まにあっく懐パチ・懐スロ

古いパチンコ・パチスロ、思い出のパチンコ店を懐古する
(90年代のパチンコ・パチスロ情報がメイン)

マルハンパチンコタワー渋谷が閉店…

2016-01-18 | 思い出のパチンコ店


すでに、ご存知の方も多いと思うが…


東京都渋谷区宇田川町、文化村通り沿いの大型パチンコ店「マルハンパチンコタワー(MPT)渋谷」が、昨日(2016年1月17日)の営業終了をもって、クローズしたという。


閉店理由については、ピワルドのHPによれば、「(当)ビルの賃貸契約満了に伴い」との事である。


21年もの長きに渡り、渋谷の「シンボル」的な存在として君臨した、大手チェーン「旗艦店」の撤退。


私自身、開業当時から2000年初頭にかけて、同店には幾度となく足を運んだ。パチ・スロ共に「引退」の身とはいえ、この報せには驚きを禁じ得ない。


同時に、「一つの時代が終わった…」という感じもする。




マルハンパチンコタワー(MPT)渋谷は、21年前の平成7年(1995年)7月7日、パチンコファンにとって象徴的ともいえる「777」(スリーセブン)の日に、駅から程近い、文化村通り沿いの「ONE-OH-NINE」ビルに新規開業した。


(開業直前に出回った、MPT渋谷の近日オープンを知らせる広告)


開業時、同ビルの1Fと地下には「HMV渋谷」(1998年にセンター街沿いへ移転、その後閉店)が入っていた。その1Fエスカレーターを上がると、2Fから6Fまでが、全てマルハンのフロアであった。


(1995年当時のMPT渋谷、文化村通り側(正面)の入口)


この当時、2F〜4Fがパチンコフロアで、5Fがパチスロ、そして6Fは景品専用フロアであった。

各フロアで、異なる「名称」(愛称)が付いていたのも印象深い。各階ごとの特色(テーマ)があって、同じ店舗内でも、幾つもの異なる「表情」を見せていた。


(1995年当時のMPT店内フロアボード、その1)


(1995年当時のMPT店内フロアボード、その2)


※(写真には写っていないが)
1F(入口)は「ウェルカムゲート」(勝利への扉)

2F(パチ)は「サウンドストリート(歓喜の鼓動)」と「サウンドオアシス」(禁煙スペース)
3F(パチ)は「ミラクルステージ」(奇蹟への旅)
4F(パチ)は「マジカルロビー」(魔法の回廊)
5F(スロ)は「カジノエンターテイメント」(勝利への道)
6F(景品)は「プレミアムヘブン(景品天国)」

景品フロアは2Fにもあって、コチラは、主にCDなどの音楽関連グッズを置いていた。一方の6Fは、オシャレなブランド物をズラリと展示。さながら、「銀座の高級ブティック」的雰囲気が漂った。また、景品カウンター脇には「モノショップ」という名のカタログ的な通信端末もあり、フロアにない商品でも、画面をタッチすれば、好みのアイテムを取る事ができた。


フロアの作りも洗練されていて、シマ通路は他店より広く、シマ端の空間もゆったりと余裕があった。また、オシャレな外国人モデルの映像がTVモニターに流れたり、モデル達が写った大きなパネルが店内の壁に貼られていたりと、何かと「若者の街・渋谷」を意識した、洒落た空間になっていた。

また、カップル専用の「ペアシート」も、デートスポットの渋谷らしいサービスだった(当時、そういうサービスを提供するホールは、まだ少数だった)。

さらに、パチ・スロの設置台数も、渋谷界隈ではズバ抜けて多かった。開業時は「パチンコ861台、パチスロ229台の計1090台」という、大量設置が話題となった。

(その後、5Fにスロが増設、さらに4Fにもスロが入って、スロ設置台数は次第に増加。この流れは、その後も続いた模様。)

2Fエスカレーターを上がった右手には、当時、「パワーボード」と呼ばれる電光掲示板が設置されていた。この掲示板は、店内設置の1090台全ての台番号が割り振られていて、「稼働中」「特賞(ボーナス、大当り)中」といった各台の状況が、ランプの色や点滅によって、適宜表示される仕組みだった。無数の番号がピカピカと明滅する様子は、さながら証券会社の「株価表示ボード」、いや、宇宙船の「総合指令室」のようなイメージがあり、大変迫力があった。


(1995年当時のMPT店内、その1)


(1995年当時のMPT店内、その2)⇒3Fの景品展示用スペース(ミラクルウィンドウ)


(1995年当時のMPT店内、その3)⇒ペアシートコーナー(「カップル以外の方は御遠慮下さい」の注意書き。玉の共有は原則禁止だったが、ペアシートに限っては共有が認められた。)



