ぼくの近代建築コレクション
東京の都心と下町を中心に、戦前に建てられた古い建物の写真を投稿していきます。
 




金嶺荘。台東区下谷2-21。2008(平成20)年5月7日(2枚とも)

金杉通りの1本裏の通りにあるモルタル塗りの外壁の古いアパートである。昭和30・40年代の○○荘と名づけられた、よくあったアパートのように見える。しかし、周囲は空襲では焼けなかった地域で、戦前に建てられた家も残っているところなので、このアパートもあるいは、という気になる。昭和22年の航空写真にそれらしいのが写っている。
上の写真右の玄関の造りは昭和初期の雰囲気が感じられる。金嶺荘の建物は玄関の右にも続いていて、玄関の位置は建物南面の真ん中辺りにある。
1階の窓がずいぶんと低い位置にあるような感じがするが、普通なのだろうか? 床の高さがないのかもしれない。



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佐々木商店。台東区下谷2-19。1991(平成3)年9月23日

金杉通り沿いの下谷2丁目の町並み。向かいは根岸3丁目で、宮本不動産だった洋風看板建築がある辺りである。北側の佐々木商店から3枚目写真の銅板貼りの家まで、隙間なく古い商店が立ち並んでいる。現在はマンションや細長いオフィスビルに建て変わって、4枚の写真に写っている建物は全てなくなった。
写真左端から佐々木商店(看板に「文具雑貨」の文字が読めるがタバコの自販機が置かれているだけのようだ)、家具の小林、㈱なかいち(ハンドバッグ・ベルト・小物・製造卸・□□)、空家、㈱ビオレクロス(インテリア設計・施工)。


なかいち。1989(平成1)年3月26日




仕舞屋と空家
上:1989(平成1)年3月19日
左:1989(平成1)年3月26日

ビオレクロスに続く家並み。2間間口ほどの出桁造りの商家は森家。その横に路地があって裏通りへ通じている。銅板張り看板建築の家は空家のようだが、ガラス戸にある文字は「根本電気店」だろうか。写真右のビル(満岡ビル)も現在はない。道路から少し引っ込んだ位置に建っていて門が作られている。「公認会計士・税理士 満岡貞太郎事務所」の看板が門柱に立てかけてある。
『東京の町を読む』(東京のまち研究会著、相模選書、昭和56年)に満岡家のことが出ている。古くからの坂本町の名士で、教育公共事業にも長い間貢献してきた家系だという。ビルになる前は、金杉通りの表通りに商店兼用の町家が2軒、裏通りにも同じく町家を2軒、その間に3軒長屋を向かい合わせに2棟、という敷地の構成だった。

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三倉屋米店。中央区日本橋人形町2-7。1989(平成1)年2月19日

前は大門通りで、写真右手に行くとすぐ金座通り(芳町通り)に出る。三倉屋は戦前からの米屋。建物は出桁造りになると思うが、よく見ると総2階建てらしい。写真右手の隣は加島酒店の、やはり出桁造りの家が今も健在だ。写真左の日本家屋は当ブログ前回の「多和田歯科医院」。


京樽。日本橋人形町2-7
1982(昭和57)年4月18日

三倉屋の隣の加島酒店の横から路地が入っていて、そこを入ったところにあった。現在は金座通りに大きいマンションが建って、その1階に京樽総本店があるが、撮影時も同じ場所に本店があった。その本店の裏手になる写真の家は、撮影時に料理屋として使っていたかどうかは知らない。
京都の割烹料理店として1923(昭和7)年に創業した京樽は、1938(昭和13)年には早くも人形町に料亭「京樽」を開業している。「京樽」の屋号はこのときに新たに付けられたものという。もしかしたら、写真の家が1938年開業の料亭かもしれない。

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多和田歯科医院。中央区日本橋人形町2-7。1987(昭和62)年6月7日

