ぼくの近代建築コレクション
東京の都心と下町を中心に、戦前に建てられた古い建物の写真を投稿していきます。
 




魚善、山忠製麺所。品川区北品川1-23。2013(平成25)年9月22日

京急本線(ぼくは「京浜急行」といっている)の北品川駅から旧東海道へ入ると「北品川本通り商店会」の街路灯が立ち並ぶ商店街になっている。古い商店の建物は、今はビルに建て替わって星野金物店の辺りまでは目につかない。写真はその少し手前で、魚善鮮魚店と山忠製麺所はかなり古くからある商店らしい。魚善の建物は外壁がきれいに改装されている。看板建築にしたのは戦後かもしれないが、本体は戦前のものではないかと思う。
写真右の駐車場の奥は北品川病院。そのビルは9階建てとけっこう高層だがだいぶ古くなってきているようで、昭和40年代に建てられたような外観だ。



バーバーミッキー。北品川1-24。2004(平成16)年1月11日

旧東海道から西へ、第一京浜道を渡り、御殿山橋で山手線の線路を超えて御殿山(北品川4丁目)へ上っていける道路がある。写真はその横丁に入って、旧東海道のすぐの裏通りとの角の理髪店。その後ろの志村タバコ店は、今は取り壊された。タバコ屋の隣は二軒長屋にイズミパーマ店と居酒屋かなこ。この二軒は、現在は表面を改装して「Le Faste coiffeur」という美容室、および住居になっている。

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居残り連。品川区北品川1-22。2013(平成25)年9月22日

八ツ山通りの北品川一丁目交差点の角にある銅板貼りの看板建築。写真右の横丁はゆるい坂道になっていて、旧東海道の道筋の商店街に出る。江戸期だったら、東海道の往還から品川の海辺へ下りていくという地形が判る横丁の1本だ。
建物は三軒長屋になるのだろう。角の一軒は蔦だか葡萄だかで入り口がふさがっているから空き家かと思ったが、これは店の装飾らしい。ネットで調べるとイタリア家庭料理「居残り連」という店だった。その店になる前は「荒井家」という鰻屋だった。店名は「居残り佐平次」という古典落語に荒井家が登場するそうで、そこからという。



荒井家だったときに写真を1枚だけ撮っていた。2004(平成16)年1月11日

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大黒屋、あさのや。品川区北品川1-21。2013(平成25)年9月22日

当ブログ前回の「北品川の古い民家の家並み」を構成する通り沿いの2棟。どちらも二軒長屋で、中華そばのあさのやの方は2階が後退していて、看板の後ろは1階の屋根である。あさのやはたぶん空き家で、建物の裏側を見ると廃屋状態だ。表側も蔦が屋根や壁を這っている。食事処大黒屋はのれんがあって夜は居酒屋になるのだろう。営業しているのかどうかなんとも言えない。



天麩羅うえじま(植島)。北品川1-21。2004(平成16)年1月11日

八ツ山通りの北品川1交差点(うなぎの荒井家だった銅板葺看板建築がある交差点)のすぐ南にあった二軒長屋。バス停は「品川車庫前」。現在は普通の住宅に建て替わった。天麩羅のうえじまは通りの向かいのビルに移っている。その看板がだいぶ古そうなのは、写真の旧店舗の看板を切り取って据え付けたのかもしれない。うえじまの右は店だったときの造りが残っているが、1981年の地図では「野村クリーニング」。

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古い民家の家並み。品川区北品川1-21
左:2004(平成16)年1月11日、右:2013(平成25)年9月22日

左写真は「品川浦の船溜まり」のよく知られた景観。かつての目黒川の河口で、水面は「天王洲運河」というのが正式の名前だ。「品川浦」だと江戸時代を連想するような名称だが、いつ頃から誰が使うようになったのだろう。河岸に木造の家がかたまって建っている。それを道路の側から見たのが右の写真。
この木造家屋群が「しながわ百景」のうちの1番目「北品川の古い民家の家並み」である。しながわ百景とは品川区が区政40周年を記念して、昭和62年に選定した。右写真正面の信号機の下にあるのがその標示板だ。それを置いてからそろそろ30年が経つから、標示板の文字もかすれてきている。古い民家も三分の一くらいに減ってしまっただろう。
民家といっても、元は借家として建てられたのだろう。一戸建て住宅と二軒で使う二軒長屋形式の家が団地のように並んだ一角だ。残っている家屋はけっこうきれいに保たれていて原形も割と残っているように見える。何軒か空き家の家もあってそういう家は廃墟と化しつつある。


