ぼくの近代建築コレクション
東京の都心と下町を中心に、戦前に建てられた古い建物の写真を投稿していきます。
 




二軒長屋2棟。中央区佃3-4。1989(平成1)年11月26日

清澄通りの佃3丁目側の裏通りにある二軒長屋。現在も改装されて残っている。特に右の長屋は1階をすっかり住居の外観に変えていて、まだ使っていくつもりらしい。左の長屋の「第一パン」の看板は下の1年後の写真ではなくなっている。看板はたぶん、昭和25年頃の火保図にある「吉岡菓子店」だったときの名残だろう。現在は「住吉電器」になっている。


二軒長屋2棟。1991(平成3)年1月20日

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民家。中央区佃3-3。2005(平成17)年3月25日

清澄通りの佃3丁目側の裏通りにあった民家。入母屋屋根の日本家屋だが玄関とその横の応接間と思われる部分が洋風の造りにしている。現在は建て替えられた。
下左写真は上写真の民家の横の路地を入ったところ。奥が清澄通りに抜ける。かつては四軒長屋が両側に2棟ずつ並んでいたようだ。現在は清澄通り側にマンション(「シティハウス月島駅前キャピタルコート、2011年4月築、12階建て86戸」と「シティハウス月島駅前ベイブリズコート、2012年1月築、12階建て53戸」)が建ったが写真の長屋はまだ残っている。
下右写真は上写真の民家の向かいにある二軒長屋。



左:路地、佃3-3。右:二軒長屋、佃3-8。2008(平成20)年10月3日

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月島建具、川島商店。中央区佃3-2。2008(平成20)年10月7日

清澄通りの相生橋のすぐ南の家並み。川島商店の右が当ブログ前々回『上むら/佃3』の「魚がし銘茶」のビルである。古い家が並んで残っている。川島商店は電気店の看板があるが、米店と燃料店を経営しているようだ。昭和25年頃の火保図に「川島燃料店」で載っている。
写真の表通りの裏には今も戦前の民家や長屋が残っている。下の写真は月島建具の左の路地を入ったところで、かつては路地の両側に寄棟屋根の二軒長屋が4棟ずつ並んでいたようだ。





路地の長屋。佃3-2。2008(平成20)年10月3日

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長屋。中央区佃3-2。1989(平成1)年12月31日

清澄通りの相生橋のすぐ南、新佃島交差点(現在はその表示はない)を東へ入ったところ。当ブログ前回『上むら/佃3』の写真の右手に写っている長屋で、以前、『高津工務所/佃3』で取り上げたが、別のアングルの写真なのでもう一度出してみた。二軒長屋が4棟並んでいる。右端の長屋は下の写真の高津工務店の長屋で、看板建築に改装している。その右の棟の1軒は2階前面を部屋を増築している。

下の写真の高津工務店は、写真では白く飛んで分からないが、2階上の壁に「㈱太洋紙手」の文字が残っている。「紙手」とは竹の棒の先に造花みたいなものをつけたものらしい。祭りで使うものだ。あるいは「紙垂(しで)」のことかもしれない。写真右は市原菓子店。
現在、高津工務店の長屋は左半分がビルに建て替わり、高津工務店の方は表面を改装して「ツクダレストハウス こころ」の看板を出している。軽食堂といったものらしい。写真左の長屋の1軒が昔のままの姿で残っている。


高津工務店。佃3-2。1991(平成3)年1月20日

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上むら(そば)。中央区佃3-2。1990(平成2)年頃

清澄通りの相生橋のすぐ南、新佃島交差点(現在はその表示はない。都電の新佃島停留場があった)。旧町名は「新佃島東町2丁目」。
交差点の角は駐車場(1986年の住宅地図では「田口ビル」)で、その裏の路地の角が反った屋根の「上むら」というそば屋。写真左のビルは「魚がし銘茶」。上むらは現在、月島のムーンアイランドタワーの低層棟にある店だと思う。そこのHPには「創業60年」とある。
現在は駐車場のところにビルが建ち、上むらの建物も3階建てのビルに建て替わった。写真右奥の長屋は『高津工務所/佃3』の1枚目の写真の長屋。元々は二軒長屋が4棟ならんでいたようだが、現在その1棟の半分が残っている。上むらの後ろの長屋は今も何軒か残っている。

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子規庵。台東区根岸2-5。2001(平成13)年4月19日(写真の日付は設定ミス)

