ぼくの近代建築コレクション
東京の都心と下町を中心に、戦前に建てられた古い建物の写真を投稿していきます。
 




新石橋ガード。千代田区鍛冶町2-14。1985(昭和60)年8月4日

神田駅南口交差点から撮った京浜東北線・山手線のガード。神田駅南端のホームの屋根が写っている。神田駅南口交差点は神田金物通りと日銀通り―多町大通りとの交差点で、ガードには名前がついている。神田金物通りのほうが「千代田橋ガード」、多町大通りのほうが「新石橋(しんこくばし)ガード」。ガードの上の高架橋は「新石橋架道橋」「千代田橋架道橋」で、煉瓦の壁にそれらの表札が貼ってある。
山手線が渡る橋・くぐる橋>神田→東京』は架道橋や高架駅の歴史や構造を考察した労作で、そこには「6.新石橋架道橋」「7.新石町橋高架橋」「8.千代田橋架道橋」もあり、古写真も見られる。
上の写真では分かりにくいので、最近のストリービューからの画像を下に示す。左が千代田橋ガード、右へ行く方が新石橋ガード。現在は手前に東北新幹線のガードができているが、京浜東北線・山手線のガードの雰囲気はほとんど変わっていない。「よねこ」の看板が見えるが、上の写真でも同じ位置に「小料理よね子」の暖簾が写っている。この店は1969年の住宅地図に載っている。同じ店主で続いているのだろうか?


ストリートビュー(2019年6月)より


美容室ヌーボー。鍛冶町1-4
1985(昭和60)年8月4日

写真手前の方に行くと、山手線の「西今川橋架道橋」のガードになる通りで、写真左のブロック塀は日銀通りとの角にある。その、小さな空地を囲っているブロック塀は今もそのまま。
建物全体を撮らなかったのが残念だ。昭和30・40年頃には、銀座なんかではよく見られたデザインの店舗だったと思うが、今はほとんど見ることができない。

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山梨中央銀行東京支店。千代田区鍛冶町1-6。1985(昭和60)年8月4日

中央通りの今川橋交差点のすぐ南に、山梨中央銀行(本店は甲府市、山梨県では唯一の地方銀行)の東京支店がある。『千代田区>景観まちづくり重要物件指定一覧表>』によると、「設計者=不詳、竣工=昭和4年(1929)」であるが、いろいろのサイトでは徳永庸の設計で、竣工年は1931年としているのが多い。『一覧表』には、「昭和16年(1941)に「第十」「有信」の2銀行が合併し「山梨中央銀行」が誕生した。現在の山梨中央銀行東京支店は、第十銀行時代からの建物を使用している」とあり、「意匠・構造の特徴」として「第一層基壇部の上に、古典主義オーダーを模した柱列を並べたファサードを載せた、昭和前半期の支店銀行建築の典型。凝ったディテールはないが、手堅くまとめたプロポーションと納まりの処理に手腕が感じられ、近代的なスマートさも感じられる秀作。大理石貼りのカウンターや床のタイルは、ほぼ竣工当時のままである。1 階営業室の天井 は 2 階分の高さまである」としている。
ぼくは今見られる外観は竣工時からあまり変わっていないのだろうと思っていたから、古典様式を簡略したデザインで、戦前に建てられたとしても昭和10年代かと考えていた。ところが『峡陽文庫>第十銀行 東京支店』に竣工時の写真が載っていて、それを見て驚いた。前面の4本の四角い柱は、竣工時は半円柱ではあるがイオニア式の立派なオーダーで、建物横の窓もひとつひとつ額縁に納めたような古典的なものだ。古くて権威主義的に見えるのを嫌って、軽快に見えるように改修したのだろう。

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松よし、アルス美容室。千代田区神田鍛冶町3-7。2007(平成19)年1月4日