上下とも2013(平成25)年9月22日



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東栄ビル。中央区築地3-9。1987(昭和62)年10月4日

新大橋通りの築地本願寺のすぐ近くにあったビル。築地川に架かっていた備前橋の通りと暁橋の通りの間で、この区域は空襲で焼き払われたところのようだ。写真の木造の家は戦後まもなく建てられたものだろう。あずき色の東栄ビルは3階分のガラス窓を中央部分にはめたようなちょっと変わったデザインのビルだ。昭和25年頃の火保図では「東栄印紙工業KK」で木造トタン葺の表示。昭和38年の航空写真に写っているので昭和30年代の建築かと思う。
角の家は森田理髪店で、建て替わった「ラウンドクロス築地」(1992年5月竣工)というビルの同じ位置の地下の床屋がそれではないかと思う。コカコーラの看板が出ているが、「モリ」という横丁を入ったところの喫茶店(?)のものだ。
御光堂世界~Pulinの日記>東京にあった古いビル』で取り上げている。上の写真では東栄ビルの看板が街路樹で隠れてしまっているが、Pulin氏の写真では「東京富士自動車」と判る。

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華僑ビル。中央区築地2-15。1986(昭和61)年5月11日

割と最近まであったビルで、『 都市徘徊blog>華僑ビル』によると、2010年に解体されたそうだ。すでに、「ヴィアイン東銀座」というホテルが完成している。上の写真では左から、華僑ビル―1階の店舗は常陸屋商店(料理道具)、野沢ビル―野沢屋淡水魚(丸善水産の看板も出ている)、江戸屋(煎餅)と2階にキッチンつきじ、寿司岩総本店、藤井商店(厨房設備、調理道具)。やはり、魚市場関連の商店が並んでいる。
このビルは下の写真のように奥行きが大きくて、裏の通りにまで達している。『日本近代建築総覧』に出ているが「構造=RC5」としか記載がない。6階は増築したものか、としか分からないが、それは外観を見れば見当がつく。このビルを取り上げたサイトでは、建築年は「1928~29(昭和3~4)年」というのが多い。『近代建築散歩 東京・横浜編』(小学館、2007年)では「1928年頃」である。



華僑ビル東側側面。2004(平成16)年11月6日

『東京珍景録』(林望著、新潮文庫、平成11年、667円)に、6階にあった「シネバラック3000」という映画館のことが書かれている。マニヤだかオタクだかの聖域だったらしい、として「六畳ほどの小部屋に、ソファーくずれの不揃いな椅子がおよそ十人分ほど、客は、その日わずかに四人。この秘密めいた小部屋で、藤田まこと主演『大風呂敷』なんてのをやっている(これが呆れ返った愚作で……)。」とある。
ビルの1階にあった常陸屋のHPに『常陸屋と華僑ビルの話』というページがあって、そこに「ビルのオーナーが中華系ということもあり、戦後もGHQに没収されずに今に至っています。当時はビルの上層階にあるパーティールームが、力道山や兵隊の娯楽施設として重宝されていました。」と書かれている。



左:1986(昭和61)年8月31日
右:裏側、2004(平成16)年11月6日

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岩間陶器店。中央区築地2-15。左:1986(昭和61)年8月31日、右:同年11月

