ぼくの近代建築コレクション
東京の都心と下町を中心に、戦前に建てられた古い建物の写真を投稿していきます。
 





上:小田原銀座通り
神奈川県小田原市栄町1-16
2011(平成23)年11月23日
左:早野商店。2011(平成23)年11月24日

小田原銀座通りの中間が銀座通り交差点。写真はそこから少し南へ行ったところから南を見ている。この辺りの旧町名は「緑一丁目」で、国道255号沿いの商店街は「緑一番街商店会」だ。銀座通り沿いは、銀座通り交差点から国道1号に出る法務局前交差点までを「緑新道」といったらしい。『「銀座」百年―生きられた「中心市街地」―(日本学術振興会・特別研究員 平井太郎)』は、小田原銀座の歴史から説いて、幾つかの店の生活史を調べ、商店街がどう変化してきたかを考察している。それによると、緑新道は1882 (明治15)年に、甲州道のかぎの手をなくすために切り拓かれたという。甲州道は今の国道255号で、銀座通りの北半分はそれになる。
シャッターに漫画を描いた店は「GESTOREおだわら」。今年4月で閉店したが、専門高校の生徒(小田原総合ビジネス高校など)が運営していた「チャレンジショップ」。自分たちで開発した食料品などの商品を置いていた。平成16年4月のオープンだから10年続いたわけだ。商店街の活性化になるかと期待されたようである。
早野商店は雑貨の問屋。この辺りの商店街ではあまり見かけない看板建築だ。戦後の改修によるもののような気がする。
下の写真の岩政商店は早野商店の向かい側。やはり看板建築になるのだろう。写真右枠外になるが林学(りんがく)の江戸期の町名を保存する道標が立っている。


岩政商店。小田原市栄町1-17。2011(平成23)年11月23日

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小田原銀座通り。神奈川県小田原市栄町1-16。2011(平成23)年11月23日

写真の通りは、JR小田原駅から南へ向かう大通りの郵便局前交差点辺りの東の裏通りといった感じになる。「銀座通り」という古い商店街で、写真はその南の端に近い辺りだ。商店街の端の辺りということもあるのかもしれないが、人通りもなく閉めてしまった店や建物を取り壊して駐車場にしたりで、バブル崩壊の歴史遺産を見る感じだろうか。
写真中程の古い家屋の店がマツシタ(松下)靴店。この店の裏手には国道255号の大通りに面した店があるから、銀座通りに向いた店舗は閉めてしまったかもしれない。そこのホームページでは、大正7年の創業で、「ギョサン取扱量日本一」という。



本田家具店、台善刃物店。小田原市栄町1-17。2011(平成23)年11月23日

この小田原銀座商店街には飲食店はあまりない。地元の人が生活用品を買いにくるという感じで、昭和30、40年頃のままの業種で商売を続けているような店が多いように思う。中には店先からして50年前のままのような店もある。
上の写真は1枚目写真から少し北へ行った向かい側。本田家具店は看板に「和洋家具製造販売」とあるが、家具を製作するのが商売のようだ。台善刃物店にはわりと大きいショーウインドーがある。プロ仕様の道具を飾っているのだろうか。

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洋風住宅。墨田区堤通1-12。2013(平成25)年3月17日(下2枚も)

墨堤通りの白鬚神社前の信号が「白鬚神社上交差点」で、そこから西へ、隅田川の方へ入るわりと広い道路がある。突き当りは堤通交通公園だ。この道路は明治の地図にもある昔からの道である。写真の住宅はその道路沿いにある。見たところ戦前から建っている家かどうかは分からないが、けっこう古い家が3棟並んでいる。和風の1戸を挟む2戸は急な切り妻屋根と前に飛び出した玄関が特徴の洋風な感じを受けるほぼ同じ造りの家だ。3戸ともきちんと補修などをされてきれいに使われている。
昭和22年の航空写真を見るとこれらの家と思えるのが写っている。はたしていつ頃建ったものなのだろう。

以前『銅像掘と西村勝三の像/向島5丁目』で出した藤牧義夫の『隅田川絵巻』にはこの辺りがどう描かれているか見て驚いた。なんだか写真の光景をそのまま写生したような部分があったのだ。絵巻だと白鬚橋と白鬚神社の中間になるような場所だ。写真の家並みは隅田川に対しては白鬚神社と同位置にあるから、そのままということはないのかもしれない。手前の家が道路の角にあるのも写真とは異なる。角の杭に「第一セメン」の文字が読めるから手がかりになるかもしれない。




