ぼくの近代建築コレクション
東京の都心と下町を中心に、戦前に建てられた古い建物の写真を投稿していきます。
 




岩崎パン店。中央区湊3-11。987(昭和62)年5月3日

鉄砲洲稲荷神社の例大祭のときの写真。湊地区の中央を南北に通っているバス通り=鉄砲洲通りで、写真右は佃大橋の通りとの交差点で、高架の高速道に見えるのは佃大橋へ上っていく道路。神輿の通る鉄砲洲通りは鉄砲洲川という掘割があったのを、昭和初期に埋め立てた道路だ。佃大橋の通りには見当橋(みあたりばし、みとめばし)が架かっていた。
戦前からある建物が並んでいる。左の二軒長屋は岩崎商店と大友商店。大友商店の青いテントには「印刷‥材料」と読めるが、昭和27年頃の火保図では「大友印刷」。腰折れ屋根の家は文祥堂製本所。その右はしもた屋らしいが壁に「有限会社湊水産」とある。交差点の角の銅板貼りの家はしもた屋。戦前の火保図では「カフェー」としてある。
現在はマンション(セザールスカイタワー東銀座、1997年10月築、12階建て、48戸)と湊92ビル(1990年築、8階建て)、日輪ビル(2006年10月築、11階建て)の3棟のビルが建っている。



1985(昭和60)年頃

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服部米店。中央区湊3-14。2008(平成20)年7月10日

左奥(東)へ行くと湊町第一児童公園に突き当たる。つまり、鉄砲洲川を埋め立てて造った道路だ。写真左の交差点に小橋(こばし)が架かっていた。写っている建物は右から、マンション(クオス銀座エストトロワージェーム)、「服部米店」の字が残る家、*明石製本、サントミ(カラープリント)、S.Tミート(肉店)、*穴倉食品(「*」は1986年の住宅地図から)。
最近の写真なので現在もあまり変化はないが、サントミの二軒長屋が3階建てのビルに建て替わった。



左:三央印刷、小暮製本。右:鈴木印刷。湊3-14。2004(平成16)年1月1日

1枚目写真の裏通りに残る看板建築。1986年の地図では、左写真は三央印刷と小暮製本箔押所、右写真は鈴木印刷と住宅。間の空き地は時田商店だった。現在は右の青い日よけの家が建て替わってLuckyという理髪店になったほかは、3棟の古い家が残っている。Lucky は同じ横丁を左にいった9番地にあったのが移ってきたものだ。三央印刷は「三王プリント」に変わったようだ。また、三王プリントと小暮製本を囲む形で「スカイコート銀座東2」(2004年8月築、7階建て、57戸)というマンションが建った。

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小泉酒店。中央区湊3-15
上:1987(昭和62)年10月11日
左:2004(平成16)年1月1日

鉄砲洲川の河口だった湊町第一児童公園の前を南へ行った向かい側。写真では3棟の古い家が写っているが、現在は真ん中の家が残って、その両側は家が取り壊されて駐車場である。出桁造りの家が小泉酒店。2004年の写真でも自販機を置いているが、2008年に撮った写真では完全に商売はやめたようで、自販機もたばこの看板もなくなっていた。写真右の下見板の家は撮影時の地図では「ソーコ」。昭和28年頃の地図では左から、「小泉化粧品店、万和運輸KK、守本事務所」。



二軒長屋。湊3-15。1988(昭和63)年1月4日

小泉酒店からマンションなどビル2棟先の並び。出桁造りの家は2世帯で使っているらしい。写真左の家は「湊三丁目倶楽部」、町会事務所だろう。現在は「シティハイツ湊」(1989年8月築、7階建て27戸)というマンションに建て替わった。その1階には「湊三丁目クラブ」の表札がかかり、神輿庫と町会の資材倉になっている。

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松進堂印刷。中央区湊3-15。1987(昭和62)年7月26日

正面奥は湊町第一児童公園と神社(汐見地蔵尊のお堂)。写真中央の3階建ての田中ビルが今も残っていて1階にアプールという喫茶店が入っているが、その喫茶店は写真でも変わらない。ビルの右の家が「松進堂印刷」、その右の3軒はしもた屋らしい。下の写真がその家並みで、今は写真右手のビルとその右の家が残っているが、4軒の家がなくなって時間貸し駐車場になっている。

