ぼくの近代建築コレクション
東京の都心と下町を中心に、戦前に建てられた古い建物の写真を投稿していきます。
 




千代田区立淡路小学校(東翼)。千代田区神田淡路町2-15。1985(昭和60)年7月7日

場所は駿河台の台地の東の麓になる。学校の西側からすぐ上りの坂道になって、名倉病院からニコライ堂へ至る。
旧淡路小学校―沿革によると、大震災で明治44年落成の木造3階建ての校舎が焼けた跡、写真の校舎は昭和2年3月に竣工した。平成5年3月、芳林小学校と統合し、昌平小学校になっている。
3階の窓がただの円と直線の組み合わせでなく、放物線のようにも見えるので、表現派風の雰囲気もしてくる。
写真右下に「投票所入口」の看板がある。撮影した日は都議選の投票日だった。千代田区の定員は1。


淡路小学校(西翼)
1987(昭和62)年12月31日

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小田急ビーチハウス。神奈川県藤沢市鵠沼海岸1。1956(昭和31)年9月

前回に続き、藤沢市の物件を2点紹介する。
写っている人物は叔母と弟。じゃまっけだが無視して見てほしい。
小田急75年史 に『片瀬江の島海岸では、神奈川県が片瀬西浜一帯を県立湘南海岸公園として整備することにしたので、当社はその一環として昭和31(1956)年7月に小田急ビーチハウスを、33年7月には小田急シーサイドパレスを相次いで開設しました。36年7月には引地川畔の旧藤沢市営プールの経営を引き継いで全面的に改良し、小田急鵠沼プールガーデンとして開業しました。』と記述されている。
写真ではまだ工事中のように見える。3基ある笠(1機は写真右端)のひとつは、円筒形のガラス壁で囲った。
ビーチハウス建設と同時に東急レストハウスが建設されている。こちらの建物は、イメージとしては晴海通りの三原橋に2棟建っている2階建ての小さな建物が近いかもしれない。
当時ぼくは家庭教師として近所の早稲田大学建築科の学生に勉強をみてもらっていた。招かれて先生の家に行ったときに、彼が描いて応募したという東急レストハウスの外観の三面図を見せられて感心した。実際に建築された建物と似たものだった。
「小田急75年史」にある「引地川畔の旧藤沢市営プール」には幼稚園が併設されていた。弟はそこに入園している。



藤沢市立鵠洋小学校。藤沢市鵠沼桜が岡3。1956(昭和31)年

断るまでもないと思うが、ぼくが撮った写真ではない。卒業アルバムから持ってきた。50年も前の写真だから著作権は消滅したと勝手に解釈する。
卒業アルバムといっても普通に考えるものとは異なる。ボール紙を閉じて厚い表紙をつけた、写真を貼るためのアルバムで、それと一緒に集合写真などが数枚渡された。アルバムの表紙には校名が金箔で押されてはいたが写真は各自で貼り付けなさい、というわけだった。当時はそれが普通だったかどうかは知らない。

学校の西側を小田急線が通っている。写真はその間にある砂丘の上から東北の方を向いて撮られている。後方の山は境川の東に、鎌倉市との境になっている山で、高い所で標高50mほどである。学校の後ろは松林が広がっていて住宅などはあまりないように見える。当時はマンションはもちろん、2階建ての家も少なかったから写りにくかったのだろう。また、写っている松林は砂丘の高まりにあるもので、そういう場所は比較的、宅地化が遅れたと思える。
鵠洋小学校HPの「沿革」によると『1944(昭和19)年10月:藤沢市鵠洋国民学校と命名。1946年8月:竣工式並びに開校式(10学級548名)。』であるから、古い校舎は戦後すぐに建てられたと思えるが、あるいは終戦の1945年には建っていたかもしれない。ぼくが入学した1950(昭和25)年には4棟ある校舎のうち3棟はあったような気がする。

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聖心の布教姉妹会本部修道院。神奈川県藤沢市本藤沢3。1957(昭和32)年4月(4枚とも)

当ブログのコンテンツとは異なる写真が出てきたように見えるかもしれないが、写っている建物はたぶん戦前に建てられた教会建築ではないかと思う。神奈川県藤沢市にある「聖心の布教姉妹会本部修道院」という。約50年前の写真だから写真の建物が今もあるかどうかは知らない。Googleマップの航空写真で見ても屋根だけでは判断できない。

