~代上

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はじめに

岩波文庫 日本書紀 坂本太郎・家永三郎・井上光禎・大野晋 校注 を読む。フォントに限りがあるために、本文での漢字等は、原著とは一致していません。日本書紀か日本紀、書紀等書名、使用されたテキストに関する考証等は同書五巻の詳細なる解説を参照いただきたい。
訓読については、現存する最古の写本の訓点に従っておられる(平安中期から鎌倉・室町)との由。読み下し文は敬語が多く、必ずしも従ってはいない。
書紀の編修は、天武天皇十年にはじまり、養老四年(720年)に及ぶ三十九年の事業とされるようだ。これだけの期間を要しているため、編修の方針が一定していないそうである。しかし、天武天皇につらなる日本を意識し、対外的にも通用する正史を完成させることが目的であったことは一致するところである。日本をどう意識しようとしたかをいかばかりかでも読み取れれば幸いである。
本文に使用した漢字テキストについては
古代史獺祭からダウンロードさせていただいている。

平成十六年一月十一日


~代上(かみのよのかみのまき)

(いにしへ)天地(あめつち)未剖(わか) 陰陽(めを)不分 渾沌(まろか)如鷄子(とりのこ) 溟A(ほのか)而含(ふふむ)(きざし) 及其(すみ)(あきらか) 薄靡(たなび)而爲天(あめ) 重(おもく)(にご) 淹滞(つつ)而爲地 (くはしく)(たへ)之合(あふ)(むらがる)(やすし) 重濁之凝(こる)(かたまる)(かたし) 故(かれ)天先成而地後定 

淮南子(前漢武帝の頃、淮南王劉安<高祖の孫>が食客として抱えていた大勢の学者に命じて編纂させたもの、武帝元狩元年、西紀前122年謀反発覚して自殺)天文訓に曰、天墜未だ形せず、馮馮翼翼(ひょうひょうと漂い)洞洞水屬水屬(どうどうと集まる)たり。故に太始と曰う。太始虚雨郭(からっぽのひろがり)を生じ、虚雨郭宇宙(空間と時間)を生じ、宇宙氣を生ず。氣に涯垠(区別)有り。清陽なるは薄靡して天と為り、重濁なるは凝滞して地と為る。清妙の合專(合わせてひとつになる)は易く、重濁の凝竭(かたまりつくす)は難し。故に天先ず成り、地後に定まる。
俶眞訓に曰、未だ始めより、夫の未だ始めより無有る有らざること有らざる者有りとは、天地未だ剖れず、陰陽未だ判れず、四時
(四季)未だ分れず、萬物未だ生ぜず、汪然平静、寂然清澄にして其の形を見る莫し。
芸文類聚引用三五歴紀に曰、天地混沌如鷄子。太平御覧引用三五歴に曰、混沌状如鷄子あるいは溟
水宰始牙。鷄子は鶏卵。溟は薄暗いこと、A(けい)は不明であるが、行幸というごとく訪れてくることを想定。水宰は水のなかの沈殿物。牙は芽のこと。何か液体で色も形もなくやって来るものになんらかの芽(きざし)が始る、あるいは、薄暗く沈殿し、うごめくものが含まれというところ。
天地の地が鳥の飛ぶ空間、魚の生息する海まで含むとすれば、地下の底まで視野に入れる見方もあろう。中国では、
天は傘、地は裏返した皿で、北極星が中心と考える説があった。皿の真中は底から6万里離れ、天の北極まで8万里、天と地表は8万里の距離を保って四方八方に落ちこんでいるイメージである。晋の時代の天文学者は、天は鶏の卵みたいなものであって、地は鶏の卵の黄味みたいなもので、ぽつんと天の内部に位置している。天は大きくて、地は小さい。天の表側と裏側には水がある。天と地はいずれも気に乗っかって定位し、水に載っかって運行する。周天は365度と4分の1度ある。と述べている。(晋書天文志:世界の名著)渾天儀で天体観測を行ない暦を編纂する中国の知識がもたらされ、天に関して先進的なイメージを抱く人々もあったことであろう。
自らの伝承を、これらの記述に照らして編纂した。
古事記の天地初發之時 於高天原成~名 天之御中主~ではあまりに唐突であり、それ以前の伝承を盛り込み、また、天地から入らず、古を入れたところに工夫がある。
混沌ではなく渾沌を選んだ。渾沌は荘子応帝王に中央の帝としてあらわれる。渾は水がこんこんと流れるさま、沌は水がぐるぐる回るさま、あるいはつんぼでひらけない愚かなさま。荘子ではこの渾沌を気の毒に思い、穴をあけて見たり聞いたりできるように感覚を与えると死んだとある。このイメージと卵の未分化な状態とに伝承を託したのであろう。
溟A始牙でなく溟A而含牙、芽を含むという表現を選んだ。そこからものが生まれる状態を描いている。天地がうまれ、~がうまれる順序をととのえた。


(しかうして)後 ~(かみ)(あり)其中焉 故曰 開闢(あめつちひらく)之初 洲壤(くにつち)(うかれ)漂 譬(ごとし)(あそぶ)(いを)之浮水上也 于時 天地之中生(なり)一物(ひとつのもの) (かたち)如葦牙(あしかび) 便(すなはち)化爲~ 號(まうす)國常立(くにのとこたちのみこと)【至(いたる)(たふとき)(そん) 自(これより)(あまり)曰命(めい) 並(ならびに)(いふ)美舉等こと也 下(しも)皆效(ならう)此】次(つぎに)國狹槌(くにのさつちのみこと) 次豐斟渟(とよくむぬのみこと) 凡(すべて)(みはしら)~矣 乾(あめのみち)(ひとり)(なす) 所以(このゆゑ) 成此純男(をとこのかぎり)

盤古伝説を伝える三五歴紀に曰、盤古在其中 一日九変 ~於天聖於地とある。また、有~聖人九頭 号地皇あるいは有~聖人九頭 号人皇。~聖なるものは天において~、地において聖となる。皇は天にあるもの、地においては地皇、人皇となる。中国の伝統においては、天には天帝を中心とする世界があり、地上の世界はこの世界に準じてつくられており、天の世界は星座の中に認識される。この認識は大きな影響を与えたが、日本の伝承とは合致しない。
中国には洪水伝説があり、この洪水対策として鯀は、天帝のもつ息壤を盗み出し殺された。
(山海経海内経)壤とは地味の肥えた土で、息壤はどんどん壤をつくりだすもの。洪水対策は鯀の子、禹が洛書に基づき治水工事を行ない成し遂げられる。水が引くと洲があらわれる。洲は砂のたまった所、島、国と意識される。
国の語源は、字訓
(白川静)によれば、”く”(所、処、陸)と”に”(土)と推測。下土、木土、堅土、凝土、くむ、くも、究に、限、組、与、組土、組野、組根居、巡賑、金の転、数成の約言、郡の転、大土、久邇の所説があるようだ。

日本では、天と地がひらくと、水上に泳ぐ魚のように、天地の中に”あしかび”のごとき一物が生まれた。”あし”は水辺に生えるイネ科多年草、”あしかび”は葦の若芽。そのような生命力のある状のものが化して~となり、”とこ”は土台、”たつ”は起こる、”くに”の土台となりあらわれる貴きものと称する。これは常立でもあると漢字を選んだ。とこは床、底に通じる。天地の中に貴き生成力あるものがまず生まれ、化して~となったのが日本の古
(いにしえ)と主張している。(貴きに至るを尊、その他を命と曰く、書に記す場合の尊、命の別。訓ずれば、(発音は)共に”みこと”となる。)
美舉等
ことは甲類、こ と は乙類。御言、事、元来は~託を意味したとされる。
次ぎに、國狹槌尊が生まれる。古事記では國之狹土~
(くにのさつちのかみ)、”さ”~稲を植える大切な”つち”土地と注されるが、書紀では狹槌で、”くに”をきっちりつきかためる語感である。”さ”は清(さ)やか、”つ”は上下を結ぶ助詞、”ち”は霊力あることとの説もある。この~の次ぎが、豐斟渟尊、古事記では豐雲野~(とよくもののかみ)、混沌浮漂の状態を示すと注されるが、”とよくもの”でなく”とよくむぬ”、ぬは沼、渟はたまった水、豊かに水を酌む、つまりは”くに”に水を汲み出す語感となっている。”とよ”は”とよむ”と同源で、鳥の声や川音があたり一面に鳴り響くこと。豐は~に供する農作物を祭器の豆のうえに盛った状態の字である。
書紀編者は、國常立尊
國狹槌尊、豐斟渟尊を正統な序列とした。
周易繋辞に、乾道成男といい、乾は乾坤(陽陰)から来る。この三~は中国でいえば、陽で独~で男~である。

一書
(あるふみ)曰 天地初 一物在於(そらのなか) (かたち)難言 其中自(おのずから)有化生(なりいづる)之~ 號(まうす)國常立尊 亦曰國底立(くにのそこたちのみこと) 次國狹槌尊 亦曰國狹立(くにのさたちのみこと) 次豐國主(とよくにぬしのみこと) 亦曰豐組野(とよくむののみこと) 亦曰豐香節野(とよかぶののみこと) 亦曰浮經野豐買(うかぶののとよかふのみこと) 亦曰豐國野(とよくにののみこと) 亦曰豐齧野(とよかぶののみこと) 亦曰葉木國野(はこくにののみこと) 亦曰見野(みののみこと)

古事記編纂にあたって天武天皇は「諸家のもつ帝紀及び本辭、既に正實が違い、多く虚僞を加え、今の時に當り、其の失を改めずば、未だ幾年をも經ずして其の旨滅びなんとす。斯れすなわち邦家の經緯、王化の鴻基(大事業の基礎)なり。かれこれ帝紀を撰録し、舊辭を討覈(かく:調べる)して、僞を削り實を定めて、後葉(世)に流(つた)へむとす。」とし、正しい帝紀、本辭を定めんとする意志を示した。
王化の鴻基とは、律令の制定、兵制改革、遷都、貨幣経済(銅銭鋳造)への移行、古事記、書紀、万葉集、風土記編纂等の事業である。持統、文武、元明天皇へと引き継がれて、鎌足の息子不比等が中心となってとりまとめがおこなわれてゆく。皇位継承においても、一筋縄ではゆかず、政権や事業の先行きが揺らぐならば、書紀編纂においても、一貫した方針が貫けなかったとして、不思議はない。
書紀編纂にあたっては、川島皇子以下皇族十ニ人に記定を命じ、天武天皇没後、持統天皇の五年には、大三輪氏ら十八氏に、その祖先の墓記を上進させたとある。書紀においては、古事記とは異なり、それらの伝承を広く収録せんとする方針がある。この項のみでも六書を紹介している(出典不詳)。


曰は書に記されていること、人から聞いたことを意味し、言は心にあることを声に出すこと。
tokotatiとsokotati。 satutiとsatatiで一音の違いである。toyokuninusiは豊かな国の主の義であるから、意味は通る。toyokuninoは豊かな国の野というのも意味は通り易い。しかし、国を生む過程に先んじて国主や国野は音を借りるとしても、筋が通らない。toyokumunuとtoyokumunoも一音違いである。の”野”は広々として人の住まない土地、沼を西南日本では”のま”ということが多く、また沼地を”のち”と呼ぶことが多い。(字訓)上にみたように、組野と国は同義でもある。豐香節野toyokabunoと豐齧野toyokabunoは同音異字。牙(かび)のことを賀布(かふ)と訓じることもあるようだ。(字訓)ukabunono-toyokafunoはukabunono-を別にすれば一音違い。 hakokuninoやminoは系統が異なるが、同義と認識されていた。
注によれば、古代日本語ではa、o、uは語を形成する際に交替しやすい音という。ハ行子音はf、更に古くはpといわれ、bやmと交替する可能性が高いとされる。また、古事記の仮名は、百済を経由して伝来した五・六世紀の揚子江下流地域の発音に拠っているが、書紀はそれに遅れること百年以上の北方中国の長安、洛陽の地方の発音に拠るそうである。遣唐使を送っている政権としては当然の選択である。南方音では、na, ni, ne, no, ma, mi, mu, me, moに当る音が豊富にあったが、北方音にはそれらがなく、
nda, ndi, nde, ndo, mba, mbi, mbu, mbe, mboと発音するので特別の工夫が必要とされたという。
この一書はかなり広く異説を収録している。豐斟渟”とよくむぬ”に関しては、どうも解釈が一定しなかったことがうかがえる。

