ぼくの近代建築コレクション
東京の都心と下町を中心に、戦前に建てられた古い建物の写真を投稿していきます。
 




田中青果店。千葉県市川市市川2-33。2005(平成17)年3月7日

千葉街道(国道14号)のJR市川駅前の交差点から1本西の、北へ入る横町を「大門通り」という。そこをほぼ真北へ直線で1kmいくと国府台の台地に突き当り、そのまま階段で真間山弘法寺(ままさんぐほうじ)へ導かれる。大門通り入り口には「日蓮宗真間弘法寺」と彫られた石柱があり、その参道である。「大門」とは弘法寺の山門のことかと思うが、「おおもん」だか「だいもん」だか分からない。途中、京成線を踏切で横切るが、そこまでが「大門通り会」の商店街。昔は商店が並んでいたのかもしれないが、今は住宅の方が多い。
写真は千葉街道から大門通りに入ってすぐのところ。写真手前は「アキモト商店」という雑貨店。建物は昭和30年頃のものかという感じで、古くから続く店のようだ。次の果物店が戦前からの建物のようで、1階の店の部分を大きくとった日本家屋だ。
2階に銅板張り看板建築の外観を残した建物が武蔵屋酒店。『市川真間商店小史』によると、1914年に両国で創業し、戦災に会って疎開先の市川で開業したという。別荘を持っていたのかもしれない。建物が戦前のものだとすると、すでにあった建物を買ったことになる。近年、店の向かいにワインバー「Feria」を開店した。



武蔵屋酒店。市川市市川2-33。2005(平成17)年3月7日



民家。左:市川2-29。右:市川1-16。2005(平成17)年3月7日

武蔵屋を過ぎて北へいくと、しばらくは興味を引く建物はなく、300m以上行ったバス通りに出る手前に出桁造りの商家だった家が向かい合わせに残っている。店名もなんの商売をしていたのかも分からない。

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看板建築。中央区築地7-13。2004(平成16)年11月1日

居留地中央通りのあかつき公園の南を東へ入ったところ。あかつき公園は明石堀(隅田川から分流して築地川になる部分、通称だが分かりやすい)を1970年に埋め立てて造った公園。埋め立て前は居留地中央通りには南明橋が架かっていた。写真の通りは、昔は明石堀の河岸の背後の道だった。
看板建築が並んでいるが、すでに空家になっているような様子だ。その家並みの奥が読売新聞販売所だが、他の家は古い地図でも住居として使っていたようで、商店などの記載は見当たらない。
現在は「パークホームズ築地」(2012年8月5月築、14階建て64戸)というマンションに替わった。



読売新聞販売所。1枚目写真の奥から同じ家並みを撮った写真。2004(平成16)年11月1日



二軒長屋。築地7-13。2004(平成16)年11月1日

1枚目写真の右の横町を入ったところ。この横丁(居留地中央通りの1本東の裏通り)をずっと右(南)へ行ったところから撮った写真が、『東京ダウンタウンストリート1980's>中央区築地~その三』にある。その写真の「北海道ぎょれんビル」とその向かいの「旅館大宗」が今も変わらない。
写真奥の右のビルは築地7-9にある「中央区立築地児童館/区立築地住宅」の6階建てビルで、昭和60年1月に建った。それ以前は、1979(昭和54)年の地図では「中央区立生活館/区立結婚相談所」で3階建ての建物。さらに1966(昭和41)年の地図では「東京都水上生活館」である。
明石堀は水上生活者の船溜まりだったという。ネットでは『 Medical Finder >保健婦雑誌>15巻9号』の「はしけの人々をまもつて―水上生活舘の仂き」という記事が読める。1959年9月発行で、水上生活館を「ごく最近改築された美しい姿」と言っているので、「区立生活館」もその同じ建物だったと思われる。水上生活館は巡回船を持っていて、その「みんせい丸」が水上生活館裏の船着き場に着いている写真が『中央区立図書館>地域資料室』にあるのでお借りした。1957(昭和32)年、京橋図書館の撮影。建物は改築前のものだ。

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相模屋酒店。中央区築地7-6。1988(昭和63)年10月9日

