ぼくの近代建築コレクション
東京の都心と下町を中心に、戦前に建てられた古い建物の写真を投稿していきます。
 





築地川南支流。中央区築地4、6丁目
1985(昭和60)年6月

築地本願寺の裏を流れていたのが築地川南支流で、写真は2枚とも築地場外の小田原橋から撮ったもの。撮影時では小田原橋から備前橋の手前まで、まだ水面が残っていた。上写真の家並みは築地4-14に並ぶ商店の裏で、右奥の橋は門跡橋。左写真は築地6-26の家並み。
『川の地図事典』(菅原健二著、之潮(コレジオ)、2007年、3800円)では「築地川南支川」の名称で、ぼくもこちらの名称を使えばよかったかもしれない。「支流」のほうは住宅地図にあったもの。当書には「(備前橋の)下流部分も昭和62(1987)年に埋立てられフタをされた。現在は区営駐車場、駐輪場になっている」とあるから、川は撮影後1・2年で埋立てられてしまったらしい。

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市場橋(いちばばし)。中央区築地4、5丁目。1986(昭和61)年頃

新大橋通りの築地川東支流に架かっていた橋。新大橋通りは関東大震災後、その復興道路整備のひとつとして新たに通された大通りで、市場橋はそれにともなって架けられた。通りの名称は当初は「市場通り」だった。新大橋通りの名称が使われるようになったのは新住居表示に伴って、と聞いたことがある。
Bridge Watching 』によると、「橋梁形式=3-ゲルバー鋼鈑桁、架橋年月=大正14年4月~15年12月、建設機関=復興局、昭和53年埋立」である。「ゲルバー鋼鈑桁」とはなにかと思ったら、隅田川に架かる言問橋が「3径間鋼ゲルバー鈑桁(函型)橋」だから、似たようなものらしい。川が埋立てられた後も10年くらいは、橋は撤去されずにいたらしい。
現在も「市場橋交差点」「市場橋公園」築地市場の「市場橋門」などに橋の名称が残っている。

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築地川東支流
中央区築地6-27
上:1987(昭和62)年9月15日
左:1983(昭和58)年12月

築地中央市場と場外市場を隔てている掘割が築地川東支流で、本流の分岐点から隅田川河口まで650mある。撮影時では小田原橋の辺りまで埋立てが完了していて、引き続き、残った波除神社の横まで埋立てようとしている頃である。埋立てといっても、水を抜いた後、蓋をして上を公園や駐車場にする工事である。当時の地図では「市場橋公園予定地」。1995年頃にはすっかり水面は消えていたと思う。今は下の写真のように駐輪場になっている。
上の写真は海幸橋から撮った光景で、川縁に並んでいる建物は波除通り沿いの家の裏側。写真左の小豆色のビルの下に小田原橋が写っている。左写真は小田原橋から撮ったもので、奥に海幸橋が写っている。



近影。2009(平成21)年12月19日

1枚目の写真を撮ったのと同位置からの最近の光景。写っている建物がほとんど変わっていないのが驚きだ。

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岩元市場。中央区築地4-14。1989(平成1)年11月5日

左写真は築地場外の築地東通り(左奥への道路)が波除通りに出る角。波除通りとは波除神社の正面から新大橋通りへの道路をいう。1986年の住宅地図では角の店は「東京フーズ」。岩元市場の看板の架かる洋風看板建築の建物には、道路に面して「原商店(海産物卸)」と「双葉食品㈱」が入っている。岩元市場とは幾つもの店を納めた建物名と考えていいようだ。
岩元市場の裏は撮影時ではまだ築地川の水面があったかもしれない。この建物は後ろでL字型に曲がって波除通りにもう一つの正面を向けている。それが右写真で、店は「一不二」という食器の店。「割烹向専門・せともの・一不二」の看板が置かれている。看板建築の造りにした面はまったくの二次元の面で、看板建築の名称そのままという感じである。むしろ「衝立建築」といいたくなる。