一書曰 古國稚
(いし)地稚之時 譬浮膏(あぶら)而漂蕩(ただよう) 于時 國中生(なる)物 (かたち)如葦牙之抽(ぬけ)出也 因(よる)此有(ます)(なり)(いづ)之~ 號(まうす)可美葦牙(うましあしかびひこぢのみこと) 次國常立 次國狹槌尊 葉木國 此云播擧矩爾(はくに) 可美 此云于(うまし)

稚は幼い禾、おくてのものをいう。膏は骨と肉のあいだのあぶら(脂肪)。抽はとりだすこと。この伝承は中国風宇宙論に影響されていない。まず、可美葦牙彦舅尊が先であるという。”うまし”は味、旨、美があり可美を採った。美は~に犠牲としてさしだす肥えた羊、~聖なものである。”うまし”可美は~聖なイメージとなる。彦舅は、次ぎにでてくるように比古尼で古くは”こひぢ”泥をさすと注にある。可美葦牙彦舅尊は”くに”の土台となる~聖なるあしかびのような泥である。この書では、國常立尊の前に可美葦牙彦舅尊があり、國常立尊の次ぎは國狹槌尊と葉木國であると述べている。

  國常立尊---國狹槌尊---豐斟渟尊〈独・男)

  可美葦牙彦舅尊---國常立尊---國狹槌尊
                    ---葉木國野尊


一書曰 天地混(まろか)成之時 始有(ます)~(かみ)焉 號可美葦芽彦舅 次國底立 舅此云比古尼ひこぢ)

可美葦牙彦舅尊を~人と表現する方法もあったようだ。比古尼が書紀では”こひぢ”、古事記では”ひこに”ni がndiとなるそうである。

一書曰 天地初 始有倶
(ともに)(なりいづ)之~ 號國常立 次國狹槌尊 又曰 高天原(たかまのはら)所生(あれ)~ 名(みな)曰天御中主(あまのみなかぬしのみこと) 次高皇産靈(たかみむすひのみこと) 次~皇産靈(かむみむすひのみこと) 皇靈 此云美武須毘むす

倶は一体となること。地では國常立尊と國狹槌尊が、高天原では天御中主尊と高皇産靈尊ならびに~皇産靈尊がともに出現したという。天と地同時に~が生まれたという。天といっても、高天原という固有の場所である。

詩の商頌に曰、「天、玄鳥に命じて 降りて商を生ましめ 殷土の芒々(ぼうぼう)たるに宅(お)らしむ」
爾雅
(周公が編纂したといわれる辞書、戦国時代に編纂)、釈天篇に曰、「寿星(列宿の長)は、角宿(天帝の宮廷)、亢宿(天帝の祖廟)なり。天根は、氏一宿(天帝の根拠地)。天駟(天帝の四頭馬車)は房宿、大辰は房宿(府、倉庫)、心宿(明堂)、尾宿(九太子)。析木の津は、箕宿、斗(南)宿の間で、そこに天の川が通っているので天の漢水の津。星紀とは斗(南)宿、牽牛宿。南斗が生を司り、北斗が死を司る。」
司馬遷の天官書、律書に曰、「天の中宮は北極星座、最も明るいのは太一
(~)の居。そばの三星は三公あるいは太子。うしろの四星の末は正妃、三星は後宮。そのまわりの十二星は藩臣。すべてを紫宮という。北斗七星は天帝の乗車で、天帝はこれに乗って天の中央をめぐり、四方を統一し、陰陽を分け、四季を立て、五行の活動をなめらかにし、季節を移し、諸紀を定める。」
晋書天文志に曰、「日は太陽の精。人々を生養したり恩徳をほどこすから君主の象徴である。・・・月は太陰の精。皇后の象徴である。刑罰の義であり、諸候・大臣でもある。・・・歳星は東方、春、木のしるしで五常の仁。五事では貌。・・・福を支配し、大司農の職を支配し、天下の諸候・君主の過失を支配し、五穀のみのりを支配する。
淮南子墜形訓に曰、「(崑崙山の)中に増城が有り、九重、高さ一万千里百十四歩二尺六寸。・・・崑崙の丘、之を倍上れば、涼風の山。之を上れば不死。之を倍上れば、県系(けんぽ)。之を上れば霊、風雨を使うことができる。之を倍上れば、上天。之を上れば~、太帝の居という。」

このような中国的な天帝の宮、星座・宿でなく、日本では高天原であるという。”たか”はたかし、上に高く大きいこと、~聖なもの、尊貴の座、行為。”はら”は広く平らかなところ。天のなかでも高く広く平らかな所である。”み”御は霊(ひ)と同根、敬虔の念をもってつける。”ぬし”は”うし(大人)”といい、その地を領有、支配することを”うしはく”という。”むす”に産の字をあてており、草や苔の類が生えること。古事記に男を牟須古(むすこ)、女を牟須賣(むすめ)という。(字訓)~皇産靈尊(かむみむすひのみこと)はあまり役割を果さないと注されている。”かむ”は酒を作る時に米を噛み砕くこと。”かむ”と”くむ”とは互いに交叉する義で同系でもある。
(ひ)と発音するのは書紀で、古事記では毘(び)と注されている。

一書曰 天地未生
(なる)之時 譬猶海(うなはら)上浮(うかべる)雲無所根(ね)(かかる) 其中生一物 如葦芽之初生(おいでる)泥土(ひぢ)中也 便(すなはち)爲人(かみ) 號國常立

”ね”はものの下部にあって強く支えるもの。古語の”な”が地をあらわし、その”な”に深くはいるものが”ね”。”かかる”はぶら下がる。(字訓)山にかかる雲でなく海上の雲を想定している。泥のなかに葦の芽が出るように生まれたという。

一書曰 天地初 有物 若葦牙生
(なる)於空(そら)中  因(よる)(なる)~ 號天常立(あまのとこたちのみこと) 次可美葦芽 又有物 若浮膏生於空中 因此化~ 號國常立

この説では、~は空中に生まれ、天常立尊、可美葦芽彦舅尊、國常立尊の順に生まれた、という見解をとっている。

次有(ます)~ 泥土者火(うひぢにのみこと) 【泥土土 此云于毘尼(うひぢ)】 沙土者火(すひぢにのみこと) 【沙土 此云須毘尼(すひぢに) 亦曰 泥土土根(うひぢねのみこと) 沙土根(すひぢねのみこと)】 次有~ 大戸之道尊(おほとのぢのみこと) 【一(ある)云 大戸之邊(おほとのべ)】 大苫邊(おほとまべのみこと) 【亦曰 大戸摩彦尊(おほとまひこのみこと) 大戸摩姫尊(おほとまひめのみこと) 亦曰 大富道尊(おほとまぢのみこと) 大富邊(おほとまべのみこと)】 次有~ 面足(おもだるのみこと) 惶根(かしこねのみこと) 【亦曰 吾屋惶根尊(あやかしこねのみこと) 亦曰 忌橿城尊(いむかしきのみこと) 亦曰 橿城根(あをかしきねのみこと) 亦曰 吾屋橿城(あやかしきのみこと)】 次有~ 伊奘諾(いざなきのみこと) 伊奘冉(いざなみのみこと)

者火は火でものを熱すること、熟るに関係する。泥土者火と沙土者火は、乾いた泥”うひ”と乾いた砂”すひ”、根の場合はそれが浮いているのでなく地にしっかりつながっていることを意味する。字づらではそう解釈しても話しがつながらない。”う”は大で男、”す”は少で女をさすともいう。國狹槌尊から泥土者火尊、伊奘諾尊を、豐斟渟尊から沙土者火尊、伊奘冉尊を連想する。國狹槌尊は衝動力であり、豐斟渟尊は展開力とみる。”おほ”は尊称、注によれば、”ぢ”は男、”べ”は女をさし、”と”は御(み)交合(まぐあい)の”と”、戸であり門であり性器となるそうだ。”とつぐ”嫁はもと交接をいう。(字訓)注によれば、面足とは、顔立ちが整っていること。面は心の感情があらわれるところ、足は充足して欠けたところのないこと。”かしこね”は”かしこし”畏でおそれ敬うこと、”ね”は鳴き声、吾屋はあー、やーで感歎詞という。ayakashikoneと aokashikineと ayakashikiの変形、また、 古事記の妹訶志古泥imokashikoneが imukashikinoと通じるとされる。”いい女だな””ああ、畏れ多いこと”という会話を~格化しているとのことである。かくて、伊奘諾尊 伊奘冉尊の登場となる。”いざなふ”は強く相手に働きかけて、同じ方向に伴うこと、”さそふ”は自然にそのようにさせること。(字訓)”き”は男を示す接尾語、”み”は女を示す接尾語。双方がいざなう~である。

  國常立尊---國狹槌尊---豐斟渟尊〈独・男)---泥土者火---大戸之道尊---面足尊---伊奘諾尊(男)
                                        泥土
土根尊    大戸之邊
                                                    
大戸摩彦尊
                                                    
大富道尊
                                      
---沙土者火 ---大苫邊尊  ---惶根尊---伊奘冉尊(女)
                                        
沙土根尊    大戸摩姫尊  吾屋惶根尊
                                                    
大富邊尊    忌橿城尊
                                                               
青橿城根尊
                                                               
吾屋橿城尊

書紀の編者は上記のような順序を想定しているようだ。日本では、天文学的・哲学的・宗教的な世界観ではなく、生成力ある尊が生まれ、衝動力ある尊と展開力ある尊が”を”の尊、”め”の尊となり、世界を生み出すというイメージを描いている。

一書曰 此二~ 橿城根之子也

伊奘諾尊 伊奘冉尊は青橿城根尊の子とする説があった。

一書曰 國常立生天鏡(あまのかがみのみこと) 天鏡生天萬(あめよろづのみこと) 天萬生沫蕩(あわなぎのみこと) 沫蕩生伊奘諾(いざなきのみこと) 沫蕩 此云阿和那伎(あわな

尊に親子関係を持ち込み説明する書があった。編者は化生、化為、有が正統であるといいたい。

凡八(やはしら)~矣 乾坤(あめつち) 相參(まじり)(なる) 所以(このゆゑ)成此男(をとこ)(をみな) 自(から)國常立(まで)伊奘諾伊奘冉 是謂~世七代(ななよ)

八、乾坤の道といえば、易である。參は雑、交で”まじはる”こと。陰陽三つの組み合わせ八つの卦を用いる包犧の易を、その八卦を上下に組み合わせ六十四卦の組み合わせとなしたのが周の文王、また周公ともいわれる。
漢書律暦書に曰、「人は天の働きをうけつぎ、地の働きに従って、気を整え、万物を成就させる。八卦を組織だて、八風を調え、八政を治め、八節を正しくし、八音を調和させ、八人八月の踊りを舞い、八方をとりしまり、八荒に恩恵の光を与え、それによって天と地の働きを完了させる。だからそれぞれ八のものが八あって六十四になる。」
乾坤は陽陰でもある。參は異質のものなどが区別なく交わって一体になること。八~は、かく化し、男と女とに成った。これが、~代七代である。
---泥土者火---大戸之道尊---面足尊---伊奘諾尊(男)
---
沙土者火 ---大苫邊尊  ---惶根尊---伊奘冉尊(女)

一書曰 男女禾禺(たぐひ)(なる)之~ 先有(ます)泥土者火 沙土者火 次有角木音戈(つのくひのみこと) 活木音戈(いくくひのみこと) 次有 面足 惶根 次有 伊奘諾 伊奘冉 木音戈木厥(くゑつ)

禾禺は和製漢字、禺に人相偶する義あり、二人並んで耕すを耒禺という。禺には~意なるものの義を含むともある。(字統:白川静)”あし”は水辺に生えるイネ科多年草。禾はイネ科。男女が対となっているかに現われてきたという。角は獣角で杯として、また酒器として用いられる。木音戈は杙で~の支配することを示す傍示に使うことがある。凶事には木厥を用いるとある。活は息と同根、呼吸することによって生きる、活々は水勢のさかんなさま、生命力の躍動に類するものとされる。(字訓)