写真の通りは、築地本願寺の北を通る通りの南の裏通りで、築地6丁目と7丁目の境になっている道路。角のモルタル壁の看板建築は山之内印刷の向かい側に今も残っている。相模屋酒店は廃業したらしく、10年前くらいにカフェになった。その隣のビルは彫刻看板と暖簾などの「多美屋」。商品を書いたそれぞれ異なった形の袖看板を6個も出しているが、現在はみな外してしまって、ちょっと寂しい外観である。その右の二軒長屋の看板建築は撮影時では空家のようだ。今は「MLビル」という6階建てのオフィスビルに替わっている。その右のビルは「居留地中央通り」との角になり、食品店の「み乃り屋ビル」。

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上:瀬角質店。中央区築地6-8。1988(昭和63)年10月9日
左:天ぷら金子。築地6-11。2004(平成16)年11月6日

上写真の左奥へ行くと晴海通りの築地6丁目交差点のすぐ東に出る。中央に写っている洋館付き住宅を撮った写真のようだが、その家は『北晃水産、他』で紹介済み。写真右の出桁造りの商家の家をきちんと撮っておけばよかった。この家は1966年の住宅地図に「瀬角質店」となっている。1979年の地図では個人名なので、それ以前に廃業したようだ。現在は「スカール築地」(1999年10月築、13階建て39戸)というマンションに替わっている。
天ぷら金子は洋館付き住宅の向かい側に、店は閉まってしまったが建物はそのままだ。波トタン張りの看板建築だが、かなり簡単な造りである。

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熱海商工会議所。静岡県熱海市渚町8。2011(平成23)年5月20日

国道135号の上り線と熱海銀座商店街が合わさる角にある古いビル。古典様式の、一目で銀行と分かる建物だ。イオニア式の柱は平面的で壁の模様のようだが、小さいビルだからこれで精一杯だろう。
近代建築レストラン散歩>熱海 近代建築さんぽ』には「かつての横浜銀行熱海支店だったよう」とあり、『あたみニュース>銀座商店街』には「1975年まで銀行として営業していた建物を利用した熱海商工会議所」とある。
横浜銀行の店舗の歴史』には、「静岡県熱海市に昭和27(1952)年 に熱海支店を開設し、20年以上にわたり営業していたが、50年に廃 止している。」とあり、どのサイトの記述も正確のようだ。
外観を見る限りでは、関東大震災後に建てた銀行建築と思われるが、それがなんという銀行だったのだろう? 静岡県を中心に展開していた地方銀行だろうか? 昭和25年の熱海の大火では、火元の直下といっていい場所である。内部は焼けたがRC造のため躯体は残ったとされているが、大火後、横浜銀行が建設した建物、ということはないだろうか?


熱海商工会議所。熱海市渚町8。2011(平成23)年5月20日

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おかめ。静岡県熱海市渚町9。2011(平成23)年5月20日

渚町の糸川より北の地区で、そこは昭和25年の熱海大火で焼失している。この辺りの古い家は、その大火後に建った家が今に残っているわけだろう。上の写真の家の「なぎさ中通り」の向かい側には「ファッションヘルス」やスナック、「案内所」まで入った水梅ビルがあって賑やかな感じがするのだが、写真の家の方は、昔の勢いは何処へやら、という状態だ。「おかめ」というお好み焼きの店が営業しているが角のほうの店はやっていない。写真右の路地へ入った隣の2軒も閉店している。
下の写真の家は「おかめ」の家と同じ四つ角に面している。空家のようだが、その家の路地の奥の店はGoogle地図に「福井商店」とある。「カゴメソース」の琺瑯看板があるから食料品店か肉店で、営業しているのかもしれない。



福井商店。熱海市渚町8。2011(平成23)年5月20日

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居酒屋・あーちゃん。静岡県熱海市渚町15。2011(平成23)年5月20日

当ブログ前回の「居酒屋みかく」の写真の左奥に写っている「なぎさ中通り」にある店。建物角の「食堂園」の看板の店はあーちゃんの隣だ。今、ストリートビューを見ると、食堂園の先の赤い日よけの店が「ラーメン屋・一徹」という店になっている。その隣の「富良野」は「季の食・妙(たえ)」に替わっている。入れ替わった2軒の店構えは以前の店のままなので、通りの家並みはまったく変化していない。下右の写真は1枚目写真右の路地