修道会を知っているのは父の会社が修道会の刷り物を納めていたからで、宗教的にはなにも関係ない。子供用の絵本なんかを納品していたらしい。前回のブログで記したように父の会社は八丁堀にあり、自宅は鵠沼海岸にあったので藤沢の修道会にまで行く場合もあったわけだ。
ぼくも何回かつれていってもらったが、最初にここに行ったのは小学校の遠足でだった。ぼくは1950(昭和25)年に藤沢市立鵠洋(こうよう)小学校に入学したが、1年生のときの遠足だった思う。その何年か後、父に連れて行ってもらったとき、遠足で来た覚えのある場所に立って記憶を新たにしている。そこは修道院のある台地の北のへりで、右手に小田急の線路が北に延びて善行駅の前のトンネルが遠くに見えた。
1950年は第3次吉田茂内閣の時代で、6月に朝鮮戦争が勃発している。年表にある単語を並べてみると、レッドパージ、千円札、金閣寺、ジェーン台風、羅生門(映画)、東京キッド(歌)……。


写真のシスターのほうは会社との窓口になっていた「シスター・クサベラ」。

修道院に関してぼくが知りえた情報は、修道院が設立した「聖園(みその)女学院」のHPの「沿革」にある『1920年:聖心の布教姉妹会創立。1946年:聖心の布教姉妹会によって旧制高等女学校創立』だけ。

写真の撮られた1957(昭和32)年は、内閣は石原湛山から岸信介になった年である。ジラード事件、東海村原子炉、南極基地、谷中五重塔、有楽町そごう、ロカビリー、戦場にかける橋(映画)、バナナボート(歌)、錆びたナイフ(歌)、谷崎潤一郎『鍵』……。

修道院に行くには小田急を藤沢本町駅で降りてバスに乗る。当時は新湘南バイパスなどはなく、バスはやがて修道院のある台地の南の谷にそって上っていき、「修道院前」で降りると、バスは藤沢飛行場のほうへ走り去るのである。印刷物を届けにぼくが一人でいったことが一度だけある。バスの乗客は2人だけなのに女性の車掌が乗務していた。当時は当たり前だったが、場合によっては贅沢な時代だった。
藤沢飛行場でグライダーを飛ばしていたのを目近に見たことがある。また、修道院バス停と滑走路の間には飛行機の掩退壕が2・3基残っていて、バス道路からそこに降りていって掩退壕に入ってみたことがある。
1959年9月24日、藤沢飛行場にロッキードU2が着陸する事件があった。あんな小さな飛行場にジェット機が降りられるのかと思うが、U2はグライダーのような機体の飛行機なのであった。現在、藤沢飛行場は荏原製作所に取り込まれた。


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秀明閣アパート。中央区日本橋蛎殻町1-18。1987(昭和62)年4月31日

戦前の建物といっても興味をひくような物件ではないが、中野病院のことを書いておこうと思って出してみた。
アパートの前の駐車場が大阪屋旅館の向かい。撮影時はアパートの右(写真右端のビルの後ろ)は駐車場のようだが、元はそこも秀明閣アパートが建っていてそちらに玄関があった。2棟あった建物の間には小さな中庭があり、池を置いた一応和風の造りだった。2棟の建物は東側(写真手前が西側)を廊下でつないでいた。住人はみな近所の木村湯を利用したことだろう。駐車場の塀と秀明閣の建物との間には細い路地があった。
写真の駐車場は中野医院の跡である。元々、中野病院というのが写真左へいった道路の角から写真の駐車場のところまであった。昭和60年頃の住宅地図には北の角が「中野P(パーク)」となっているので、ずっと土地だけは持ち続けていたと思える。現在は中野病院だったところがそっくりひとつのビルになっている。秀明閣の跡地もやはりビルに変わった。
戦後の火保図ではこのブロックの並びは「中野病院、内外印刷、鈴木米店」で鈴木米店の角を東に折れれば秀明閣だ。内外印刷というのが実はぼくの祖父が創業し父も働いていた工場だった。中野病院は昭和30年になる前には縮小して、南の3階建てのビルを残して、病棟だったと思われる2階建て部分はなくなって別の家に建て変わった。
ぼくはその病院の建物を見ている。小学校低学年の頃だと思うから、思い出そうとしても夢でも見たような気がするだけだ。
病院の診療室や事務所があったと思われる3階部分で開業していた中野医院はいつごろまであったのだろう。昭和35年頃だが一度だけ治療にいったことがある。ビルの入口をはいってすぐそのまま階段を3階まで上ったところが診療室だった。
内外印刷は2階建てのモルタル仕上げの看板建築で後ろからみれば瓦屋根の日本家屋だった。会社は昭和30年頃には八丁堀に移ったが、建物は人に貸したり住居にしたりして昭和50年頃まで存続している。



