ぼくの近代建築コレクション
東京の都心と下町を中心に、戦前に建てられた古い建物の写真を投稿していきます。
 




早稲田大学演劇博物館。新宿区西早稲田1-6。2004(平成16)年11月9日

『日本近代建築総覧』では「早稲田大学5号館(演劇博物館)、建築年=昭和3年(1928)、構造=RC3階建、設計=今井兼次(早稲田大学営繕課)、施工=上遠組、備考=地下1」という記載。
博物館の建設を熱心に推進したのは坪内逍遙で、正式には「早稲田大学坪内博士記念演劇博物館」という。坪内逍遙(1859-1935)は、「日本の小説家、評論家、翻訳家、劇作家。小説家としては主に明治時代に活躍した。代表作に『小説神髄』『当世書生気質』及びシェイクスピア全集の翻訳があり、近代日本文学の成立や演劇改良運動に大きな影響を与えた。」(ウィキペディア)。興味を引かれるのは業績とは無関係と思われる「妻センは東大の近くにあった根津遊廓の大八幡楼の娼妓の花紫で、当時学生であった逍遙が数年間通いつめた後、1886年(明治19年)に結婚した。松本清張はこれを題材にした『文豪』を書いている。」(ウィキペディア)こと。
建物の正面1階玄関に当たるところが舞台(フロントステージ)で、奥の陳列室は楽屋、2階廊下は上舞台、両サイトは桟敷席に相当し、劇を上演することもあるという。16世紀イギリスの劇場「フォーチュン座」を模していて、坪内の発案である。



早稲田大学演劇博物館。2004(平成16)年11月9日

早稲田大学百年史』(別巻Ⅱ 第三編 付属機関 第二章演劇博物館)には「建物そのものをシェイクスピア演劇資料とし、同時に実演もできるという構想は永年逍遙の胸に温められていたものであった。」「(昭和2年5月)恩賜館にて演博準備会が開かれ、逍遙は設計担当の佐藤功一博士と早大営繕課の桐山均一にその模型を見せて設計を注文している。」「設計は桐山均一と同じ営繕課の江口義雄が担当、九月末には逍遙を交えて演博建築設計図の打合せが行われ、十一月十七日には設計協議会が大隈会館で開かれた。この頃は設計も完了し桐山は外遊したので、今井兼次が代って江口とともに説明した。」という記述がある。

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早稲田大学會津八一記念博物館。新宿区西早稲田1-6。2004(平成16)年11月9日(3枚とも)

『日本近代建築総覧』では「早稲田大学2号館(図書館)、所在地:新宿区西早稲田1-6-1、建築年:大正14(1925)年、構造:鉄筋コンクリート3階建、設計者:今井兼次(早稲田大学営繕課)、施工者:上遠組」。図書館として建設されたが、1991年(平成3年)に安部球場跡地に早稲田大学中央図書館が開館して、図書館はそちらに移転した。その後改修されて1998年(平成10年)5月に會津八一記念博物館が設置された。
2号館・旧図書館と今井兼次』には、今井兼次について、「本学名誉教授今井兼次(1895~1987)30歳の時の作品」「1920年より45年間に渡り本学教員として建築学科のデザイン教育を指導したプロフェッサー・アーキテクト」とある。図書館の建築は、御大典記念事業として「当時の建築学科主任、内藤多仲教授が中心となって耐震的な新図書館の計画を進めることになり、 今井兼次が意匠方面の設計者として参画することになった」という。
ぼくはまだ内部を見ていないのだが、その時のために以下の文章も書き写しておく。「ヒューマンな精神への撞景と実践と、空間的ヴィジョンへの意欲が大きな二つの軸となって、 この図書館建築に対する今井兼次の創作態度となって貫かれているのである。」「「質実豪放端正な」外観に包まれた内部空間は玄関大広間から大階段室へと至る空間の継時的な展開が中心軸を形成する。 今井が「宇宙の体系」を表徴する空間として構想した部分である。」とある。外観と内部のデザインは今井の精神的な現れ、ということだろうか。