公園の裏は隅田川で、奥の突き当りに見えているのは堤防である。そこが鉄砲洲川の河口だった。関東大震災後、1929(昭和4)年までに埋め立てられて道路に替わった。写真の手前の道路が水路の跡で、少し後ろへ行った鉄砲洲通りで南に曲がって明石町へ流れていた。公園の前には鉄砲洲橋が架かっていた。


松進堂印刷。湊3-15。1987(昭和62)年10月11日

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大倉商会。中央区湊2-16。1987(昭和62)年5月3日

写真の建物の裏はすぐ隅田川。右の銀杏の木は湊町第一児童公園という小さな公園。Googleマップの航空写真には写っているから、最近まであった建物だ。ストリートビューでは大倉商会から左側へ長く、何棟ものビルや倉庫が取り壊されて更地になっている。周囲も含めた、「湊二丁目東地区」の再開発地区になっているらしい。
建物は昭和27・8年の火保図では、右側の倉庫も同じ1棟の扱いでコンクリート造の建物としている。倉庫は陸屋根で、壁に「湊町倉庫」の字が残っている。下の写真では倉庫の壁が塗り直されているだけでなく、屋根がかけられ、二階の蔵の、金庫の扉のような窓が改修されている。


2008(平成20)年7月10日

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二軒長屋。千代田区富士見1-5。1982(昭和57)年4月

東京大神宮の少し東の向かいの狭い横丁を入ったところで、奥へ行くと早稲田通りへ通じている。写真左端の家は大神宮通りに面した家で、モルタル壁の看板建築らしい。撮影日から4年後の1986年の地図では「アサヒエンタープライス」。その右に二軒長屋が2棟並んでいる。1986年の地図では手前の長屋は月極駐車場で、その先は「NTハイム富士見」(1985年4月築、8階建て42戸)で、現在建っているマンションの駐車場になってしまっている。


二軒長屋。富士見1-6
1988(昭和63)年1月15日

1枚目写真と同じ横丁で向かい側。これも二軒長屋になると思う。写っている車は、1枚目写真と同じ車かどうか分からないが、置いてある場所が同じかもしれない。長屋の前にコンクリート製の防火用水がある。絵が刻まれているが、富士見町二丁目を図案化したものだろうか。
現在は「富士見ビル」(1993年12月築、11階地下3階)というオフィスビルが建っている。

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同愛記念病院。墨田区横網2-1。1988(昭和63)年6月5日

蔵前橋の東詰にあった同愛記念病院の設立時に建てられた建物。上の写真は本館の正面玄関。正方形平面の西北の角を斜めに切り取ってそこに玄関を持ってきている。ロマネスク風のわりと華やかなファサードだが、こういう装飾のあるところはここだけのようだ。
『日本近代建築総覧』には「同愛記念病院、横網2-1-11、建築年=昭和4年、構造=RC、設計=近藤十郎・近藤正乃、施工=竹中工務店、備考=「日本建築士」vol.4.112による」。本館、病棟とも4階建てで、玄関は道路の高さに合わせて2階に造ってある。
本館には診療室が入って、本館の後ろに3棟の病棟が建てられた。撮影時にはすでに2棟が新館に替わっていた。


同愛記念病院本館。1988(昭和63)年4月10日


1988(昭和63)年10月30日

病院の東側の駐車場から撮っている。右奥が蔵前橋通りからの車の入り口。建物の右側が本館で、左の、少し右へ出ている部分が第一病棟、その間は本館と病棟をつなぐ廊下だと思う。
病棟が3棟並んでいた頃は、各棟が独立して見える墨田川堤防から見ると、団地のような感じだったのではないかと思う。『消えた近代建築>同愛記念病院』には隅田川の堤防から撮った病棟の写真が載っている。平成7年撮影のその写真では、本館の半分が現在の「同愛記念ホーム」に替わっている。

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上:旧安田庭園外側の家並み
墨田区横網1-12
1988(昭和63)年6月7日
左:民家。2008(平成20)年9月5日