堀善商会、東洋クレーン。日本橋蛎殻町1-19。1992(平成4)年7月19日
木村湯のあるブロックで木村湯の反対側。現存している。


堀善商会。1987(昭和62)年4月31日

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千代田印刷機製造(旧千代田活字)。千代田区猿楽町1-6。1987(昭和62)年1月4日

写真右端は錦華公園の北側を山の上ホテルへ登っていく坂道への三叉路になる。背後のアパートは東京国税局神田寮。看板は「千代田印刷機製造株式会社/活字販売部」で、住宅地図では活字販売部の向かい(猿楽町1-5)にも千代田印刷機製造と記されているからそちらが本社ビルにでもなっていたのだろうか。
屋上の構造物がなければどうということもない建物で、たぶん写真も撮らなかっただろう。屋上への出入り口にしては大きすぎるし、ドイツ表現派なんかも想起される。とにかく建物本体と屋上の構造物とがマッチしてない。
歴史的建築総目録DBでは『千代田マシナリー第一別館(旧千代田活字)、昭和初期、鉄筋コンクリート造3、設計=竹田組』。
廃景録>消えた近代建築の記述からも建物自体がかなり改装されているのだろう。
建築散歩ARCH TEKU TEKU というサイトの「15/お茶の水~駿河台」に、2004年春、解体中の建物を撮影した写真が載っている。古い建物を入れておいた箱を取り去った感じで、半円形の張り出しが下まであったことが分かる。ネットで見ることができる唯一の竣工時に近い千代田活字の写真ではないかと思う。



千代田活字。1985(昭和60)年7月21日

1枚目の写真とは逆方向から撮った写真。3階の部分が少し見える。半円形の屋根から煙突のようなものが突き出ている。
千代田マシナリーという会社は2002年10月に倒産したらしい。BFnews No.268 2002.11 の記事には『同社は大正11年に設立され、活字販売や印刷機製造をしていたが、昭和30年代に商事部を新設、全国に営業拠点12ヵ所を置き、河本精文社など他のディーラーが経営不振になった部分などを次々に吸収、拡大路線を進み、小森やミヤコシ、松下の電子組版機、その他の機械や材料販売を進め、印刷機・資材の総合商社としてピーク時の1998年1月期には 225億円の年商を上げ、連続22年間にわたって高額所得法人の常連となっていた。』とある。

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石川記念館。千代田区神田駿河台2-9。1985(昭和60)年7月7日

駿河台の崖の上を通っているとちの木通りのアテネ・フランセの近くにあった。向かいにすぐ女坂だ。写真では庭木のためほとんど門しか見えない。戦前はこのあたりは高級住宅地だったのだろう。
William Merrell Vories>ヴォーリズ建築作品リストの「1926年、T.石川邸(石川記念館)、東京」に当たるものなのだろうか?



石川記念館。建物上部が少し伺える写真。1988(昭和63)年10月10日



小林邸。神田駿河台2-7。1987(昭和62)年1月4日

この家もとちの木通りにあった。写真右にすぐ男坂のあるところだ。
よくみると鉄の門と塀の四角い穴にはめ込まれた飾りがアールデコ模様だ。

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東京芸術大学音楽部附属音楽高等学校。千代田区神田駿河台2-9。1985(昭和60)年7月7日

三楽病院やかつての日本医師会館の並び、日仏会館の向かいにあった。現在は敷地いっぱいにビルが建っている。
東京藝術大学>音楽部附属音楽高校によると、「音楽の早期専門教育を目的とする国立の全国規模の高等学校として1954 (昭和29)年に設立され、1995(平成7)年4月、お茶の水の旧校舎から上野の現在地に移転」している。
建物は学校として建てられたように見えるが、芸大附属音楽高になる前はなんだったのだろう?