『別冊太陽No54・モダン東京百景』(平凡社、昭和61年、2000円)から、藤牧義夫作『隅田川絵巻』

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清和荘。墨田区東向島3-6。2008(平成20)年12月3日

墨堤通りから見て白鬚神社の裏手にあったモルタル壁のアパート。かつては何棟ものアパートが建ち並んでいたらしい。ぼくが見ることができたのは清和荘と双葉荘だったが、今はそれも取り壊されて広い駐車場に替わった。これだけ駐車台数が増えると付近の駐車料の相場に影響するのではないかと思うほどだ。
都心と郊外の中間あたりでよく見かけた木造二階建て壁をモルタル塗にしたアパートで、決まって○○荘といった。昭和30年頃に建てられたものかと思う。この形式のアパートが新しく建てられることもないから減る一方で、見かけたら写真などに記録しておいたほうがいい。
写真手前の駐車場は住宅地図で「貸車庫キョウワ駐車場」だが、「協和荘」があったところ。

下の写真は1枚目写真の右にも写っている双葉荘。造りは清和荘と同じだ。二階の窓の数は6面だから部屋数は24だろうか。一階の玄関は正面中央にあるらしい。廊下が裏まで通じていてその左右に部屋が並んでいるのだろう。二階の便所が手前に張り出しているが、一階の便所はその下。
すでに住人はいないようだ。手前の駐車場には「常磐荘」と「松葉荘」があった。ついでに言うと、清和荘の左に「寺島荘」があった。その北のサンライズ白鬚というマンションは「白鬚荘」が建て替わったもの。


双葉荘。東向島3-6。2009(平成21)年3月29日

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旧墨堤の道の下道。墨田区東向島3-4。2009(平成21)年3月29日

白鬚神社のとこらから現在の墨堤通りを迂回するように分れてすぐまた合流する弓型の道路がある。そのわずか180mがかつての墨堤通りで、「旧墨堤の道」として残っている。現在の広い墨堤通りは何度か拡幅工事が行われ、昭和46年に完成したという。写真左のタイル張りの護岸の上が旧墨堤の道。崖の段差は1mほどあるようだが、下の道の海抜は0mくらいだ。そこに古い民家が3棟かたまって残っている。
手前の古い家のガラス戸に「中福染物」の字があるが、たぶん廃業していると思う。隣は二軒長屋に見える。



石川青果店。東向島3-4。2009(平成21)年3月29日

旧墨堤の道からだと屋根が見える。現在、二軒長屋のほうは瓦屋根が葺きかえられた。角の家は1階の軒下に増築したのだろうか、住宅の構えになっている。1985年の住宅地図では石川青果店だ。下道を左へ行けばそのまま白鬚神社の境内で、角を曲がって左奥へ行くと大和湯がある。
『東京路上細見5』(小檜山俊著、平凡社、1990年、1903円)に、大和湯から旧墨堤道の様子が「狭い通りをはさんで、魚屋あり八百屋あり、印刷屋あり、このあたりは路地裏商店街といった感じ。」と書かれている。今は「鮮魚大塚」も普通の住宅に建て替わっている。

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みのや豆腐店。墨田区東向島3-2。1999(平成11)年5月9日

向島百花園から墨堤通りの子育地蔵へ向かった途中にあった元豆腐店。写真右の道路の奥が墨堤通り。店は廃業してからかなりたつ感じだ。住居と思われる出桁造りの家の格子戸の前には日本の伝統的建築物の模型なんかが積まれている。処分するつもりだが誰か持って行ってくれないかな、ということかもしれない。店舗の方は「みのや」のガラス戸の文字、「東京都豆腐商工組合員之証」のプレート、「健康一番みのやの手作り豆腐を」や「薫鵬吟遊会只今会員募集中」のシールが残っている。
現在は住宅に建替わった。


みのや豆腐店。2009(平成21)年3月29日




民家。東向島3-3
2013(平成25)年3月17日

1枚目写真右の枠外にあった家。昨年撮ったばかりの写真だが、ストリートビューを見ると取り壊されて更地になっている。家の前の銀杏の木もなくなっている。左の波トタンの部分は増築部分。家内工業所にしていたような感じだ。

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看板建築の長屋。墨田区東向島3-33。2008(平成20)年12月3日

