ぼくの近代建築コレクション
東京の都心と下町を中心に、戦前に建てられた古い建物の写真を投稿していきます。
 




山長鮮魚店。文京区千駄木3-38。2007(平成19)年12月1日

写真は「よみせ通り」の南部から北の方角を見ている。住所は左(西)が文京区千駄木、右が台東区谷中。よみせ通りは藍染川の流路で、自然と本郷区と下谷区の境となったのが今に引き継がれている。藍染川は大正末には暗渠に替わり、幅8mの道路の商店街になった。
看板建築が並んでいる。「山長」の四軒長屋は、軒の下に雷文模様や円柱を模した仕切りがあって、昭和初期の建物かと見える。ただし周囲にある看板建築は戦後の建築と見えて、山長の長屋もあるいは、と思わせる。山長の創業は大正中期という。

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上堀靴下。文京区千駄木2-34。1989(平成1)年5月5日

不忍通りの団子坂下交差点を東へ入ったところ。三崎坂(さんさきざか)の通りで、右奥が団子坂下交差点。そこからよみせ通りの入り口までの短い間だが「団子坂下柳通り」という商店街になっている。周囲は戦災で焼失した区域だ。
1986年の地図では「上堀靴下KK、五十嵐会計事務所、土屋油店(丸善灯油の看板)、佐々木麗芳堂……」。奥のビルは「ダイヤハイツ千駄木」(1984年3月築、8階建て27戸)。
今は「ツインパレス」(1992年築、9階建)と「千駄木リリエンハイム」(1993年築、10階建て50戸)の2棟のマンションに替わった。



勉強堂パン店。千駄木2-34。1900(平成2)年6月17日

1枚目写真から左(東)へ続く家並み。店は入れ替わっているが写真の3棟の建物は今もそのままだ。1986年の地図では「個人宅、沢田機械/大神化学、パン勉強堂」。現在は「ペチコートレーン(カフェ)、ひいらぎや(懐石料理)、甘味処百(もも)」。
写真中央下に昭和59年に設置された「枇杷橋跡」の案内板がある。正確な場所は少し左、信号の交差点である。枇杷橋は藍染川に架かっていた橋で、流路は大正末から昭和初期に埋め立てられて暗渠になった。橋の北は「よみせ通り」南は「へび道」と、不忍通りの裏通りのようになっている。また、本郷と谷中のそれぞれの台地との谷底になるわけで、団子坂と三崎坂(さんさきざか)の境でもある。

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とみやま人形店。茨城県土浦市桜町(さくらまち)1-9。2006(平成18)年11月5日

国道125号の桜川橋北交差点。左手奥に土浦駅前のイトーヨーカドー」(現「ウララ」、市役所)が見えている。『日本近代建築総覧』に「富山侃邸、桜町1-9-8、建築年=昭和2年、設計=富山竹治郎(自家設計)」とある物件だろう。
急勾配の屋根は洋館に違いないのだが、1階の店舗は商品の関係なのだろう、和風である。洋館の邸宅を店舗として使うため改修したのかと思う。接して建っている日本家屋の店舗が洋館に侵食してきたように見える。
現在は取り壊されて駐車場になってしまった。





国道125号桜川橋北詰の家並み。土浦市桜町1-12。2006(平成18)年11月5日

国道125号をとみやま人形店があったところから南へいくとすぐ桜川に架かる桜川橋である。写真は桜川橋の手前。右奥のマンションは川の対岸に建つ「セレナハイムリバーサイドステージ土浦」(2003年2月築、14階建117戸)。
現在は写っている3軒とも建て替わったか取り壊されて空き地の状態。

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中村時計店。茨城県土浦市桜町(さくらまち)3-5。2006(平成18)年11月5日

土浦駅から西のつくば市の中心部を結んでいるのが県道24号線。その沿道の土浦駅に近い部分で見かけた古い家を並べてみた。
古い商店建築は意外と少ない。日本の高度成長期に合わせて土浦も発展したため、建て替えが進んだためだという。看板建築は元々あまり建てられなかったのかもしれないが、ほとんどみかけない。「中村時計店」は今に残る看板建築として珍しい例だ。どうも営業しているようには見えない。右の、戦後に建てたか改修したような看板建築の家は、現在はなくなって住宅になっている。



海老原商店。土浦市桜町3-4。2006(平成18)年11月5日

出桁造りの商家。外灯に「海老原商店」の看板があって店名が判る。建築年を1923(大正12)年としているサイトがあった。横の壁が石張りでそこの窓が蔵に付いているような形だ。2階建ての店舗の後ろは平屋の倉庫か作業場になるのだろうか。その後ろに中庭、さらに後ろに蔵と3階建てのビル。そのビルを住居にしているのかもしれない。




居酒屋正宗、石松寿し
土浦市桜町3-4
2006(平成18)年11月5日

県道沿いの出桁造りの商家は住宅に替わってしまった。正宗は変っていない。横丁を入っところに青いトタンの壁の家があるがその並びを撮ったのが左の写真。2階建ての家は長屋の1階部分を増築して2階建てにしたものらしい。長屋は現在は取り壊されて駐車場になっている。「ナチュラル」というピンクサロンは今も営業している。

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坂本商店。茨城県土浦市川口1-9。2006(平成18)年11月5日

飯田屋本店から東へ150mほどの同じ並びにあった商家。つまり川口川の河岸に向いていた店である。なんの店なのか写真からでは分からない。あて推量で酒店か味噌醤油店? 看板がないから廃業しているのかもしれない。黄色い割と大きい看板は「土浦将棋会館」。
現在は取り壊されて駐車場になっている。また、川口川を埋め立てた流路は、この辺りでは高架道路と「モール505」というビルの商店街になったが、それ以前は市営駐車場だったという。『土浦・水郷都市の面影をたどる』というサイトによれば、市営駐車場の開業は1967年。その当時でも古い建物はかなり減っていたらしい。



