ぼくの近代建築コレクション
東京の都心と下町を中心に、戦前に建てられた古い建物の写真を投稿していきます。
 




丁子屋支店。台東区池之端4-13。1990(平成2)年2月18日(3枚とも)

言問通りの善光寺坂を降りて南へ入ったあたり。旧町名は清水町。上野の台地と旧藍染川の間の低地で、住宅地である。上の写真はよく見かける看板建築の商店長屋。トタン貼りのようだが銅板貼りだったのを改装したのかもしれない。
手前角の家はガラス戸に「染物洗張 丁字屋支店」と読める。根津2丁目の藍染大通りの間近にある丁字屋の支店らしい。根津の丁字屋の前の道路は昔、藍染川が流れていたことは割りと知られている。写真左の長屋の横に沿った細い道は文京区との境で丁字屋本店前の道路と同じ道筋である。



六龍鉱泉という銭湯の近くにあった。庭付きの3軒長屋で別個に門と玄関前の庇を備えている。現在は低層のマンションに換わった。池之端4-5



民家。現在は改築された。池之端4-9

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スナック亜。静岡県熱海市中央町6。2009(平成21)年2月20日(2枚とも)

熱海の糸川周辺で旧カフェー街の面影を探す人が等しく注目するのが、スナック亜が入る建物と、その横の路地を入った2軒先の千笑という字が残る建物である。いずれも道路の角にあってあまり改装されずにきたようで、外観の古さが却って目立っている。
亜の建物は10年位前なら玉の井か洲崎あたりで見られそうな家だ。東京なら戦前の看板建築かと見られてもいいような外観だが、1950(昭和25)年の熱海大火の中心地といっていい場所だから、それ以降の建築である。「つたや」の字が残っているが建設時の屋号だったのだろう。建物の角に亜の入口があり、瓦のカーブした庇が残っている。その左にも入口があったようにも見える。昭和30年代の赤線地帯のカフェーだったと見てよさそうだ。


千笑。熱海市中央町6

角の「千笑」の文字のレリーフが大きくて目立つ。「せんしょう」と読んでいいようなものだが「ちえみ」かもしれない。家紋のレリーフもあるが、当時の流行か決まりだったのだろうか? 亜の角の上部の壁にもそんなふうなレリーフがあった。角の入口のタイルを貼った円柱は東京なら娼館の目印のようなものだが、やはりその影響なのだろうか?
現在はこの家の右奥が「森ちゃん寿し」。

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いと川。静岡県熱海市中央町10。2009(平成21)年2月20日(2枚とも)

熱海というと数十年前は会社の慰安旅行で賑わったところだ。宴会が終わると旅館を抜け出して、糸川沿いの飲み屋街で二次会という形になったのだろう。そういう制度がすっかり廃れて、今は個人客に頼らなければならないから、旅館も飲食店も大変だろう。それでも熱海駅前の商店街はけっこう賑わっている。
以前から糸川沿いの旧カフェー街といわれるところを観てみたかったが、やっと実現した。平日の午後3時頃だったせいか、表通りを除いてはほとんど人を見なかった。
道路の角にある店の看板建築風の造りに目がいく。「いと川」や「きく酔」などの居酒屋やスナックが入る建物は「中村ビル」。写真手前は糸川に架かる桜橋。糸川沿いは遊歩道が整備され橋も新しく架けなおされたらしい。昭和30年代位の古い橋も見られるかと期待したが見当たらなかった。



村越魚店。熱海市中央町7

集合店舗の角店だろうか。観光客向けというより住民や飲食店がお得意といった感じ。写真手前は糸川の新柳橋。

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理容スガワラ。静岡県熱海市泉。2009(平成21)年3月23日(3枚とも)

隣に「熱海市役所泉支所」があり、住所は熱海市だが、神奈川県の湯河原温泉のうちである。湯河原温泉は千歳川-藤木川に沿って旅館が並んでいるが、千歳川が県境になる。千歳川の西側は湯河原温泉であっても熱海市だ。写真の床屋と左の泉支所の間の道を下がっていくと千歳川で、その河岸段丘になりそうだ。あるいは岩戸山(734.4m)の北斜面か? 標高95m位のところだ。前の道路は静岡県道102号線。
建物は普通の民家で、おそらく温泉旅館の従業員が主な客なのだろう。




店の裏側である。1枚目の写真で床屋の横に看板建築風の造作が見えるので坂道を下りて見に行ったらこんなふうになっていた。壁の曲線に惹かれてしまう。
壁の上部に十字マークと「くすり」という文字がかろうじて読める。赤いシャッターのところは薬屋だったようだ。建物横の坂道沿いのところが床屋の店舗だったのかもしれない。坂道を下って千歳川を越えるとバス通りの商店街なので、そちらからの客が多いと見越しての造りだろうか。

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銀嶺荘。文京区本郷6-11。1988(昭和63)年10月10日

言問通りは本郷通りの本郷弥生町交差点が起点らしいが、白山通りからそこまでの道路も言問通りにしてしまうこととする。写真はその言問通りの清水橋と菊坂下交差点の中間辺りから本郷の高台を見た光景。駐車場は言問通り沿いにあり、奥の塀の向うの2棟の日本家屋が住宅地図に「銀嶺荘」となっている建物。学生の下宿屋なのか会社の寮なのか、なんとも言えないが中の1棟は大家の住居ではないかと思う。
写真右の家の後ろにある家は、たぶん現存している「原栄荘」。さらにその後ろに大栄館旅館の建物があるという見当になる。