根岸子規庵』によると、正岡子規がこの地(下谷区上根岸82番地)に移ってきたのは1894(明治27)年2月。「建物は、旧前田侯の下屋敷の御家人用二軒長屋」という。子規は1902(明治35)年9月19日、35歳で逝くが、この家での生活はNHKドラマ「坂の上の雲」で、広く知られるようになったと思う。子規の没後も母の八重と妹の律が住み、句会、歌会の世話をつづけた。建物は昭和元年に解体、旧材による復元工事をした。昭和2年八重が亡くなった後、土蔵を建てて遺品や遺墨等を保管した。律(ドラマでは菅野美穂)は昭和16年に逝去。建物は昭和20年4月14日の空襲で焼失するも土蔵は残った。戦後、子規庵の再建に奮闘したのが子規の高弟、寒川鼠骨だった。

『新東京文學散歩』(野田宇太郎著、角川文庫、昭和27年、100円)には、著者が昭和26年3月16日に子規庵を訪って鼠骨に会ったことが書かれている。「上根岸八十二番地。財團法人子規庵保存會、歌集阿加雲發行所、寒川陽光」の掛札がある家で声かけても返事がないので、家の横から裏庭へ廻り呼ぶと隣家の寒川家から中年の婦人が出てくる。隣家は「子規の門弟で今年77歳の寒川陽光(鼠骨)老の戦後のバラック住宅で、子規庵とは屋根続きでもある」。鼠骨はすでに病身だったらしい。野田は昔のことをいくつか質問して、樋口一葉ゆかりの竜泉寺町へ向かう。

野田宇太郎と前後して野坂昭如が子規庵に来ている。『東京十二契』(野坂昭如著、文春文庫、1987年、340円)に書かれている。昭和26年の春、早大文学部地下のアルバイト斡旋所に「求む留守居、部屋無料提供、連絡先 寒川光太郎」の貼紙を見て応募したのである。野坂は寒川光太郎が芥川賞作家だと知っていた。面会したのがその人なのか、鼠骨との関係はどうなのかは不明だ。子規庵の留守居だと知らされて、驚喜する。意外なことに、野坂は戦争が終わってしばらくの間、俳句に関する本ばかり読んでいた。子規に傾倒して『墨汁一滴』『病牀六尺』『仰臥漫録』を愛読し、「ホトトギス」を定期購読して投稿もしたという。ぼくにとって野坂昭如といえば『エロ事師たち』や『骨餓身峠死人葛』などである。俳句をやるとは知らなかった。昨年、野坂が亡くなったとき、テレビではもっぱら『火垂るの墓』と『おもちゃのチャチャチャ』ばかりが言われて違和感をもったものだ。野坂は早速子規庵に行ってみる。「引き戸を開けて、声をかけたが答えはなく、右手の庭を進むと、廊下に足を投げ出し大の字なりに横たわったもんぺ姿の男がいる。鬚面でむくんだような表情、昏々ねむっているのだから、起すのもはばかられ、突っ立っていると、奥の土蔵から若い男があらわれて、「寒川鼠骨さんです」」。野坂はその応対にでた男としばらく話しただけで帰る。酒好きの人間では留守居に向かないと断られたらしい。

子規庵のブロック塀はどうもいただけない。無断で入られないようにするのは仕方ないが、なにか工夫がないものだろうか。

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書道博物館。台東区根岸2-10。2006(平成18)年4月19日

JR鶯谷駅北口から北へ、言問通りを超えると根岸2丁目(旧町名は上根岸町)で、JRの線路と尾久橋通りに挟まれた地域だ。北の境を超えるとすぐ日暮里駅で荒川区に入る。鶯谷駅の周辺(根岸1丁目)はラブホテル街として有名だが、2丁目にもけっこうあるようだ。根岸2丁目には書道博物館のほかに、ねぎし三平堂、子規庵、豆腐料理の笹の雪などがあって、観光資源がそこそこあるわけだが、観光客はあまり目につかない。
書道博物館はそのHPには「洋画家であり書家でもあった中村不折(1866-1943)が、その半生40年あまりにわたり独力で蒐集した、中国及び日本の書道史研究上重要なコレクションを有する専門博物館」で、1936(昭和11)年11月の開館。1995(平成7)年12月、台東区に寄贈され、中村不折記念館(不折の作品と関係資料を展示)を建造して、平成12年4月に「台東区立書道博物館」として再開館した。
中村不折は1899(明治32)年12月、34歳で下谷区中根岸町31番地(現・台東区根岸3丁目12番地)に住むようになり、1915(大正4)年に現在地に移転した。
建物は『日本近代建築総覧』に「書道博物館、根岸2-10-4、建築年=昭和11年、構造=RC2階建、設計=荒谷儀八、施工=四ノ宮工務店/高瀬工務店、備考=書庫大正15年。陳列館昭和8年」となっている。写真の2階建てとそれをつなぐような1階建ての建物が書道博物館でいう「本館」、右後ろが「新館」である。『総覧』でいう「陳列館」は本館を二つに分けていったものだろうか? 