伊奘諾 伊奘冉 立於天浮橋(あまのうきはし)之上 共計(はからい)(のたまふ) 底下(そこつした)(あに)無國歟(か) 廼(すなはち)以天之瓊(あまのぬ) 【瓊 玉也 此云努(ぬ)】 矛(ほこ)指下而探(かきさぐる)之 是獲(え)滄溟(あをうなはら) 其矛鋒(さき)滴瀝(しただる)之潮(しほ) 凝(こり)成一嶋 名之曰 石殷馭慮嶋(おのごろしま) 二(ふたはしら)~ 於是 降(あまくだり)(ます)(その)嶋 因(より)欲共爲夫婦(みとのまぐはひ) 生洲(くに)(つち) 便(すなはち)石殷馭慮島 爲國中(くになか)之柱(みはしら) 【柱 此云美簸旨邏はしら)】 而陽~(をかみ)左旋(めぐり) 陰~(めかみ)右旋 分巡(めぐる)國柱(みはしら) 同(あふ)一面(ひとつおもて) 時陰~先唱(となへる)曰 憙哉(あなうれしゑや) (あふ)可美少男(うましをとこ)焉 【少男 此云烏等孤(を】 陽~不ス(よろこぶ)曰 吾是男子(ますらを) 理(ことわり)(まさに)先唱 如何(いかにぞ)婦人(たわやめ)(かへる)先言(こと)乎 事(すでに)不祥(さがなし) 宜(よろし)以改(あらため)(めぐる) 於是二(ふたはしら)~(かへる)(さらに)(あふ) 是行(このたび)也 陽~先唱曰 憙哉 可美少女焉 【少女 此云烏等ロ羊(を】 因(よる)問陰~曰 汝(いまし)身有何成耶(か) 對(こたへ)曰 吾身有一雌(め)(はじめ)之處(ところ) 陽~曰 吾身亦(また)有雄(を)元之處 思欲(をもふ)以吾身元處 合汝身之元處 於是陰陽(めを)始遘合(みとのまぐはひ)爲夫婦(をうとめ) 及至(こうむ)時 先以淡路(あはぢ)(しま)爲胞(え) 意(みこころ)所不快(よろこぶ) 故(かれ)名之曰(いふ)淡路洲 廼生大日本(おほやまと)【日本 此云耶麻騰(やま 下(しも)(みな)(ならふ)此】豐秋津洲(とよあきづしま) 次生 伊豫二名洲(いよのふたなのしま) 次生 筑紫洲(つくしのしま) 次雙(ふたご)生億岐洲(おきのしま)(と)佐度洲(さどのしま) 世人(よひと)或有雙生 象(かたどる)此也 次生越洲(こしのしま) 次生大洲(おほしま) 次生吉備子洲(きびのこしま) 由是 始起大八洲國(おほやしまのくに)之號焉 (すなはち)對馬嶋(つしま) 壹岐嶋(いきのしま) 及處處(ところどころ)小嶋 皆是潮(しほ)(あは)(こりる)矣 亦曰 水沫凝而成也

中国においては、天地がひっくりかえるほどの洪水伝説があり、水を引かせて洲をつくりだすことが大事業であった。日本にはそのような伝承はない。葦かびのまわりに泥や砂を集めて土をかためてゆくことがテーマである。土が固まっていないので浮橋の上にいるのであるが、橋はどこから来たものやら。虹を橋とみる説もあるようだ。梯に通じ、~が地上に降りる際の梯子とする説もある。
伊奘諾尊 伊奘冉尊は、共に計らい、底に”く””に”をつくろうとする。瓊は中国では歌垣などで女が男に果物を投げ、男が投げ返す玉、赤い色をしているそうである。玉は霊に通じる。矛は穂
(ほ)(こ)で元来は~の寄りつく木。易に臣責(ふか)きを探り、隠れたるを索(もと)むとある。滄は寒き海、溟は大海の深く暗いこと、海を滄溟という。滴は水のしずく、もともとは擬声語、瀝も水の流れそそぐ音、また酒を漉(こ)すこと。潮は干満による海水の流れ、塩と同源。(字統)
想像をたくましくする。伊奘諾尊は矛を手に、伊奘冉尊は瓊を手に、共に手をとりあって、伊奘諾尊は矛を下ろし、伊奘冉尊は瓊を指し示す。すでに生まれた尊たちの霊力は片や矛に、片や瓊に集い、渾沌とした下の世界のなかを探る。すると”かきさぐる”矛の振動と熱、射し込む”ぬ”の光により、全体が揺れ動きはじめ、水分が解き放たれ青暗い海があらわれる。矛先に滴だたり、流れるものが潮の流れを生み、がらごろと凝りかたまったものが一つの嶋となる。これを名つけて”おのごろしま”と申された。衝動力と展開力が総動員されたことであろう。注に”おの”は自ら、”ごろ”は凝るとある。しかし、
石殷は雷の音、馭は馬に鞭あてること、慮は盧(黒い、酒甕)に通じる。轟音をたてつき固めた黒々とした~聖なる隆起。ニ~は、そこに降り立ち、共爲夫婦をし、洲(くに)(つち)を産もうとされた。すなわち、石殷馭慮島を國の中の柱とされた。
このような想像は古事記に使われている漢字からは成立しない。書紀においては、中国人が読んで思い当たる義のある漢字を選択している。陽~、陰~、少男、婦人、少女、滄溟
滴瀝、石殷馭慮、これは書紀の特徴とされている。
しかし、譲れない表現がある。柱 此云美簸旨邏。日本では、柱に特別な意味があると注意する。この嶋は柱である、伊奘諾尊 伊奘冉尊は、これを伝って新しく出来た地上に降りた。この柱を国の中心とし、この柱を巡って、国産みのまぐわいを行なう。新井白石は、”は”を永久の義、”しら”を標柱の義とみた。柱には~が寄りつくので、それは天との通路とする観念があった。
(字訓)という。日本固有の国産みについて語る準備が整った。

互いに”いざなう”気持ちがあり、柱を回り、顔と顔を合わす。はっとした陰~が思わず先に、憙哉、遇可美少男焉。陽~はスばず。道理によれば、これは不詳で、陽~から先に誘うべしと、やり直して陽~から憙哉 遇可美少女焉。そしていきなり、陽~は直截に陰~に、”それは何か”と問うと、”雌を雌となす処”という。それに応えて、”吾が身にも雄を雄となす処がある、これをそれと合わせたいと、交わり夫婦となった。仏教のように生まれることへの業、アダムとイブのように知に目覚め前を隠すという意識もない。
古事記ではすぐに生まれるが、書紀では時至りて産まれる。胞
は乙類で兄に通じる。胞は胎児をくるむ胞衣でもある。”あはぢ”の”あ”は吾、”はぢ”は恥、第一子は生みそこないとする当時の伝承があったと注されている。吾の恥であろうか。淡(あはむ)はうとんじる、路は~が下る路の義。あまり行きたくない洲となったようである。すなわち、大日本豐秋津洲、伊豫二名洲、筑紫洲、億岐洲*、佐度洲*(*は双子)、越洲、大洲、吉備子洲の大八洲國を生む、とした。對馬嶋 壹岐嶋 及處處小嶋は潮の泡、水の泡が凝ったものともいう。蒙古語族には、原初の海洋に泡が出来、この泡からすべての生物、人間、~々が出現したとする伝承があると注されている。
蛙や魚や昆虫の受精、卵子と精子の結実した塊から生命が誕生する様は古代人とて注目し、卵や精液の特別の働きに敬意を抱いたことであろう。柱とは元来この生命の源である塊のごときもの、玉と矛、滴、泡はそれらの関連からイメージしてみた。それはさておいて、書紀の編者は、陽~と陰~の交わりから生まれたのが、大八洲國の日本(耶麻騰)と主張している。中国本土とは異なる原理で生み出された土地であるといいたい。

一書曰 天~(あまつかみ)(かたる)伊奘諾伊奘冉(のたまふ) 有豐葦原(とよあしはら)千五百秋(ちいほあき)瑞穂(みつほ)之地(くに) 宜(のたまふ)(いまし)(ゆく)(しらす)之 廼(すなはち)(たまふ)天瓊戈(あまのぬほこ) 於是 二(ふたはしら)~立於天上浮橋 投(さしおろす)戈求地(くに) 因(よる)(かさなす)滄海(あをうなはら) 而引擧(あぐ)之 戈鋒(さき)(したたる)落之潮 結(こる)而爲嶋 名曰石殷馭慮嶋 二~降(あまくだる)(ます)彼嶋 (みたつ)八尋之殿(やひろのとの) 又(みたつ)天柱(あめのみはしら) 陽~問陰~曰 汝身有何成耶 對(こたふ)曰 吾身具(なる)成而 有稱(いふ)(め)(はじめ)一處(ところ) 陽~曰 吾身亦具成而 有稱陽元一處 思欲以吾身陽元 合汝身之陰元 云爾(しかいふ) 將巡天柱 (ちぎる)曰 妹(いも)(より)巡左 吾當(まさに)右巡 而分巡 陰~乃先唱曰 (あなにゑや) 可愛少男(えをとこ)(を) 陽~後(のち)(こたふ)之曰 哉 可愛少女(えをとめ)歟 遂爲夫婦(みとのまぐはひ) 先生蛭兒(ひるこ) 便(すなはち)載葦船而流(ながしやる)之 次生淡洲(あはのしま) 此亦不以充兒數 故(かれ)還復(かへる)(のぼる)(まうで)於天 具(つぶさに)奏其(ありさま) 時天~ 以太占(ふとまに)而ト合(うらふ)之 乃ヘ曰 婦人(たわやめ)之辭 其已(すでに)先揚乎 宜更還去(いぬ) 乃ト定(うらふ)時日而降之 故二~ 改復巡柱 陽~自左 陰~自右 既遇之時 陽~先唱曰 哉 可愛少女歟 陰~後和之曰 哉 可愛少男歟 然後 同(おなじくす)宮共住而生兒 號(なづく)大日本豐秋津洲 次淡路洲 次伊豫二名洲 次筑紫洲 次億岐三子洲(おきのみつごのしま) 次佐度洲 次越洲 次吉備子洲 由此謂之大八洲國矣 瑞 此云彌圖つ) 哉 此云阿那而惠夜(あなにゑや) 可愛此云哀(え:ア行) 太占 此云布刀(ふまに)

この書では、すでに天~の世界と地の世界があり、天~が伊奘諾尊 伊奘冉尊を豐葦原千五百秋瑞穂之地へ送り出す。豊かな葦の原、ずっと昔から秋に瑞々しい穂が実る湿地へ行き、脩せよ。脩は修に通じおさめること、また、清めること。天瓊戈を賜り、地を求め戈を橋から下ろし、海原を掻き混ぜ戈を引き上げると、戈先にしたたる潮が固まり嶋となる。ここに天下り、八尋
尋:両手を広げた長さ)の殿(~の鎮座する建物)を作り、天柱を堅めた。ここでは両~は衣を纏っていよう。
殿の化作と柱の化竪は大八洲産み、山川海や生物、日~、月~産みより先だって行なわれた。日本においては、柱ばかりか殿もまことに重要なものであるといいたい。

