はてなキーワード: 尋常とは
限られた土地に身を寄せ合って定期的な嵐や雪に耐え、
凍えるような寒さになったり焼けつくような熱さになったり嬉しいぐらいに住みにくい。
ホーンテッドマンションの事じゃないぞ。高温多湿低温乾燥を繰り返す我らが日本の話だ。
俺が言いたいのはこれ。
「日本は四季があっていい」みたいな人いるけど、ちょっと外国住んで見ろよ。こんな住みにくい気候の国なかなかないんやで。
そう言うとバカがすぐ砂漠でもサバンナでも同じ事言えるのかとかクソレス付けるけど極端な話そっちのほうがまだマシやで。一貫してるから。
よう、冬季オリンピック正式種目化を目指して、クリスマス・男子シングル&女子シングルの練習に余念がないな!
あと一週間遅ければ「オレ日本の未来に真剣だから政治活動してたんだ」って言えたのにな。
まあ期日前投票も別にペナルティーとか無いから、今日行っちゃっても良いんだけどな。寒波がな。
さて、家を買うだ建てるだってのは大抵の場合オオゴトなんだが、実はイメージが大きく影響する。
・偉そう
・息がくさい
・すぐローンの審査申し込ませようとする
・考える時間を与えずハンコ押させようとする
コレ、冗談だと思った人が多いだろうし本人も冗談のつもりかも知れないが、笑えない。
実は、家の購入を印象と勢いで決める人は意外なほどに多い。
そこで、最低限これぐらいは考えても良いよなぁという点だけ愚痴っておきたい。
限られた土地に身を寄せ合って定期的な嵐や雪に耐え、
凍えるような寒さになったり焼けつくような熱さになったり嬉しいぐらいに住みにくい。
ホーンテッドマンションの事じゃないぞ。高温多湿低温乾燥を繰り返す我らが日本の話だ。
そう、環境が特殊でちょっと尋常じゃないエクストリーム住まいなワケだ。
東北地方で「東風吹かば」とか菅原道真でもグーで殴られるレベルの暴言であって、
つまり「京都だけが日本じゃねえよ、やませとか勘弁してくれよマジで」であって、
要は日本は土地土地によって大きく異なりますよ、という普通の話をしたいわけだ。
一般的にはとか、平均的にはとか、人は周りの影響を結構受けやすい。
奥さん食器洗い乾燥機のビルトインとか普通ですよ最近は床暖房も皆さんお使いですよ畳は和紙が流行で、なんてな台詞は良く言うわけだ。
で、最近は映画でニュースとか見ないだろ。スマホだろ。口コミも世界規模ですよ奥さん。
するとどうなるか。
旭川ぐらい判りやすいエクストリームっぽさがあれば、流石に那覇を参考にはしないわな。
じゃあ、滋賀と茨城だったらどうだ?神戸と横浜は似てるか?江戸川と練馬ならどうだ?
大手町と八王子でずいぶん気候が違うのは頭では理解してても、建築になると忘れがちだ。
人はパンのみにて生きるにあらず、生まれ変わってインドで修行してえなあと思っても、とりあえずは現世で頑張るしかないわけだ。
じゃあ、せめて我が家は住みよくしたいな。
ただ、鉄骨鉄筋コンクリート構造(SRC造)は、木造軸組構法より頑丈だ。
床上浸水も河川の決壊も、マンションの高層ならあまり関係が無い。(まあエレベーターは結構浸水に弱いが)
いまさらっと書いたが、マンションってのは土地の有効活用って意味に加えて、
富豪じゃなくても鉄骨鉄筋コンクリートの家を建てられるってポイントがあるわけだ。
みんなでちょっとずつわけあってだが。
違うが、やっぱり強いのは鉄骨鉄筋コンクリートなわけだ。
東京の旗竿地で既存不適格な木造一軒家リノベーションして賢く新生活だ!ってのは、止めないよ。
京都は町家を残そうと必死だし、実際古い木造建築には味がある。
それが悪いとは思わない。
良くも悪くも、日本ではまだまだ「どこに住んでも同じ」とはいかない。
そりゃ、息さわやかで買ってくれるならミントタブレットぐらい常時バリボリやりますわ。
営業員は売った家には住まないぞ。住むのは買う人だ(借りるのも同じな)。
それを忘れないで欲しい。じゃ、選挙には行けよ!
