ぼくの近代建築コレクション
東京の都心と下町を中心に、戦前に建てられた古い建物の写真を投稿していきます。
 




大塚女子アパート。文京区大塚3-1。1987(昭和62)年2月22日

春日通りの茗荷谷駅前交差点の角にあった同潤会の女子専用のアパートメント。『日本近代建築総覧』では「大塚女子アパート(旧同潤会女子アパート)、大塚3-1-1、建築年=昭和5年、構造=RC5階建て、設計=同潤会建築部、施工=大阪橋本組、備考=「建築の東京」による」。
『消えゆく同潤会アパートメント』(橋本文隆他編集、河出書房新社、2003年、1944円)によれば、当時の住所は大塚窪町5、敷地買収=昭和3年7月、起工=4年5月、竣工=5年5月、貸付開始=5年6月、申込倍率2.0倍。部屋数は全158戸で、独身向け149戸、店舗向5個、その他4戸。
他の同潤会アパートとは外観がかなり異なる。『昭和住宅物語』(藤森照信、新建築社、1990年、4000円)によれば、同潤会のアパートの大方が建てられた後、スラム環境の整備という目的とは別の、中堅サラリーマン層、その中の「職業婦人」に安全快適な住居を提供するという目的が根底にあったとしている。女子アパートは同潤会の二代目理事長長岡隆一によって昭和3年に立案された。設計者は断定はしていないが、内務省社会局建築技師中村寛の名前を挙げている。
日本建築学会が東京都住宅局長に提出した『旧同潤会大塚女子アパートメントハウスの保存・再生に関する要望書』(2001年11月28日)では、「設計に関与したのは、当時、同潤会に嘱託として席を置いていた野田俊彦(のだとしひこ1891-1929)である。この野田は、大正4(1915)年東京帝国大学を卒業するが、その時の卒業論文が戦前期の著名な建築論で知られる「建築非芸術論」で、野田の理論と実際の建築活動との関連を知るための唯一の貴重な遺構でもある。」とある。また外観の特徴として「道路側全体に昭和初期に流行した表面に細かな筋の入った凹凸のあるスクラッチタイルが張られ、また、1階の店舗部分はアーチ状の開口部、住戸への玄関部の円柱など、全体の雰囲気は大正末期にわが国で新しい建築様式として流行した表現主義を簡素化したもので、時代の特徴をよく反映している。」としている。
東京オリンピックのために春日通りを拡幅したが、アパートはそのため1957(昭和32)の冬、地下室ごと曳家で4メートル移動している。

写真の1階の店舗は1986年の地図では左から「うな若、フロリダ洋菓子店、茗新フォット〈茗渓フォトサービス?〉、梅本〈窯出しそばの看板、以前は寿司屋だったらしい〉、フレンパン〈フジパンとエフエフショップの看板〉」。写真左端のビルは「公団大塚三丁目アパート」。
2002年春には住民は退去して空家になり、取り壊されたのは2003年1月頃らしい。現在、跡地は「TRC(図書館流通センター)本社ビル」(2013年9月築、12階建)に、公団アパートは「グランドール文京」(2015年11月築、14階建47戸)というマンションに替わった。



大塚女子アパート。1994(平成6)年11月12日

このアパートに戸川昌子(1931-2016)が入居していたのはよく知られている。「大いなる幻影」(1962年の江戸川乱歩賞)はこのアパートがモデルだ。『東京人2002年11月号』によると、入居したのは1948(昭和23)年で、戸川は母親と一緒に、住む家を探して焼跡の残る東京を歩き回っていた。疲れてあるビルの玄関にしゃがみこんでしまった時、そこに「空室アリ」の貼紙を見た。女子アパートに入居を決めたのは母親のほうだったのかもしれない。上の写真の階段が母娘が座り込んだという場所だろうか。

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両山堂印刷所。台東区池之端2-3。2007(平成19)年10月18日(4枚とも)

両山堂印刷所は不忍通りの池之端二丁目バス停の裏手にあるが、今は通りからも見える。食品容器などに貼られるラベルを印刷する会社のようだが、現在は事務所棟と思われる左写真の建物だけが残り、倉庫のような外観の工場と住居のような建物は「ザ・パークハウス上野池之端レジデンス」(2015年12月築、77戸、14階建)というマンションになってしまった。
看板の「レッテル」は次第に「ラベル」に置き換わって、今はほとんど死語である。それにつれて「レッテルを貼る」という常套句もあまり聞かなくなった。