JR神田駅北口から神田警察通りを越えて、北へ向かう通りで、中央通りの1本西の裏通りになる。写真の3階建てのアパート風の建物は今もまだ残っている。ただし今は、「松よし」も「パーマ」(アルス美容室)の看板はなくなって空家になってしまったようだ。写真右の床屋のポールは「ムラタ理髪店」で、ファサードが異なるが松よしの建物がそこまで続いているのかもしれない。
戦後の建築と思っていたが、昭和22年の航空写真に写っていて、写真手前の横側3階の壁に石積み風に加工したトタンだか銅板が見られる。戦前に建てられたものなのだろうか?
アルス美容室は昭和30年頃の火保図に「アルスパーマ」で載っている古い店だ。ムラタ理髪店の以前の店は、下の写真のように「ハナザキ」の看板があった。昭和30年頃の火保図に「花崎テーラー」とある。




上:神田鉄砲店。1988(昭和63)年8月15日
左:歌舞伎家。2007(平成19)年1月4日
神田鍛冶町3-7

上写真の「神田鉄砲店」の建物は左写真の「石川ビル」に建替わって神田鉄砲店はその2階に移った。そのビルは2018年に再度建替えられて「天翔神田駅前ビル」になった。石川ビルの左、ムラタ理髪店の間が1間ほどの隙間があるのだが、その地所を手に入れたので床面積を少し広くできて階数も増やしたビルに建替えた、という事情かと思う。
石川ビルの右に、アルス美容室の建物と同じような感じの、3階建てのアパート型の建物がある。石川ビルが解体されていた時期のストリートビューで建物横を見ると、元は片流れ屋根の3階建てで、平らな屋根の4階を増築し、さらに中央部分だけだが4階までも増築している。
建物の1階中央にショーウインドーがあり、その右のガラス戸に「かぶきや」と書かれている。1986年の地図では「歌舞伎家」で、いったいなんなのか分からない。招き猫や三味線(SVで見られる)が置かれたショーウインドーからの連想で古物商あたりが思い浮かぶが……。『東京冒険記>神田歓楽カオスタウン「神田鍛冶町」』で知ったのだが、入り口の右に土肥晩翠の「荒城の月」の石碑の銘板が立てかけてある。どこから回ってきたものなのだろう?
かぶきやの建物は2017年頃に取り壊されて今は駐車場になっている。

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第一KSビル。千代田区神田淡路町2-3
1987(昭和62)年2月1日

第一KSビルは外堀通りの淡路町二丁目交差点の西南にあった小さなビルだが、2014年には写真右の末広ビル(丸善銘茶)とともに取り壊されて、今は「神田淡路町レジデンス」(1階はファミリーマート)というマンションに替わった。
写真では「…ナショナルプレス」の看板を出していて、玄関上の看板は「GNP…」。1986年の住宅地図では「GNPビル」。ちなみに同地図で写真左は「電気堂」。
千代田観光協会>第一KSビル』によると「第一KSビル(旧丸菱ビル)」は国登録有形文化財で、「大正14年(1925)に建設されたオフィスビル。鉄筋コンクリート造地上5階地下1階建。正面は小口タイルを芋目地に張り、軒蛇腹、胴蛇腹、窓枠等を白く飾っている。玄関の部分が上の塔屋状の部分まで前に少し張り出している。白い帯状の飾り、塔状のデザインによるファサードの強調が、辰野式と呼ばれるクィーンアン様式をイメージしていると思われる」などと説明されている。
間口の小さなビルなのにかなり贅沢に造られたように思われる。『近代建築散歩 東京・横浜編』(小学館、2007年、2900円)には「設計はドイツ人とも」とある。

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秋葉原貨物駅。千代田区神田佐久間町1。1987(昭和62)年9月13日

