ぼくの近代建築コレクション
東京の都心と下町を中心に、戦前に建てられた古い建物の写真を投稿していきます。
 




三井銀行錦糸町支店。墨田区江東橋4-25。1992(平成4)年10月18日

写真の通りは京葉道路。錦糸町駅前交差点が写真右(西)にすぐで、江東橋四丁目交差点である。一目で銀行と判る2階建ての建物は三井銀行錦糸町支店だったもの。「錦糸町支店」は推定だが、住所をとって江東橋支店とはしないだろう。古典主義系と判る外観から戦前に建てられたものと疑わなかったが、goo古地図>昭和22年航空写真を見ると、三井銀行の建つ交差点の角は三角形の緑地帯のように見えるところで、ビルなどはない。つまり銀行のビルは戦後になって建てたものだ。昭和20年代の建築かと思うが、銀行建築はこういうもの、という概念が、少なくとも三井銀行ではまだ残っていたわけだ。
現在は「スズキBLD」というパチンコ店などが入る7階建てのビルに建て替わっている。



三井銀行錦糸町支店。1995(平成7)年10月15日

錦糸掘公園のほうから撮影。カッパの像がある区立錦糸掘公園は四角形と三角形をつなげた四角形をしている。その形にはなにかいわくがありそうな感じもするのだが、昭和22年航空写真では、普通の碁盤目状の街区で、まだ焼け跡が広がっている。そこに広い道路をつけるなどの整備をする際に公園を設けたのだろう。1950(昭和25)年6月の開園である。
1枚目の写真には「花壇街」の看板が見える。その写真後ろのマンション「錦糸町ハイタウン」1階の飲み屋街をいうらしいが、錦糸掘公園周辺がそもそも飲み屋街である。フィリッピンパブが多いことで知られているという。

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業平橋ポンプ所。墨田区吾妻橋3-12。1994(平成6)年12月24日(3枚とも)

写真は北十間川にかかる小梅橋から撮った業平橋ポンプ所の旧施設。現在は更地になって建て直しの工事が始まり、平成31年4月の完成予定。「雨水ポンプ所を再構築しています」という掲示板が工事の塀に架かっている。北十間川に集まった雨水を隅田川へ排水する施設だ。
写真の建物についてはネット上の資料は『東京都下水道局の施設(区部下水道)』くらいしか見つけられなかった。都下水道局の「砂町処理区」に属する施設として、「業平橋ポンプ所、 墨田区吾妻橋3-12-3(墨田区吾嬬橋3丁目17番地)、1929/7創設、1988/4移転」という簡単な記述だ。カッコ内の所在地は旧住所。写真の建物は1929(昭和4)年に建ったもので、1988(昭和63)年には、写真の旧ポンプ所のすぐ西に新たにポンプ所を建設して移った。その新ポンプ所が現在稼働しているものだろう。今、「再構築」しているということは、新ポンプ所の設備が古くなってしまったのか、初めから仮施設だったのか?



北十間川の南の川に沿った裏通りから撮った写真。写真右の坂道の先が小梅橋。

北十間川といえば、今は東京スカイツリーの下を流れる川、というイメージだろうか。旧中川と隅田川をつなぐ、江戸期に掘られた運河だが、今は東武橋と小梅橋の間にある北十間川樋門という水門で仕切られ、水位が異なるので、水門の東と西では別の水系といっていい。水門は1978(昭和53)に造られた。昔は大横川の合流地点から西は「源森川」といったが、その名前を復活させれば合理的なように思うが、やはりややこしいか? あるいは将来、ここに荒川ロックゲートのような閘門を設けて船が通れるようになるかもしれないという気もする。



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吾妻橋アサヒビヤホール。墨田区吾妻橋1-23。1986(昭和61)年6月8日

