滄浪閣旧址。神奈川県小田原市本町4丁目。2012(平成24)年4月7日
国道1号の箱根口交差点を南に入った突き当りから西の「横河民輔旧邸」を、そうとは知らずに見た後、東へ向かった。住宅地の間の、車がどうにかすれ違える程度の幅の道だ。南側は住宅の先に西湘バイパス、その先は砂浜の海岸だが道路からは見えない。北側は蓮昌寺と正恩寺で、低い石垣の上に生け垣と板塀が長く続く。そこを歩いていくと「滄浪閣旧址」という名所を見つけた。
住宅の門に当たるところに「滄浪閣旧址」と刻まれた石があって、横を見ると上の写真の史跡のような場所がある。住宅の庭先のような気もしたが、傾いた外灯の荒廃ぶりに惹かれて石段を上がってみた。伊藤博文の胸像と石碑があるだけで説明板などはない。私有地であるために整備されていないのかもしれない。
後でウィキペディアなどを読んでみると、伊藤博文は1889(明治22)年に父・十蔵の隠居地として小田原町緑1丁目8番地(現:小田原市栄町)に居宅を建設し、自身も小田原に住むつもりで御幸の浜に面した当地(当時は小田原町十字643番地)に、1890(明治23)年10月に別邸・滄浪閣を完成させた。1897(明治30)年に大磯町に邸宅を建てて移転する間、伊藤は第2次伊藤内閣を組閣し、日清戦争を指導して下関条約の全権になった。
また、大日本帝国憲法が1889年(明治22年)2月11日に公布、1890年(明治23年)11月29日に施行されて、関連する諸法規を整備しなければならず、伊藤は1893年に法典調査会を設置しその総裁になる。民法改正の起草委員、穂積陳重・富井政章・梅兼次郎の3名の法学博士は1894年の5月から秋まで滄浪閣の一室に閉じこもって民法典原案の執筆に集中したという。滄浪閣旧址は「民法発祥の地」でもある(編集部御近所探検 伊藤博文と滄浪閣)。伊藤は小田原で少しはのんびりするつもりだったかもしれないが、そうはいかなかった。
さて、大磯に移った後の別邸は西村圭二という人が「養生館」という旅館にした。それが1902(明治35)年の小田原大海嘯(台風による高潮)により大破し、さらに1923(大正12)年の関東大震災で壊滅した。
伊藤博文像と滄浪閣旧址の石碑
写真をもとに石碑の文面を電子化してみた。/は改行の箇所、旧字は新字にして、意味が通るように推定した部分もある。
滄浪閣旧址
故従一位大勲位公爵伊藤博文公ハ身ヲ/微賎ヨリ起シ刻苦経営竟ニ国家ノ柱石/
トシテ一世ノ欽仰スル所トナル真ニ絶/代ノ偉人也公明治二十二年此地ヲ卜シ/
別邸ヲ造リ滄浪閣ト称シ同二十九年ニ/至ルマテ居住セリ此間ニ於テ公ハ其草/
創ニ係ル帝国憲法ノ実施対等条約ノ締/結日清戦役ノ処理等ノ大業ヲ翼成シタ/
爾来春風秋雨殆ト半世紀其遺址終ニ/川島美保氏ノ有ニ帰ス同氏其一部ヲ割/
テ小公園ト為シ此処ニ公ノ銅像ヲ建テ/園内ニ公ノ好メル梅椿雨樹ヲ植エ以テ/
偉人安居ノ蹟ヲ不朽ニ伝ヘムトス予其/志ヲ壮トシ此文ヲ作リ石ニ刻セシム此/
石ハ台石ト共ニ公遺愛ノ庭石也
皇紀二千六百年昭和庚辰仲秋/憲法実施五十年伊藤公生誕一百年/伯爵金子堅健太郎選 金子賢太郎(1853~1942年)は伊藤博文の側近で、大日本帝国憲法の起草者として有名(でもないかもしれない)である。皇紀2600年(1940年)を機に碑を建立したようだが、誰の発案だろう。碑の裏側を確認するのを忘れた。文面によると、川島美保という人の住居になっていたのを、氏が公園として宅地の一部を貸したということだ。傾いた外灯は1940年に設置したものなのだろうか?
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