早稲田大学會津八一記念博物館(東側正面)
『2号館・旧図書館と今井兼次』に「玄関大広間の六本の円柱は暗緑褐色の格天井を支持している。そしてこの六本の漆喰塗りの白亜の円柱には、 最後の一本を家族に見守られながら仕上げた家族愛の逸話を背景とする、一左官職の心魂を傾けた職人の制作態度が刻み込まれ、彫琢されているのである。」とある。この逸話は『都市回廊』(長谷川堯著、中公文庫、昭和60年、680円)にも、今井が目撃した光景として紹介されて、以下の文章は今井の書いたものからの引用(『建築とヒューマニティ』(早稲田選書、昭和29年)あるいは、「早稲田新図書館建設の感想」(『建築新潮』大正14年2月号))。

 正面大玄関広間の真白い六円柱を皆さんはご覧になつたことと思ひます。此六本の柱を仕上ぐるに一つの物語があります。残り少ない時間に若い二人の左官職は、はげみにはげんで仕事に掛つたのです。或る時は蝋燭の燈火で懸命に働かねばならぬ事もあつたが、二人は二本、三本と日を追ふて柱を白堊に塗り上げて行ったのです。塗り上ぐ可き最後の六本目の日が来たのです。この日の朝、年長の職人は盛装した自分の妻と三人の幼い子供を連れてこの大広間の一隅に座を占めました。男は相変わらず二人で働きつづけて行つた。やがて最後の柱は仕上げられた。希望を以つて働いた青年は、親子して終日、今まで自分達が仕上げ来つた六本の白柱をあかずながめて安心の姿で広間を去つて行つた。この光景はいじらしくも自分には有り難いものでありました。
 今一人、二十九歳の錺職は、これが自分のこの職に対する最終の制作だと云ふて痛めし脚部を曳きしめながら働く、けな気さを覚えてゐます。勇躍して仕事に尽瘁した者程、雄々しいものはないと思ひますが、幾多の希望を持つて働く人達に依つて、この図書館が形ち造られたことは、なにより意義多きことと云はねばなりません。




早稲田大学會津八一記念博物館(西側)。図書館の書庫だった8階建ての部分。上部3階分は昭和9年に増築された。

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早稲田大学6号館(西側入口)。新宿区西早稲田1-6。2004(平成16)年11月9日(4枚とも)

『日本近代建築総覧』では「早稲田大学6号館(国際部校舎)(旧・理工学部校舎)、所在地:新宿区西早稲田1-6-1、建築年:昭和10(1935)年、構造:鉄筋コンクリート4階建、設計者:桐山均一(早稲田大学営繕課)、備考:地下1」。理工学部は1967(昭和42)年までに西大久保キャンパスに移転していて、現在は主に教育学部が使っているらしい。
早稲田大学百年史』という大部の本がネットに公開されている。その「第三巻>第七編 戦争と学苑>第五章 カリキュラムとキャンパスの整備」に、「昭和六年六月、田中穂積が第四代総長に就任してから、主として本部キャンパスの明治期の木造校舎が次々と半永久的鉄筋校舎に建て替えられていった。その中心をなすものは、何といっても、既述の創立五十周年記念事業で、昭和七年から十三年までに、現在の本部キャンパスはその基本的構図ができ上がったのである。」とあり、6号館もその流れで建設されたのだろう。
6号館は北の部分が「理工学部実験室(応用化学科)」として昭和11年9月に、南の「理工学部実験室(採鉱冶金学科他)」は昭和12年9月に竣工して、両者を接続して理工学部校舎として完成した。