地蔵坂通りの真ん中辺り。写真右端の木立は区立寺島図書館で、2013年4月にひきふね図書館が開館したのに伴い閉館した。その時に図書を整理して処分する本を放出したのだが、たまたまぼくはそれに出くわして、少しばかり頂いてきた。その中では、枝川公一『都市の体温』、東大建築学科香山研究室編『アメリカ建築案内』、林順信・他『東京下町JAZZ』などが収穫。
写真は戦後に建てられた四軒長屋かと思ったが昭和22年の航空写真に写っている。長屋の向かい、東向島1丁目は戦災での焼失を免れているので、ぎりぎり焼けずに済んだ建物かもしれない。



クリーニング太郎。東向島3-30。2013(平成25)年3月17日

地蔵坂通りの墨堤通りに近い辺り。高橋本社から右へ花甚生花店まで、3棟が戦前築の家である。路地との角にある看板建築の家は1985年の地図で「クリーニング太郎」、1968年の地図に「伊藤歯科」となっている。トタンを石積み風に見せているらしい。航空写真で見ただけだが、横の路地を入ると両側に戦前築らしい住宅が数軒残っているようだ。

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トイスラー記念館。中央区明石町8
1987(昭和62)年1月15日

トイスラー記念館は移築される前は、現在、2棟の高層ビルからなる聖路加ガーデンが建っている場所にあった。1989(平成1)年に解体されて1998(平成10)年2月に聖路加国際看護大学の庭に移築復元された。
『日本近代建築総覧』には「聖路加国際病院・メモリアルハウス(旧デスラーメモリアルホール)、明石町8-30、建築年=昭和3年、構造=木造2階建、設計=ジェーバン・ヴィ・バーガミニー、施工=清水組」。『近代建築ガイドブック』(東京建築探偵団著、鹿島出版会、昭和57年)では「聖路加国際病院メモリアルハウス(デスラー・メモリアルホール)、設計=J. バーガミニー、施工=清水組、昭和3年、構造=木造」
平成18年設置の中央区教育委員会の説明板によると、解体調査で判明したと思われることが記されていて、建築年と構造が上の2点の資料とは異なる。つまり、「昭和8年に聖路加国際病院の宣教師館として建設された……昭和初期の住宅建築には珍しい鉄筋コンクリート造一部木造の二階建て」。




トイスラー記念館の塀
上:1988(昭和63)年10月9日
左:1986(昭和61)年11月3日

1枚目写真の塀には透かし彫りような飾りがある。
アーチの裏門?は1枚目写真の塀の少し右へ行ったところではなかったかと思う。門の右に木の表札が2枚出ている。右は「新病院建設本部」、左は「聖路加国際病院/第二記念館」。

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旧館の玄関。中央区明石町9。1987(昭和62)年9月15日

現在の聖路加国際病院が建つ以前に、その敷地にあった建物。上と下左の写真は本館(ここでは、レーモンドやバーガミニーの設計で1933(昭和8)年に竣工した6階建てのビル)の東の通りに向いている。この玄関とそれに続いている棟の裏側に主要な平屋の建物が建ち並んでいた。「旧館」というのは『聖路加国際大学>大学の歩み』や、『図説占領下の東京』(佐藤洋一著、河出書房新社・とんぼの本、2006年、1600円)で使っている用語で、ここでも明石町9番地に建っていた木造の建物に対して言うことにする。
1986年の住宅地図では「聖路加国際病院付属高等看護学校」。『日本近代建築総覧』では「聖路加国際病院付属高等看護学院、建築年=1924(大正13)年、木造平屋、設計・施工=清水組」。
見たところ、関東大震災で病院が崩壊したので、とりあえず大急ぎで建てたバラック建築だろう。当初は十数棟の長屋のような、兵舎のような建物を建てている。1933(昭和8)年に本館が建つまでは、旧館の建物のほとんどが病棟として使われたのかと思う。



左:玄関棟の前の通りの北から、右:煙突。1986(昭和61)年11月3日
玄関のある棟だけは2階建てである。右写真は本館の北東部分が(上部だけだが)写っている。



右:『中央区立図書館>地域資料室』より、「航空写真 明石町付近、北川千秋撮影、書誌番号001702124」。左:『地理院地図』より、「1984年~1987年写真」

上左写真は聖路加病院本館の前庭がまだ整理されていないので竣工直前の様子ではないかと思う。写真右手には敷地いっぱいに平屋の病棟などが建てられている。
右写真は解体前の様子。全体の半分くらいは取り壊されていて駐車場に替わっている。同サイトの「1979年~1983年」の写真ではほとんどの建物がまだ残っているので、1980年代になってからの変化らしい。