晴海通りから平成通りに入ってすぐのところにあったビル。岩間陶器店は、左写真の右端の黒いルーパーのような壁の家が店舗で、晴海通りとの京橋郵便局前(現・築地四丁目)交差点の角にある。4階建ての古いビルはその店の倉庫になっていたらしい。現在は「ミレニアム築地」(2000年5月竣工)という9階建てのビルに替わり、岩間陶器店はそこに入っているが、そのビルの向かいにもビルを建てて「うりきり屋」の名前で店舗を広げている。
岩間陶器店はそのHPによると、1902(明治35)年1月に、日本橋魚河岸に業務用食器の専門問屋として開業した。関東大震災後、魚河岸が築地に移転するのに合わせて当地で再開した。
『東京珍景録』(林望著、新潮文庫、平成11年、667円)に岩間陶器店の倉庫のことが書かれている。二代目社長の話として、「昭和7年に設計され同8年に竣工」「設計といっても、じっさいは藤原武太郎という大工の棟梁と、初代の大旦那が相談して拵えたものらしい」とある。スクラッチタイル貼りの外壁上部の白っぽいものは太鼓腹の布袋様のタイル絵で、「商標」の字が入っている。当書にはそれと判る写真が掲載されている。
消えた近代建築>岩間陶器店』によると、竣工時は2階はバルコニーになっていて、大きな開口部だったらしい。商品をそこから搬入していたのかもしれない。『消えた建築>岩間陶器店ビル』の写真が素晴らしい。

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中村家住宅。中央区築地2-9
左:1992(平成4)年2月16日、右:1986(昭和61)年8月31日

新大橋通りと平成通りの間にある路地に今も残っている、元は住宅だった建物。現在は「鉄板焼Kurosawa」という店になっている。
『東京都の近代和風建築』(編集=東京都教育庁地域教育支援部管理課、2009年)によると、1927(昭和2)年に王子製紙重役の中村氏によって建てられた住宅。「木造2階建、入母屋造、桟瓦葺」という構造である。「玄関を中心に、入母屋屋根を持つ建物を左右対称に配し」「外壁は、押縁下見板張と漆喰仕上で、窓には格子が組まれ、戸袋や玄関の門扉には一枚板が使われている」。これらの外観の特徴は、店に改修したときもそのまま残され、近頃はやりの古民家を飲食店に転用する場合のお手本のような現状である。住宅だったときの間取りは、「中廊下式」「1階は、南側に洋間の応接室と居間」「北側に水回りなどの付属施設」「2階は、南側に本格的な書院造の客間と茶室、北側は6畳間と箪笥置き場」だったそうだ。
中村家の北側にも木造の家が2棟並んでいる。住宅と「ふる里」という料理屋。現在は住宅になっている建物が建て替えられている。

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左:たぬき、築地畜産。中央区築地2-8。2000(平成12)年2月19日
右:サルビア。築地2-8。1992(平成4)年2月16日

左写真は平成通りの宮川鶏肉店のある交差点を東へ入ったところ。居酒屋の「たぬき」が入る3階建ての家は、1階を商店にしたアパートのようなものらしい。肉屋の「築地畜産」は、昭和25年頃の火保図にある「新井肉店」が続いていたのかもしれない。その右の狭いビルは「赤坂ビル」だが、「赤坂洋服店」が建て替わったものだろう。
現在はたぬきの建物は「大阪寿司八竹」の3階建てのビルに替わった。赤坂ビルから3棟、「美容室つきじ」までが取り壊されて駐車場になっている。八竹のビルはいずれ大きい本格的なビルを建てるまでの仮建築のようだ。
右写真はたぬきの左の路地を覗いたもの。右手前はたぬきで、奥のグレーの建物の前に袖看板が見えるのは「サルビア」という、やはり居酒屋らしい。たぬきと同じ建物である。


美容室つきじ
築地2-8。1986(昭和61)年8月31日

変わったデザインの看板建築だ。アールデコでもなさそうで、『近代建築散歩 東京・横浜編』(小学館、2007年)では「壁面の幾何学模様が分離派風」としている。昭和25年頃の火保図では、「松屋医院」となっている。

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民家。千代田区富士見2-1。1988(昭和63)年1月15日

東京大神宮通りから横に入ったところで、早稲田通りのすぐ裏手になる。屋根つきの門のある屋敷は残っているが、その右のアパート風の日本家屋のところは、「プラース千代田富士見」(2009年3月築、9階建、65戸)というマンションが建った。
写真左に看板建築が2棟見える。その左の方は大神宮通りとの角にあるモルタル塗の看板建築で、撮影時はたばこ屋だったと思うが、建物は今も残っている。その右の銅板貼り看板建築は斉藤商店という雑貨店。今は4階建ての小さなビルに建て替わっている。

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