ぼくの近代建築コレクション
東京の都心と下町を中心に、戦前に建てられた古い建物の写真を投稿していきます。
 




田仲旅館。文京区弥生2-16。1989(平成1)年4月29日

言問通り(弥生坂)から異人坂への住宅地にあった。元は住宅だった家を旅館にしたものだろう。写真では建物自体はどんなものなのかよく分からないが前面の洋間を洋館風にした日本家屋かもしれない。現在は「ピトレスク弥生」(1998年3月竣工)という4階建てのマンションに替わっている。


サトウハチロー記念館。弥生2-16
1990(平成2)5月6日

田仲旅館の裏手にあった。建物の全景を撮っていなくて残念である。以下、『東京建築懐古録Ⅱ』(読売新聞社編・発行、1991年)による。
建物自体は明治に原型が建てられ増改築を繰り返してきた、としている。政友会の代議士だった山下谷次という人が大正4年に家を買い取って、2階部分を増築した。大正8年にこの家で生まれた山下又造氏は、昭和53年に記念館を訪れて、「2階は昔のまま」と証言した。サトウがこの家に引っ越してきたのは昭和12年。当時は浅野家の土地だったので執事が地代を取りにきたそうだ。
写真正面が玄関で、写真ではよく分からないが、その左には丸窓と半円の窓と庇のあるドアがある。サトウの発案らしい。丸窓は道路に面したトイレにも付いている。
記念館の開館はサトウの没後2年の昭和52年で、房江未亡人が運営していたが、彼女の没後の平成8年に岩手県北上市に移転した。

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中嶋邸。文京区弥生2-16。左:1989(平成1)年4月29日、右:1988(昭和63)年11月3日

根津1丁目の根津小学校裏手にある異人坂を登ったところにあった洋館。谷田川の谷から本郷の台地(向ヶ丘)に出るわけだが、下町からたちまち山の手の住宅地になってしまう。
『日本近代建築総覧』に、「中嶋静思邸、建築年=大正末、木造2階建て、設計=横河工務所、アールデコ風装飾あり」の記載がある。同書には、すぐ近くの「サトウハチロー邸」「手塚邸」「弘田邸」も収録されている。
現在は2000年3月に竣工した「異人坂館」という3階建てのワンルームマンションに替わった。



異人坂。弥生2。1988(昭和63)年11月3日

写真右の石垣の上が中嶋邸。マンションが建てられて、この石垣は消滅した。写真中央の古い手すりの柱には「昭和六年二月工事竣成/浅野侯爵家建設/工事監督 青木清太郎/工事請負人 篠原丑蔵」と彫りこまれている。近年設置された異人坂の説明板には明治10年頃にはすでに坂道はあったような書き方である。昭和6年の工事は拡幅工事だったことになる。もしかすると改修前の坂はおばけ階段程度のものだったのかもしれない。古い手すりとその左のコンクリートの護岸、それと石垣がそのときの工事になるものらしい。
1884(明治17)年の『五千分一東京図測量原図-本郷元富士町』では台地上は桑畑で道などはない。『東京大学埋蔵文化財調査室>浅野地区の歴史』によると、言問通りの弥生坂の開通が明治27-28年というから異人坂もその頃に出来たのかもしれない。
「浅野公爵」を調べてみた。東京大学の「浅野地区」に名前が残されている浅野長勲(ながこと)という人物である。『谷根千ウロウロ』の「浅野侯爵」についての記事によると、明治20年に現浅野地区の広大な土地を取得した。浅野長勲は昭和12年、96歳で逝去するが、浅野家は昭和16年にそのほぼ全域を東京大学に移譲している。

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居留地48番館(旧モリソン商会)。横浜市中区山下町54。1997(平成9)年6月2日

『神奈川の近代建築>居留地48番館』によると、イギリス人貿易商J.P.モリソンのモリソン商会の店舗だった建物。明治18年に建てられた居留地時代の貴重な遺構である。昔の銅板画では道路の角に近い入口を中心に、左右対称で2階建てである。関東大震災で2階部分を失い、道路を通したことで西側が削られながらも、ずっと倉庫か何かに使われてきたのである。
現在は元の建物に近い姿に修復というか保存のための改修がされて、神奈川県指定重要文化財に指定された。
『収蔵庫・壱號館>モリソン商会』にはこの建物をモリソン商会と見破り保存のための働きかけをした人のことが書かれている。どうも『神奈川の近代建築>居留地48番館』の解説文に署名のある仁木氏らしい。その解説では発見の事情はなにも書かれていない。