陽~から陰~に問いかけ、陰~に左から巡るようちぎる。しかし、陰~から声をかけて交わると、蛭兒が生まれた。葦で作った船に乗せて流した。次に淡洲が生まれた。これまた兒に数えるに充たなかった。中国南方洪水伝説の地では、兄と妹のみが生き残り夫婦となり子孫を作る。注には具体例として台湾パイワン族の話が収録され、最初は五体満足な子が生まれなかったようである。流産ということもあろう。また、蛭兒が流されて後、再び流れ寄る話しが各地に伝えられているそうでもある。~の世界でこうなのだから、人間の世界では出産不全がもっと多かったことであろう。
この不具合を天に帰ってありのままを報告すると、天~はそれを太占を以って之を合せるをトし、婦人が先に声をかけたためだとヘえる。戻るようにいい、日時を定めるをトして天下す。今度は陽~が左、陰~が右から巡り、陽~から声をかけ、陰~がこれに和し、宮を共にし、住み兒
(みこ)を生むと大八洲國が生まれた。
太占を以ってとは、重要な占いの義。日本の古俗によれば、植物のはな、は、うらに~意があらわれるとし、また、葦をもちいることもあり、これを”うらう””うらなう”といい、ト兆
(骨を焼いて裂ける音や形に~意があらわれる)を”うらはひ”という。太占はト骨を用いるとある。(字訓・字統)ト合之とは交わりを占うこと、ト定時日ともあり、この書では古来日本でも太占を行なっていたと記している。トは殷王朝において行なわれ、十日を一旬となし、旬の最終日、癸に、次の旬の帝の行動を占って(貞旬)、その旬の行動を決めたという。貞旬(卜旬)の他に、卜祭、卜告(先祖の霊に事件行事を告げる)、卜亨祭の後の大宴会)、卜出入(人の出入)、卜田漁(狩と漁)、卜征伐、卜年(稔り)、卜風雨とさまざまな卜占が知られている。(水上静夫:干支の漢字学)対馬を経由して古代中国の卜法が伝えられたという。
左旋右旋は注によれば、芸文類聚白虎通の「天左旋地右旋猶君臣陰陽相対向也」を意識したものとある。左は手に工を持つ、右は手にロ(さい)を持つ字。工は~が隠れるとき、邪霊を塞ぐとき用い、ロは祝詞の器で~を呼び~意を伺うこと。日本語の”ひだり”、”みぎ”の語源は不明とある。(字統)~事には左をとうとび、天照大~は左眼から生まれ、注連縄(しめなわ)は左撚りにする。(字訓)

一書曰 伊奘諾伊奘冉 二~ 立于天霧(あまのさぎり)之中曰 吾欲得國 乃以天瓊矛(あまのぬほこ) 指(さし)(くだす)而探(さぐる)之 得石殷馭慮嶋 則抜(ぬきあぐ)矛而喜(よろこぶ)之曰 善(よし)乎 國之在(ある)

注に霧は息吹、息吹は生命の象徴とある。この書では、ぼんやり暗い中でニ~が”くに”を得たいと思い天瓊矛を指し下し、探りあてたと述べている。

一書曰 伊奘諾伊奘冉 二~ 坐(ます)于高天原曰 當有國耶 乃以天瓊矛(かきさぐる) 成石殷馭慮嶋

この書では、すでに高天原があり、ニ~がそこから、天瓊矛で掻き回して探ると石殷馭慮嶋が出来たという。

一書曰 伊奘諾伊奘冉 二~ 相謂曰 有物若
(ごとし)浮膏(あぶら) 其中蓋(けだし)有國乎 乃以天瓊矛 探成一嶋 名曰石殷馭慮嶋

この書では、浮いた膏のごとき物の中に”くに”が有るように思え、探ると一嶋となったという。上記三書は、”くに”を造りだすよりは隠れていたものを形にして取り出したと考えている。

一書曰 陰~
(めかみ)先唱曰 美哉(あなにゑや) 善少男(えをとこ) 時以陰~先言故(ゆゑ) 爲不祥 更復(また)(あらため)巡 則陽~(をかみ)先唱曰 美哉 善少女(えをとめ) 將合交(みあはせ) 而不知其(みち) 時有鶺鴒(にはくなぶり) 飛來搖(うごかす)其首尾(かしらを) 二~見(みそなはす)而學(ならふ)之 得交(とつぎ)(みち)

注に、”には”は俄か、”くな”は尻、”ぶり”は振る、速く尾を振り動かす鳥、尻振り、尻たたきという観点から名付けられているとある。この書では、鳥から交わる方法を学んだと伝えている。中国古代では鳥は~の使い、風~でもある。

一書曰 二~合爲夫婦
(みとのまぐはひ) 先以淡路洲淡洲爲胞(え) 生大日本豐秋津洲 次伊豫洲 次筑紫洲 次雙(ふたご)生億岐洲與(と)佐度洲 次越洲 次大洲 次子洲(こしま)

淡路洲を胞とし、大日本豐秋津洲 伊豫二名洲 筑紫洲 雙億岐洲與佐度洲 越洲 大洲 吉備子洲の順(A)で生まれるのが書紀の認定順である。一書曰の第一は蛭子、淡洲が兒に充たず、大日本豐秋津洲 淡路洲 伊豫二名洲 筑紫洲 億岐三子洲 佐度洲 越洲 吉備子洲の順(B)としていた。淡路洲と淡洲は異なる、淡路洲はれっきとした洲で八洲の第二とし、億岐は三つ子で佐渡洲を別とし、大洲をいれていない。
この書では、(A)に近く、淡路洲も淡洲も胞とし、伊豫は一つ、吉備子洲でなく子洲としている。何を意味するのか不明。以下もその相違が意味するところは判らない。


一書曰 先生淡路洲 次大日本豐秋津洲 次伊豫二名洲 次億岐洲 次佐度洲 次筑紫洲 次壹岐洲
(いきのしま) 次對馬洲(つしま)

この書では、淡路洲を胞とすべきでなく最初の洲と位置付け、筑紫洲より先に億岐洲、佐度洲が生まれ、越洲 大洲 吉備子洲でなく壹岐洲 對馬洲であるとする。反骨を感じさせる書である。

一書曰 以
石殷馭慮嶋爲胞 生淡路洲 次大日本豐秋津洲 次伊豫二名洲 次筑紫洲 次吉備子洲 次雙生億岐洲與佐度洲 次越洲

この書では、石殷馭慮嶋を胞としている。ニ~以外に生むものはないのであるから、物語の筋そのものが全く異なる。ここに至るまでの筋書きを見てみたいものである。

一書曰 以淡路洲爲胞 生大日本豐秋津洲 次淡洲 次伊豫二名洲 次億岐三子洲
(おきのみつごのしま) 次佐度洲 次筑紫洲 次吉備子洲 次大洲

この書では、第二に淡洲が挙げられ、筑紫洲の順が低い。異説というより、乱れているとしかいいようがない。

一書曰 陰~
(めかみ) 先唱曰 (あなにゑや) 可愛少男(えおとこ)乎 便(すなわち)(とる)陽~(をかみ)之手 爲夫婦(みとのまぐはひ) 生淡路洲 次蛭兒

この書では、陰~が陽~の手をとって誘ったとしている。

次生(うなはら) 次生川(かは) 次生山(やま) 次生木(き)(おや)句句廼馳(くくのち) 次生草(かや)草野(かやのひめ) 亦名野(のつち) 而伊奘諾伊奘冉 共議(はかる)曰 吾已生大八洲國(おほやしまのくに)及山川草木(やまかわくさき) 何(いかにぞ)不生天下(あめのした)之主(きみたるもの)歟 於是 共生日~ 號(まうす)大日雨口口口女(おほひるめのむち) 【大日雨口口口女貴 此云於保比ロ羊能武智(おほむち) 雨口口口女音力丁反(かへし) 一書云 天照大~(あまてらすおほみのかみ) 一書云 天照大日雨口口口女(あまてらすおほひるめのみこと)】 此子(みこ)光華明(ひかりうるはし) 照(てり)(とほる)於六合(くに)之内 故(かれ)二~喜曰 吾息(こ)雖多(さは) 未有若此靈(くしび)(あやし)之兒 不宜久(ひさし)留此國 自(おのずから)(まさに)(すみやか)于天 而授(さずく)以天上之事 是時 天地(あまつち)相去未 故以天柱(あまのみはしら) 擧(おくりあぐ)於天上(あめ)也 次生月(つき)~ 【一書云月弓(つくゆみのみこと) 月夜見(つくよみのみこと) 月讀(つくよみのみこと)】 其光(ひかりうるはし)(つぐ)日 可以配(ならぶ)日而治(しらす) 故亦之于天 次生蛭兒 雖已(すでに)三歳(みとせ) 脚(あし)不立 故載之於天磐木予象樟船(あまのいはくすぶね) 而順(まにま)風放(はなち)(すつ) 次生素戔嗚(すさのをのみこと) 【一書云 ~素戔嗚(かむすさのをのみこと) 速素戔嗚(はやすさのをのみこと)】 此~ 有勇(いさみ)(たけし)以安(いぶり) 且(また)常以哭(なく)(いさつる)爲行(わざ) 故(かれ)令國内人民(ひとくさ) 多(さは)以夭折(あからさまにしなる) 復使山變(なす)(からやま) 故其父(かぞ)(いろは)二~ 勅(ことよさす)素戔嗚 汝甚無(あづきなし) 不可以君臨(きみたる)宇宙(あめのした) 固(まことに)(まさに)遠適(いぬ)之於根國(ねのくに)矣 遂逐(やる)

海、川、山を生み、木と草に関しては祖を生む。木は地を冒(おほ)ひて生ず、林か森のイメージである。草は元来”のはら”の義、”くさ”の本字は艸。”ち”は風、乳、血、霊、千、自然物がもつ霊的な力。注によれば、”くく”は”きき”の古形、”の”は助詞。”のつち”の”つ”も助詞。”くくのち”は林・森の精、”のつち”は草原の精となろうか。”かや”は”すすき”や”ちがや”や”すげ”などの草。姫は成人した女、彦は成人した男。
伊奘諾尊伊奘冉尊 共議と両尊はいつも共に行なう。洲を生み、山川草木を生んだのであるから、それらの主
(きみ)を生まいでか、と日~を生む。光が生まれ国のすみずみまでが照らされる瞬間である。雨口口口女は雨請いをする巫女(みこ)。日~は女と書紀の編者は考えている。この編纂が持統天皇という女帝のもとで進められていたことも考慮しておきたい。注によれば、太陽を女性とし、月を男性とし、それが兄弟姉妹の関係にあるという観念は極北、亜極北地方、東南アジア・インドことにアウストロアジア語族に多いとある。また、日本では、現実に女王卑弥呼の時代もあった。雨口口口女音力丁反とは、雨口口口女の中国語音は力 li 丁 ding の前と尾を合成し ling とすること。六合は東南西北上下、四方上下の世界。
”おほ”は尊称。”ひる”(昼)は”よる”(夜)”よ”に対することば。昼を管轄する巫女、その光が国のすみずみはもとより、天のすみずみをも照らした。
子、息
(ふえる)、兒(みどりご)を使いわけている。”くし”は人智でははかり知りがたいこと、ふしぎな力をもつもの、酒の異名でもある。”くしび”は~火(新井白石)、靈異(本居宣長)の説がある。(字訓)この子には靈異があるので、この国にとどめず天に送り、天上の事を授けるべしとした。まだ天地があまり離れていなかったので、天柱をつうじて天上に送り挙げた。
次に月~を生む。”つく”は尽きる、月は満ち欠けでなくなるため”つき”と通じる。”よ”は生まれて死ぬまで、”ゆ”は齋で~聖なもの、”み”は甲類なので霊力あるもの。生死を司るイメージがある。日に次ぐ光彩があると、日~に並んで治めさせるべしと、また、天に送った。
蛭兒は”ひるこ”、”ひるめ”の反、本来ならば、昼兒で男性太陽~と書紀の編者は示唆する。注に、
木予象樟は楠、大木となり船をつくるのに適し、弥生から古墳時代にかけて中部から関西にかけて発見されているとある。磐は磐座(いはくら)といって~の宿るところ。三年大事に育てたが脚がたたづ、~が使う船に載せて、棄てる。古代には初生児やまたタブーにふれるとされるときに、その子を棄てる俗があった。周の始祖后稷(こうしょく)の名は棄、はじめ棄てられた子である。(字訓)旧約聖書ではアブラハムは長子を~への生贄とするために山に連れ出す。人間でも家畜や作物と同様に最初にとれたものは、~にお返しし、更なる豊かな恵みを願ったものである。
次に素戔嗚尊を生む。”いさむ”には勇む
(心が奮いたち勢いづく)と諫む(行動を抑制し拒否する)”たけし”悍(雄雄しく勇ましい)”いぶり”は”いふかし”(心の晴れないこと)”いぶせし”(胸がふさがる思い)、”すさぶ”はことの勢いが自然に高まってとどめがたい状態。素戔嗚尊の後の行動からすれば、まさに台風である。自然の脅威の化身といえる。哭(死葬のとき哀哭する。)(儀礼の場に臨んで泣く)と続くのであるから暴風雨である。令國内人民多以夭折 復使青山變枯 故其父母二~ 勅素戔嗚 汝甚無道不可以君臨宇宙 固當遠適之於根國矣 遂逐之は異様。國内人民とは何のことか?国内人民をして若死する多く、また、青山をして枯らしむ。伊奘諾尊伊奘冉尊は勅し、汝は無道であり宇宙に君臨すること不可とし、根の国(黄泉の国)に行かしめた。令、勅、根国というも唐突である。