近影。2011(平成23)年11月7日

写真右手前は道路が少し高くなっている。築地川に架かっていた小田原橋の跡だ。一不二の前のコンクリートの塀のようなものは橋の遺構である。その横の看板は、2枚目の写真にも写っていて「一不二の器に盛りて山海の珍味も更に映えて輝く」と短歌が書かれている。「更に」は「皿に」とかけているわけだ。
写真中央の「多美屋」は彫刻看板を製作している店。店名などをレリーフのように彫ってその文字に黒漆を塗った立派な看板を見ることがあるが、その看板である。彫刻千社額などというものも造る。

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福屋本店、有次。中央区築地4-13。1999(平成11)年11月

築地場外の築地東通り。 三洋珍味の斜向かいである。古い建物が並んだところを撮ったものだが、戦前の建物には見えない。戦後に建替えたとも思えないので改修したものだろうか。タイル貼りの家は東源正久(あずまみなもとのまさひさ)という刃物店と福屋本店、奥には飲食店も入っている。その家の右に続くのが右の写真で、有次刃物店、寿屋(海産物)、ヤスダ電気商会(冷蔵庫)。
現在は福屋本店が廃業したようで、飲食店に変わった。他の店はそのまま盛業中のようで、建物も変わっていない。



有次、青空。築地4-13。2011(平成23)年11月7日

1段目写真の現在で、右写真はヤスダ電気のさらに右の並びが写っている。海産物を扱っていた店が飲食店に変わってきている。青空三代目は以前は高砂商店、寿司清は 大山商店だった。青空三代目は古い建物を改装しているが、寿司清は建替わったのかもしれない。

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三洋珍味。中央区築地4-14。左:1988(昭和63)年10月9日、右:1991(平成3)年5月5日

築地場外には晴海通りから入る横丁が3本ある。写真の通りは、「築地東通り」と名前がついた横丁。この家並みの裏側は築地川南支流だった跡で、今は駐車場になっている。
写真左から、中本商店、秋山商店(鰹節)、吉岡屋商店、ビタール食品、三洋珍味。右の写真に移って、北田水産、岩本市場(双葉食品)と並んでいる。
出桁造りの家かと思われる日本家屋が3軒並んでいる。ビタール食品の家は1階の屋根にうだつを置いている。うだつは防火壁だが、ここでは飾りのようなものだと思う。東京ではほとんど見かけないものだ。
吉岡屋商店は1991年の写真では三銀商店に、1999年の写真では鳩屋海苔店と変わったが建物はそのままだ。ビタール食品と三洋珍味の建物が建替えられた。




上左:ビタール食品。1999(平成11)年11月
上右:北田水産。1991(平成3)年5月5日
左:三銀商店。1991(平成3)年5月5日


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日本工業倶楽部会館。千代田区丸の内1-4。1983(昭和58)年11月

1920(大正9)年に、横河工務所の設計で建てられたRC5階建てのビル。1918(大正7)年4月着工、1920年11月竣工である。施工は『日本近代建築総覧』や『近代建築ガイドブック』では「直営」となっているが、事実上は清水組らしい(『 清水建設200年史』)。
工業界の社交クラブとしての用途を中心に造られ、豪華な1階ホール、2階大広間、大食堂、3階談話室などを納めているという。それにしては外見は、色合いのせいかもしれないがかなり地味だ。ビルの外観デザインは横河工務所の松井貴太郎で、ゼツェッシオンという大正期に台頭してきた新様式を採用した。それでも玄関の前は古典様式のオーダーで飾っている。こういう重厚なところがないと承知しない偉い人がいたのかもしれない。日本建築学会が関係機関に出した『 保存に関する要望書』(1998年7月)には、「(松井は)正面玄関のオーダーのゼツェッシオン化を試みている」とあるから、ただとってつけただけではないようだ。また、「柱と梁の軸組構造を露出させるというアメリカの高層建築の形式も同時に取り入れており、まさにわが国のオフィス建築がアメリカから強い影響を受けていく過程を知り得る貴重な作品」ともいっている。



正面。左:1986(昭和61)年6月1日、右:1983(昭和58)年11月

正面屋上には石炭と紡績を象徴した坑夫と織女の像が置かれている。『 収蔵庫・壱號館>日本工業倶楽部会館(2010.01.29)』に、この小倉右一郎の彫刻の意義などが考察されている。



東面。1986(昭和61)年9月23日

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東京銀行協会。千代田区丸の内1-3。1986(昭和61)年1月