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ヘルムハウス。横浜市中区山下町53。1987(昭和62)年8月9日

本町通りの県民ホール入口交差点の北側角にあった。外人向けに建てられた高級アパートである。取壊されたのは2000(平成12)年ということで、それほど昔のことではない。跡地は今、ビルの建設が始まっている。
『近代建築ガイドブック[関東編]』(鹿島出版会、昭和57年)では「県警別館(ヘルムハウスビル)、設計=J.J.スワガー、施工=関工務店、建築年=昭和13年、構造=RC4・一部5階地下付」。撮影時は神奈川県警察が県警本部分庁舎として使っていたのかもしれない。スワガーは同書に「東京聖ロカ病院の設計に際してレーモンドが呼び寄せたチェコ人構造設計家で、終戦間際まで在浜し、カトリック山手教会(昭和9年)などを遺した」とある。
「ヘルム」とは建築主のヘルム兄弟社のことで、『神奈川の近代建築』『Tokyo Potterer Bravol』に記述がある。スワガーについては『My Favorite Architecture』に解説されてる。



ヘルムハウスの裏側。1988(昭和63)年8月6日

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警友病院みなと寮。横浜市中区山下町24。1993(平成5)年5月5日(2枚とも)

当ブログ前回の「横浜通産」の隣にあった建物。『日本近代建築総覧』に載っているが「建築年=昭和、構造=RC2」としか記載がない。『横浜近代建築アーカイブクラブ』『旧警友病院みなと寮』によると「外国の商社ビルとも言われていますが」「平成12年11月、解体に」「(正面玄関上に「24」の数字のレリーフがあって)居留地時代から続く24番地」ということだ。




警友病院みなと寮の右側は建物が写っていないので空地だったようだ。あるいはビルの建築が始まっていたかもしれない。ここにあったのが「互楽荘」というアパート。「互楽荘ビル、S7建築、RC4、設計=山田寅男、施工=宮内組」である。中庭のあるコの字形のビルだった。『かながわの近代建築』(河合正一著、かもめ文庫、昭和58年)によると、大震災前には宮崎商店輸出部があったところだという。宮崎商店は日本橋大伝馬町にあった木綿問屋。大震災で建物が焼失した後、宮崎庄太郎が敷地を所有者のドイツ人マイヤーから買い取り、横浜市の助成金も受けてアパートを建てた。戦時中は海軍が借り上げ、戦後は米軍が接収したという。
この建物を記録できたなら、と残念でしかたがない。昭和63年の航空写真では更地になっているから、解体されたのは昭和60年前後のことかと思う。現在は「ワークピア横浜」という結婚式場や会議室などの公共施設のビルが建つ。



互楽荘。『かながわの近代建築』(前出)より。(2011.04.06追記)

左の写真はキャプションが「新築当時の互楽荘(宮崎愛子さん提供)」となっている。右の写真は、本の発行が昭和58年3月なので、1980(昭和55)年頃かと思う。写っているコロナマークⅡは1976-1980年に販売されたタイプである。2枚の写真は建物の2面が道路に面していて、角が4階なので同じ北の角を撮っていると思う。水町通りに面したほうが4階建てだとしてだが。とすると、右の写真は角にあった玄関をなくして部屋を増設していることになる。

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横浜通産。横浜市中区山下町24。1993(平成5)年5月5日

山下公園通りと本町通りの間にある「水町通り」にあった建物。写真右の古い建物は「警友病院みなと寮」で、これは次回で取り上げる。左のビルは「上田ビル」で、このビルは今もそのまま。さらにその隣には近代建築ファンには知られているインペリアルビルがある。ぼくは知らなかったのでこの頃にはインペリアルビルの写真を撮っていない。
「横浜通産」の表札を貼り付けた建物はどういう由来のものなのかは知らない。玄関前の車寄せのような突き出し部分を見ると相当古い建物のように見える。壁の上部に塗りつぶした字があるのだが「DUNKAN AND SMITH JAPAN LTD.」と読める。
現在は1997年10月に竣工した「メゾンデュオーラ山下町」というマンションに替わった。