一書曰 伊奘諾曰 吾欲生御宀禹(あめのしたしらす)之珍(うづ)(みこ) 乃以左手(みて)持白銅鏡(ますみのかがみ) 則有出之~ 是謂大日雨口口口女 右手持白銅鏡 則有出之~ 是謂月弓 又(みぐし)顧眄之間(みるまさかり) 則有化~ 是謂素戔嗚 大日雨口口口女月弓 並是質性(ひととなり)明麗(てりうるはし) 故使照臨天地(あめのした) 素戔嗚尊 是性(かむさが)好殘害(そこなひやぶる) 故令下(くだす)(しらす)根國 珍 此云于圖(うづ) 顧眄之間 此云 美摩沙可梨爾るまさかりに)

”うづ”は高貴で美しく珍しいもの。
白銅鏡は注によれば、銅と白鑞(しろなまり)の合金、正倉院文書天平六年造仏所作物帳に径四寸の白銅の鏡を銅一斤、白鑞四両で作ったとある。左手に白銅鏡を持ち天下を治める珍子を生もうとすると大日雨口口口女尊、右手に持つと月弓尊が現われる。左が上位であり、鏡の霊力で日~、月~が生まれたとする。
顧は鳥占いをして~意を伺うが原義、~の啓示するところを視て反省する、眄は正視しないで片目でみる。
(字統)首を回し、之を顧眄する間、之が何か判らないが、まずいなと思いながら横目でみると素戔嗚尊が現われた。

一書曰 日月(ひつき)生 次生蛭兒 此兒年滿三歳(みとせ) 脚(あし)不立 初伊奘諾 伊奘冉 柱之時 陰~先發(あぐ)喜言 既違(たがふ)陰陽(めを)之理(ことわり) 所以(このゆゑ) 今生蛭兒 次生素戔嗚 此~性(かむさが)(さがなし) 常好哭(なく)(ふつくむ) 國民(くにのひとくさ)(さは)死 山爲枯(からやま) 故其父母(かぞいろは)勅曰 假使(たとひ)汝治(しらす)此國 必多(おほし)所殘(そこない)(やぶる) 故汝可以馭(しらす)之根國 次生鳥磐木予象樟船 輙(すなはち)以此船載蛭兒 順(まにまに)(みづ)(はなち)棄 次生火~ 軻遇突(かぐつち) 時伊奘冉尊 爲軻遇突智 所焦(やく)(かむさる)矣 其且之間 臥(ふす)生土~(つちのかみ)埴山(はにやまひめ)及水~(みづのかみ)罔象女(みつはのめ) 即軻遇突智娶(まく) 埴山 生稚(わくむすひ) 此~頭(かしら)上 生(なる)(かひこ)與桑(くわ) 臍(ほそ)中生五穀(いつくさのたなもの) 罔象 此云美都波つは)

恚は恨みにおもうこと。この書では極めて遠い根の国という。鳥磐
木予象樟船、注に南ボルネオでは鳥の首尾をつけた船で死者の霊を送るとある。中国では風~、~の使者でもあった。
”かぐつち”は”かがよふ”
火玄”かがり”(篝)のkag-を共有する語で”つ”は助詞”の”、”ち”は勢威と注されている。伊奘冉尊は火~を生み、焼かれて死ぬ。臥は天上より下界を望み監るが原義、死ぬ間際に火~に目をやって土~と水~を生む。”はに”は黄色、赤色の粘土、瓦や陶器の原料となる、また、衣にすりつけて染料とした。”や”は八、矢、屋 ”ま”は間、真。”みつは”は”みつち”でもあり、注によれば、中国では姿の見えない水中の怪物。少児、赤黒色、赤爪、大耳、長臂。水の精とされる。蛟(みつち)は龍の属で角のないもの。娶(まく)は、妻として抱く義。火~と土~から稚産靈が生まれ蚕と桑、五穀が生まれたことは、焼畑などによる農業の起源と注されている。伊奘冉尊はこの光景を見届けて死んだのであろう。
”わく”は若いこと。”むす”は蒸
(暖気や湿気でふえる)、生(草木がはえる)でもあり、”ひ”は霊力、生成する力である。蚕と桑は~衣、祭衣を作るために農耕と並び重要視されてきた。日本でもまず蚕と桑が先で、五穀を次いで生んだといいたい。

一書曰 伊奘冉 生火(ほむすひ)時 爲(ため)子所焦 而~退(さる)矣 亦云 ~(さる) 其且~退之時、則生 水~罔象女及土~埴山 又生天吉艸曷(あまのよさつら) 天吉艸曷 此云 阿能與佐圖羅(あまのよさつら) 一云 與曾豆羅よそつら)

この書では”かぐつち”は”ほむすひ”という。火~が種々のものを生むと注されている。終、退、避が同義という。”つら”は蔓
(かずら)根から澱粉を製する農耕以前の食糧の代表注されている。葛は山野に自生する蔓草であるが、蔓草の類には一種の~聖感があり、古くは祭祀の服に用いたとある。(字統)曾は乙類で衣に通じる。天吉がついているのは天よりさづかっためでたいの義となろうか。

一書曰 伊奘冉 且生火~軻遇突智之時 悶熱(あつか)(なやむ) 因爲吐(たぐり) 此爲~ 名曰金山(かなやまひこ) 次小便(ゆまりまる) 爲~ 名曰罔象女 次大便(くそまる) 爲~ 名曰埴山媛

この書では伊奘冉尊は火~の熱に悩まされ吐き出したのが金という。金”かね”とは鉱物の総称で”こがね”、”あかがね”、”しろがね”、”くろがね”等々と区別される。”まる”は排泄すること。小便から水~、大便から土~が現われたという。姫と媛は通じる。

一書曰 伊奘冉 生火~時 被灼(やく)而~退去矣 故葬(はぶる)於紀伊國(きのくに)熊野(くまの)之有馬村(ありまのむら)焉 土俗(くにひと)祭此~之魂(みたま) 花時亦以花祭(まつる) 又用鼓(つづみ)(ふえ)幡旗(はた) 歌(うたふ)(まふ)而祭矣

この書は伊奘冉尊は有馬村に葬られ、魂を祭るに花の時には花をもって、また、鼓や笛を用い、旗をたて、歌い舞って祭るという。注によれば、熊野市有馬の海浜に花の窟という巨岩があり、毎年ニ月、十月に注連縄を懸け、~官や村人が花を供えるとある。出雲の国とする説もあるそうだ。

一書曰 伊奘諾(と)伊奘冉 共生大八洲國(おほやしまのくに) 然後 伊奘諾曰 我所生之國 唯(ただ)有朝霧(あさぎり)而 薫(かをり)滿之哉 乃吹(ふく)(はらふ)之氣(いき) 爲~ 號曰 級長戸邊命(しなとべのみこと) 亦曰級長津(しなつひこのみこと) 是風~(かぜのかみ)也 又(やはす)時生兒(みこ) 號(まうす)倉稻魂命(うかのみたまのみこと) 又生~(わたつみのかみ)(たち) 號少童命(わたつみのみこと) 山~(やまのかみ)等號山(やまつみ) 水門~(みなとのかみ)等號秋津日命(はやあきつひのみこと) 木~(きのかみ)等號句句廼馳(くくのち) 土~(つちのかみ)號埴安~(はにやすのかみ) 然後 悉(ふつく)生萬物(よろずのもの)焉 

この一書は古事記に近い内容で、書紀と基本的に異なり、天照大~、月読尊、素戔嗚尊が伊奘冉尊の死後、黄泉から戻った伊奘諾尊の禊から誕生していると注されている。どうみても、伊奘諾伊奘冉両尊の事業と苦悩は天照大~をはるかに凌駕している。洲産みでの淡路、統治者を生むに際しての蛭子、素戔嗚尊、いづれも難儀であるが、書紀では両尊の兒としている。実際、皇位の継承において、精~や身体に異常のある御子の存在は避けて通れない問題であった。書紀は両尊を日本の国生みの始祖とした。そうすべきと決断したのであろう、しかし、後世、伊勢信仰の普及により天照大~が中核となった。書紀の編者にすれば驚くべき事後の歴史の展開である。

書紀では両親が共に洲を生み、~を生むが、この一書は、洲を生むのは両~であるが、~を作り出す主役は伊奘諾尊という。大八洲国を生み、伊奘諾尊は、生んだ国には朝霧のみあっていい薫りがする、と息を吹きはらう。とその気が~
(級長戸邊命)となった。”し”は息、風、”しな”は息長(おきなが)でもある。古事記の志那都比古(しなとひこ)が級長津彦にあたるので級長津(しなつ)となり風の男~、級長戸邊(しなとまべ)は風の女~と注される。古事記を無視すれば、級は”しな”であり級長は”しななが”、息長かもしれない。”やはし”は飢えて気力を失いやわらかくなると注される。倉稻魂は宇介能美手宀ヒ麿(うかのみたま)と後にでてくる。”うか”が転じて”うけ”槽、穀物を容れておく桶、となる。倉稻と漢字をあてており、食糧を蓄える霊力のある~となろうか。次ぎに海~等、少童(わたつみ)は晋の木華(もっか)の海の賦(ふ)にみえる語で李善(りぜん)注に海~なりとあるそうだ。海は中国では四海といい中国を取り巻く晦冥の世界(死者の国)。死の汚穢を清めてくれる海とみなされ、屍を船に載せて流し棄てる俗があった。(字訓)次ぎに山~等、山祇(やまつみ)の祇は、万物を提出する地の~であるが元来土地の~は社。水門(みなと)は舟の出入りする河口や入りこんだ湾や海峡、”はや”速はまねく、すみやか、”あき”秋は稲の収穫、それで生計をたてるので商うに通じる。(字訓)”つ”は助詞、”ひ”は霊力。交易の~であろうか。木~等句句廼馳、土~埴安~、その後、悉く万物を生む。伊奘諾尊一人の仕事としている。

至於火~軻遇突
(かぐつち)之生也 其母(いろは)伊奘冉 見焦而(かむさる) 于時 伊奘諾恨之曰 唯以一兒(このひとつぎ) 替我愛(うるはし)之妹(なにものみこと)者乎 則匍匐(はらばひ)頭邊(まくらへ) 匍匐脚邊(あとへ) 而哭(なく)(いさつ)流涕(かなしむ)焉 其(なみだ)(おちる)而爲~ 是畝丘(うねを)樹下(このもと)所居之~ 號(なづく)啼澤女命(なきさはのめのみこと)矣 遂抜(ぬく)所帶(はかす)十握劒(とつかのつるぎ) 斬(きる)遇突智爲三段(みきだ) 此各成~也 復劒(そただる)血 是爲天安河邊(あまのやすかはら)所在五百箇磐石(いほついはむら)也 此經津主~(ふつぬしのかみ)(おや)矣 復劒(つるぎ)(つみは)垂血 激越(そそく)爲~ 號曰甕日~(みかのはやひのかみ) 次火革大日~(ひのはやひのかみ) 其甕日~ 是武甕槌~(たけみかつちのかみ)也 亦曰甕日命(みかはやひのみこと)  次火革大日命(ひのはやひのみこと) 次武甕槌~ 復劒鋒(さき)垂血 激越(そそく)爲~ 號曰磐裂~(いはさくのかみ) 次根裂~(ねさくのかみ) 次磐筒男命(いはつつのをのみこと) 一云 磐筒男命及磐筒女命(いはつつのめのみこ) 復劒頭(たかみ)垂血 激越爲~ 號曰闇雨ロロロ龍(くらおかみ) 次闇山(くらやまつみ) 次闇罔象(くらみつは) 