ネットの情報によると、両山堂印刷所は1915(大正4)年の創業。写真の3棟の建物は1954(昭和29)年に建てられた。創業者が栃木県鹿沼市の出身で、両山とは男体山と筑波山ではないかという。
谷根千ウロウロ>光画館と両山堂印刷所(2006.06.20)』には、「両山堂印刷所本社は、ちょうどトロリーバス(都電)の「七軒町」停留所向かいに、あったそうです。現在は代替わりが進み、「光画館」という別会社となっていましたが、……銅板で覆われた建物は、昭和六十年代に現在のビルに建て替えるまであったそうです」とある。不忍通りの池之端二丁目交差点を東に入ると、すぐ右に都電の車両が置かれている「旧池之端七軒町都電停留所」があり、その向かいに「光画館」のビルがある。
1966(昭和41)年の住宅地図を見ると、池之端七軒町電停に向いて「両山堂印刷」があり、「ザ・ライオンズ上野の森」という高層マンションのところは「東京鉄道管理局/上野鉄道職員集会所」(後に「弥生会館/国鉄共済組合」)。池之端二丁目交差点に向いた「ビレッタ池之端」というマンションは地図では「上野弁天トルコ」。写真の建物にそれぞれ名称が入っていて2枚目の写真で、左から「KK両山堂」「KK両山堂印刷工場」「事務所」である。
その「事務所」は入母屋屋根のようなので構造は木造で、壁に大谷石を貼ったものだろうか。入り口のベランダを支える柱のデザインが異様である。角に柱を立てるのが普通だが、玄関を角に設けたため、その正面を開けたためだろう。ガウディを連想してしまう。

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大沼商店。品川区東大井6-10。2017(平成29)年6月24日

見晴し通りの商店街の中ほどで、菓子問屋の大沼商店の右(北)は「国際クリーニング」だった店、その右は「三木たばこ店」(1981年の地図では「三木雑貨店」)。左の駐車場には「ウエハラ」という肉店があった。大沼商店の建物は片流れ屋根と切妻屋根の2棟の家からなる。戦後に建て直した家だろう。右の2棟の看板建築も、古い航空写真を見ると、やはり戦後の建物のようだ。



亀屋万年堂。東大井6-11。2017(平成29)年6月24日

大沼商店近くの横町を西へ入ったところの民家。亀屋万年堂といえばナボナで有名な和菓子店だが、どう見てもただの民家で、その店と関係があるのかどうか分からない。
ブロック塀に「大井関ヶ原町会掲示板」が架かっている。こんな場所で関ヶ原とは驚いたが、「大井関ヶ原町」は旧町名で、昭和7年に成立し、昭和39年の住居表示変更で消滅した町名だった。ちなみに見晴し通りの東の東大井3丁目は「大井元芝町」だった。「品川区立関ケ原公園」「関ケ原シルバーセンター」などにその地名が残っている。
第Ⅰ章 品川区の景観特性と課題』に「町の中心を南北に流れる立会川の川筋に水車の堰(せき)が作られ、開拓された水田に水を送 っていたことからこのあたりのことを堰ヶ原と呼ぶようになり、「堰」が「関」に変わった。」とある。

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左:神山菓子店、品川区東大井3-2。右:松井畳店、東大井3-11。2017(平成29)年6月24日

JR大井町駅の東、東大井6丁目と3丁目の境の道路に「見晴し通り」と名前がついている。「見晴し通り商店会」の旗を吊るしたすずらん灯が並ぶ商店街だが、今はそこの商店は住宅やマンションに替わってきている。駅前の繁華街の商店や大型店には対抗できないわけだろう。
見晴し通りの名称はいつごろからあるのか分からないが、古くからある道のひとつで、かつては品川の海や富士山まで見えたという。戦前築の商店も数軒だが見受けられる。南北に通っている道で、西も東も見渡せたわけで、台地の尾根筋の道である。台地は目黒台の東端であるが、立会川に削られて南に垂れ下がったような形の高台になっている。その標高は15m位。西から流れてきた立会川は大井町駅のところで南に向きを変え、見晴し通りと東海道本線の間の谷を作っている。その部分が暗渠になって「遊歩道公園」になった。
写真の銅板張り看板建築は左のほうが1981年の住宅地図に「神山菓子」とある。横の自販機はその名残だろうか。
もう1軒の銅板張り看板建築は神山菓子店から200m南へ行ったところ。たぶん戦前からやっている畳屋と思われる。



横山アパート。東大井3-11。2017(平成29)年6月24日。松井畳店のすぐ南を東へ入る横丁にある古いアパート。

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鉄道会館(大丸東京店)。千代田区丸の内1-9。2005(平成17)年11月27日