JR秋葉原駅の前身は1890年(明治23年)に開設された「秋葉原貨物取扱所」である。上野駅(1884年開設)の貨客取扱量の増加に対応するためで、当時、江戸期の火除地で「秋葉の原」「秋葉っ原」(明治3年に鎮火神社がまつられ、それを秋葉神社と勘違いしたという)などと呼ばれていた空地に上野駅から線路を引き込んだ。また神田川から掘割を引いて船溜まりを造り水上輸送もおこなった。
東京-上野間の開通は1925(大正14)年11月で、高架線で結ばれた。貨物線を高架にする工事は、第1期工事(西側貨物積卸場)が1928年(昭和3年)4月、第2期工事(東側貨物積卸場)が1932年(昭和7年)7月に完成した。写真の高架ホームは「東側貨物積卸場」になると思われる。第2期工事の完成した同日に御茶ノ水 - 両国間の総武線が開通している。
1975年2月1日で当駅での貨物営業が廃止さて、西側の貨物駅は東北新幹線工事のために撤去され、東側は上野駅発着列車の留置線として使用された。この高架駅が解体されたのは1995年頃らしいが、写真はその20年間の中間になる頃の景観。
写真左奥への道路は貨物駅だった当時はトラックが出入りしていた構内で、通りとは門で区切られていた。1969(昭和44)年の住宅地図に「第三佐久間門」とある。写真右のビルは「ロケット本店」。

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文唱堂倉庫。千代田区神田佐久間町3-14。1989(平成元)年10月8日

神田川の和泉橋から東の美倉橋までの北の沿岸は「神田佐久間河岸」という町名で、その河岸と総武線の高架の間の通りが写真の右手前から左への道路。
「レンガ倉庫」は文唱堂印刷という会社が倉庫として使っている。文唱堂は近くに本社ビルがあり、1927(昭和2)年に創業された歴史のある会社。写真では壁がレンガ色ではないので、塗装されているのかと思っていたが、『雅万歩>秋葉原』に「外側は煉瓦を積んだ土が滲みだし、赤い煉瓦が黄色くなっている」とある。写真では全面が滲みだした土で覆われた状態なのかもしれない。レンガ倉庫といえば普通は明治期の建物か、と想像がいくのだが、どんなものだろう?
倉庫は2017年に取り壊されて、2018年6月に「The akiba mix r+s」という5階建てのビルに替わった。つい最近まで残っていたわけだ。そのビルの1階のホームベース型の窓とアーチの出入り口はレンガ倉庫の記憶なのだろうか。

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和泉町ポンプ所。千代田区神田和泉町2。1989(平成元)年10月8日

和泉町ポンプ所は東京都下水道局の施設。三河島処理区のポンプ所の一つなので、ここを通る下水は三河島水再生センターへ流れていくのだろう。「下水処理場」という名前で憶えていたが、今は「水再生センター」というようになったらしい。都での呼び方かもしれない。下水管は自然に水を流すために傾斜がついている。ただ地下に埋めればいいというものではなく、その深さを計算して設置しているわけだ。ある程度の深さになったら水を地表近くまで汲み上げて、その先の下水管を引く工事を容易にする。それがポンプ所だ。
和泉町ポンプ所は1922(大正11)年8月に開設した。ビルはRC造、2階建地下1階。今ではすっかり珍しくなった大正期の建物だ。ビルの後ろに寄棟屋根の平屋が付いている。そこが機械室と思われる。
大正11年3月には「三河島汚水処分場」が完成している。工事は大正3年から始められているから、和泉町ポンプ所と三河島をつなぐ下水管の工事も並行して進めたとすれば、ポンプ所開設とともに下水を三河島に送り出したと思われる。
写真では壁にひび割れのような白い線が見える。壁はレンガのように見えるタイル貼りで、その傷んだ部分にペンキで線を入れたものらしい。撮影後、いつの頃(2003年以前)か知らないがタイルは貼り直されて、だいぶ明るい色に変わった。



和泉町ポンプ所。1988(昭和63)年4月10日

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誠屋洋服店。千代田区神田神保町1-32。1985(昭和60)年8月4日

