ぼくの近代建築コレクション
東京の都心と下町を中心に、戦前に建てられた古い建物の写真を投稿していきます。
 




中央米穀販売所。中央区湊2-9。左:1987(昭和62)年5月3日、右:2004(平成16)年1月1日

鉄砲洲通りの鉄砲洲公園のすぐ南。路地との角にある銅板貼り看板建築は、現在は取り壊されて駐車場になっている。後ろは3階建ての家で、その、路地に軸を置いた家と通りとの三角形の余白に2階建ての看板建築が突き出しているようだ。銅板貼りにすると和風のデザインにする場合が多いが、この家は短い水平線を基調に縦の線とギザギザの帯というアールデコ風の洋風デザインだ。



秋山印刷所。湊2-11。1991(平成3)年11月11日

鉄砲洲通りの、1枚目写真のところから少し南の向かい側にあった銅板貼り看板建築の三軒長屋。撮影時はバブル期の最中で、この後すぐバブルははじけたようだが、写真の長屋はたぶん地上げにあったのだと思う。それから25年経ったがいまだに広大な空き地のままだ。それでも、「湊二丁目東土地区画整理事業」というのがあるので、これから動きがあるかもしれない。

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区立鉄砲洲小学校。中央区湊1-4。1987(昭和62)年12月20(4枚とも)

現在、鉄砲洲児童公園に、1976(昭和51)年に開校百年を記念して建てられた石碑があり、そこに「鉄砲洲小学校の沿革」を記したプレートがはめられている。それには、「1877(明治10)年7月、京橋区南飯田町一番地に築地小学校として開校」「1892(明治25)年9月、京橋区新湊町三の四の五へ移転」とある。そこは現在の湊2丁目になるようで、関東大震災後に鉄砲洲通りが通されることで、現在地に建てられたのが写真の校舎である。「1910(明治43)年5月、東京市鉄砲洲尋常小学校と改称」した。
写真の校舎は東京市が建てた震災復興小学校。2010年に日本建築学会が中央区へ出した保存要望書によると、「起工=昭和3 年4 月20 日。竣工=昭和4 年3 月19 日。設計担当者=原田俊之助。施工=上遠合名会社」である。原田俊之助は東京市土木局の主任技師ということだが、明石小学校、泰明小学校にもかかわっている。外観の特徴は大きい窓の間に円柱の柱型を通して、その上に単純な庇を設けていること。全体は立方体の組み合わせで、出入り口などをアーチの開口部にしている。


鉄砲洲小学校は1993(平成5)年4月に八丁堀の京華小学校と合併して「中央小学校」になった。なんとも味気ない名前になったしまったものだ。2010(平成22)7月まで、写真の校舎を改修して使っていたが、その後解体され、2012(平成24)年10月に現在の新校舎が完成した。


鉄砲洲小学校体育館

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日本不動産。中央区湊1-14
上:2004(平成16)年4月17日
左:1987(昭和62)年10月11日

湊1・2丁目の隅田川に沿った通りの隅田川の側には、かつては倉庫が立ち並んでいた。それらは今は、1丁目ではマンションやオフィスビルに建て替わり、2丁目は再開発が進んでいる。今残っている倉庫は日本不動産の建物を除けば、その北に2棟並んでいるだけになってしまったようだ。その倉庫(日昇印刷)も正面からでは倉庫とは判らず、また倉庫としては使われていないと思う。
日本不動産の銅板貼りの建物は、1階の庇や屋根の先端が壁より前に出ていて看板建築とは言いにくいが、そう言っても特に異論をはさむほどのこともない。建物を後ろから見ると分かるが、事務所の建物と小さな倉庫の2棟がくっついている構造である。
昭和10年頃の火保図に「中元」、昭和25年頃の火保図には「中元産業KK」とあるから、中元(なかもと?)産業という会社が建てたものらしい。1987年に撮った写真には、建物の2階、横の角の壁に「中」の金文字が残っていて、その下にとれてしまっていたが「元」の字の跡が読める。
2枚目の写真では場所によって銅板の貼り方が異なるのが分かる。事務所棟の左端に「中央区湊町一丁目一番地」の古い住所表示板が貼られている。「町」がとれてしまったのは、1971(昭和46)年1月の住居表示の変更から。番地も振りなおされた。


日本不動産の裏側。湊1-14。2004(平成16)年4月17日

日本不動産の横の路地を入ると小さな祠があり、日昇印刷の倉庫も眺められる。路地の奥は隅田川の堤防で、階段があるので隅田川のテラスへも降りられる。この路地はストリートビューで見ることができる。