墨田区役所やアサヒビールタワーの建つ場所にはかつてアサヒビールの工場(アサヒビール吾妻橋工場)があり、その工場跡地を再開発して、1989(平成1)年11月に完成したのが今の「リバーピア吾妻橋」である。工場は1984(昭和59)年に操業を停止した。隅田川の吾妻橋のたもとの、あのオブジェを乗せた黒い壁のビル(フラムドーム)に替わる前にあったのが写真の建物だ。
以下、『東京建築回顧録』(読売新聞社編、読売新聞社、1988年、1600円)――当書での建物の名称は「アサヒビール吾妻橋ビヤホール」――と『東京路上細見5』(小檜山俊著、平凡社、1990年、1903円)による。1903(明治36)年に「大日本麦酒株式会社」――「朝日麦酒株式会社」の設立は1949(昭和24)年――が工場の操業を開始。1909(明治42)年8月に工場見学者の接待用にビヤホールを開業した。当初は工場敷地の北、枕橋のたもとにあったが、一般客を受け入れるために1916(大正5)年に吾妻橋の方に移った。浅草から客を呼び込もうということだろう。写真の建物は1930(昭和5)年5月に建った。RC造2階建て、延べ720㎡、1階客室の中央に直径1.4mの円柱が5mの高さの天井を支える。1階に300席、2階に200席という規模。
旧ビヤホールの最後の営業となったのが1988(昭和63)年5月20日。その日が近づくにつれ、連日別れを惜しむ客が詰めかけたという。


アサヒビール吾妻橋工場倉庫
1986(昭和61)年6月8日

撮影日には工場はすべて取り壊されていた。ビヤホールに接して残っているビルは当時の住宅地図では「ソーコ」。工場敷地の外側は倉庫が取り囲んでいたようで、古い航空写真からもそれがうかがえる。写真の倉庫はビヤホールが一部を使っていたため、まだ残っていたのだと思う。東京大空襲のときはRC造の倉庫が工場とビヤホールを守る形になって、奇跡的に焼け残った。
収蔵庫・壱號館>吾妻橋アサヒビヤホール』には1982年撮影の写真が載っている。戦前、大日本麦酒の吾妻橋工場で作っていたのはサッポロビールだから、「アサヒビヤホール」の名称は昭和24年以降のことではないか、と考察している。戦前のビヤホールの名称は確かに気になる。

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滄浪閣旧址。神奈川県小田原市本町4丁目。2012(平成24)年4月7日

国道1号の箱根口交差点を南に入った突き当りから西の「横河民輔旧邸」を、そうとは知らずに見た後、東へ向かった。住宅地の間の、車がどうにかすれ違える程度の幅の道だ。南側は住宅の先に西湘バイパス、その先は砂浜の海岸だが道路からは見えない。北側は蓮昌寺と正恩寺で、低い石垣の上に生け垣と板塀が長く続く。そこを歩いていくと「滄浪閣旧址」という名所を見つけた。
住宅の門に当たるところに「滄浪閣旧址」と刻まれた石があって、横を見ると上の写真の史跡のような場所がある。住宅の庭先のような気もしたが、傾いた外灯の荒廃ぶりに惹かれて石段を上がってみた。伊藤博文の胸像と石碑があるだけで説明板などはない。私有地であるために整備されていないのかもしれない。

後でウィキペディアなどを読んでみると、伊藤博文は1889(明治22)年に父・十蔵の隠居地として小田原町緑1丁目8番地(現:小田原市栄町)に居宅を建設し、自身も小田原に住むつもりで御幸の浜に面した当地(当時は小田原町十字643番地)に、1890(明治23)年10月に別邸・滄浪閣を完成させた。1897(明治30)年に大磯町に邸宅を建てて移転する間、伊藤は第2次伊藤内閣を組閣し、日清戦争を指導して下関条約の全権になった。
また、大日本帝国憲法が1889年(明治22年)2月11日に公布、1890年(明治23年)11月29日に施行されて、関連する諸法規を整備しなければならず、伊藤は1893年に法典調査会を設置しその総裁になる。民法改正の起草委員、穂積陳重・富井政章・梅兼次郎の3名の法学博士は1894年の5月から秋まで滄浪閣の一室に閉じこもって民法典原案の執筆に集中したという。滄浪閣旧址は「民法発祥の地」でもある(編集部御近所探検 伊藤博文と滄浪閣)。伊藤は小田原で少しはのんびりするつもりだったかもしれないが、そうはいかなかった。
さて、大磯に移った後の別邸は西村圭二という人が「養生館」という旅館にした。それが1902(明治35)年の小田原大海嘯(台風による高潮)により大破し、さらに1923(大正12)年の関東大震災で壊滅した。