ここで伊奘冉尊が登場したかと思うと、火~を生んで死ぬ。この一兒のかわり愛はしい妹(妻)を失い、伊奘諾尊は、枕辺にはらばい、脚辺にはらばい哭泣流涕(かなしむ)。落とした涙が~となる。畝丘樹下は小高い丘の木下の義であるが、”うねをこのもと”という地名とみる説がある。橿原市木之本町の泣沢~社と注される。中国では澤は渡り鳥の飛来する湿地、鳥は~の使者、辟雍(へきよう)は~都とされた。(字訓)伊奘諾尊は所帯する十握劒(1握8〜10cm)で火~を三段に斬ると、それぞれが~となった。~名は不詳。剣の刃から垂れる血が天安河邊の五百箇の磐石、經津主~(ふつぬしのかみ)の祖先である。”やす”は”やせ”八瀬の転、瀬の多い河の川辺の数多くの岩。”ふつぬのみたま”師霊という剣名があり、”ふつぬ”は剣でたち切る擬声語という。(字訓)剣の鐔(つば)から垂れる血が飛び散って~となる。”いかづち”は雷~”いか”は厳かしい”つ”は助詞”ち”は霊妙なるもの。”たけ”は雄雄しく力あること。武甕槌~は力強き雷~、その祖が甕速日~。”いか”を速やかにまねく”ひ”。火革大は燃える火、焼くこと、落雷のことか。剣の切先から垂れる血が飛び散って~となる。注によれば、雷が岩を割く、根を割く、岩粒に砕くこと。”つつ”は粒の古語。剣の頭から垂れる血が飛び散って~となる。”おかみ”は竜蛇の形の水の~で雲や雷を司る。”くら”は暗がりにひっそりこもること。山祇、罔象は既に見たとおりである。

然後 伊奘諾 伊奘冉 入於黄泉(よもつくに) 而及(しく)之共語 時伊奘冉曰 吾夫君(あがなせ)(みこと) 何來(いでます)之晩(おそく)也 吾已(すでに)水食泉之竈(よもつへぐひ)矣 雖然 吾當(ねやすむ) (こふ)(なみまし) 伊奘諾不聽 陰(ひそかに)取湯津爪(ゆつつまぐし) 牽(ひく)(かく)其雄柱(ほとりは) 以爲秉炬(たひ) 而見之 則膿(うみ)(わく)(うじ)(たかる) 今世人夜忌一片之火(ひとつびとぼす) 又夜忌擲(なげぐし) 此其(ことのもと)也 時伊奘諾 大驚之曰 吾不意(おもふ)到於不須也凶目(いなしこめ)汚穢(きたない)之國矣 乃急(すみやか)(にげかへる) 于時 伊奘冉恨曰 何不用要(ちぎる)言 令吾恥辱(はぢ) 乃泉津(よもつ)醜女(しこめ)八人(やひと) 一云 泉津日狹女(よもつ 留之 故伊奘諾 劒背(しりへで)(ふく)矣 因投K鬘(くろきみかづら) 此即化成蒲陶(えびかづら) 醜女見而採ロ敢(はむ)之 ロ敢(をはる)則更(また) 伊奘諾 又投湯津爪 此即化成筍(たかむな) 醜女亦以ロ敢之 ロ敢了則更 後則伊奘冉 亦自(みづから) 是時 伊奘諾 已到泉津(ひらさか) 一云 伊奘諾 乃向大樹放尾水(ゆまり) 此即化成巨川 泉津日狹女 將渡其水之間 伊奘諾 已至泉津坂 故便(すなはち)以千人所引(ちびき)磐石(いは) 塞(ふさぐ)其坂路(さかぢ) 與伊奘冉相向而立 (わたす)妻之誓(ことど)

然る後、伊奘諾尊は伊奘冉尊を追い、黄泉に入り、追いつき並び共に語る。伊奘冉尊は夫に何故来るのが遅れたのか?黄泉の国で食を供にした。といえども・・・眠くなったので寝ますが見ないでほしいという。”へ”竈はもと~聖な供餐の義で竈(かまど)の~となる。”よみ”は古くは”よも”、予母、余母、誉母、豫母、)(は共に乙類。yomo yomi yami が通じる。中国ではあの世を泉世、泉下、黄泉という。黄は五行説の土色、中央の色、黄帝を中央の帝とみる天子の位でもある。黄泉は中央の泉下。水は天から降るもの、地下から湧く泉が泉下に通じる。注に底本冫食水食に改めたとある。冫食夕食で食物を噛んで食べる、夕食をたべること。水食は餐(供餐)とある。然る後でなく、すぐに来てくれれば泉之竈を水食さなかったのに。この遅れが致命傷という。
伊奘諾尊は伊奘冉尊の願いを聴かず、ひそかに湯津爪の櫛を取り、そのはしの櫛歯をひっかいて松明にして伊奘冉尊をみると、膿が沸き蟲が蠢
(うごめ)いていた。”ゆつ”は”いつく”齋に通じ、”つま”は物の両側面、それで一組なもの、夫からつまは妻、妻からつまは夫、双方が”わがつま”となる。両尊で一対となる~聖な櫛。とみたいが爪とあるのは鳥の爪、何本も爪が並んでいるイメージであろう。炬は松明、秉は禾の束。今世の人夜に一片の火を忌み、また、夜櫛を投げるを忌む縁なり(理由)と注を加える。伊奘諾尊は大いに驚き、不用意に嫌な凶悪な隙間、汚く穢れた国に来てしまった、と急ぎ逃げ帰る。”いな”はもと嫌悪の情を示す語。”しこ”は頑強、愚鈍、醜悪であるが凶をあてている、”め”に目をあてており、つぎめ、結び目で穴のようなところ。不須也凶目、須は鬚のことであるから、鬚がなく凶悪な目の義。
その時、伊奘冉尊は恨みをもち、約束した言は何の用もなさず、私を辱しめたといい、泉津醜女八人(泉津日狹女
と云う書あり)を遣って伊奘諾尊を追い留めようとした。注に”ひさめ”の意味不明とある。この女(め)の行動からすれば、”ひさ”は比左、瓠、腹が瓠のように膨れたとみてはどうか。伊奘諾尊は剣を抜き、後ろを拂い逃げる。”しり”尻”へ”辺”て”方と注される。”ふく”は”ふつ”拂、揮も”ふつ”。伊奘諾尊がK鬘を投げると蒲陶となり、醜女それを見て採って噛み、噛み終わるとまた追う。湯津爪櫛を投げると、筍になり、醜女それを抜いて噛み、噛み終わるとまた追う。その後は伊奘冉尊自ら来て追う。植物のつるや緒に玉などを通して髪に巻き飾りとしたのが鬘。葡萄は漢の武帝の時代に西域から伝えられた。注に筍は”たか”竹”む”身”な”菜とある。
この時、伊奘諾尊は既に泉津平坂に至り、ある書では、伊奘諾尊は大樹に小便を放ちこれが巨川となり泉津日狹女が水を渡る間に伊奘諾尊は泉津平坂に至り、千人所引磐石でその坂道を塞いだという。”ひら”は開く”さか”は境界の義、黄泉の国を開く境に千人引きの巨岩を置く。伊奘冉尊は相向かって立ち、古事記では”事戸
(ことど)を渡す”それは妻の誓を絶つこと、それを遂に建(さだめ)た。日本では女尊から建絶妻之誓が行なわれたという。どうもいつも伊奘冉尊が先手を打つ。

時伊奘冉曰 愛
(うるはし)也吾夫君(あがなせのみこと) 言如此 吾當縊(くびる)(ころす)汝所治國民日將千頭(ちかうべ) 伊奘諾 乃報(こたふ)之曰 愛也吾妹(わがなにものみこと) 言如此 吾則當日將千五百頭(ちかうべあまりいほかうべ) 因曰 自此(これより)(なすぎそ) 投其杖(みつゑ) 是謂岐~(ふなとのかみ)也 又投其帶(みおび) 是謂長磐~(ながちはのかみ) 又投其衣(みそ) 是謂煩~(わづらひのかみ) 又投其褌(はかま) 是謂開囓~(あきくひのかみ) 又投其履(くつ) 是謂敷~(ちしきのかみ) 其於泉津平坂 或所謂泉津 不復別有處所 但臨死(まかる)(いきたゆ)之際(きは) 是之謂歟 所塞(ふさぐ)磐石(いは) 是謂泉門(よみど)塞之大~也 亦名坂大~(ちがへしのおほみかみ)矣 伊奘諾尊既還 乃追悔之曰 吾前(さき)到於不須也凶目(いなしこめ)汚穢(きたなし)之處 故當滌(あらふは)(うつ)吾身之濁穢(けがらはしきもの) 則往至筑紫日向小戸(をど)(たちばな)之檍原(あはきはら) 而祓(みそぐ)(はらふ)焉 

その時伊奘冉尊が申された。あなたを愛しいといえば、汝の治める国の民日に千の首を絞め殺す事になる。伊奘諾尊はこれにこたえて、あなたを愛しいといえば、日に千五百の頭を産むと申された。”えをとこ”、”えをとめ”といざないあって洲を産んだ両尊のことばの意味が通じ合わなくなった。伊奘諾尊はここよりこちらには通り来るなと伊奘冉尊に申し渡し、杖を投げた。これを岐~という。杖は喪礼に用い喪中を杖期という(字統)注に杖は根のついた樹木、豊饒の霊力を示し、それが陽物の勢能と混合一され、部落の入口や岐路に立てられ邪悪なものの侵入を防ぐ、また、”ふなと”は”くなと”来(く)(な)禁止の義で”と”は通路とある。投げた帶が長道磐~、衣が煩~、褌が開囓~、履が道敷~となる。”ながちは”の”ち”は古語では道とか方向をさす。(字訓)”は”は注に不明とある。磐をあてており帯は長い道の岩となろうか。”みそ”の”そ”は甲類が麻、乙類が衣、衣にはそれを着ている人の気持ちが乗り移るとされる。伊奘諾尊のこの時の気持ちが煩わしいものであった。褌は”はく”穿く、”ま”は裳”も”で、男子の着用するのは股が分かれて膝のあたりで結ぶ。注に”あきくひ”の義不明とある。”くつ”の材料はいろいろあるが、履は糸を編んで作った糸ぐつ。”しく”で敷は社樹を植えてその支配を確立し広める、領(し)くに通じる。(字訓)黄泉で付いた凶を捨て去るために身の回りのものをすべて脱ぎ捨てた。
泉津平坂において、(あるいは泉津平坂というはまた別せず、あるところは、ただ死に臨んで息絶える際にこれを謂うのであろうか)、塞ぐ岩、これを黄泉の戸を塞ぐ大~、また道坂大~と名す。
”ちがへし”坂は”かへる”と訓じる。黄泉との境で通行を司る。伊奘諾尊は既に帰り、追うて(ある目的に向かう、およぶ)悔いて申された。前に不須也凶目汚穢之處に至る。吾が身の濁穢を洗い去るに、筑紫の日向、小戸檍原に行き祓除す。注によれば、”ひむか”は朝日の射す所、”をど”は小さい水門、檍は大は棺椁小は弓に用いる”もちのき”とある。橘は”みかん”。中国では古くから生命の樹としての信仰があった。(字統)ただ、こういう漢字をあてただけで、場所は特定できない地名である。”みそぎ”は”み”からだ”そく”さまたげとなるものを取り除く、ここでは水で洗い流すこと。