早稲田大学6号館(東の裏側)
階段室の半円の出っ張りが特徴的。写真右端は戦後の増築。『早稲田大学百年史』に、「1954(昭和29)年1月、応用化学科教室(9号館―現6号館)第1期増築工事竣工し,応用化学科は早稲田奉仕園よりここに移る」「1960(昭和35)年5月、応用化学科教室(9号館――現6号館)第2期工事竣工」とあるのがそれかもしれない。



左:L字型平面の裏側の角。右:南側の玄関

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早稲田大学11号館。新宿区西早稲田1-6。2004(平成16)年11月9日

正門からいくと、西の突き当たりが10号館で、その手前北側にあった商学部校舎。2006年に解体されて2009年に新校舎が竣工した。
写真の旧校舎は、『都市徘徊blog>早稲田大学11号館』によると、「建設年:1938(昭和13)年、構造・階数:RC4+屋根裏、設計:桐山均一、備考:1951増築」。1号館(昭和9年築)とほぼ同様の外観である。コの字型の平面だったのをその開口部を塞ぐように2階建てを増築していたという。
設計者の桐山均一はネットでは早稲田大学の校舎の設計者としか出てこないようで、その人物についてはさっぱり分らない。『日本近代建築総覧』では設計者は「片山均一(早稲田大学営繕課)」としている。
11号館の裏(北)には12号館(1951年築)があったが、11号館とともに解体されて、その敷地は新11号館に取り込まれた。『都市徘徊blog』には、12号館と11号館の裏側の写っている貴重な写真がある。



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早稲田大学7号館。新宿区西早稲田1-6。2004(平成16)年11月9日

大隈重信像の前にある校舎。像は「昭和7年(1932年)10月17日、早稲田大学創設50周年と大隈重信10回忌を兼ねて作られた」(ウィキペディア>大隈重信)もので、朝倉文夫の作。
7号館は正面から見るとかなりクラシックな感じである。縦長の3連の窓、2階から5階まで通っている柱形、5階の窓の浅いアーチなど。戦前の建築だろうと思っていたら、1951(昭和26)年に建ったものだった。
都市徘徊blog>早稲田大学7号館』によると、「建設年:1951(昭和26)年、1957(昭和32)年に北側を増築/構造:RC/階数:5F・B1F」で、昔は理工学部の校舎だった建物という。
かつてはここに「恩寵記念館」というレンガ造の建物があった。中條精一郎(曽禰中条設計事務所)設計、レンガ造3階建。1911(明治44)年竣工。館名は皇室からの恩賜金を基礎に建設されたから。1945年5月25日の空襲により外郭を残して焼尽した(早稲田ウィークリー>恩賜記念館)。残っていれば慶應大学の図書館のような存在になったはずだ。



早稲田大学7号館裏(北)側。1957(昭和32)年に増築された部分。大きいガラス窓に映っているのは6号館。2004(平成16)年11月9日

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仲坂。新宿区荒木町11。2002(平成14)年5月6日

荒木町の窪地は、元は靖国通りの谷から南に入っている枝谷で、その谷の入り口から少し入ったところを堰で仕切って、純粋なすり鉢に変えてしまったものである。すり鉢には池を設けて大名庭園としたわけだから、そのための堰かと思うのだが、特に純粋な窪地にする必要もないようにも思われ、堰堤の目的はあるいは交通の便かとも思われる。
堰堤の道路とすり鉢の底を結んでいるのが「仲坂」の階段。すり鉢へ下りる坂道(階段)は10か所近くもあるが、名前が付いているのは仲坂だけらしい。高低差は6.5m(『東京の階段 DB>0038 荒木町・仲坂』)。
階段下の両側に小さい石柱(基石)が立てられていて左が「仲坂」右が「昭和七年八月竣工」と彫られている。右の石柱の文字が明朝体であるのが珍しい。階段の上にも一つ石柱が残っているが、破損して文字が「坂」しか残っていない。石段だからだろうが、坂道にその名前と竣工日を記した石柱が作られることは極めてまれなことと思われる。
写真中央の、木で隠れている建物は料亭だった(『ちくわ>四谷荒木町…』)。門は階段の踊り場に向いている。
写真右のアパートはごく最近(たぶん2019年)取り壊されて、現在は4台分の駐車場である。