人の心すなほならねば、偽りなきにしもあらず。されども、おのづから、正直の人、などかなからん。己れすなほならねど、人の賢を見て羨むは、尋常なり。至りて愚かなる人は、たまたま賢なる人を見て、これを憎む。「大きなる利を得んがために、少しきの利を受けず、偽り飾りて名を立てんとす」と謗る。己れが心に違へるによりてこの嘲りをなすにて知りぬ、この人は、下愚の性移るべからず、偽りて小利をも辞すべからず、仮りにも賢を学ぶべからず。
狂人の真似とて大路を走らば、即ち狂人なり。悪人の真似とて人を殺さば、悪人なり。驥を学ぶは驥の類ひ、舜を学ぶは舜の徒なり。偽りても賢を学ばんを、賢といふべし。
詭弁じゃね?wwww
漢文読んで俺博識wwwって言ってる奴はただの詭弁にふむふむ言ってるだけのアホじゃねーかwwww
馬鹿だろww
まぁ、もちろん、ためになることもあるんだろうけど、パーセンテージは他のから学んでも変わらんだろww
正直ww学び方だとww思うがwww
二日目の夕方からは、ねぎらいってことで屋外にてトン汁とおにぎりに、お茶とつまみ程度のお菓子がでた。
秋の西日がキツクて目が眩んだからだろうか。
それとも格好をつけてオフメガネで現場に出たのがまずかったのだろうか。
トン汁が掛かっていたぐつぐつのなべの取っ手を素手で掴んで火傷を負った。
屋内のガスレンジで調理したならば、炎はなべの底だけ暖めるから取ってはそれほどの温度でもない。
しかし屋外で薪で見た目にワイルドに調理していたものだから、炎は取っ手を舐めていた。
取っ手のプラスチックは耐熱性があるのでまったく溶けていないものの、人の肉を焼くには十分な温度だった。
取っ手を掴んで1秒後あたりに尋常じゃない熱さに気がつくものの、そこで踏ん張らなければ今度は足にぶちまけてしまう。
なんとか根性でテーブルの上まで運んできたときには、かけがえのない人差し指の腹はいかにもな軽症火傷であった。
あまりに痛むので水道で十数分流したため、他のボランティアさんとは一緒に食事はとれず左手でおにぎりだけ喰った。
熱かったトン汁も、傷みがよりまして水ぶくれがはっきりとしてきた40分くらい後には、猫でもがっつけるくらいに温くて不味かった。
もともと非コミュなのに知り合い経由でいやいや参加したのに、一番コミュ力が必要なシーンでこれである。
皆が見る目がなにを物語ってるかは明白だ。
DQNっぽい風貌の奴がいるから、バカにしてくるかと思いきや、『大丈夫スカ??ああ水ぶくれか。冷やしてクスリぬっときゃそのうち治るべ。キニスンナって。』
気にしてるのは水ぶくれじゃなくて、オメーラの態度だっつーの。察しろよバカ。
っていてーな糞……
まるまる二日は痛み、三日目からは痛みは引いたもののぶっくぶくの水ぶくれ。
それでも、正直『ぶよぶよで面白いなー。へんなのww』とか自分の体の変態っていうかメタモルフォーゼに興味深々だった。
が、その余裕も水ぶくれが引いて赤黒く火傷跡が目立つ感じになってくるとなくなってくる。
醜い痕が残った。
嗚呼。
ボランティアなんて……。
もう固まってきているから痕は多分消えないと思う。気休めだ。
先ほど道を歩いていたら、急に足にひんやりぺたっとまとわりつくものがあった。
確認したら白く細長い麺みたいなものだったので、「誰だ!こんなところにスパゲッティを落としたのは!」と思って手で払いのけた。
そしたら、今度は手にまとわりついてきた。
それが尋常ならない粘度を持っていたので、「まままま、まさか、寄生中か!!??」と夜中の道でマジほんま心底ビビってしまった。
もう訳も分からず、手についたのを必死で払い落とし(・・・でも、絡みつくばかりでほとんど落ちない!)