居酒屋食事処・富良野(渚町15)、路地(渚町18)。2011(平成23)年5月20日

熱海の、国道135号から海側の公園や町は埋めたによって造成されたものらしい。あるいは国道自体も埋め立てたと土地なのだろか? 渚町の全域もそうらしい。町の発展で、傾斜地しかない熱海の街が海へ押し出されたわけだろう。町の発展の契機はまず、熱海駅の開業だろう。1925(大正14)年3月25日である。それまでは東海道線の国府津駅から路面電車と軽便鉄道が通じてはいたが多くの客を扱えるような交通手段ではない。当時は熱海線の丹那トンネルが工事中で、まずは熱海までが開通したのである。そして丹那トンネルの開通により熱海駅が東海道線の駅になったのが1934(昭和9)年12月1日。それによって観光客は一段と増えた。
海岸の埋め立ての始まりは関東大震災で崩れた崖の土石を捨てる形で始まったのではないか、と考えてみたがどうだろう? そして昭和10年頃から土地造成を意識した埋め立てが始まったのではないだろうか? 丹那トンネル工事で出る土砂が埋め立てに使われたかもしれない。ただし、『闇を裂く道』(吉村昭著、文春文庫、1990年、466円)には、そういった記述はない。昭和16年には新丹那トンネルの工事が開始されている。そこで出る土砂は海岸に捨てられたかもしれない。
熱海まちづくりビジョン』には「(昭和25年の)熱海大火後には、埋め立てが進み、東海岸町 や渚町が誕生しました。」とある。その大火の出火元は渚町の北部である。大火後も渚町は南へ埋め立てが進んだのかもしれない。

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駐車場に裏側を見せる家並み。静岡県熱海市渚町18。2011(平成23)年5月20日

写真左のレンガ舗装の通りが「なぎさ中通り」という渚町(なぎさちょう)のメインストリートで、その糸川と初川の間である。飲み屋街の家並みが駐車場で切れてしまっている。昔はその駐車場にも小料理屋やスナックなんかが立ち並んでいたのだろうか? 駐車場に裏側を見せる家並みの表側は路地で、両側に飲み屋が並んでいるわけだが、この路地では営業している店は半分もないようだ。家は簡単な造りなのに三階を増築している。



居酒屋みかく。熱海市渚町18。2011(平成23)年5月20日

1枚目写真の左に写っている家。今、ストリートビューを見ると店は閉店してしまっている。写真右に看板だけが写っている「浜」も閉店して空家のように見える。浜と同じ建物のもう一方は、二階の凝った造りのベランダとその上の長く突き出た庇がカフェー建築に見えて注目されている。ぼくは気が付かずに路地には入らずに通り過ぎてしまった。

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波良橋。静岡県熱海市渚町。2011(平成23)年5月20日

渚町(なぎさちょう)を南北に貫通している通りを「なぎさ中通り」という。その通りの初川に架かるのが波良橋。とりあえず「なみよしばし」と読んでおく。熱海市の熱海地区には糸川、初川、和田川の3本の二級河川が「熱海の海岸」に注いでいるが、その3本ともが渚町を流れる。初川の源流は、ひとつは鷹ノ巣山(670m)、もうひとつが十国峠の南の熱海峠付近と姫の沢公園というところらしい。
簡単な親柱に「昭和二十八年四月竣工」とある。昭和28(1953)年というとぼくが小学4年生。世の中は、2月1日-NHKがテレビの本放送を開始、3月14日-バカヤロー解散、7月27日-朝鮮戦争休戦。映画は「君の名は」「東京物語」「シェーン」。


波良橋。熱海市渚町。2011(平成23)年5月20日

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イトウ美容院。静岡県熱海市渚町22
2011(平成23)年5月20日

熱海の渚町(なぎさちょう)は「熱海サンビーチ」という海水浴場の南につづく海岸沿いの町で、海岸は「親水公園」で、海には防波堤を造ってヨットハーバーができている。国道135号線が二つに分かれて互いに一方通行になる個所があるが、その二本の135号の間が渚町の街区である。だいたいが飲み屋街といっていい。
写真の渚町22番地は南北に長い町域の南端近くで、初川(糸川の南にある川)の南にある。この辺りだと飲み屋街とはいえない。イトウ美容院は今、ストリートビューを見ると窓が黒い布でふさがれていて明らかに廃業している。撮影時ではなんともいえないが、飲み屋街で働く女性が主な客かと思えるので、開店するのはもう少し遅くなってからかもしれない。1958年(昭和33年)まであった糸川花街の娼婦も客できたのだろうかと頭に浮かんだが、建物自体はそこまで古くはなさそうである。隣の下見板の家は廃屋らしいが、昭和30年代からすでに建っていたような感じだ。

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