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ハイム石川。新宿区荒木町11。2002(平成14)年5月6日

荒木町のすり鉢の底の中心あたりで、写真は策の池(むちのいけ)を背中にして撮っている。右奥突き当りが仲坂。明治時代だったら池の真ん中辺りになりそうだ。
四軒長屋のように見えるのが「ハイム石川」というアパート。不動産サイトに1976年4月築とあった。2018年に「グレース・アイ」(4階建、2018年6月築)というマンションに建て替わった。
その右の家は料亭だろうか。2015年のストリートビューでは、塀をより料亭らしく改修して玄関に「川口」の外灯が付いている。それが2019年7月ではすっかり取り払われた更地になっている。2020年2月のSVでは3階建11戸のマンションの工事が始まったところだ。また、川口の右の庭付きの家がなくなっていて、やはり基礎の工事中。

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肉の万世。新宿区荒木町6。2002(平成14)年5月6日

車力門通りの真ん中、クランクのところから「すり鉢」の底へ下りていく坂道の路地にあった「肉の万世」。『アド街ック天国2002.11.2放送』に「14位 肉の万世|昭和35年(1960)に神田以外の地に3号店を創業」とある。まだ料亭街として賑わっていた頃だろう。写真の右手の門の上に「四谷/万世牧場」の看板があるから「四谷店」といったのかと思う。
撮影後まもなく閉店したらしい。現在は「レナトゥス四谷」という6階建50戸のマンションに替わっているが、それが建ったのが2006年1月。
門の前にある古いタイプの街灯は、今は蛍光灯が外されて機能していないが柱が残っている。そういえば、「料亭 千葉」の前にも同じ街灯がある。

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料亭 千葉。新宿区荒木町10。2010(平成22)年3月3日

車力門通りの北、外苑東通りからの入り口から南へ70mのところから東へ入る横丁を入って、すぐ北向きの路地を下がった正面に門を構える「千葉」という料亭。その路地は千葉の前で右(東)へ曲がり、クランク形に曲がりながら下りていく段のある坂道で、下りきったところが荒木町のすり鉢の底、策の池(むちのいけ)だ。
「千葉」は荒木町が料亭街だったころの面影を留めている唯一の料理屋、というふうに言われていたが、ごく最近、廃業してしまったらしい(コスモ通信NO32)。創業は1980(昭和55)年頃というが、建物はもっと古くからあったように見える。戦後の焼け跡から間もなく建てられたのではないだろうか。
策の池から、崖の上に建物の北側が仰ぎ見える。

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宮さ和。新宿区荒木町6。2002(平成14)年5月6日

車力門通りのクランクの少し南から横丁を東に入ったところにあった「宮さ和」という、料亭のような構えの店。たぶん元は正統な料亭だったのだろう。看板には「割烹」とあり、ネットでは「料亭」「板前割烹」「日本料亭」「日本料理店」といった肩書が付いている。今は建物はそのままで「赤坂 光楽亭 串揚げ処」に替わった。
パクパク日記08 3月2週』では、宮さ和は1968(昭和43)年頃の創業としている。まだ花街として繁盛していた頃かと思う。花街を返上したのは昭和50年代末という。
光楽亭の開店は2010(平成22)年11月なので、宮さ和が廃業したのも2010年かと思われる。
宮さ和の隣はやはり料亭のように見える「わかまつ(若松)」。こちらも建物はそのままで、「柳庵(りゅうあん)」という日本料理屋に替わっている。


日本家屋。荒木町6。2002(平成14)年5月6日

1枚目写真で右奥の角を曲がったところ。料亭のような家があるが、今は「四谷フラッツ」(2007年2月築、6階建て14戸)という小さなマンションに替わった。

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