写真右の通りは大門通りで、当ブログ前回の「麻雀明朗」と同じ四つ角。日本家屋が4軒固まっている。現在はそのうちの1軒がビルに替わっただけで多和田歯科と喜寿司の建物は残っている。
喜(「七」が3個の字)寿司――『東京路上再見2』(林順信著)では「よしずし」、ネットでは「きずし」が多い――は伝統的な江戸前のすしで有名な店。建物は戦後に建てたもの。その左側が空き地だが、以前は旅館があったらしい。昭和25年の地図では「平和旅館」、昭和30年頃の火保図では「松本旅館」である。
多和田歯科はネット検索では歯科医院としては出てこないので今は営業していないらしい。1階は医院として改造されているが、かなり凝った造りの日本家屋である。この辺りはかつて「芳町」の花柳界があって――なくなったわけではないらしい――芳町見番(東京芳町組合)も近くにあったのだが、多和田歯科の建物は三河屋という待合だった。芳町花街の面影を残す貴重な建物なのだが、そういう目で見る人は少ない。



写真右の出桁造りの家は三倉屋米店。今は1階に「菜心」という中華料理店の入るビルになっている。1982(昭和57)年4月18日

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麻雀明朗。中央区日本橋人形町2-8。1987(昭和62)年5月31日

写真左の歩道がある通りが大門通り、右奥に行くと人形町通りに出る。角の麻雀明朗とその左のミタカ電気商会の古い建物は商売もそのまま続いているようで、表面の改装もほとんどなく今も残っている。明朗の建物の2階上の壁面の枠の文字は「神谷商店」だろうか。昭和25年の地図にはすでに「明朗クラブ」として出ている。
普通は「雀荘」といっていたが1960年代には繁華街なら喫茶店のようにたくさんあった。今はすっかり廃れたようで、会社が終わると、あるいは授業の合間に近くの雀荘に駆け込むという習慣はなくなった。知っている同士で取ったり取られたりというのもどうかと思うから結構なことかもしれない。



バーバースワン。1985(昭和60)年2月

1枚目の写真右の家。この店も昭和25年の地図に「スワン調髪館」として出ている。正面の造りがオーソドックスで、いつ頃のものか判らないが割りと立派だ。建物はいつのまにか5階建てのビルに替わった。

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小倉理髪店。中央区日本橋人形町2-8。1987(昭和62)年5月31日

当ブログ「魚喜」の1枚目の写真の左に写っている建物。昭和8年の火保図に「床ヤ」、昭和30年頃の火保図に「人形軒床」となっているから戦前からの店らしい。
「ヤマハ」と「マークⅡ」の看板は「寺倉モータース」。現在は寺倉モータースが角の床屋にまで店を広げている。交差点に面した入り口の左に取り付けられている床屋の回転看板はそのままになっている。建物の借り手が街の歴史を残しておこう、という気持ちなのだろう。



都寿司。1985(昭和60)年8月4日

写真右端が小倉理髪店で、大門通りのほうを見ている。写っている古い建物は戦前からあるものだと思うが、大和の建物は戦後に建て直されているのかもしれない。都寿司の隣は空家になっているようだが、昭和30年頃は「人形町茶圃荒井」とか「フレンド(レストラン)」となっている。
現在は都寿司から大和の隣の天野屋までが4棟のビルに建て替わっている。

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堺橋際の洋館。中央区明石町11。1985(昭和60)年6月2日

写真手前の橋は堺橋で、下の川は昭和45年には埋め立てられてしまっているが橋だけは撤去されずに残されていた。橋の手前は築地7丁目、そこを渡ると明石町だ。写真の洋館は撮影時の地図では田中邸。昭和25年頃の火保図では「森下回曹商店」。昭和10年頃の火保図では「三木」。
この家の設計者が判っている。中村庸二という人で、「中村庸二建築事務所」というHPに彼の略歴や設計した建物の写真集である『作品集』が収録されている。中村庸二の孫に当たる中村耕造氏(中村建築設計事務所)が運営するHPだ。その『作品集』の「三木治商店」が写真の洋館である。竣工時とは屋根が造りなおされていることが判る。
「夜の流れ」という1960年の東宝映画に、司葉子が明石町のほうから堺橋を歩いていくシーンがあって、この洋館が記録されている。
現在は「ミキジ明石町ビル」(1989年5月竣工)に建て替わっている。その名称からすると「三木治商店」の商号も保持されているのかもしれない。