白山通りの神保町交差点から少し北にあった商店。戦後間もない時期に建った建物だと思う。誠屋洋服店は古い航空写真で見ると、何軒かの家をまとめて看板建築風のファサードにしたものらしい。写真では左側が2軒の別の店(1986年の住宅地図では「エビヤ」と「たつや」)になっている。「牛丼三二〇えん」の幟はどちらの店なのだろう? 誠屋の右は中華の「来々軒」と「三共薬品」。三協薬品の右が横丁との角にある「山久ビル」で、「山久洋服店」が建てたビルと思われる。昭和30年頃の火保図には「KK誠屋洋服店、来々軒、山久S服ヤ」が載っている。
Site Y.M. 建築・都市徘徊>Tokyo Lost Architecture>誠屋洋服店』で、1996年に撮影した誠屋の写真を見ることができる。店は1990年頃に閉店したという。いつのことか分からないが、木造店舗は取り壊されて「トヨタレンカー」になっていた。現在は、2018年8月に「出版クラブビル」が建った。
誠屋洋服店をネット検索すると昭和30年代の「千代田区広報」に名前が出てくる。「千代田区商店コンクール」の結果の記事で、商店の部の優良賞を受賞している。当時の店主・古屋直成氏がそういうことに熱心だったらしく、毎年応募しては優良賞を獲得していた様子である。なにを見て決めていたのかというと、「都商店コンクール」(誠屋は千代田区の代表の1店)では「店舗の構成、商品の陳列状況、採光照明、サービス、経営上の特徴」となっていた。

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カトリック神田教会。千代田区西神田1-1。1987(昭和62)年1月4日

『ウィキペディア』や『カトリック神田教会』などによると、神田教会は、明治政府がキリスト教の取り締まりを緩めるとすぐに活動を始め、明治7年には猿楽町に聖堂を建てたのを創立の時期としている。カトリック築地教会と共に最も古い教会だ。
現在の教会堂(聖フランシスコ・ザビエル聖堂)は昭和3年(献堂式は12月9日)に建設された。設計はスイス人建築家マックス・ヒンデル、施工は宮内初太郎。RC造2階建。「外観はロマネスク様式、内部はルネサンス様式という二つの建築様式を融合した建築物(ウィキペディア)」。
2002年「カトリック神田教会聖堂」の名称で国の登録有形文化財になった。『国指定文化財データベース』の解説文では、「バシリカ形式の三廊式聖堂で、半円アーチを基調とした開口部、ロンバルド帯風の軒蛇腹、四葉をモチーフとした胴蛇腹が外観を飾り、半円アーチのヴォールト天井と玄関脇に集会所を設ける平面を特徴とする」とある。
神田教会の周囲は昭和20年5月13日と20日の空襲で焼き払われた。司祭館やその他の建物は焼け落ちたが、聖堂だけは火の海に囲まれながらも風向きが変わり、ほとんど無傷で残ったという。



カトリック神田教会。1987(昭和62)年1月4日


カトリック神田教会。1983(昭和58)年9 月11日

一見、1枚目の写真と同位置から撮ったものに見えるが、こちらは裏側。『アクトデザイン凛太郎のブログ>神田神保町・猿楽町・駿河台辺りの散策(2008.01.17)』でも指摘しているが、前後が同じ外観というのは他に見たことがない。コンクリートの塀を廻らしているが、現在は鉄柵に替わった。

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昭和軒、榎商会。千代田区神田神保町3-12
1990(平成2)年5月27日

靖国通りの専修大前交差点の裏手にあった二軒長屋の看板建築。写真左が専大通りの方向、右へ行くとすぐ向かいに専修大学である。写真左の「とんかつ」の日よけは「とんよし」、看板建築の黄色い袖看板は中華の「昭和軒」。
食べログに2009年2月訪問の昭和軒の書き込みが1件残っていた。そこには昭和47年の創業で「昭和メン」というかき玉野菜旨煮そばのメニューがあった、と記されていた。
ストリートビューを見ると、2009年では看板建築は残っているが、外壁は鉄板のようなものが貼られている。2014年以前にとんよしのビルと共に取り壊されて、現在まで更地のままになっている。

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