足のほうを恐る恐る確認したら、ゆーっくりと何やらうごめいている。
「こ・れ・は・や・ば・い」。
えいや!っと払いのけるが、手にぎゅるぎゅるひっついてくる。
訳も分からず民家のブロック塀に何度も何度も物体をこすりつけた。跡形もなくなるまでこすりつけた。
かなり焦っていた。ショックだった。
家に帰ると、やはりナメクジが通ったような後がぺったりとズボンについている。
とにかく、すぐに手と足を洗い、ズボンも念入りに洗った。
一番やっかいなのは寄生中だったりして卵が付いてしまうことだ。
しっかり洗ったあと、Google先生に聞いてみた。
どうやら、寄生中ではないようだ。サナダムシでもフィラリアでも、回虫でもないようだ。
そしてもう一つ可能性として挙がったのが、ヒル。
こうなったら現物を確認しに行くしかない。着替えて、事件現場に戻った。
と、立派なナメクジ君を発見!いや、お前じゃない。お前じゃなくて・・・
あ、あった!細い、スパゲッティのような・・・・動く物体!う、動いているぞぞぞぞ!
よーく確認すると、動きの先端が少し丸くなっている。「ああ、こりゃヒルだわ」と、
ここまで確認できて、少しホッとした。
頭が想像より小さかったけど、自分がぶっ千切ったことで、切れた部分が再生し初めているのかもしれない。
気になったので、帰ってもう一度Google先生に聞いた。
「コウガイビル」っていうのが海のプラナリアと同じ種類の動物として居るらしく、ちょん切られても再生するらしい。
あと、こいつは肉食でナメクジとかを食べるそうだ。
ぴろーんと足にくっつけてしまったのかもしれない。
夜徘徊するらしいので、みなさんも今日のように湿った路面を歩く際はご注意をば。
害はないけどね。
びっくりするよ。
長いです。そして大部分が「自分語り」です。そんなの読みたくないよ、と言う人はブラウザのバックボタンを押してください。
で、なぜ自分語りをするのかというと、結論部分の教育に関わる人たちや、子供の「親」となっている人、もしくはこれから「親」になる人たちに伝えたい事につなげる為なので、時間がない人はその部分だけ読んでもらっても構いません。
それでは、物好きな人はどうぞ……
20代も後半になってくると、「結婚しないの?」とよく聞かれるようになった。「相手がいない」、「仕事が忙しくて相手を探す余裕がない」と言うと、たまに「いい人紹介しようか?」と言われることがある。
しかし、私にとって友人や知り合いや同僚から相手を紹介されるというのは、最も避けたい出会い方だ。「自分のようなつまらない人間を紹介することで、相手の評価を下げたくない」「紹介してもらったところで、うまくいくはずがない」と考えてしまう。
「自分には価値があり尊敬されるべき人間であると思える感情」のことを自尊感情と言うが、私はこの感情が非常に低く、一日一回は「死にたい」「この世から消えてなくなりたい」と考えている(これでも回数は減った方。昔は一日十回は死にたいと思っていた)し、友人と遊んだり飲んだりしていても「自分なんかのために時間を使ってもらって申し訳ない」と考えてしまう。自分と実際にあったことがある人の中には「自分の話ばっかりするから、自尊感情高いんじゃないの?」と言う人もいるかもしれないが、それも自尊感情の低さの裏返しだと思う。自尊感情が無いからこそ、他人から褒められたり、認められることを期待して自分の話を頻繁にしてしまうのだろう。私が「知り合いからの異性の紹介」を避けているのも、この自尊感情の低さからきているのだろう。
それでは何故私の自尊感情は低くなってしまったのか。色々な原因が考えられるが、一番大きいのは、私が「普通の人が出来ることを、出来なかったから」だと思う。
まず、私は小学生時代、「普通の子供と同じように授業を受けることが出来なかった」。静かに、教室の椅子に座って授業を受けることができない。授業中に教室を抜け出し、先生を慌てさせる。教室にいても、授業い集中できず、本を読んだり他の子供にちょっかいを出す。