伊藤博文像と滄浪閣旧址の石碑

写真をもとに石碑の文面を電子化してみた。/は改行の箇所、旧字は新字にして、意味が通るように推定した部分もある。
滄浪閣旧址
故従一位大勲位公爵伊藤博文公ハ身ヲ/微賎ヨリ起シ刻苦経営竟ニ国家ノ柱石/
トシテ一世ノ欽仰スル所トナル真ニ絶/代ノ偉人也公明治二十二年此地ヲ卜シ/
別邸ヲ造リ滄浪閣ト称シ同二十九年ニ/至ルマテ居住セリ此間ニ於テ公ハ其草/
創ニ係ル帝国憲法ノ実施対等条約ノ締/結日清戦役ノ処理等ノ大業ヲ翼成シタ/
爾来春風秋雨殆ト半世紀其遺址終ニ/川島美保氏ノ有ニ帰ス同氏其一部ヲ割/
テ小公園ト為シ此処ニ公ノ銅像ヲ建テ/園内ニ公ノ好メル梅椿雨樹ヲ植エ以テ/
偉人安居ノ蹟ヲ不朽ニ伝ヘムトス予其/志ヲ壮トシ此文ヲ作リ石ニ刻セシム此/
石ハ台石ト共ニ公遺愛ノ庭石也
皇紀二千六百年昭和庚辰仲秋/憲法実施五十年伊藤公生誕一百年/伯爵金子堅健太郎選
金子賢太郎(1853~1942年)は伊藤博文の側近で、大日本帝国憲法の起草者として有名(でもないかもしれない)である。皇紀2600年(1940年)を機に碑を建立したようだが、誰の発案だろう。碑の裏側を確認するのを忘れた。文面によると、川島美保という人の住居になっていたのを、氏が公園として宅地の一部を貸したということだ。傾いた外灯は1940年に設置したものなのだろうか?

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横河民輔旧邸。神奈川県小田原市南町2
2012(平成24)年4月7日

国道1号の箱根口交差点から南へ行くと突き当りの三叉路に出る。ちょっとずれて海岸へ出る細い道があって、それを含めれば四つ角である。今、Googleマップを見ていて、その三叉路のすぐ西に名所マークの「横河民輔旧邸」があるのに気が付いた。
横河民輔は、ウィキペディアのリード部分に「1864(元治元)年-1945(昭和20)年)、明治・大正・昭和期の建築家・実業家。横河グループ創業者。日本の鉄骨建築の先駆者」とある人。小田原に居住したのは『静閑荘~邸園交流でまちづくり~』では、1910年頃から亡くなるまでだ。
三叉路の西側はすぐ南へ入る路地でまたすぐ西へ曲がる。それが1枚目の写真で、海側は石垣で土地が高くなっているのは砂丘なのかもしれないと思ったが、『小田原城街歩きガイド>御台場』では小田原城総構の土塁の上に住宅が建っているのではないかと推定している。石垣沿いに小田原用水の分流が流れている。石垣の上には横河邸の建築時に造られたと思われるレンガ塀が残っている。
2枚目の写真は三叉路の方向を振り返ったもの。小田原用水は奥へ流れて宅地内は暗渠になり、新川に合流するようだ。新川というのは「ちょっとずれて海岸へ出る細い道」に沿って海に出る小田原用水の海との河口部分で、小田原町詳細図(1929年)にその名称が書き込まれている。
横河民輔の建築家としての仕事を『近代建築ガイドブック[関東編]』(東京建築探偵団著、鹿島出版会、昭和57年、2300円)でチェックすると、設計=横河民輔となっているのは、三越本店(日本橋室町、昭和2年、現存)、東京証券取引所(日本橋兜町、昭和6年)。設計=横河工務所が、東京銀行協会(丸の内、大正3年)、三信ビル(有楽町、昭和4年)、交詢社(銀座、昭和4年)で、日本工業倶楽部(丸の内、1920年、ファサードは松井貴太郎)、電通ビル(銀座、昭和9年)、日証館(日本橋兜町、昭和3年)が現存している。