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左:銅板貼り看板建築。中央区湊1-13。2008(平成20)年7月14日
右:モルタル塗看板建築。湊1-13。1987(昭和62)年7月26日

右写真の家は南高橋の西の袂から南へ入ったところにあった家。今は3階建ての集合住宅に建て替えられている。この家の横の路地を入ったところにあるのが左写真の家。この銅板貼り看板建築の家は今も残っていると思う。この家の左、路地と横町との角の家は。当ブログ『大月酒店、イシワタ産業』のイシワタ(石綿)産業の二軒長屋。今は南高橋の通りとの角にあった大月商店になっている。壁が改装されて以前の古い看板建築のファサードは失われた。



モルタル塗およびトタン張り看板建築。湊1-13。2004(平成16)年1月1日

いずれの家も住居または仕舞屋のようで、外観から「看板建築」というしかないような家が並んでいる。当ブログ『鉄砲洲薬局』の鉄砲洲薬局の横を入ったところ。写真左奥の三階建ての家は今も残っている。その右から手前の角までは「メゾンドゥリエール」(2010年10月築、7戸)という4階建て集合住宅に替わった。

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南高橋。中央区湊1。1987(昭和62)年7月26日

亀島川の最下流に架かる橋。ウィキペディアによると、下路式単純プラットトラス橋という形式で、1932(昭和7)年3月の竣工。東京市復興局の計画、東京石川造船所の製作。トラスの鉄骨は1904(明治37)年に架橋された旧両国橋のものを流用した。幅は1/3ほどに、高さも縮められたそうだ。

現在は橋の出入り口の門にあたる部分の柱の上に装飾の塔や板が取り付けられている。これらは、いつの工事だかわからないが、復元したものだ。手すりの高さの、石造り風の親柱も追加したもの。門の梁も山形に作り替えている。東京都復興記念館に旧両国橋の装飾塔が保存されているので、それを参考に復元したのではないかと思う。橋の説明板が1990(平成2)年に設置されたものなので、復元工事はその頃だろうか。


『Google地図>ストリートビュー(2015年6月)』から

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港橋。静岡県伊東市渚町。左:2015(平成27)年5月29日、右:同年1月18日

港橋を渡しているのは、いちょう通りと海岸沿いの国道135号を結ぶ道路で、国道から入ってすぐのところ。橋の欄干に「唐人川通り」の表示板が貼られているから、そういう名前の通りだと知れる。唐人川がまさに港橋の下の川である。ごく小さい川で幅は乗用車1台分くらい。下水の掘割のように見える。橋の辺りでは北へながれてすぐ、国道の渚橋の下で伊東大川(松川)に注いでいる。
橋の欄干がアーチ橋をかたどっている。子供が渡って遊ぶのにはよさそうで、手すりがつく前には川面に落ちて笑われた子供もいたかもしれない。橋につけられた銘板では「昭和三十一年八月竣工」と読める。

唐人川のいわれが気になるが定説はないらしい。この小さな川が伊東市の歴史に2回登場する。ひとつは、ウイリアム・アダムス=三浦按針が1605年に様式帆船を建造したのが松川河口の唐人川合流地点だったということ。もうひとつは、国の天然記念物に指定された浄ノ池の水が唐人川に流れていたことだ。浄ノ池で見られた、海水域に生息するはずの南方系の魚は、唐人川をさかのぼってきて、そこにすみついてしまったのである。1982年(昭和57年)に天然記念物の指定は解除され、池は埋め立てられてしまった。1958(昭和33)年の狩野川台風による被害、温泉の湧出が止まったことによる環境の変化で異魚がいなくなったことが理由とされる(ウィキペディア>浄ノ池特有魚類生息地)。


港橋。左:2015(平成27)年5月29日、右:同年1月18日

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伊東東郷記念館の石垣と門。静岡県伊東市渚町。2015(平成27)年5月29日