旧奈良邸
神田駿河台2-3
1985(昭和60)年7月21日

JR水道橋駅の方から線路に沿った皀角坂(さいかちざか)を上ってきた坂上の北側の家で、つまり家の後ろは崖下に中央線が走っている。サイカチとはマメ科の落葉高木だそうだ。住宅地図では「奥村組」となっている。現在は写真左の住宅と合わせた敷地がビルになったようだ。

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三楽病院。千代田区神田駿河台2-5。1985(昭和60)年7月7日

住宅地図には「東京都教職員互助会三楽病院」とある。建物全体をカバーした写真がないのは無念だ。
設計=福田重義、施工=大林組、昭和8年竣工で、病院の設立と同時である。
福田重義をネット検索すると、まず出てくるのが横浜市開港記念会館。大正7年建築の建物は福田のコンペ案がもとになっているという。他には日比谷公園の公園資料館(明治43年)と四谷見付橋。産業技術史資料共通DB・HitNetに帝大卒業計画書というのが載っていて、簡単な経歴が書かれている。
建物外観は竣工時とは違っているのかもしれないが、装飾はごく控えめだ。病院だから実用的にしたのかもしれない。玄関の上部を台形に張り出させているが、平面的な感じだ。


三楽病院東角の塞がれた入口
1985(昭和60)年7月7日

瓦を載せた塀の左端に懸かった板の表札の字は「三楽病院通用門」。白い板に横書きの表札は「三楽病院増改築工事/伊藤喜三郎建築研究所/現場事務所通用口」と「三楽病院増改築工事/大林鴻池共同企業体/現場事務所通用口」

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日本医師会館。千代田区神田駿河台2-5。1985(昭和60)年7月7日

山楽病院の並びにあった。現在は平成9年竣工のNOF駿河台プラザビルが建つ。
設計=和田順顕、施工=大林組、昭和6年竣工。
和田順顕は、ぼくは初めて聞く名前だったが、横浜郵船ビル(昭和11年)の設計者だった。ネット検索すると、銀座にあった足立ビル、品川区上大崎のタイ王国大使公邸(昭和9年)、飯田橋にあった日本医科大学第一病院(昭和6年)、新宿区信濃町にある慶応大学の信濃町メディアセンター(昭和12年)が和田順顕の設計した建物として拾えた。
建物はルネサンス様式のようなロマネスクのような、とにかくヨーロッパの様式から来ていることは分かる。『近代建築ガイドブック関東編』(東京建築探偵団著、鹿島出版会、昭和57年刊)には、「1階に吹き抜けのホールがあって階段と共に豪華さを演出しているが、各室内は簡素」と記されている。


日本医師会館。1987(昭和62)年1月4日
現在の日本医師会館は文京区駒込2丁目、不忍通り沿いにある。

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川越両替店の並び。中央区日本橋人形町1-11。1987(昭和62)年2月22日

前回の菊水軒の南のブロック。写真左から、峰島輪業、川越、民家、旧伊勢崎釣具店、旧深井医院。出桁造りをアレンジしたような川越の建物は、銅版ワークの店名のレリーフと変わった形の電灯が目を引く。
江戸時代は、上方は銀貨、江戸は金貨が主に使用され、両者が取引決済するには両替商を必要とした。両替商は三貨(金・銀・銭)の両替・売買のほか、為替・預金・貸付など、銀行のような業務をしていた。(『江戸東京学事典』(1987年、三省堂刊)参照)。
それでは川越の商売はどんなものだったのだろう。お金を崩すだけで店舗が維持できるものだろうか? 金貸しもやっていたのかもしれない、などと思っていたが、『東京路上細見2』(林順信著、1987年、年平凡社刊)に詳しく書かれていた。
それによると川越商店の業務は、水天宮のお賽銭を小切手を切って預かってくる。銀行が休業している日曜日、三越からつり銭用の小銭が足りなくなりそうなので、と電話がかかる。米相場で儲けた成金が博打に使う新札がほしいと言ってくる、というような按配だったらしい。明治9年、東京米穀取引所が蛎殻町に設立され、その辺りは米屋町という俗称で呼ばれたが、そういう立地条件もあったわけだ。戦後も何年か営業していたという。



川越商店。1987(昭和62)年4月29日

店にはいつも現金が大量に用意されていたような感じだが、窓の鉄格子や引き戸内側のシャッターなどは一応の対策なのだろう。
玄関中央の表札は「日本橋区蛎殻町二丁目七番地二川越與三次郎」。

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