將盪滌
(すすぐ)身之所汚(きたなきもの) 乃興言(ことあぐ)曰 上瀬(かみつせ)是太(はなはだ)(はやし) 下瀬(しもつせ)是太弱(ぬるし) 便(すなはち)(すすぐ)之於中瀬(なかつせ)也 因以生~ 號曰八十枉津日~(やそまがつひのかみ) 次將矯(なほす)其枉(まがる)而生~ 號曰~直日~(かむなほひのかみ) 次大直日~(おほなほひのかみ) 又沈(かづく)(すすぐ)(わた)(そこ) 因以生~ 號曰底津少童命(そこつわたつみのみこと) 次底筒男命(そこつつのをのみこと) 又潜(かづく)濯於潮(しほ)中 因以生~ 號曰中津少童命(なかつわたつみのみこと) 次中筒男命(なかつつをのみこと) 又浮(うく)濯於潮上 因以生~ 號曰表津少童命(うはつわたつみのみこと) 次表筒男命(うはつつのをのみこと) 凡(すべて)有九(ここのはしら)~矣 其底筒男命中筒男命表筒男命 是住吉大~(すみのえのおほかみ)矣 底津少童命中津少童命表津少童命 是(これ)阿曇連(あづみのむらじ)(ら)所祭(いつきまつる)~矣 

遂にまさに身の汚き所をすすぎ、すなわちことをあげて
(言葉を発して)申された。上瀬の流れは速すぎる、下瀬の流れはゆるすぎる。すなわち、中瀬においてすすぐなり。よりて生まれる~を八十枉津日~と名づけて申された。その”まが”を直すと~が生まれ~直日~、次ぎに大直日~と名づけて申された。”まがこと”禍、枉、曲は直(なほす)に対する語で、邪悪なこと。枉は木が枉曲をいう字であるが悪霊の憑く義を含む。(字訓)”やそ”多くの”まが”枉”つ”助詞”ひ”霊力のある~が生まれ”まが”がとれると~直日~が生まれる。伊奘諾尊は遂に決断をして言葉を発する。それを言い行なえば、もう伊奘冉尊とつながるものはそがれ、永遠の訣別となる。
中瀬から海に飛躍してめんくらう。しかし、”わた”海は”うみ”、居
(う)と同根で流れる水に対して動かざる水で池、湖を含む。海を”しほうみ”という。また、賀茂真淵”わた”は渡が語根という。(字訓)海底に沈んですすぐと底津少童命、底筒男命が生まれる。少童はすでに見たように晋の木華の「海の賦」に海~としてあらわれる。”つつ”筒は星で航海の際オリオン座中央のカラスキ星、参宿を目標としたとされる。”そこつ””わたつ””そこつつ”は賀茂真淵のように”渡”を語根とみるのが自然。筒は中空のものである、水中の空洞、或いは水の粒、泡として人を渡すとイメージする。”しほ”潮は満ち干による海水の流れであるからどうも海を想定している。そこで潜りすすぐと中津少童命、中筒男命、潮に浮いてすすぐと表津少童命、表筒男命が生まれる。
底筒男命、中筒男命、表筒男命は住吉大~、底津少童命、中津少童命、表津少童命は阿曇連の祭る~と縁起を述べている。”すみ”は平面地域のはずれの奥まったところ、”え”は海や湖などの入りこんだところ、深く水をたたえて船などの入りうるところ。
(字訓)住吉大社は航海の~とされたため、筒が星と解釈される所以である。しかし、航海は渡すことが根となるべきであろう。底中表は潜水、釣り、網での漁と解釈されるようで漁労の~でもある。阿曇は連(むらじ)の位をもち海上交通路の要所を掌握していた。”あづみ”は”あまつみ”海人津見の転で少童”わたつみ”綿津見三~を祭~として祭ってきた。阿曇磯良が~功皇后の三韓出征の時、亀に乗って加勢した話しが伝えられている。海人の国

然後 洗左眼(みめ) 因以生~ 號曰天照大~ 復洗右眼 因以生~ 號曰月讀 復洗鼻 因以生~ 號曰素戔嗚 凡三(みはしら)~矣 已而伊奘諾 勅任(ことよさす)(みはしら)(みこ)曰 天照大~ 可以治高天原也 月讀尊者 可以治滄(あをうなはら)(しほ)之八百重(やほへ)也 素戔嗚尊者 可以治天下(あまのした)也 是時素戔嗚 年已長(おいる)矣 復生八握鬚髯(やつかひげ) 雖然不治天下 常以啼(なく)(いさつ)恚恨(ふつくむ) 故伊奘諾問之曰 汝(いまし)何故恆(つねに)啼如此耶 對(こたう)曰 吾(やつがれ)欲從母(いろはのみこと)於根國  只爲泣耳 伊奘諾 惡(にくむ)之曰 可以任(ままに)(こころ)行矣 乃(やらいやる)

然る後、左眼を洗うことにより天照大~、また右眼を洗うことにより月讀尊、また鼻を洗うことにより素戔嗚尊、三柱の~を生み、伊奘諾尊がその統治の役割を決めたという。中国では、天と地が分かれ、これを一万八千年、九万里の高さになるまで成長し天地を支えた盤古が死んだとき、その左目が太陽、右目が月、毛と髭が天上の星となったという伝説がある。天照大~は高天原を、月讀尊は滄海原潮之八百重を素戔嗚尊は天下を治(しら)すべしと。この時素戔嗚尊は年すでに長じ、八握鬚髯(足にとどくほどの鬚)をはやしていたが天下を治めず、常に啼泣し、恚恨んだ。伊奘諾尊が何故いつもかく泣くのかと問うと、根の国の母に従いただ泣くのみと対えた。伊奘諾尊はこれを悪み、情のままに行くべしと放逐した。
書紀公式見解では伊奘諾尊伊奘冉尊 共議して、天下之主者を生むとして三~を生み日~(大日
雨口口口女貴、天照大~)を天にあげ天上の事を授け、月~(月讀尊)も天にあげ一緒にならべた。まだ、天地一体で”あめのした”である。一書曰、一書曰で公式見解は波間に漂い、こんがらがってくる。
この書では、然る後、つまり、祓除を終えた伊奘諾尊の目鼻から世界を治
(しら)す~が生まれたという。それらの~は、死んだ妹(妻)を愛(いとし)み迎えに黄泉に行き、穢れを持ちかえることが出来ないと悟り、妹の国との交通を遮断し、祓除により完全に妹と縁を切ることで生まれた。伊奘諾尊は愕然としたであろうが、逃げ帰るにはそうするしかなかった。その結果、末子に会う事のできぬ母を追い、素戔嗚、”すさび””なく”子が生まれることになった。伊奘諾尊は、さぞ苦しんだことであろう、どうすることもできず素戔嗚尊に思い通りにさせるために放逐した。

一書曰 伊奘諾 抜劒斬軻遇突(かぐつち) 爲三段(みきだ) 其一段是爲雷~(いかづちのかみ) 一段是爲大山祇~(おほやまつみのかみ) 一段是爲高雨ロロロ龍(たかおかみ) 又曰 斬軻遇突智時 其血激越(そそぐ) 染於天八十河中(あまのやそのかはら)所在五百箇磐石(いほついはむら) 而因成~ 號曰磐裂~(いはさくのかみ) 次根裂~(ねさくのかみ) 兒磐筒男~(こいはつつのをのかみ) 次磐筒女~(いはつつのめのかみ) 兒經津主~(こふつぬしのかみ) 倉稻魂 此云宇介能美手宀ヒ(うかたま) 少童 此云和多都美(わたつ 頭邊 此云摩苦羅陛(まくら 脚邊 此云阿度陛(あとへ 火革大火也 音(こゑ)而善反 雨ロロロ龍 此云於箇美(おか 音力丁反 吾夫君 此云阿我儺勢(あがなせ) 水食泉之竈 此云譽母都俳よも 秉炬 此云多妃(た 不須也凶目汚穢 此云伊儺之居梅枳枳多儺枳(いなしこききたな 醜女 此云志許賣(しこ 背揮 此云志理提爾布倶(しりでにふく) 泉津坂 此云余母都比羅佐可よもらさか) 尸水尾 此云愈(ゆまり) 音乃弔反 妻之誓 此云許等度(こ 岐~ 此云布那斗能加微(ふな 檍 此云阿波岐(あは

前書では軻遇突智を三段に斬った時の~は不明であったが、ここでは雷~、大山祇~、高雨ロロロ龍前書では闇雨ロロロ龍)という。火と剣、怒りから雷~、山~、水~(竜~)が生まれるとみた。この書では血が天八十河中の五百箇磐石を染め、染まった岩が~となり号(なづ)けて磐裂~、根裂~、兒磐筒男~、磐筒女~、兒經津主~ともうすという。兒はみどりごのことであるから、~として現われたものと赤児として現われたものがあるという説となろう。
”いは”磐
(上に物を載せるようないは:~事を行なう)、岩(累々と積まれたいは)、厳(崖下のいは:~事を行なう)、礫(砕かれたいは)”いし”石(大小をとわずいしの類)、”いそ”磯(水辺、水中のいし:~事を行なう)、”いさご”砂(小さないし)、沙(水辺、ス中の小さないしや貝殻)物理的な石でもあるが元来の字義は崖岸(がいがん)をさす”厂”と祝詞を収める器”口”からなり、祭祀の場所であることを示す(字訓)とされる。天八十河の”いはむら”石群といえば、それすなわち、~々を祭る場所の集合体である。
この後は、音を説明している。
火革大jen 雨ロロロ龍rhou 尸水尾nhou とでもなるのか?注に妣(甲類)を妃(乙類)に改めたとある。火や光の”ひ”は乙類、日や霊の”ひ”が甲類。枳は岐に通じるとあるから甲類か?

一書曰 伊奘諾尊 斬軻遇突智命(かぐつちのみこと) 爲五段(いつきだ) 此各成五山(やまつみ) 一則首(かしら) 爲大山(おほやまつみ) 二則身中(むくろ) 爲中山(なかやまつみ) 三則手(て) 爲麓山(はやまつみ) 四則腰(こし) 爲正勝山(まさかやまつみ) 五則足(あし) 今酉隹(しぎやまつみ)  是時 斬血激灑(そそぐ) 染於石礫(いしむら)樹草(きくさ) 此草木(くさき)沙石(いさご)自含火之也 麓 山足(ふもと)曰麓 此云簸耶(はやま) 正 此云娑柯(まさか) 一云左柯豆(まさかつ) 今酉隹 此云之伎(し 音烏含反

この書では軻遇突智に命(みこと)を付けている。五段に斬り、各々山祇とこちらは~を付けていない。こうするのが筋といわんばかりである。火~が斬られ山~となった。首(頭)が大山祇、身中(むくろ:胴体)が中山祇、手が麓山祇、腰が正勝山祇、足が今酉隹山祇となった。血がそそぎ石礫、樹草を染め、草木、沙石が火を含むことになったという。山祇~は山の~で、山の頂きから麓の下まで、それぞれの分掌があると説明している。注に”まさか”は真坂とある。正勝が麻娑柯で真坂となるそうだ。火を含むは燃えること、沙石は燃えないので隣と注されている。ともに、しっくりしない説である。今酉隹はchanか。

一書曰 伊奘諾 欲(おもほす)見其妹(いろも) 乃到殯斂(もがり)之處 是時 伊奘冉 如生(いけりしとき) 出共語 已而謂伊奘諾曰 吾夫君(なせのみこと) 吾矣 言訖(のたまふことをはる)忽然不見 于時闇也 伊奘諾 乃擧(ともす)一片之火(ひとつび)(みそなはす)之 時伊奘冉 脹滿太高(はれたたふ) 上有八色(やくさ)雷公(いかづち) 伊奘諾 驚而走(にげ)(かへる) 是時 雷等(いかづちども)皆起來 時(ほとり)有大桃樹  故伊奘諾 隱其樹下 因其實 以擲(なげる) 雷等皆退(しりぞく)矣 此用桃(ふせぐ)鬼之也 時伊奘諾 乃投其杖曰 自此(ここより)(このかた) 雷不敢來 是謂岐~(ふなとのかみ) 此本號曰來名戸(くなと)祖~(さへのかみ)焉 所謂八(やくさ)雷者 在首(かしら)曰大雷(おほいかづち) 在胸曰火雷(ほのいかづち) 在腹曰土雷(つちのいかづち) 在背(そびら)曰稚雷(わかいかづち) 在尻(かくれ)曰K雷(くろいかづち) 在手曰山雷(やまつち) 在足上曰野雷(のつち) 在陰(ほと)上曰裂雷(さくいかづち)

