ぼくの近代建築コレクション
東京の都心と下町を中心に、戦前に建てられた古い建物の写真を投稿していきます。
 




原田米店。千葉県松戸市松戸。1989(平成1)年4月1日

写真の家は、今は高層マンションで囲まれてしまった状態で残っている。「旧」がつく以前の水戸街道を想像する手がかりになる1軒だ。数年前らしいが、店舗を向かいのビルに移している。松戸駅から数分、大通り沿いのこれだけの家が今は住居としてしか使われていないらしい。現在、店舗あるいはイベント会場などに入居者を募集している。いっそう、門を入った奥で赤ひげ診療所はどうだろう。
『昭和の松戸誌』(渡邉幸三郎著、崙書房出版、平成17年)によると、「原田米店は13代も続く松戸きっての老舗」である。平成2年にサンヨーホームが製作したビデオ『心に残る松戸のすまい』によるとして、建物について以下の記述がある。ぼくにはよく判らないところもあるが書き写してみる。
 明治44年に建築されたこの家は破風板(屋根の切妻についている合掌形の装飾板)、桁かくし、梁は太い松の大木、柱は欅で、銅の根巻がしてあり、畳は琉球表、千本本格子戸、空気の流通を図るための荷ずり、甲乙梁がもちいてあり、米蔵の敷石は建築当時のままという。
 揚戸(あげど)は二間半と二間の間口に、約50糎程の蔀(しとみ)梁裏の内方に設けた戸ジャクリに、昼は二枚として納め、夜や休日には下している。


2011(平成23)年12月27日

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かつびし屋。千葉県松戸市松戸
2011(平成23)年12月27

旧水戸街道の本町交差点(松戸駅西口からの駅前通りとの交差点)からすぐ南のところ。「かつびしや」という風変わりな店名と建物横が煉瓦になっているのが目立っている店がある。以前撮った写真がないかと探したが、見つからないので急遽撮影してきた。写真右は西蓮寺。
『昭和の松戸誌』(渡邉幸三郎著、崙書房出版、平成17年)によると、かつびし屋は江戸後期の創立で、昭和12年の二丁目(旧町名)家並みの解説文には、「かつぶし屋」の店名で「伊勢屋源治郎以来の老舗。現かつびし屋。・・・側壁は煉瓦造り、大正11年建築、大震災にも耐えた。糸とタバコ販売。健在」とある。
横の壁を煉瓦貼りにしたようにも見えるが、『日本近代建築総覧』では煉瓦造2階建てとしている。

やはり『昭和の松戸誌』には、かつぶしやの渡辺敬蔵という人はタクシー会社やバス会社も経営したと記している。渡辺バスは昭和2年、4台のバスで市川・金町・流山の3路線の営業許可を受けた。市川へのバスの場合は、中矢切の香取神社下に車庫を設け、朝夕は1時間毎、昼は2時間に1本走らせた。現在の京成バスの松戸駅-市川駅の路線とほぼ同じ経路を運行したかと思われる。昭和11年に京成バスに買収されたという。

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ナベシン洋品店
千葉県松戸市松戸。1988(昭和63)年頃

上の写真は左から、喫茶店トニー、ナベシン洋品店、加藤履物店、上横町(江戸川へ出る横丁)、 松戸公産。今では各戸がビル化して4棟のビルに替わった。
ナベシンは洋風の看板建築かと見えるがRC造の建物である。『日本近代建築総覧』に「鍋新洋品百貨店、昭和2年建築、RC造2階建」の記載がある。この規模でRC造は普通はありえない。店主はまじめに不燃家屋を目指したのだろう。
『昭和の松戸誌』(渡邉幸三郎著、崙書房出版、平成17年)によると、鍋新洋品店は慶長(1600年初)の頃西蓮寺(ナベシンの後ろにあり、トニーの左に山門が開いている)とともに下矢切より移住。鍋屋新兵衛以来の老舗。・・・昭和12年当時は鍋新百貨店として洋品以外も販売」とある。
『千葉県の近代産業遺跡>ナベシン洋品店』によると、施工者は東洋建築社(現・鉄道軌材工業株式会社)である。このサイトには「鍋新百貨店」の看板の店舗、および2階のバルコニーが判る写真が載っている。
トニーは、元は松元堂という菓子屋。
加藤履物店は、現在はフジカ不動産に商売変えした。ビルに建替えたのを機に、主にそのビルを管理する会社を設立したかと想像する。前書によるとフジカは加藤の逆読みということだ。