そんな子供だったせいか、小学生の一時期、いじめられていた。いじめは「異質な存在」が標的にされやすいことから考えると、自分がいじめの対象になったのも自然なことで、意味もなく殴られたり、筆箱を窓から投げ捨てられたりしていた。そこまで酷いいじめではなかったので、不登校になるほどではなかったが、自分は人と交流することに臆病になってしまっていた。
未だによく覚えているのが、隣に住む一学年下の友人の家のチャイムを押すのに一時間以上ためらった挙句、押せずに自分の家に帰ってしまったこと。小学生の時点で、私は友人の家に遊びに行っても、「そろそろ帰らないと鬱陶しいと思われるのでは」と考えてしまう、人間関係を形成することに臆病な人間となっていた。
小学生低学年の時のこの問題行動は、ADHD(注意欠陥・多動性障害)によるものであり、診断後、月に数回、大学の研究室に通うことになった。そこに行くと宝探しゲームやパズルなどをさせてもらえるので、私は「遊びに連れて行ってもらっている」という感覚だったのだが、今では「あれは行動療法の一環だったのだ」と理解できる。
大学での療法の結果、私のADHDの症状は目立たなくなっていったが、中学校入学後、私に新たな「普通の人が出来るのに、自分には出来ないこと」が出来てしまった。
それは、「普通の人と同じように起きていること」。
授業参観、テスト、学校行事、時と場合を選ばず、どんな時でも居眠りをしてしまう。その眠気は尋常ではなく、拳で太腿を殴りつけても、ペンで血が滲むほど掌を突き刺しても、消えることは無く、結局は寝てしまう。なんとか地元の公立高校には入れたものの、いくつかの授業にはついていくことが難しくなってしまった。そして三年生の時は難関大学を目指していたのにも関わらず、文系の一番下のクラスへ。一部の教科の成績と授業態度(よく居眠りをする)を考えれば当然のことではあったが、授業のレベルが大学受験レベルではなかったのは困りものだった。居眠りをしているのに教師のところに「わからないところを教えてください」と行くことなんて出来ないし、独学もなかなか難しい。そんな時に自分を救ってくれたのが予備校の配信授業。自分が通っていた塾では予備校が衛星配信する授業をビデオに録画したもので受講することができた。ビデオなら途中で居眠りをしてしまっても居眠りをする前の段階まで巻き戻せばいい。そうして90分の講義を毎回120分以上かけて受講し、なんとか受験に対応できる学力をつけていった。
結果として、第一志望の大学に合格することはできなかったものの、国立大学に進学することが出来た。自分の居眠りは怠けからきていると思っていたので、大学に入れば、環境が変われば少しは改善するとおもっていた。……だが、そんなことはなかった。
自分が受けたいと思い、はりきって教室の一番前の席に座った講義で寝てしまった時の絶望感。サークルのミーティングで居眠りをしてしまった自分への冷たい視線を感じた時のこの世から消えてしまいたい気持ち。大学に入れば何かが変わると期待していただけに絶望感は大きかった。ずたずたになっていく自尊心。
自尊感情が低い故に人間関係を構築するのに臆病なのは相変わらずで、自分から食事や飲みに誘うことなど殆ど出来ず、昼食も一人で食べてばかり。
大学院に進学してからも居眠りは止まらず、二年次に受けた公務員試験も当然のことながら不合格に。修士課程だったので二年で修了できたのだが、自分では働きながら試験の勉強はできない、とわかっていたので、親に頼み込んで一年間留年することにしてもらった。
留年時は相も変わらず寝てはおきてを繰り返しての勉強生活。一日十時間勉強しても、実質的に集中して勉強できているのは六~七時間なのだから効率は非常に悪かった。