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小田原文学館。神奈川県小田原市南町2。2012(平成24)年4月7日

田中光顕の別邸として1937(昭和12)年に建てられたRC造3階建ての洋館。設計は曾禰中條建築事務所。2000年9月に国の登録有形文化財に登録された。
南の芝生の庭に面した方の外観は、張り出したサンルーム、3階のベランダと白い壁のモダニズム建築の特徴がみられる。北側はスペイン瓦の屋根と平面的な壁に窓の上部のアーチの飾りなど、スパニッシュ風な味付けだ。


田中光顕については恥ずかしながら、ぼくはよく知らなかった。ウィキペディアなどを参照すると、幕末の土佐の勤皇志士で、明治政府の要人ということだった。関係した人や組織には、武市半平太、高杉晋作、黒田清輝、中岡慎太郎、陸援隊、坂本龍馬、岩倉使節団…。これなら今まで読んだ小説や教養書には出てきたはずで、憶えていないだけなのだろう。
長生きした人で1939(昭和14)年3月に97歳で亡くなった。晩年には富士市と静岡市にも別邸を持っていたから、亡くなる2年前に建てた小田原の洋館をどのくらい利用したのか心もとない。そもそも95歳にもなって家を建てようなどと考えるものなのだろうか? どうも、閣下(と呼ばれていたかどうかは知らない)に家を建てさせて自分のものにしようという黒幕がいたのではないか?

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小田原聖十字教会
神奈川県小田原市南町2
2011(平成23)年11月24日

写真の教会は国道1号の、箱根口交差点とJR東海道線のガードとの中間辺りを南へ入ったところにある。昔は諸白小路(もろはくこうじ)といった横丁だ。小田原聖十字教会はこじんまりしたかわいい礼拝堂で、付属の花園幼稚園が奥にある。教会のHPによると、1909(明治42)年の設立で、現在地(当時は十時町3-541)に教会を建てたのが1918(大正7)年。それが関東大震災で倒壊し、建て直して1927(昭和2)年1月12日に落成したのが現礼拝堂という。『神奈川の近代建築探訪日本聖公会小田原聖十字教会』には内部の写真が載っている。「吊り行灯風の照明と格天井のせいで、かなり和様に見える」そうで、「半八角形の採光たっぷりの明るい祭壇」というのは確かに珍しいようだ。
また、花園幼稚園は1916(大正5年)の設立で「…谷崎潤一郎の長女鮎子、北原白秋の長男隆太郎、三好達治の娘松子らが花園幼稚園に通い…」と教会のHPにある。とりあえず、この3人の小田原での住居の場所と年代を調べてみた。
谷崎については『東京紅団>谷崎潤一郎の小田原、箱根を歩く』による。小田原十字町3-706に転居したのは大正8年で、1年10か月ほどの間住んだ。その間「小田原事件」を起こしている。その家は現在の南町2丁目の小田原文学館の西隣にあった。
「白秋童謡館」という建物があるが、それは田中光顕伯爵別邸の和館である。白秋は大正7年から15年まで伝肇寺(小田原市城山4-19)に洋館を建てて家族で暮らした。そこで多くの童謡を書いている。
三好達治が小田原に住んだのは昭和14年から19年で、場所は小田原聖十字教会の向かい側だ。「For You」というカフェの前に「三好達治旧居址」の碑が立てられている。

