子規庵。台東区根岸2-5。2001(平成13)年4月19日(写真の日付は設定ミス)
『根岸子規庵』によると、正岡子規がこの地(下谷区上根岸82番地)に移ってきたのは1894(明治27)年2月。「建物は、旧前田侯の下屋敷の御家人用二軒長屋」という。子規は1902(明治35)年9月19日、35歳で逝くが、この家での生活はNHKドラマ「坂の上の雲」で、広く知られるようになったと思う。子規の没後も母の八重と妹の律が住み、句会、歌会の世話をつづけた。建物は昭和元年に解体、旧材による復元工事をした。昭和2年八重が亡くなった後、土蔵を建てて遺品や遺墨等を保管した。律(ドラマでは菅野美穂)は昭和16年に逝去。建物は昭和20年4月14日の空襲で焼失するも土蔵は残った。戦後、子規庵の再建に奮闘したのが子規の高弟、寒川鼠骨だった。
『新東京文學散歩』(野田宇太郎著、角川文庫、昭和27年、100円)には、著者が昭和26年3月16日に子規庵を訪って鼠骨に会ったことが書かれている。「上根岸八十二番地。財團法人子規庵保存會、歌集阿加雲發行所、寒川陽光」の掛札がある家で声かけても返事がないので、家の横から裏庭へ廻り呼ぶと隣家の寒川家から中年の婦人が出てくる。隣家は「子規の門弟で今年77歳の寒川陽光(鼠骨)老の戦後のバラック住宅で、子規庵とは屋根続きでもある」。鼠骨はすでに病身だったらしい。野田は昔のことをいくつか質問して、樋口一葉ゆかりの竜泉寺町へ向かう。
野田宇太郎と前後して野坂昭如が子規庵に来ている。『東京十二契』(野坂昭如著、文春文庫、1987年、340円)に書かれている。昭和26年の春、早大文学部地下のアルバイト斡旋所に「求む留守居、部屋無料提供、連絡先 寒川光太郎」の貼紙を見て応募したのである。野坂は寒川光太郎が芥川賞作家だと知っていた。面会したのがその人なのか、鼠骨との関係はどうなのかは不明だ。子規庵の留守居だと知らされて、驚喜する。意外なことに、野坂は戦争が終わってしばらくの間、俳句に関する本ばかり読んでいた。子規に傾倒して『墨汁一滴』『病牀六尺』『仰臥漫録』を愛読し、「ホトトギス」を定期購読して投稿もしたという。ぼくにとって野坂昭如といえば『エロ事師たち』や『骨餓身峠死人葛』などである。俳句をやるとは知らなかった。昨年、野坂が亡くなったとき、テレビではもっぱら『火垂るの墓』と『おもちゃのチャチャチャ』ばかりが言われて違和感をもったものだ。野坂は早速子規庵に行ってみる。「引き戸を開けて、声をかけたが答えはなく、右手の庭を進むと、廊下に足を投げ出し大の字なりに横たわったもんぺ姿の男がいる。鬚面でむくんだような表情、昏々ねむっているのだから、起すのもはばかられ、突っ立っていると、奥の土蔵から若い男があらわれて、「寒川鼠骨さんです」」。野坂はその応対にでた男としばらく話しただけで帰る。酒好きの人間では留守居に向かないと断られたらしい。
子規庵のブロック塀はどうもいただけない。無断で入られないようにするのは仕方ないが、なにか工夫がないものだろうか。
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