上:大栄館そばの民家
本郷6-7。1988(昭和63)年10月16日
本郷6丁目の三角広場から西南方向に来て新坂にかかる手前。写真左奥が三角広場。

左:崖上の民家
本郷6-12。1988(昭和63)年10月23日
本郷6丁目の三角広場から清水橋へ向かって、清水橋手前の駐車場越しに崖際に立つ家を見ている。現在は駐車場にマンションが建って見難いが家は現存しているようだ。1986年の住宅地図では「颯田医学奨学会」である。

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下谷郵政クラブ忍ヶ丘荘。台東区池之端4-17。1989(平成1)年3月12日

言問通りの善光寺坂の南にある三段坂の中ほどで、写真中央の平屋の民家とその左の下見板の家は今も残っている。この2軒はたぶん同じお宅だと思う。写真右の「下谷郵政クラブ忍ヶ岡荘」は、その名前からは郵政省の寮のようなきがする。
下の写真で洋館部分の奥にあるモルタル壁の2階家部分は戦後のものらしいから、古い民家に左の部分を増築して寮として整備したのかもしれない。



1990(平成2)年2月18日

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三吉橋。中央区新富2。1984(昭和59)年頃

銀座1丁目の橋の袂に立って、築地川の河岸に向かって立つ新富町の建物を見た光景。ここは築地川が中央区役所を半分囲むようにほぼ直角に曲がっている場所だ。関東大震災後に、この築地川の曲がり角と、京橋川と楓川との合流点との間をつなぐ運河が開削された。「楓川・築地川連絡運河」という。大震災後、暗渠化された川は多いが、大震災後に掘られたという川ごく珍しい。三叉になった川にやはり三叉の橋を架けたのが三吉(みよし)橋で、1929(昭和4)年12月の完成である。
現在の橋は1993(平成5)年に改修されたもので、4本ある鈴蘭灯は架設時のもの。



中央区役所対岸。中央区新富2。1985(昭和60)年4月14日

築地1丁目の中央区役所の前から築地川跡の首都高を隔てて新富町を見た光景。写真中央右寄りに築地菊栄ビル(旧松竹本社)、その右に築地橋。写真左端の看板建築は三長会、三菱電機の店は竹村商店。



須永ビル。中央区新富2-2。1985(昭和60)年4月14日

三吉橋の新富町の袂にあった建物。赤い日除けに「COFFEE SHOP SAGA」、建物左の袖看板に「TEA ROOM嵯峨」とあるから喫茶店だ。この店は現在のビル(やはり「須永ビル」)で、イタリアン・レストランとして続いているようだ。同じ家かどうか分からないが戦前の地図では「京橋家畜醫院」。
写真右のビルは松竹衣裳という会社。会社のHPによると、昭和32年に、松竹株式会社衣装部より分離独立し、主に歌舞伎・演劇・映画・テレビなどの衣裳の製作と賃貸、販売を行なう会社だ。ビルは創設時に建てたものだろうか?

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スエヒロ銀座店。中央区銀座6-11。1987(昭和62)年5月23日

銀座松坂屋の裏にあるステーキのスエヒロの旧ビル。写真右の通りがみゆき通りで奥に松坂屋屋が写っている。地下が「アンガス牧場」といったかと思う。牛乳が出るのはその店名のためだったのだろうか。いらないとは思ったが飲んでいた。「アンガス」とは牛の種類のことらしい。
現在では建て替わった「TEPCO銀座館」というビルの地下に入っている。ランチなら1000円でOKだが一人ではちょっと入りづらい。
昭和30年頃の火保図にはスエヒロのビルのところに何軒か家があるから、昭和30年代に建ったビルかと思う。



1枚目の写真の左端の部分。1987(昭和62)年10月4日

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永信商事。江東区永代2-32。1987(昭和62)年11月22日(3枚とも)

永代通りが葛西橋通りと分岐する永代2丁目交差点の角にあった。永代橋から来ると大島川西支川を福島橋で渡ってすぐのところ。
この古そうな建物はかつて永代信用金庫が使っていた。たぶん「永代支店」といっていたのだろう。永信商事という会社はあるいは永代信金とつながりがあったのかもしれない。ウィキペディアによると、永代信用金庫は『江東区を地盤とする東京都内信金第二位の大手信用組合だった』が、『2002年1月経営破綻』した。
昭和60年の区分地図には周囲に第一勧銀、富士、拓銀、三菱、三和、日興信金などの銀行があったようだが、現在は第一勧銀だったところにみずほ銀行深川支店があるだけのようだ。
現在は永信ビル(1992年6月竣工)。



『江東区古写真館―想い出のあの頃へ』(江東区教育委員会編、平成16年)という本に、昭和30年頃に写真の交差点を撮った写真が載っている。永代通りに都電やオート三輪が走り、手前に第一銀行が写っていて、その陰になって永代信金がわずかに写っている。それを見ると永代信金の入口は上の写真の「永信商事」の看板があるところ(シャッターには「永信観光」)で、クラシックで立派な玄関だ。当書をぼくは中川船番所資料館というところで買ったが、1000円は安い。



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三段坂の民家。台東区池之端4-22。1984(昭和59)年10月

三段坂の割りと下のほう。当ブログ前回の「三段坂の屋敷」の斜向かいになる。現在、三段坂沿いにあった古い家はすっかり減ってしまって3軒くらいしか残っていないが写真左の家がその1軒だ。写真右の石垣のところは駐車場に変わったが角の石垣とその上の1本の木が残されていて、かつての屋敷の遺構になっている。



1989(平成1)年3月12日

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