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矢島写真館。台東区根岸4-1。1991(平成3)年9月23日

金杉通りの金杉通り交差点のすぐそばにある小さな洋館風の写真館。2013年6月末で店主(三代目)の高齢化や写真の電子化の普及による仕事の減少などで閉店してしまったので、建物もいつまであるか心もとない。
上野経済新聞>大震災・戦火にも耐えた根岸「矢島写真館」が閉店-95年の歴史に幕』には、「1918(大正7)年に開業。洋風の建物は、1930(昭和5)年ごろ板張りの外壁をタイル張りに改装したが玄関や内部は大正期のまま。1階を住居、2階をスタジオとして使っていた」とある。
『東京路上細見3』(酒井不二雄著、平凡社、1988年、1900円)に、関東大震災直後の矢島写真館の写真が載っている。建物は倒壊していないが瓦や壁の落ちたのが家の前に積み上げられ、家の傾きを直すのだろうか、丸太が家に立てかけられていて、その丸太の位置を大工だか鳶の職人が調整しているようだ。矢島写真館の隣は出桁造りの「和洋/諸金物商/野口商店」(今の野口金物店)で、同じ復旧作業をしている。矢島写真館の建物は下見板張りの洋風の家で、窓や玄関の配置は今と変わらない。その写真のキャプションに「矢島写真館は……大正8年(1919)に創業したが、建物はそれ以前のもの」とある。
『東京路上細見3』には前店主(当時74歳)の言葉が収録されている。「昔の根岸はそりゃよかった。もともと大きな寮やお屋敷の多い土地柄でしょ。裕福な方が多かったし、大正末からは花街が賑わい、ポートレートを撮っていた私は、息つく暇もないほど忙しかった。ことに花街は大のお得意で、芸者衆が季節に応じて衣装替えするたびにその艶姿を撮り、お座敷に呼ばれて記念撮影をしました。……朝鮮動乱後の神武景気のころが最盛期で、芸妓も200人くらいいたんじゃないかな。料亭だけでも30軒はくだらなかったと思います」。
今、ストリートビュー(2016年2月撮影)を見ると矢島写真館の向かい側、下谷3-3では金杉通り沿いに15階建てマンションの建設が始まっている。かつての電車通りはマンションが立ち並ぶ通りになっていくようだ。そんなに部屋が売れるものなのだろうか?

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小林家具店。台東区根岸3-16。1989(平成1)年3月26日

当ブログ前回の宮本不動産のすぐ北の街並み。1階を車庫にしたしもた屋は1966年の地図で「永田商店」、中央に「小林家具店」、右の行き止まりの路地との角は「日浦工務店」。下の写真では左の鈴木食品工業(旧宮本不動産)から日浦工務店までが写っていて、建物は戦前のままのように見える。現在は永田商店だった建物が3階建ての住居に建て替わったが、ほかは変らない。小林家具店と日浦工務店は看板を下ろしてしまった。そんななかで「クボタ(窪田)洋品店」(下の写真左手の緑の日よけ)が商売を続けているのに感心する。


鈴木食品工業~日浦工務店。根岸3-16。2008(平成20)年5月7日

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宮本不動産、国分製本。台東区根岸3-16。1989(平成1)年3月26日

金杉通りの柳通り交差点と根岸3丁目交差点との中間あたり。現在も建物は写真のままに残っている。写真右端の建物が「鈴木食品工業」で、袖看板は「マルエスソース」。現在はその会社が「宮本不動産」の建物を使っている。
宮本不動産はわりと凝った洋風看板建築で、幅は2・3軒で使えるほどがあるが、奥行きがない。使いづらい建物ではないかと思うが、駅前のラーメン屋なんかにこんな狭い建物で営業している店がある。1966(昭和41)年の住宅地図では「大丸中華」とあった。
横丁に入った「国分製本」は建物もそのままで今も続いている。



加藤理髪店。根岸3-16。1989(平成1)年3月26日

宮本不動産の横を入ったところ。この横丁はすぐ世尊寺の山門にぶつかり、そこで左右の細い裏道になる。世尊寺の参道になる道なのだろう、割と幅の広い横丁である。江戸時代からある古い道だ。
加藤理髪店の左にトタン貼りと思われる看板建築があった。当時の地図でも空家で店名は判らない。1966(昭和41)年の住宅地図では「理容カトー」のようなのだが。

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