1916(大正5)年に、横河工務所の設計・施工で竣工した煉瓦造2階建ての洋館である。設計は横河工務所のチーフ・デザイナー松井貴太郎が担当した。当初の名称は「東京銀行集会所」で、『 全国銀行協会』によれば、1916年9月25日が落成式。また、1945(昭和20)年9月25日に「社団法人東京銀行協会(東銀協)設立」である。
『建築探偵術入門』(文春文庫、1986年、480円)の構造の解説では、「主体構造は確かに赤煉瓦ではあるが、・・・壁には縦横に鉄筋が入れられ、さらに鉄筋コンクリートの帯をまわしてコンクリートの床を支えるなど、耐震、耐火に対する周到な配慮」をしているという。
外観の特徴を『近代建築ガイドブック[関東編]』(鹿島出版会、昭和57年、2300円)から引用すると、「濃いあずき色の施釉煉瓦と御影石のにぎやかな配色といい、鋳鉄製の車寄せといい、充実した細部意匠を誇っている。明治期のような過剰な装飾や威圧感がなく、よく抑制された全体としてしゃれた細部の組合せは、やはり大正期ならではの上品さおだやかさをしめしている。見せ場の一つであった内部は改修をうけ、当初のセセッション様式の面影はうすれているが、上品さはあいかわらずである」。なるほど、もしかしたらこの建物は大正ロマンの反映?
『建築探偵術入門』には、「戦後の米軍接収中に火災によって上階を焼失し、昭和32年に復旧工事が行われたものの、当時の面影はやや失われている」という記述がある。接収期間は昭和20年9月から31年7月6日で、わりと長期にわたった。「American Red Cross Club(バンカーズ兵員クラブ)」という名称の米軍将校クラブとして使われたという。



左:1983(昭和58)年11月。右:1986(昭和61)年1月

建て替わった東京銀行協会ビルの「ファサード保存」は評判が悪い。建物をそのまま保存することと比較してしまうからだろうか。一方で、ビルの建替えに最も熱心なのが銀行で、建設費用を貸し付けることで、銀行の経営が成り立っているようなところがある。他人の建物は建替えさせて、この建物は保存するというのも変かもしれない。




上:1983(昭和58)年11月
左:建物の東面
1986(昭和61)年6月1日

東京銀行協会の旧ビルの写真をネットで探してみたが、あまり出てこない。『散歩やせんとて>昭和戦前古建築散歩 東京銀行集会所(2009.09.30)』を見つけた。

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扇屋質店。神奈川県鎌倉市御成町13。2011(平成23)年11月19日

鳩屋敷があった通りを小町通りの方から踏み切りを渡って、今小路に出る途中にある。店の左の家は「正宗孫刀剣鍛治綱廣」と「二十四代綱廣・正宗工芸」の看板があって、1991年発行のガイドブックでは「正宗工芸美術製作所」。日本刀や小刀の工房と販売店で、「大刀1振り140万円から」という。
踏み切りを渡ったすぐのところには「游古堂」という古本屋がある。本だけでなく骨董品も売っている。骨董品というより普通の雑貨に近いのかもしれない。
扇屋質店だが、電話帳には出てくるが写真では営業しているようには見えない。1階の造りは一昔前のものだが、2階の壁はタイル張りで、それほど古い建物には見えない。だが、横を見ると洋風の下見板で、なんだか古そうである。さらに屋根の軒下を見ると、古い洋館で目にするような造りだ。
右の写真は今小路から建物の側面を撮ったもの。手前の空き地は2階建ての集合店舗を取り壊した跡。平屋の家は「筍(たけのこ)」という定食屋。

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針谷産科婦人科医院。神奈川県鎌倉市小町2-16。2004(平成16)年4月7日

若宮大路の鎌倉警察署の横を東へ入ったところにあった。見たところ、外壁を塗り替えたばかりなのかもしれないが、きれいな外観で、あるいは最近の建築かとも疑った。その後、『 都市風景への旅 近代建築・神奈川県』に建築年が「S5(1930)」とあるのを見て一安心した。
J.K’s Blues 針谷産科婦人科医院の建物が…(2005.05.07)』で、撮影後1年で取り壊されたと知った。

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