この写真では玄関右の部屋に人形などが見えていて、「AKAIKUTSU」の看板にも人形がぶら下がっている。雑貨屋のようだ。1988(昭和63)年8月6日

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大沢工業(旧ユニオンビル)。横浜市中区山下町75。1987(昭和62)年頃

写真手前の道路は本町通りで、第二帝蚕ビルから200m位東の場所にあった。J.H.モーガンの設計で1927(昭和2)年に建ったビル。当初はユニオンビルといった。モーガンはアメリカのフラー社の建築家で、丸ビルなどの建築に携わった後、独立する。1926(大正11)年4月に横浜に移るが、最初は露亜銀行の建物に事務所を置いた。ユニオンビルが完成するとそこに移る。上の写真の裏側に3階部分があり、その3階が事務所だったらしい。モーガンは横浜に20棟ほどの建物を設計したというが、現存しているものではベーリック・ホール、山手111番館、山手聖公会、根岸競馬場、関東学院中学校などある。大沢工業のすぐ西にモーガン設計のシティバンクが立っていたが、数年の差で記録しそこねた。
大沢工業は2001年に倒産したそうで、建物は同年11月に解体された。現在は高層マンションが建つ。



1枚目の写真の左奥からの写真。左上に3階の窓が1つだけ写っている。このアングルからビル全体が写るようにもっと引いて撮ればよかった。1987(昭和62)年8月9日

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第二帝蚕ビル。横浜市中区山下町71。1997(平成9)年6月2日(3枚とも)

写真右端に旧横浜市外電話局がわずかに写っている。そこが本町通りの大桟橋入口交差点で、第二帝蚕ビルが立っていた場所もすぐにイメージできる。街中に昔から変わらないものがあるのは、街の変化の指標にもなっている。
第二帝蚕ビルはこれという特徴もない小さなビルだが、大通り側の大きな丸窓が効いている。現在の田辺商事本社ビルにある5つの円形の壁画はこの丸窓を引き継いでいるのかもしれない。写真右奥に赤十字の付いているのは日本赤十字社のビルで、写真ではくっついてしまってそこまでが1棟のビルに見えてしまう。
『日本近代建築総覧』に「(旧南里貿易)、建築年:S11、RC3、設計:復興建築助成㈱、施工:竹中工務店、地1」となっている。「第二」とは北仲通にあった帝蚕ビルに対しての名称で、『神奈川の近代建築』では帝蚕ビルを「帝蚕倉庫第一ビル」としている。帝蚕倉庫の沿革によると、帝蚕倉庫がこのビルを取得したのは昭和44年4月だ。




日本赤十字社神奈川県支部
山下町70

『総覧』によると「建築年:S9、RC3、設計:県営繕管理局、施工:清水組」である。
2008年に解体されて、同じ場所にビルが建替えられた。新社屋はつい先日の3月27日が落成式だった。

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藤の湯。中央区湊3-1
上:1984(昭和59)年頃
左:1987(昭和62)年4月29日

湊1丁目と湊2丁目を分ける東西の通りから横丁を南に入ったところにあった。現在はマンションに替わっている。
左の写真では自転車が何台も置かれていて客も入っていくから、かなり繁昌している銭湯にも見えるが、藤の湯が廃業するので、そのお別れ会が開かれているのである。中から「藤の湯さんは昭和○年に当地に開業いたしまして……」というような挨拶が聞こえた。子供も来ているから菓子の用意もしてあるのだろう。1・2時間して戻ってみると、宴はたけなわらしく、『南国土佐を後にして』の歌が外に漏れてきていた。

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愛朋社、早川紙工。中央区湊2-14。1987(昭和62)年10月11日

写真右手の道路は隅田川沿いの道路。その右側がかつての河岸地で、倉庫が立ち並んでいたが今はマンションに替わってきている。道路の左側は手前より「愛朋社(パン製造)」―テントの字は「BREAD & CAKE(有)愛朋社」だろうか―、「早川紙工」、横丁の先は15番地になりその角が「羽成ロープ」。背後のマンションは「ライオンズマンション鉄砲洲」。



三宅テント。湊2-14。2008(平成20)年7月10日

早川紙工と同じ区画の反対側で、ごく最近の写真である。昔の景観が撮影できる一角だ。だが写真右端の家をはずれると地上げの跡である空地が目立ってくる。
岡商店は戦後すぐに八丁堀からここに移ってきたという。八丁堀の店が焼失して、すぐ商売が続けられるように焼けずに残った建物を求めた、ということかもしれない。

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