つい最近まで、八重洲口といえば思い浮かぶのは写真のビルと決まっていた。ビルの名称は「鉄道会館」といったが、建ったばかりの頃は知らないが、誰もそんな名前は使わなかった。「東京駅八重洲口」というのが普通だった。JR東日本の子会社である「株式会社鉄道会館」が運営するビルで、そのHPによると、会社は1952年 9月の創立。鉄道会館(八重洲口の駅ビル)や東京駅名店街(現・東京駅一番街)を運営するために出来た会社らしい。
大丸はビル(鉄道会館八重洲本館)が6階建てで出来た1954(昭和29)年に開業。10月21日の営業初日には20万人が来店したとか。「行きも大丸、帰りも大丸」という宣伝文句は当時から使われた。1968(昭和43)年に12階建てに増築された。
大丸は2007年11月に、完成したグラントウキョウノースタワーに移転した。鉄道会館が解体されたのは2009(平成21)年。

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中央区立城東小学校。中央区八重洲2-2。1987(昭和62)年12月20日(6枚とも)

東京駅八重洲口から外堀通りの向かい側、すぐ裏手にある城東小学校がいよいよ取り壊しになる。東京駅前の再開発(八重洲二丁目北地区再開発)によるもので、44階建ての超高層ビルが2022年8月の竣工という計画。総事業費は約2400億円という。
城東小学校は、この夏休み中に坂本町公園(日本橋兜町)の仮校舎に移る。44階建てビルの1~4階部分に新校舎が造られる予定だ(『日刊建設工業新聞>八重洲二丁目北地区再開発(2017年4月19日)』。

右写真右端の木造の建物は、1986年の住宅地図に「京橋消防団第二分団/昭和小学校少年消防クラブ」とある。



城東小学校。左:玄関ホール。右:校舎はコの字型の平面でその北側校舎、その後ろの八重洲2-1にあるビルは、左から、ヤンマー東京ビル、八重洲GMビル、八重洲ビル、東京駅前ビル

写真の校舎は『日本近代建築総覧』では「区立城東小学校・昭和幼稚園(旧東京市城東尋常小学校)、八重洲4-3〈旧住所〉、建設年=昭和4年、構造=RC3階建、設計=東京市、施工=竹田組、備考=廊下にガス灯の跡あり。「東京市教育施設復興図集」による」。
外観には復興小学校に見られる特徴が表れている。『東京都中央区に現存する復興小学校7校舎についての見解』(日本建築学会関東支部、山崎鯛介、2010 年2月3日)には「この校舎は、柱形を外に出し、道路側ではその柱形上端を壁面から突出させるが、校庭側では上階窓上に庇を付けて、表情が変えられている。正面玄関上に設けられた深い庇、その下の持ち送りや門柱等により整えられた南側立面は、設計者が意を注いだところである。また、階段室や体育館の壁面に半円形の開口部を付けたり、シャワー室の東側を半円形平面とするなど、随所 にカーブを用いる点に表現主義的な特徴がよく見られる。」と書かれている。

「城東小学校」の名称は元々は日本橋2-3にある「日本橋プラザ」の場所にあった「日本橋城東小学校」から採られている。火保図では単に「城東小学校」の記載である。あるいは「日本橋区立城東小学校」ではなかったか、とぼくは疑っている。現在の八重洲の城東小学校は「京橋昭和小学校」だったが、昭和37年に両校が併合されて現・城東小学校が誕生した。実際は日本橋城東小学校は廃止され、京橋昭和小学校が城東小学校に改名したのである。



城東小学校。左:西側校舎、後ろは「住友生命八重洲ビル」(1966年5月築、9階地下4階建、再開発の対象)。右:北側校舎

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久安橋。中央区日本橋3。1991(平成3)年9月15日(3枚とも)

久安橋(きゅうあんばし)は東京駅八重洲口から東へ、新川2丁目へ向かう八重洲通りの、首都高の上に架けられている橋。首都高はかつての楓川(もみじがわ)である。昭和5年に竣工した震災復興橋梁で、鉄筋コンクリート製の1スパンのアーチ橋。そもそも八重洲通りが今の幅に拡幅されたのが震災復興事業によるもので、久安橋から東の八丁堀、新川の部分は新設されたものだ。
1962(昭和37)年に楓川が埋め立てられ、首都高が開通すると久安橋のところに室町ランプが設けられた。そのせいかと思うが、欄干のL字形の延長部分が取り除けられてしまった。その後1991(平成3)年に欄干などを造り直す工事がおこなわれて現在の姿に替わった。ぼくは橋を架け替えたのかと思っていたが上部を綺麗にしただけのようだ。元の欄干はよごれていたし、貧弱すぎるとみられたのだろうか。どうも余計な事をしたように思えてしかたがない。



八丁堀1丁目の方から撮ったもので、対岸は日本橋3-15。





竣工記念絵葉書。昭和5年3月。土木図書館所蔵。『土木学会附属土木図書館>戦前土木絵葉書ライブラリー 』より。



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橋本ビル。中央区京橋3-7。1986(昭和61)年12月30日