ナベシン(昭和13年頃)。『昭和の松戸誌』より転載

建物中央上部に「鍋新本店」、2階の窓の下の壁に「田村洋品店」の文字が入っている。2階中央のアーチ形窓は後の改装と判る。1階前部の部分は昭和13年以降の増築らしい。

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松戸公産。千葉県松戸市本町。1988(昭和63)年頃

『日本近代建築総覧』に「松戸公産、松戸市本町8-3、レンガ造2階建」で載っているが、川崎銀行として建った建物である。この建物に関しては『 表の家>松戸行脚> 旧川崎銀行』というサイトが詳しい。
竣工年は毎日新聞の記事が1919(大正8)年としているそうで、レンガ造りならそのあたりで頷けるが、同年に「株式会社川崎銀行」と改組しているので混同してはいないかとも思う。川崎銀行は1927(昭和2)年に第百銀行を合併して「川崎第百銀行」と改称。1943(昭和18年)に三菱銀行に合併されて、この建物は「三菱銀行松戸支店」となった。
松戸公産がここに入ったのは1969(昭和44)年という。三菱銀行は市民劇場のある場所(本町交差点角)に移ったらしい。
2007年に解体されて2009年2月に12階建てのマンション兼用の松戸公産本社ビルとして建て替わった。松戸公産は競輪場を運営している会社で、1949(昭和24)年の設立時は「松戸競輪会社」の名称だった。旧水戸街道沿いにあった輝竜会館という映画館も経営した。

加藤履物店との間の横丁は上横町(堂の口通り)という、江戸川の納屋河岸に出る古い道である。銚子から鮮魚が荷馬車でこの道を通って江戸川へ運ばれ、そこから船で江戸(日本橋の魚河岸だろうか?)へ運ばれた。鮮魚(なま)街道という。『昭和の松戸誌』(渡邉幸三郎著、崙書房出版、平成17年)の昭和12年上横町の街並みを見ると、鍛冶屋・鋳掛屋・板金屋が4軒書き込まれている。馬との関連が想像される。


2003(平成15)年12月26日

2021.04.05追記
表の家>松戸行脚> 旧川崎銀行』が更新され、新たなURLで公開されたので、そちらにもリンクしておきます。

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四軒長屋。文京区根津2-20。2002(平成14)年4月28日

曙ハウスの向かい側である。銅板が貼ってあるある家はやたら古い建物ともみえない。しかし古い航空写真から判断すると、戦前からある四軒長屋のようだ。2階が後退している木造長屋だったのを、2階前面を増築したものかもしれない。写真右の建設工事中のビルは「藤和シティホームズ根津」。四軒長屋は今は「メゾン中島」という低層マンションに建て替わっている。
この四軒長屋の南側と曙ハウス(今はコインパーキング)の南の路地の線から言問通りまでは、戦時中に建物疎開で火除地になった。昭和22年の航空写真では、大通り沿いには商店が建ち始めているが、まだ空き地が広がっている。


2000(平成12)年5月3日



根津1丁目交差点。根津2-19。1988(昭和63)年11月3日

不忍通りと言問通りが交わる根津1丁目交差点の東北側。大通りの交差点で千代田線根津駅がある場所にしては、今も昭和の時代から不思議と変わらない景観である。後ろの宮の湯を囲むように看板建築風の店が並んでいる。建物疎開になった区域なので、昭和20年代に建てられたのだと思う。宮の湯は昭和26年の創業という。

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曙ハウス。文京区根津2-21。2000(平成12)年5月3日

不忍通りの1本東の裏通りにあった古い木造二階建て下見板張りのアパート。2006年2月に取り壊されるまでは、根津の名物建築だった。
『不思議の町 根津』(森まゆみ著、ちくま文庫、1997年)に、根津の曙ハウスは動坂町にあった金の星ハウスと同じく斎藤佐次郎が建てたと聞いて、金の星社と斎藤のことを調べて載せている。金の星社は現在も台東区小島にビルを構えて児童書を中心に本を発行している会社である。当書によると、関東大震災後の大正14年に動坂町に近代的アパート「金の星ハウス」を建築、金の星社をそこに移転する。昭和に入ると大正期の童話・童謡ブームは去り、児童雑誌「金の星」も昭和4年、11巻第7号で終刊になる。事業を縮小して単行本などでしのぐが、昭和5年に根津片町の曙ハウスに移転し、苦難の時代をそこで過ごした。昭和7年に下谷区二長町に移転した、という。
この経過を読むと、斎藤は昭和5年に曙ハウスを建てて移転した、というより、金の星ハウスを売り払って、すでに建っていた曙ハウスに移った、とも考えられないだろうか?
また、入り口上の看板は1985年ころには「ハ」の字しか残されていなくて、判読に苦労した、と書いてある。そして『谷中・根津・千駄木』20号〔1989年7月〕に「「ハ」の字だけだったのに、なぜか最近修復された」という記事を載せている。