左:敷地の南西角にあった棟。1987(昭和62)年9月15日
右:南西角の棟と玄関を結ぶ廊下。1987(昭和62)年10月9日

上左の写真は敷地の南西角にあった棟。その写真では木が邪魔でよく分からないが、下左の写真が同じ建物を裏から撮ったもの。仮建築にしても洋館といっていい外観である。病棟ではなく病院のかなり偉い人の執務室だったのだろうか? 
なんとなくフランク・ロイド・ライトを想起させるデザインである。ぼくは見ていないが、函館元町にあるライト風の住宅、日和茶房(昭和3年、設計=田上義也)と共通する造形がある。ライトの影響があるとすると、本館の設計をしたレーモンドとの関連性はどんなものだろう?




1988(昭和63)年10月9日

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左:『改訂東京風土図』より、右:昭和22年航空写真

墨堤通りの鳩の町商店街入り口の向かい側は首都高の入り口がある。その南はアサヒビールの倉庫で、その裏に銅像掘公園がある。どうやって公園に行くのかよく分からず、隅田川の土手を走っている人がトイレを使うぐらいの用にしかならないと思われる。墨田区の公園で昭和47年5月の開園である。問題はその名称で、銅像があったからだろうと考える人が多いようだ。それなら「銅像公園」のはずだ。由来は隅田川の入り掘りであった銅像掘である。
銅像掘の由来の銅像は西村勝三ということになってしまう。西村勝三はネット上でもいろいろ解説されているが、日本で最初に靴の製造を始めた人だ。その銅像があったのは『靴の歴史散歩57』によれば墨堤通り沿いの銅像掘の袂だ。
上左のイラストは『改訂東京風土図』(サンケイ新聞社編、教養文庫、昭和41年、560円、初出はサンケイ新聞に昭和34-36年連載)にあるイラストマップで、左下に大きく銅像が描かれている。本文には「言問団子の横を少し進むと、左手に一基の石像が見える。これは明治初年、クツ工業草分けの西村勝三翁の像である(四十年こわされた)。……やがて明治四年に、水利の関係を考えて、ここに工場を移転したもので、像はその工場跡に立てられたものである。」とある。昭和41年に出版しているので「昭和40年に像が壊された」と補記している。「石像」としているのが気になる。
上右の航空写真は『goo地図>古地図』の昭和22年航空写真に建造物などを書き入れたもの。『西村勝三―日本靴産業の父―』の銅像の写真を見ると台座の下は石畳で、それなら航空写真に写っていても不思議ではない。
靴の歴史散歩61』には「戦後復興の願いを込めて、昭和24年(1949年)に再建された西村勝三の石像前では、靴の記念日(3月15日)に合わせ、毎年東靴協会主催による、祈年祭が行われるようになった。」とある。戦後の像は再建された石像だったらしい。元の銅像はおそらく戦時に供出されたのだろう。昭和22年にあったのは台座と石畳だけだったと思われる。西村家は昭和27年に立像のある須崎町の50坪を東靴協会に寄付した。東靴協会は昭和39年に神田の合同ビルに「西村記念室」を新設して、向島の地は撤収したという。



『別冊太陽No54・モダン東京百景』(平凡社、昭和61年、2000円)から、藤牧義夫という画家が描いた『隅田川絵巻』にある銅像を紹介する。当書の洲之内徹の解説では、藤牧は1932(昭和6)年に上京し、昭和10年9月に絵巻を姉に預けて失踪する。絵巻は昭和9・10年頃に描かれたらしい。
上の図は墨堤通りから隅田川の方を見ている。左の屋敷は大倉喜八郎の別邸だ。昭和22年の航空写真に写っているままの風景といってもよそそうだ。
下の図は大倉別邸の石垣が続くが、それが切れた先が銅像掘だ。視点は変わって、対岸の倉庫は銅像掘から見たものになる。そして目を左に移して、通りに向いている像を少し横から眺めている。


再び「銅像掘」の名称を問題にする。西村勝三の銅像の除幕式は明治39年12月9日で、西村が死去する1月ほど前だ。高村光雲の作である。銅像が目立ったので、その横の入り掘りを銅像掘というようになった、ということはありそうに思える。だとすると銅像が立つ前はなんと言っていたのだろ? 
ということで、今回の記事ではぼくの撮った写真はなし。

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