JR両国駅の北にある旧安田庭園(現在の正式な名称)を半分囲むように庭園の東と南側が商店や民家が並んでいる。だいぶ建て替えが進んでいるが、戦前のままの家が何軒か見られる。写真は庭園東側の家並み。
写真左端が増田外科医院で、その他の家は商売をたたんだ様子だ。写真中央に洋風の看板建築がある。現在はその家が取り壊されて裏にある民家が見えている。表側が商店か作業所で、裏の家はその住居なのかもしれない。左の写真がそれで、手前の二階建ての棟は二階の窓が洋風で十字形の部分はステンドグラスらしい。
出桁造りの立派な家は現存している。今では家の裏を駐車場にしている。写真右端の家はいつのまにかなくなっていて、裏の駐車場への通路になっている。

下の写真は、後ろの木が旧安田庭園のものとすると、1枚目写真で左奥へ行って直角に曲がる隅切り部分にある「メゾンド両国」と表札のある二階建ての家に建て替わる前の民家ではないかと思う。


民家。横網1-12。1988(昭和63)年4月10日

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上浅青果店、春日屋米店。墨田気両国2-18。1989(平成1)年6月25日

京葉道路と両国駅の間の裏通り。上浅青果店とダンボールの川崎商店の看板建築は、上浅青果店の方が、今も残っていて写真のままの看板も電話番号は消してあるが使っている。壁は貼りかえてあるのでレリーフは見られなくなった。川崎商店の方は5階建てのビルに建て替わっている。「両国カイロ」の看板があるが、建て替わったビルで今も続いている。
春日屋米店の銅板貼り看板建築は木の枠の硝子引き戸や窓が残っていて、かなり原形が残されている感じだ。右のビルはGoogleマップで「中尾ビル」で、春日屋米店のあった場所が特定できる。

左の写真は『図説 占領下の東京』(佐藤洋一著、河出書房新社・ふくろうの本、2006年、1600円)からの写真に建物名などを書き加えたもの。「昭和20年9月28日」と日付がある。
空襲で焼き払われた隅田川東岸の墨田区と江東区が写っている。写真下の両国駅の上に焼失を免れた一角が帯状に残っている。上浅青果店と春日屋米店もそこに含まれる。なぜこのように焼け残ったのか不思議だ。周囲に建物疎開になったところがあったのだろうか。

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左:千田商店、右:東京新聞印刷工業。墨田区両国1-6。2007(平成19)年5月23日

京葉道路の両国1丁目交差点から南へ、江東区清澄の方へいく通りがある。そこをいくとすぐ、竪川を一之橋で渡るが、千田商店はその手前にある。千田商店の店名は1968(昭和43)年の住宅地図からのもので、他の商店名も同様。
竪川が隅田川に出る合流点の北側に、空襲からの焼失をまぬがれた一角がある。今でも戦前からある商家の家が10軒程度残っている。たいていは外壁や屋根などが改装されているわけだが、千田商店は、瓦がなくなっているが基本的なところは改装というほどのことはしていないようだ。出桁造りの家のように見えるが、壁や桁が漆喰で塗り込められている。「塗家造り」というそうで、『東京ダウンタウンストリート1980's>墨田区両国一丁目-その二』に詳しい。東京には塗家造りの商家は他にはまず見られないそうで、貴重な建物である。2階の戸袋と同じ形のものが1階右側に造られている。やはり戸袋なのだろうが、珍しい造作だと思う。
右写真の家は一之橋の通りから横へ入ったところ。銅板貼りにすることが多い戸袋がモルタルだか漆喰塗にしている。





上左:渡辺燃料店、両国1-1。上右:シミズ理髪店、両国1-4
下:三ツ矢食料品店、両国1-5。2007(平成19)年5月23日

細かい模様を浮き出した銅板貼りの建物が渡辺燃料店だった家。裏側は竪川で首都高速7号小松川線が川の上を通っている。
角の床屋は岡田商事の前を南に行ったところ。今は廃業したようで、入り口が鉢植えで塞がっている。『東京懐かしの街角』(加藤嶺夫、河出書房新社、2001年、2500円)の平成10年8月撮影の写真では、一部タイル張りの壁面が写っていて、それを波トタンで覆ったような外観だ。右のビルは梅の湯という銭湯があった場所。左の古い家は床屋と同じ建物かもしれない。1968年の地図では「田中鉄工場」。
一之橋北詰交差点角の三ツ矢食料品店は自販機を置くだけになっている。その左の看板建築の家は戦後に建て替えられているようだ。その左のたばこの看板の家は1968年の地図に「両一食料販売所」となっている。古い家を改装して使っている。

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