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上:鈴廣旧店舗、左:鈴定
神奈川県小田原市本町3
2012(平成24)年4月7日

小田原に数ある蒲鉾店のなかでも最大手で最も有名なのが鈴廣で、その本店がかつて国道1号本町交差点のすぐ裏手にあった。その建物が今も残されている。鈴廣のHPには「昭和37年3月風祭に進出」とあるから、写真の店はその時点で閉鎖されたかと思うが、しばらくは営業していたのだろうか。
創業者の村田屋鈴木権右衛門は代官町の網元漁商で、副業として慶応元年(1865)に蒲鉾製造を始めた。明治中期、六代目廣吉が千度小路に店を移し、蒲鉾製造を本業とし、屋号を「鈴廣」としたという。その千度小路の店が.旧店舗の場所だったのだろう。
代官町も千度小路も旧町名で、代官町は千度小路のすぐ西である。家の角に「市場横丁」の旧町名保存碑がある。その解説文は「市場横丁は、本町と宮前町と千度小路の境を抜けている横町である。この横町は、海に臨んでいるので魚座(魚商人の同業組合)の魚商が多く住み、その名のとおり魚市場が開かれていたところである。」

鈴定は旧鈴廣の斜め向かいのしもた屋。「鈴定」の屋号の看板が残っている。やはり蒲鉾屋だったのだろうか。



理容ヤマムロ。小田原市本町3。2012(平成24)年4月7日

鈴廣旧店舗の四つ角を西へ行ったところ。この理髪店の向かい側に「代官町(だいかんちょう)」の旧町名保存碑が立っている。
平屋の小さな看板建築だが、そのたたずまいは素晴らしい。単純にというか思い切りよく左右対称にしたデザイン、上部中央にいれた装飾も気が利いている。店名の文字のレリーフが消されているのが惜しい。店名が変わったのかもしれない。

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ロケット本部(旧本間商店)
千代田区神田須田町2-1
上:1989(平成1)年2月26日
左:1986(昭和61)年12月30日

靖国通りの、中央線高架が横切る横にあったビル。ビルの看板から、電気製品販売のロケット7号店で、またロケット本社事務所が入っていたようだ。「マイコン」の看板がある。「パソコン」の言葉が定着する前の頃らしいが、どんな製品が売られていたのだろうか? 
このビルは『日本近代建築総覧』にある「本間商店、神田須田町2-1、建築年=昭和5年、構造=RC造5階建」である。昭和25年頃の火保図では「本間ラシャS貿易部」で、本間商店はこの辺りに集中していたラシャを扱う店だったと判る。
現在は「ホンマビル」(1990年7月に竣工、8階建地下1階)に建て直された。ビルの名称からすると業種は変わったかもしれないが本間商店は存続しているらしい。

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万世本店。神田須田町2-21。1988(昭和63)年1月24日

万世橋袂の肉料理の万世の旧ビル。万世の左の細いビルは「サナダビル」。中央線高架の後ろに「ロケット8号店」、その後ろのTOSHIBAの看板が乗っているビルが「ウィン神田高橋ビル」。中央線の電車が絶妙のタイミングで画面に入っている。狙っていたのかどうか記憶にない。たぶん偶然だろう。
肉の万世』によると、創業は戦後間もない1949(昭和24)年9月9日。現本店の地に2階建て洋風の店舗を建築して精肉・惣菜店を始めた。1959(昭和34)年のパンフレットには4階建てのビルの作業場が載っていて、店舗は、隣にあった「虎野」という店を買収して増築している。以下、『秋葉原歴史記事>肉の万世』を参照する。普通の肉屋がレストランを始めたのがいつかは判らないようだ。「万かつサンド」の発売は1955(昭和30)年頃。写真のビルに替わったのは1963年(昭和38年)。そして現在の10階建てのビルに建て替えたのが1991年(平成3年)8月だ。

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