なお、MPTでの印象的なサービスに、「誕生日の会員は、ハネモノの甘釘台を打てる」という特典があった。当時、マルハン渋谷にはデジパチや権利物以外にハネモノも置いてあったが(「お竜さん」「影丸」など)、「誕生日コーナー」と呼ばれるシマに設置されたハネモノ(ブンブン丸DXなど)では、楽に予定終了できる「ガバ開き」の台を打てるサービスがあった。何とも太っ腹なサービスである。




ここで、「マルハン渋谷」開業前について振り返ってみると、渋谷駅周辺では、すでに多くのパチ屋・スロ屋が、凌ぎを削っていた。

井の頭線のガード脇には、「大番」「ウチダ」「柳小路」「タイガー」「日拓」「パチスロファイン」「パチスロGOGO(55)」の各店があった。

西武百貨店向い、マクドナルド地下には「パチンコ丸大(丸大キング)」。道玄坂小路には「ホワイトバード」「キャット」。ハチ公口前には、スロ屋の「パチスロアルファ」が存在した。

西村フルーツの隣に「トーオー」。センター街には「白鳥」「パチスロサン」。宮益坂に「たんぽぽ」。明治通り沿いの「ジャンボ」「パチスロ日拓ビッグプレイ」「バンビ」。実に、18軒ものホールがひしめき合っていた。また、その多くが、いかにも「老舗」的なホールだった。

そんな「パチンコ激戦区」の渋谷に、平成7年夏、関西や静岡など中心にチェーン展開中だった「マルハン」が、突如として参入。渋谷駅からほど近い好立地(文化村通り沿いの「ONE-OH-NINE」ビル)に、関東第1号店となる「マルハンパチンコタワー渋谷」を開業したのだ。従来の渋谷に見られなかった、新感覚のホールの出現。これを契機に、同エリアのパチ屋の勢力図は、大きく塗り替えられていった。

渋谷マルハンの開業から間もなく、東急本店脇に「ジャンボマックス渋谷(後の「PLACER」)」がオープン。また、道玄坂下のマルキュー裏(プライムビル)にも、「オーケストラ(後の「コンサートホール渋谷」)」が開業するなど、「新興勢力」の台頭が目立つようになる。

対する老舗も、「新参者には負けぬ」と、色々と策を講じる所も現れた。井の頭ガード脇の「ウチダ」が、「エリアU」と現代風に店名を変えて、イメージチェンジを図ったのも、マルハンの開業直後ではなかったか。また、「柳小路」が2号店の「柳小路II」(既に閉店、跡地は「ガイア渋谷店」)をガード反対側に出して勢力拡大を図ったのも、同時期と記憶。その一方で、マルハンを中心とする新しい勢力に押されて、閉店に至ったホールもある。

なお、井の頭ガード界隈では、大手チェーンの「日拓(エスパス)」がグイグイと勢力を拡大。「大番」「柳小路」「エリアU(ウチダ)」といった老舗の看板が、次々に「エスパス」へと変わった。


しかし、「設置台数が多く、設備やサービスが新しい」という理由だけで、競争激しい渋谷で生き残れる訳はない。事実、マルハンパチンコタワー渋谷は、開業時から「出玉」面の評判も高かった。

当然、勝てる台を目当てに朝から並ぶ客は多く、先頭が早朝6時から場所取りするなど、開店前の行列が定番だった。無論、開店時にノンビリ来れば、それなりのチャンスしかない。開業当初から、朝の台争奪戦は凄まじかった。

私も、当初は、話題につられて、朝イチから何度か並んだ。だが、あまりの人の多さに愕然として、結局は、勝ち負けにあまり拘らない、「重役出勤」「午後から勝負」に切り替えた。




かつて使用していた、「会員カード」(貯玉、貯メダルカード)が、偶然手元に残っていた。その後のカードのデザイン変遷は知らない。自分にとっての「マルハン渋谷」は、このカードしかピンと来ない。なお、カードが最後に読み取り機を通ったのは、もう15年前。




マルハンパチンコタワー渋谷には、「たまに足を伸ばした頃」と「頻繁に通った頃」があるが、特に記憶に刺さる実戦時期といえば、16年前の2000年(平成12年)前後だろうか。



2000年頃のMPT入口。1Fの「HMV渋谷」は、1998年に裏通りのセンター街へ移転。跡地には、翌1999年2月、アミューズメント施設の「クラブセガ渋谷」が入った。上の写真でも、クラブセガ(CLUBSEGA)の看板が見える。そのクラブセガも、マルハン閉店に合わせて、今月末にクローズとの事。渋谷の象徴が、次々と消える。時代の移ろいは、なんとも儚い…。


2000年前後の時期は、渋谷駅界隈、とりわけ、「センター街」にスロを打ちに行く機会が多かった。勝負終りに、路地沿いの「桂花ラーメン」で、よく太肉麺(ターローメン)を食べた。