堺橋。1985(昭和60)年6月2日

築地川は隅田川から分流すると堺橋をくぐって、北へ曲がる本流と築地川南支流に分流する。隅田川の側の明石橋から堺橋までの築地川を「明石掘」ともいったらしい。現在はあかつき公園になって、その水面の形は面影をとどめている。
堺橋は『東京の橋』(石川悌二著、新人物往来社、昭和52年)によると、「現橋は大正3年に改架された橋長25m、幅8mの鋼鈑橋」。「BRIDGE WATCHING堺橋」では「橋梁形式:下路式鋼鈑桁。架橋年月:昭和2年10月~昭和3年7月」。どうもこちらのほうが正しいように思う。
親柱はまったくの飾りだろうが建設当時はなくては格好がつかないと思われていたのだろう。現在、ひらがな表記の表札の柱が築地川公園の木立の中に移されて残されている。


この家が建った当時の周りの環境がよく判る写真がある。「中央区立図書館>地域資料」にある写真で、昭和7年竣工とされる聖路加病院が工事中だ。築地川の広い水面が印象的。写真左の橋は暁(あかつき)橋。

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オーパ美容室。台東区下谷2-19。1989(平成1)年3月26日

金杉通りの根岸3丁目交差点の少し北へ行ったところで、東へ入る横丁の角。2階の前部をベランダにした(屋根の上にベランダを乗っけたものらしい)出桁造りの家が2軒と銅板貼りの看板建築が並んでいる。写真に写っている金杉通り沿いの4軒は改装されている家もあるが今も健在である。オーパの後ろや写真左手の金杉通りにマンションが建ったので、現在では同じアングルの写真では空は写らない。



大野屋足袋店。1991(平成3)年9月23日

1枚目の建物を別の角度で撮ったもの。1枚目の写真からは2年半が経っただけだが、角の美容室が「かなすぎ」に変わったり、「大野屋足袋店」の看板がなくなったりしている。現在では真ん中の仕舞家のベランダの手すりが鉄だかステンレス製のものに替わり、大野屋の銅板は白い板だかパネルで貼り替えられた。
大野屋は銀座や新富町にある大野屋から分かれた店かもしれない。

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左:信寿し。台東区下谷2-16。1991(平成3)年9月23日
右:民家。下谷2-17。2006(平成18)年4月9日

信寿しは、当ブログ前回の服部学習塾の前を北へ行った次のブロック。昭和通りの1本西の裏通りだ。そのまま北へ進むと右写真の角で、この写真右の樹があるのは銭湯「快哉湯」。



快哉湯。下谷2-17。2006(平成18)年4月9日

1928(昭和3)年に建てられた銭湯だという。3つの破風が正面を向いているという造りは珍しいかもしれない。ネット上の記載を見ると、皆、内部のガラス戸などの建具が木製なのに感激している。「快哉湯」という名前が面白い。ちょっと硬い感じもするが「万歳湯」では笑われそうだし。誰もが思いつきそうで実はユニーク、風呂上りの気持ちまで表している。

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ミヤシタ。台東区下谷2-14。左:1989(平成1)年3月26日、右:2006(平成18)年4月9日

小野照崎神社の前の通りから昭和通りの裏道になる横丁を入ったところに古い家が4軒並んでいる。現在もこの町並みは変わっていない。間口の大きい家は1990年頃までは1階上の壁に「株式会社ミヤシタ」の看板が架かっていた。一見して総3階建てかと思ってしまったが、それだと2階の高さが極端に低くなってしまう。1階の天井が高いのかもしれない。幅を目いっぱい取ったベランダが前に飛び出している。前面だけらしいが屋上も最初から造ってあるらしい。よく見るとかなり変わった建物だ。



服部学習塾。2008(平成20)年5月7日

この形の看板建築は普通、銅板貼りになると思うがこれはトタン貼りだろうか。横は波型トタン板を貼ってあるが補修してのことだろう。周辺の看板建築もトタン貼りが多い。

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