー堀屋。中央区日本橋本町3-2(現3-6)
左:1987(昭和62)年9月13日、右:2008(平成20)年1月1日

昭和通りの東、江戸通りの南の街区で、まだところどころに戦前に建てられた木造の家が残っている。ただし消滅するのも時間の問題という感じだ。テーラー堀屋は小津和紙店(小津本館ビル)の裏にあって、今ストリートビューを見たら江戸切子の「華硝」という店に替わっていた。華硝は亀戸に本店があり、ここ「日本橋店」は2016年6月のオープンという。
三井嶺建築設計事務所>日本橋旧テーラー堀屋改修』によると昭和2年の建築。建物は二軒が入った長屋式のようなアパート式のような家で、正面から見ると総三階建てに見えるが、屋根は腰折屋根で、3階は屋根裏部屋である。今は裏が駐車場で、この家の裏側がSVでも見ることができる。3階は前の半分だけで、後ろは物干し台だったようだ。校倉造りのような模様や水平垂直線で構成されたデザインはアールデコの範疇だろうか? 



スエヒロ理容店。日本橋本町3-4(現3-7)。2007(平成19)年3月26日

テーラー堀屋の前を左(東)行くとすぐ四つ角で、その角にある元床屋だった建物。建物はまだ残っているが、写真右、隣の島ビルは2016年頃に取り壊されている。スエヒロ(末広)は昭和7年の火保図に「床ヤ」とある店と思われる。建物は戦後になって建て直されているようにも見える。

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