殯斂は古代中国では屍体が風化するのを待つ期間の儀礼、礼制では天子七日、諸侯五日、他は三日以下。殯祭が終わると死者は賓として扱われる。殯斂之處とは殯屋、板屋ともいう。”もがり”は喪あがり、その霊が身から遊離して高く天に上がる。(字訓)生平は平生、平常、史記陳余伝「泄公労苦 如生平驩」が出典と注にある。伊奘諾尊が殯屋の伊奘冉尊に会いにゆくと、生きていたときのように伊奘冉尊は伊奘諾尊を出迎え共に語る。伊奘諾尊には自分を決して見ないように頼み、言い終るや忽然と消える。忽然不見という表現は~仙くさい。その時は闇であったので、伊奘諾尊は火をとぼして見た。闇は光りの無い世界というだけでなく、~の音なふ世界、夜更けた暗黒のとき、ひそかな「音づれ」として示される。”よもyomo”は”やみyami”闇と通じる。(字訓)闇喪yamoをイメージさせる。
注に脹滿太高、嚢復脹滿などが用いられ、潮が満ちてふくれることとある。脹れて膨らんだ身体の上に八色雷公がいた。”くさ”は草、種、雑、くさぐさのもの、材料・素材とすべきものをいう。
(字訓)この書では”いかづち”は伊奘冉尊の身体に発生し(首に大雷胸に火雷腹に土雷背に稚雷尻にK雷手に山雷足上に野雷陰上に裂雷)、伊奘諾尊が逃げ帰ろうとすると、一斉に起きあがり伊奘諾尊を追う。”いかづち”は”かぐつち”火~を剣で斬って生まれる説に異を唱えている。
桃が悪鬼をはらうという観念は、中国では山海経、淮南子にあらわれる、わが国における桃の呪力の観念は節句とともに中国起源である。と注される。伊奘諾尊はほとりの桃の大木に隠れ実をとり投げる。雷等みなしりぞく。雷と鬼は同列視されている。桃が鬼をふせぐとある。杖はこの場合桃の木の杖、雷はここよりこのかた、え来じは呪文風。”ふなと”は”くなと”と解説される。”さへ”は”さふ”、意図的にことの進行をさまたげること、他から加えられる妨害をさえぎり守ること。
(字訓)

一書曰 伊奘諾 至伊奘冉所在(ます)處 便(すなはち)語之曰 悲汝(いまし)(ゆゑ)來 答曰 族(うがら)也 勿看吾矣 伊奘諾 不從(みそなはす)之 故伊奘冉恥恨之曰 汝已見我(あるかたち) 我復見汝 時伊奘諾亦慙(はぢる)焉 因將出 于時 不直(ただ)(もだす)歸 而盟之曰 族離 又曰 不負於族 乃所唾之~(つはくかみ) 號曰玉之男(はやたまのを) 次掃(はらふ)之~ 號泉津事解之男(よもつことさかのを) 凡二(ふたはしら)~矣 及其與妹(いろも)相鬪(あひあらそふ)於泉坂也 伊奘諸曰 始爲族悲 及思哀(しのぶ) 是吾之怯(つたなし)矣 時泉守道者(よもつちもりびと)白云 有言(のたまふこと)矣 曰 吾與汝已生國矣 奈何更求生乎 吾則當留此國 不可共去 是時 菊理媛~(くくりひめのかみ)亦有白事 伊奘諾(きこしめす)而善之 乃散去(あらける)矣 但親(みづから)見泉國(よもつくに) 此(さが) 故欲濯(すすぐ)(はらふ)其穢惡(けがらはしきもの) 乃往見(みそなはす)粟門(あはのみと)吸名門(はやすひなと) 然此二門 潮(はなはだ)(はやし) 故(かへる)於橘之小門(たちばなのをど) 而拂(はらふ)濯也 于時 入水吹生(ふきなす)磐土命(いはつつのみこと) 出水吹生大直日~(おほなほひのかみ) 又入吹生底土命(そこつちのみこと) 出吹生大綾津日~(おほあやつひのかみ) 又入吹生赤土命(あかつちのみこと) 出吹生大地(おほつちうなはら)之諸~矣 不負於族 此云宇我邏磨禾既(うがらまじ)

”うがら”は親族、同姓、子弟、”はらから”は兄弟。族は
方人と矢、方人は氏族旗、出行のときには必ずこれを掲げ、その属するところを示した。矢は”ちかう”とよみ矢を用いて誓う儀礼があり、氏族旗のもとに盟約したものを族という。(字訓)族離、不負於族、伊奘冉尊は伊奘諾尊の族から離れる、その族に負けないという解釈である。
伊奘諾尊は汝を悲しんでるがゆえに来た。伊奘冉尊は族であるなら吾を決して看てくださるなと答える。情は”まこと””みなり”と注される。伊奘冉尊は自分の真の姿を見られたことを恥じ恨む。自分とは異なる伊奘諾尊の情をじっと見る。伊奘諾尊は慙じ、返ろうとするが、声が出ずに帰れない。心をきめ、盟
(ちか)って申された。”うがら離れなむ””うがら負けじ”
”つはく”は唾を吐くこと、唾は約束を固めるために使う、血や爪と同じく交換することによって契約の誠実の保障とする、違約した場合相手の血や爪や唾に呪術を加え罰すると注される。”はや”は美称”たま”玉は霊と同根、霊の憑代
(よりしろ)とされる。唾を入れる玉の容器。”ことさか”は”こと””さく”で族離をうける。”はらふ”掃は関係を断つと注される。泉平坂で伊奘冉尊と相争い伊奘諾尊は、はじめは族であり悲しみ偲んだは吾のつたなさであった、と知る。泉守道者は黄泉への道を守る者の義。伊奘冉尊のことばを述べる。吾と汝はすでに国を生んだ。このうえ何を生もうとするのか。吾はこの国に留まり、共に出ることはできない。この時に菊理媛~が申されることがあり、伊奘諾尊はそれを聞いて善しとされ、立ち去られた。帰り道と濯除に関する助言と思われる。”くくる”は水が漏れて流れる、潜ること、泉(よみ)からの帰還を助ける~ではないか。
”さがなし”本質に叛く行為、”さが”は生まれつきの性質、始めから身に備わったもの。
(字訓)自ら泉國に行ったのは生きている人間の行為に反しており、穢惡を濯除しなければ元に復せない。泉國からでる門として”あは””はやすひな”を見たが潮の流れはすでに急であり、水が泡だつ、吸い込まれる隙間をさけて”たちばなのを”の門から帰った。断ち離の尾の門としゃれこんでみたいところである。
拂濯、入水し息を吹き次々に磐土命、大直日~、底土命、大綾津日~、赤土命、大地海原諸~を生む。

一書曰 伊奘諾 勅任(ことよさす)三子曰 天照大~ 可以御(しらす)高天之原也 月夜見尊者 可以配(ならぶ)日而知天事(あめのこと)也 素戔嗚尊者 可以御滄之原也 而天照大~ 在(ます)於天上(あめ)曰 聞(きく)葦原中國(あしはらのなかつくに)有保食~(うけもちのかみ) 宜爾(いまし)月夜見 就(ゆく)(みる)之 月夜見 受勅(みことのり)而降(くだる) 已到于保食~許(もと) 保食~ 乃廻(めぐらす)(かうべ)(むかふ)國 則自口出(いひ) 又嚮海(うなはら) 則鰭(はた)(ひろもの)鰭狹(さもの)亦自口出 又嚮山 則毛麁(あらもの)毛柔(にこもの)亦自口出 夫品(くさぐさ)物悉(ふつく)(そなへ) 貯(あさる)之百(ももとり)(つくゑ)而饗(みあふ)之 是時 月夜見 忿然(いかり)作色(おもほてり)曰 穢(けがらはし)哉 鄙(いやし)矣 寧(いづくにぞ)可以口吐(たぐる)之物 敢養(あふ)我乎 廼劒撃殺 然後 復(かへりこと)(まうす) 具(つぶさに)言其事 時天照大~ 怒甚之曰 汝是惡~ 不須相見 乃與月夜見 一日一夜 隔離而住 是後 天照大~ 復(つかはし)天熊人(あまのくまひと)往看之 是時 保食~實(まこと)已死(まかる)矣 唯有其~之頂 爲牛馬 顱(ひたひ)上生粟(あは) 眉上生爾虫(かひこ) 眼中生稗(ひえ) 腹中生稻(いね) 陰(ほと)生麥(むぎ)及大小豆(まめあづき) 天熊人悉取持去而奉(たてまつる)之 于時 天照大~喜之曰 是物 則顯見蒼生(うつしきあをひとくさ) 可食而活之也 乃以粟稗麥豆 爲陸田種子(はたけつもの) 以稻爲水田種子(たなつもの) 又因定天邑君(あまのむらきみ) 以其稻種(いねたね) 始殖于天狹田(あまのさなだ)長田(ながた) 其秋垂穎(たりほ) 八握(やつかほ)莫莫然(しなふ) 甚快也 又口裏含(ふふむ)爾虫 便得抽絲(いとひく) 自此始有養蠶(こがひ)之道焉 保食~ 此云宇氣母知能加微(うけも 顯見蒼生 此云宇都志枳阿烏比等久佐(うつしあをくさ)

この書では天照大~が天上にます。葦原中國に保食~が有り。月夜見尊は勅を受け降り保食~(うけもちのかみ)のもとにゆく。倉稻魂命(うかのみたまのみこと)は食糧を蓄える霊力のある~、保食~と同じ。”うけ”槽、穀物を容れておく桶、”もつ”はたもつ。保食~が首をめぐらし、国”くに:土地”に向くと飯が口から出る。海に向くと”はた”は魚のヒレ、鰭(ひれ)の大きな魚、小さな魚が口から出る。山に向くと”あら”は”にき”和、柔の反、毛粗な獣、毛柔な獣が口から出る。”くさぐさ”は種種雑多な物を悉く備え、”あさる”は漁、捜であるがここでは貯えるとしている。”つくゑ”は杯(つき)を並べ置く台。”みあふ”の”み”は美称”あふ”は意味が広いがここでは饗すこと。食べるものは何でも蓄えて即座に出す~である。
月夜見尊はこれを見て、忿然と顔をほてらせて申された。穢哉 鄙矣、口から吐き出した物で我を”あふ”とは、ここでは養を用いている。剣を抜いて保食~を撃ち殺す。然る後復命し、つぶさに報告すると天照大~はたいそう怒り、月夜見尊を悪~と申し渡し、顔を見たくないと、昼と夜と別々に隔て住むことになった。
この後、天照大~は天熊人を遣わして、天熊人が行ってみると、実
(まこと)に保食~はすでに死んでおられた。”くま”は~への供え物。特に洗い清めた白米を供えること。その~の頭maraが牛馬marとなり、額chaの上に粟cho、眉の上に蚕、眼nun中に稗nui、腹pai中に稲pyo、陰potiに麦と豆、小豆p'at(あづき)が生じ、天熊人は悉く取って持ち去り天照大~に奉納した。注によれば身体の部位と生まれたものの名が朝鮮語で関連づけられているそうである。
”うつし”現実の確かな意識を”うつしこころ”という。顯は幽冥なものが今の世に出現すること、そのあらわれた姿を「うつし」という。
(字訓)天照大~はこれを喜び、”あをひとくさ”、”あを”青は聖色、”ひと”は貴者、”くさ”はくさぐさ、「この世に現われた様々な聖なる貴重なるもの」、これを食し活かすことができると申された。”はた”は水田に対する陸田、”たな”は種の古形、種によって収穫されるもの。水田の場合稲となる。陸田の場合、粟稗麥豆となる。天の邑(村)の君(長)を定めて、稲の種をもって天の狹田、長田に植え、秋に穂垂れ、八握の高さにしない、甚だ快い。”ふふむ”含は今と口からなり、今は器の蓋栓の形で元来器に蓋すること。”くち”の語源は不明とのこと、食う、くはふに関すると推測しておられる。古形は”くつ”、食物をとるところ、ことのはじまるところ。(字訓)蚕を口の裏に含んで、糸をひいた、これより養蚕の道がはじまったという。

2004.02.16

岩倉紙芝居館 古典館 日本書紀 1-1 上田 啓之