小店の「パチスロサン」では、1Fの「ゲゲゲの鬼太郎」「アレックス」、2Fの「バンバン」などを打った(アレックスで大勝ち経験)。その近くの「エルニド5」(スロ専)には、「アラベスクR」「マリーンバトル」(1F)や「キングオブザタイガー」(2F)目当てに通った。「低換金・高設定」がウリだったが、良さげな台を掴むのは難しかった。角地の老舗「白鳥」(閉店、跡地は「BBステーション」)は、閉店間近かクローズしていたと思うが、当時の記憶が弱い…(97年には、初代コンチが置いてあったが)。

センター街以外だと、明治通り・並木橋交差点近くの「ピーワン」というパチ屋へ、頻繁に出向いた。アラベスクRの快勝がきっかけだが、ヒートウェバー、スペースウィング、キングシャークなど、香ばしいマイナー機の設置も嬉しかった。ピーワンは、とんねるずのノリさん(木梨憲武)が出没するホールで、「生ダラ」のパチンコ対決でも何度か登場。

井の頭ガード沿いは、ほぼ「エスパス(日拓)一色」になっていたが、老舗「タイガー」は店舗を移して頑張っていた(結局クローズ)。ただ、「タイガー」にはスロが無かったな…。


この時期のマルハン渋谷では、「グランシエル」「ホットロッドクイーン」「レジェンダ」「アラベスクR」「ロッキー」の実戦が印象に残る(大半が「勝ったから」だが、負けて記憶に残る台も)。

エスカレーター裏にズラリと並んだ「グランシエル」(アルゼ)のシマでは、ビッグ中のハズシを駆使しつつ、12枚役とハズレの出現率から高設定を看破すべく頑張った。ライバルの多い中、「設定5」以上と思しき台を、幾度か掴む事に成功。これに気を良くした私は、都内・神奈川のあちこちの店で、「グランシエル漁り」をした。

やはりエスカレーター傍にあった「ホットロッドクイーン」(オリンピア)のシマは、いつも満席に近い人気ぶり。空き台に座っても、低設定の残りカス…というのがオチだった。大抵はその「カス」を引いて退散していたが、たまたま噴いた台の後釜キープに成功して、順調に3000枚程出た事もある。

逆に、北電子の「レジェンダ」は不人気で、オバちゃんとかOL風の女性が、たまに座る程度だった。私は、この台の「遅れ」(ウェイト音が一瞬途切れる)に妙にハマって、高設定を終日打ち倒すべく、久々に朝一の「並び」を決行。だが、レジェンダのシマは朝からガラガラで、台も選び放題。それに、高設定を示唆する朝イチの札や告知もなかった(夜に札が刺さった)。で、何回か移動したら良さげな台に当り、そのまま粘ったが、散々揉み続けた挙句、結局全ノマレ。それでも、出方の良い台もあった。以後は、朝から狙う事はヤメにして、夕方にデータランプで良さげな空き台に座り、ソコソコ勝つ事ができた。

シマの奥まった一角にヒッソリ並んだ、高砂「ロッキー」の姿も記憶に残る。以前に、別の店(横浜駅近くの「モナコ」)で打った経験があったが、その時は完全に「不発」だった。そのリベンジの意味で、ボーナス確率のよさげな台を打ったら2000枚近く出てくれた。「カカカカカモン」や「ユーガッタ・チャ〜ンス」の人工音声が懐かしい。

それと、並木橋「ピーワン」での爆勝ち(7000枚近く出た)に気を良くした事で、この店では、山佐「アラベスクR」もよく打った。流石に4000枚、5000枚の大勝ちはなかったが、低投資のビッグから1箱満タンの展開に、たびたび恵まれた。個人的に、アラベとの「相性」は良かったと思う。



その後、2002年から町田に「活動拠点」が移ったので、渋谷に訪問する頻度も減った。同時期に、マルハン渋谷が大規模な「リニューアル」(全面改装)を行ったらしいが、詳しい事は知らない。沖スロ「シオラー30」を何度か打った事は覚えているが、全くの不発だった…(当時は、町田「さくら屋」のシオラーで、シコシコ稼いでいた頃)。



まぁ、こんな感じで、自分にとってマルハン渋谷の記憶といえば、95年7月の開業から、2002年辺りの4号機時代までの一時期に限られる。

その後、5号機時代の初期、パチ・スロ共に「現役」を退いた為(関連活動は懐古ブログ更新のみ)、マルハン渋谷の近況も、知らないままだった。で、久々に思い出のホール名を耳にしたら、「閉店」とは寂しい限り。


それでも、沢山の思い出をくれた事に感謝して、「長い間、本当にお疲れ様でした。ありがとう…」と労いの言葉を贈りたい。





2000年頃、店内TVモニターでは、こんなファッションショー的な動画も流れていたっけ…。


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