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飯田屋本店。茨城県土浦市川口1-10。2006(平成18)年11月5日

武蔵屋の近くにあった、同じ業種の店らしい。武蔵屋も飯田屋本店も建っているのは川口川(かわぐちがわ)の河岸(かし)である。「モール505」という3階建ての建物5棟が連なる商店街と高架道路は川口川を埋め立てたところに建っている。川が水路として機能していた時代は、霞ヶ浦で採れた鰻やわかさぎはそのままこの店先で陸揚げされたのだろうか。あるいは港でまとめられてから艀で運ばれたのだろうか。建物が敷地から少し下がって建てられているのは作業場を確保したものかもしれない。
洋館の方はガラス戸に見えるように「茨城縣佃煮工業協同組合」の事務所だったのだろう。
建物は『日本近代建築総覧』に「飯田屋本店、建築年=昭和8年、設計=(自家設計)、備考=工費1万円」とある。
3.11の震災で建物が「危険」と判定され、2012年2月に取り壊された(『寝言は寝て言うも~ん>飯田屋本店 その後・・・』)。今は普通の住宅に建て替わって、駐車場の中の一軒家といった具合だ。



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武蔵屋。茨城県土浦市大和町(やまとちょう)6。2006(平成18)年11月5日

JR土浦駅西口から西北方向へ、土浦城へ向かう大通りと、かつての川口川(かわぐちがわ)の流路だったセンターモール505沿いの道路との角地にある建物。霞ヶ浦で捕れた魚を加工して売る店のようだ。建物の構造は判らないが見たところはRC造にタイル貼りの外壁に見えるが、二階建てなので木造なのだろうか。昭和10年前後の建築らしい。先端上部の装飾が独特である。その下の看板で隠された部分を見せて欲しいものだ。
左上の写真で、武蔵屋の右後ろに2軒の看板建築のような建物が写っている。撮影時には気が付かずに通り過ぎていた。





カットハウス イシカワ。土浦市大和町5。2006(平成18)年11月5日

土浦駅前の「ウララ」(市役所)(撮影時は「イトーヨーカ堂」)の向かい側。昭和初期に建った洋風にした看板建築かと見える。壁の上部に消えかけているが「石川美髪院」と読める字の跡が残っている。
下の写真はイシカワのすぐ右に残っている看板建築の店舗。


相場屋信右衛門薬局、鈴木手芸店。土浦市大和町4。2006(平成18)年11月5日

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やまちゃん鮮魚店。墨田区京島2-15。2013(平成25)年4月11日

平成順福の長屋があった四つ角のもう一方の角。左奥が押上の方向(南西)で、75mほど先で東武亀戸線の踏切を渡る。
写真右奥の緑色の日よけを出しているのが魚屋の「やまちゃん」。建物はトタン張りの二軒長屋だ。元は四軒長屋だったらしい。やまちゃんの右の家はそれを建て替えたのだと思う。
角の家は1985年の地図にはなんの商売か分からないが「(高砂屋)」という店の名前が書いてある。

下の写真は四つ角の北にある平屋の民家。正面右手に店舗にした部分がある。こういう形は不動産屋に多い。


民家。京島2-20。2013(平成25)年4月11日

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左:羽塚メッキ工業、右:民家。墨田区京島2-16。2013(平成25)年4月11日

曳舟たから通りの南の旧道は四ツ目通りとの角に、昭和12年まで屠獣所(屠殺場)があったので、地元の人はこの辺りの旧道を「屠殺場通り」といったという(『八広の爺ちゃん>押上小学校』)。明治末の地図に「寺島屠獣場」とある。
四つ目通りから旧道に入って東へ行くと、安食屋豆腐店の長屋のすぐ先で旧道は二股に分かれる。その間に挟まれた場所が明治の地図で「請地葭沼」とあり、「字葭沼」という地名も周辺に散在している。低湿地帯(京島2丁目交差点の標高が-0.8m)のこの辺りは、工場が進出してくる以前は沼などは方々にあったと思われるが、この近所に「葦沼」という沼があったのだろう。

写真は3枚とも、二股から南の道を行った沿道で目に付いた古い家。「羽塚メッキ工業」は1985年の地図から。「民家」は建て替わっている。



平成福順。京島2-16。2004(平成16)年1月24日

直交していない四叉路がある。川の流路、あるいは沼との関係でそうなってしまったのだろうか。その角にある家は改装されていて判りにくいが三軒長屋かと思う。「平成福順」は肉まんなどを製造販売している店。現在は右の2軒が建て直された。

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平屋の三軒長屋。墨田区京島2-13。2013(平成25)年4月11日

虎橋通りから路地を入ったところで、写真左奥に写っている二階建ての家(阿内製作所)の裏にもう1軒家があって、その家の裏は東武亀戸線が走っている。戦前の、虎橋通駅があった頃なら駅のすぐ裏という立地だったわけだが、今は京成曳舟駅や東武の曳舟駅まではちょっと歩く。少し遠いが押上駅に出てしまうのがいいのかもしれない。



木村理化学製作所。京島2-12。2013(平成25)年4月11日

平屋の長屋と同じ路地にある長屋。1階の軒先が食い違っているのは右の家の方が下に垂れてしまったのかと思う。古い航空写真では元は四軒長屋で、写真左の家は長屋の左2軒を建て替えたものらしい。

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