国道135号旧道の大川橋の南の袂から川沿いの道を、松川藤の広場を右に見て下流へいくと、東京電力の建物がある手前に「東郷小路」の石碑がある。その角を入って行けば東郷記念館がある小道へ導かれる。その石碑には物語があるわけだが、ぼくはよく理解していないので省略する。
東郷記念館は土・日曜日の開館で、撮影日は閉まっていたので道路から撮った写真しかない。下の写真は門の上にカメラを差し上げて撮ったもの。
以下、伊東東郷記念館のHPを参考にした。
東郷記念館とは東郷平八郎が昭和4(1929)年にテツ夫人のリウマチの療養のために建てた別荘。東郷元帥は別荘を建ててから5年後の1934年86歳で亡くなり、別荘は33年まで利用されたとされる。別荘だから元帥も夫人も居住したわけではないと思う。たまに訪れては温泉につかって休養したのだろうか? 夫人がなくなったのはいつなのだろうか? 
別荘の敷地は400坪、建物は平屋の普通の日本家屋。今なら「さすがは東郷元帥の別荘、すごーい」と感じる人もあるだろうが、建った当時の感覚だと、ちょっとした商家の別荘といった程度で、東郷元帥にしてはごく質素なものと受け取られたのではないかと思う。
建物の施工は地元大工の「里辰」というが、この名前は棟梁の屋号だろうか? 3年後の1932(昭和7)年8月に離れを増築している。
別荘の所有者は何度も変わったが、取り壊して保養所を建てようとした人はいなかったらしく、建物と庭が今に伝えられた。2010年12月から渋谷区神宮前の東郷神社の所有になり、2012(平成24)年12月に伊東東郷記念館が開館した。


伊東東郷記念館。2015(平成27)年5月29日

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伊東観光番。静岡県伊東市渚町。2015(平成27)年5月29日

伊東大川(松川)に架かる大川橋(国道135号旧道を渡している)のすぐ南にある観光案内所。1958(昭和33)年に伊東警察署の「松原交番」として建てられたもの。静岡県では最も古い交番の建物だという。2009年に登録有形文化財に指定されている。構造は補強コンクリートブロック。1958年の建築ならそう古い建物ではないが、静岡県では一般に交番は木造が多かったので、古い交番が残らなかったのだろうか? 2006年に現在の観光案内所兼交番の形になった。1階正面の左右に大きくRをとったかわいい建物だ。




秋月菓子店、飯田美容院。伊東市渚町
上:2015(平成27)年1月18日、左:同年5月29日

伊東観光番の前の通りは、あんじん通り(国道135号旧道)から分かれたその裏通りに当たる市道。いつ頃から言っているのか知らないが「浄ノ池通り」の愛称がある。浄ノ池は伊東観光番から300mほど南にいった辺りにあった。生息する魚が珍しいため国の天然記念物に指定された観光地で、今は埋め立てられて消滅した。
写真の看板建築の三軒長屋は伊東観光番から南へ100m足らずのところ。建物右の飯田美容院の2階の壁面が建築時の造作を残している。

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益泉荘。静岡県伊東市銀座元町。2015(平成27)年5 月29日

あんじん通り(国道135号旧道)の中ほどをそれと直交している通りがある。そこを東へ入ったところ。その東西の通りは、いちょう通りと海岸沿いの国道135号とを結んでいる。
写真の建物は見たところ廃屋だ。1階の左側は「Yシャツズボン」の看板の文字が残り、コインランドリーだったと分かる。右側は大家さん宅の玄関だろうか。その玄関の上の壁に右から書きで「益泉荘」の文字とアカンサス?の葉の帯のレリーフがあり、建物が益泉荘というアパートだったと分かる。アカンサスの帯は、蔦で覆われていて写真では見えないが、建物上部にもめぐらしてあるようだ。
益泉荘の後ろは駐車場になっていて、建物の後ろが観察できる。


益泉荘。伊東市銀座元町。2015(平成27)年1月18日


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上左:昭和測器。台東区小島2-6。2003(平成15)年11月16日
上右:岩崎商店。小島2-6。2011(平成23)年12月18日
下左:岡田商店。小島2-11。2003(平成15)年11月16日

小島公園の南を通る裏通り。「測量機械」の看板が「昭和測器」で、「ヨシダ」の看板は昭和測器の右のガレージのような建物についている。昭和測器の右から後ろにかけてが「株式会社ヨシダ」の敷地で、写真からは判らないが昭和測器の裏にヨシダのビルがあったのかもしれない。今は昭和測器の建物が撤去されてヨシダのビルは建て替えられたようだ。銀杏の木は残されている。
1枚目写真の裏通りを右奥(西)に行くと清洲橋通りへ出るが、右写真はその手前の路地との角にある仕舞屋。
3枚目写真のショーウインドーに反物が見えている家は、2枚目写真の家の角を北へいったところ。

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