左:1992(平成4)年4月29日、右:2000(平成12)年5月3日

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小林木工所。文京区根津2-21。1989(平成1)年4月29日

不忍通りの1本東の裏通りで、写真左の家が小林木工所。不忍通りふれあい館のすぐ裏である。写真に写っている家は今もそのまま残っているが、2000 年に撮った写真では小林木工所の前は、隣の銅版貼りの家と同じように鉢植えで埋まっている。それ以前に木工所は閉めてしまったと思われる。



三共クリーニング。根津2-21。1990(平成2)年5月6日

1枚目の写真の場所から南へ行った、同じ裏通り。家並みの左手に1枚目の写真の家が、さらに写真左端には赤い看板のあんぱちやが写っている。長屋風の家の間にある看板建築が三共クリーニング。この家並みはストリートビューで見る限り、変わっていない。

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丁子屋。文京区根津2-32。1990(平成2)年5月6日

丁子屋はかつて藍染川が流れていた区境の通りに面している染物・洗い張りの店。藍染川という名前は染物屋が川で染めた布を洗っていたからそう呼ばれるようになったのだろうから、丁子屋を出すと藍染川に言及しないわけにはいかない。関東大震災後に蓋をして暗渠にしてしまう前は、幅が1~2間の溝で、店のすぐ前にあって、橋を渡して出入りしていた。
写真左の2階というか屋上が物干し場。写真右の白い家はみどり薬局。丁字屋の裏にある村田荘というアパートは丁字屋が建てたものかもしれない。
丁子屋は現在では手ぬぐいや和装小物類を扱っていて、根津や谷中を散策に来る人の足を止めさせている。



近影。2007(平成19)年12月15日

2軒並んだ古い家が健在なので、今も景観はあまり変わったとは思えない。物干し場は建て直したのだろうか。写真左のビル(マンション)は1枚目写真の撮影時では駐車場で、駐車場になる前は松下電器産業の上野寮だったはずだ。写真右には鷹匠という手打ちそばの店がいつのまにか出店している。

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栃木屋食料品店。文京区根津2-22。1990(平成2)年5月6日

根津観音通りの中ほど。右手前から、栃木屋食料品店、根津氷屋、仕舞屋、東京服装、渡辺肉店。栃木屋の右は保坂商店という八百屋で、その店から氷屋までが五軒長屋ではないかと思う。この長屋は今も残っていて、その角の保坂商店だったところは「りんごや」という喫茶・ギャラリーになっている。
現在では昔の商店はほとんどが廃業してしまったように見える。写真には写っていないが、渡辺肉店の先の路地との角にある坂本タバコ店がタバコ販売機を置いているくらいだ。

下の写真は1枚目の写真から1つ東の街区で、写真左奥で藍染川の流れていた谷中(台東区)との境の通りに出る。現在も写真の景観はわりと残っている。


山口印刷所。根津2-23。1989(平成1)年2月26日

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吉野寿司。文京区根津2-21。2000(平成12)年5月3日

不忍通りの根津小学校入口交差点のところに区立根津図書館(不忍通りふれあい館)がある。写真手前の空き地は図書館裏の広場で、不忍通りの裏通りと不忍通りから入る横丁(根津観音通り)との四つ角の角にある。このあたりなら「あんぱちやの角」といえば分かりやすいかもしれない。あんぱちやは日用雑貨の店だが、他店にはない、ちり紙、ブリキのたらい、わらじなどの品揃えがすごいことで有名だ。変わった店名だが、創業者が岐阜県安八郡の人だからだという。この四つ角は、旧町名の根津八重垣町・根津藍染町・根津片町が接する場所だった。
『不思議の町 根津』(森まゆみ著、ちくま文庫、1997年)に、観音通り商店街の成り立ちが書かれている。戦後、観音通りとなる狭い路地の北側が、昭和18年頃に強制疎開で取り壊しになった。『goo古地図>昭和22年航空写真』を見ると、藍染大通りより広い道路が写っている。戦後、そこに東京都がバラックを建てて根津銀座に出ていた露天商を収容した。その際、入居した店は「文京更正商業組合」の名前で組織されたが、組合長の鱸正蔵氏の発案で、観音像をお堂を造って安置した。商店街の集客を狙ったわけだ。現在ではその観音様は久昌院という寺に移されたという。当書が書かれた当時は、そのバラックがまだ残っていたらしいが、今はどうだろう。


吉野寿司。2002(平成14)年4月28日

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