鍛冶橋通りの、昭和通りとの交差点のすぐ西のところ。右(西)が京橋交差点の方向。写っているビルは、1986年の住宅地図で見ると、左から「篠塚本社ビル、橋本ビル」(同じビルだが名称が二つになっている)「アビタシオンビル」「東京国立近代美術館〈フィルムセンター〉」「神谷ビル」、写っていないが「松平ビル」「近代ビル/アングル」が続いて写真に上部だけ写っている「第一生命相互館」。
下の写真が現在のものだが、橋本ビルと近代ビルが残って、あとは建て替えられた。今、ストリートビュー(2016年2月)を見ると橋本ビルが工事用パネルで覆われている。調べてみると17階建てのホテルを建てていた。
橋本ビルは昭和10年頃の火保図に「槌谷ビル」で載っている建物だろう。その地図では東京国立近代美術館のところは「日本活動写真株式会社事務所」である。昭和27年の火保図では、「篠原KK物産本社」と奥が「カトレム(洋食屋か喫茶店?)」。近代美術館はその昭和27年の開館で、「旧日活本社ビルを建築家の前川國男氏の設計により改装」したというが、それが写真の建物らしい。下の写真のビルに建て替わったのは1995(平成7)年。


近影。2013(平成25)5月19日

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片倉ビル。中央区京橋3-1。左:1988(昭和63)年2月21日、右:1986(昭和61)年1月19日

京橋3-1には京橋三丁目ビル、片倉ビル、蛇の目ミシンビルの3棟のビルが鍛冶橋通り沿いに並んでいた。片倉ビルは戦前築の近代建築、京橋三丁目ビル(1978年)は村野藤吾、蛇の目ミシンビル(1965年)は前川國男というそれぞれ有名な建築家による現代建築だった。これらが再開発によって、京橋3-2の駐車場になっていた場所と合わせて2013年4月に「東京スクエアガーデン」にまとめられた。ぼくは京橋三丁目ビルと東京大栄ビル(旧蛇の目ミシンビル)に関してはなにも知らなかったので写真を撮っていない。
片倉ビルは『日本近代建築総覧』では「片倉ビル、京橋3-2〈旧住所〉、建築年=大正11年頃、構造=7階建、設計=不明、施工=清水組、備考=「建築世界」17巻による」。『清水建設二百年作品集』には、「片倉館/1926(大正15)年5月/発注:片倉製糸紡績/設計:当社」があるから設計は清水組で関東大震災後に建てられたものだが大正期のビルである。また、「片倉館増築」として「1937(昭和12)年4月/発注:片倉製糸紡績/設計:大野功二」もおこなっている。



片倉ビル。左:2008(平成20)年10月3日、右:2007(平成19)年3月2日

片倉ビルの中で営業していた床屋は「名取理容室」。店の貼紙(『today's news from UK+>片倉ビル(続き)』)によると、1946年の開店で2009月1月28日で閉店した。

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丸藤鈴木商店。静岡県熱海市田原本町5。2004(平成16)年12月5日

仲見世商店街の県道103号側の入り口。信号は田原本町(たはらほんちょう)交差点。商店街のゲートは、そちらへ誘導しようという意思にあふれた看板とつながっている。現在は下の写真のような、だいぶ抑えた表現に替わっている。
写っている店は左から、赤い暖簾がちょっとだけ写っているのが路地の角にある「雨風本舗」(ラーメン)、1軒おいて「奥村バッグ店」、お茶とのりの「丸藤鈴木商店」、「大矢化粧品店」、「柏木薬局」(下の写真では「パスコ不動産」)、温泉まんじゅの「丹那屋」。


仲見世入口。2011(平成23)年5月20日




上:みのやパン店、左:丸福高橋
熱海市田原本町3、5。2004(平成16)年12月5日

上の写真は1枚目写真の左に続く街並み。県道103号は写真の田原本町交差点から左(南)へ曲がる。写真左奥へ行っている道路は平和通り商店街の入り口を通って熱海銀座へ下っていくバス通り。
みのやパン店の左はパチンコとスマートボールの店。この店が紹介されているサイトはひとつだけで「潰れてました」とあった。写真ではドアに「迎春」の紙が貼ってあって営業しているような感じだ。ストリートビュー(2015年12月)を見ると「営業中」の貼紙と共に「迎春2000年」のポスターが貼られている。目隠しに適当な紙を貼ったものらしい。
左写真はみのやの角を入った路地の中の四つ角。角の白い日よけには「丸福高橋」と土産店と思われるローマ字が書かれているがなんの店だか不明。黄色い日よけは「香蘭亭」(ラーメン)の看板をだしているがその店は右へ入ったところにある。青い日よけは「魚関」という干物屋。

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