二回目の受験でなんとか公務員試験に合格し、就職。このときはまだ自分の居眠りは自分の怠けからきていると思っていたため、さすがに就職すれば意識が変わって居眠りも無くなるだろうと思っていた。しかし就職してからも止まらない居眠り。会議で、行事で、起きていようとしても寝てしまう。当然のことながら、同じ居眠りでも学生と勤め人ではその捉えられ方は大きく異なる。面と向かって厳しく注意されることも増えたし、必要以上の会話をしてくれない同僚も増えていった。完全に自信を無くし、せっかく合格できたのに、退職しないといけないかな、と思い詰めていた時に、上司が睡眠障害外来の受診を勧めてくれた。
休みを取って「睡眠ポリグラフ検査」というものを受けた。体中に脳波、体の動き、血中酸素濃度、呼吸などを計測するセンサーを付け、一晩眠り、起床後は二時間ごとに横になって検査を行った。
検査の結果、入眠直後にレム睡眠期があること(普通の人は入眠直後はノンレム睡眠らしい)、前日に十分睡眠をとっていたのも関わらず、横になると数分で入眠してしまうこと、夢見や脳波などから、「ナルコレプシー」と診断された。ナルコレプシーとは非常に強い眠気の発作を起こす脳疾患(睡眠障害)の一つで、私の居眠り癖は自分の怠けからではなく、睡眠障害からきていたものだったのだ。
睡眠障害というと、「眠れない」障害ばかりが注目されがちだが、実際には「眠りすぎてしまう」「眠気が強すぎる」睡眠障害というのも数多くあるらしい。しかし、後者はあまり知られていない為、私のようにそれに気づかずに、発症後も長く苦しむ人が多いそうだ。
根本的な治療法はないが、薬物により日中の眠気が抑えられるということで、「モディオダール」という薬を処方された。早速薬を飲んでみると、劇的に症状は改善された。仕事の効率も良くなり、「普通の人はこんなに起きていられるのか」と驚いたと同時に本当に悔しくなった。もう少し早くこの障害のことがわかっていれば、これまで人間関係や学業でここまで苦しむことは無かったのに、と。
私はこのように二つの他人から理解されにくい障害をかかえて生きてきたのだが、それによる自尊感情の低さは、原因が分かった今もなかなか解消できそうにない。三つ子の魂百までではないが、一度形成された人間性というのは、なかなか変わらないものなのだ。
自分の体験を通して、教育に関わる人たちや、子供の「親」となっている人、もしくはこれから「親」になる人たちに伝えたいことは、「自分の教え子や子供に、何か気になるところがあったら、ためらわずに専門機関で検査を受けさせてほしい」、そして「もし自分の教え子や子供が何らかの障害をかかえていたら、その子に合った教育、療法を受けさせてほしい」ということだ。
自分の教え子や子供がそんな障害を抱えているとは思いたくない気持ちはよくわかる。しかし、障害を持つ子は検査を受けて診断を貰えなければ、自分にあった治療や教育を受けることもできずに成長することになってしまう。
さらに、「普通の人が出来るのに、自分には出来ないこと」があるということは、自尊心を大きく傷つけてしまう。自分がそうであったように。
一般の人が想像する以上に、発達障害や、睡眠障害を抱えている人間は多い。「他人事」だと思わずに、教育に関わる人たちや、「親」、これから「親」になる人たちには、発達障害や睡眠障害について学んでほしい。
殊に國字が假名があり、或いは漢字があるというようなことで以て、非常にその國字の學習だけにも時間を取りまして、私は曾て國字問題竝びにその歸趨という國字改良問題の本を書いたことがあります。その當時に私調べたところが、小學校で兒童の授業の半分以上がその國字或いは國語に關する時間に費やしておりまして、外國に比べますと、その國字、國語を覺えるだけに一年半、どうかすると二年ぐらい餘計費やさなければならんような状態であります。而もその結果どうかというと、例えば尋常六年頃までやられた人達が、完全に新聞が讀めるかといいますと、これも讀めない。非常に讀めないということは、最近にその筋の意向がありまして、カナ文字協會が工場の勞働者千五百人の人にいろいろな文字を出しまして、それで試驗をした。で假に百點を滿點にして、何人おるかという例ですが、提携という文字が五十點、確執というのが五十五點、富裕という字が三十七點、憎惡というのが三十三點、軋櫟という字が二十二點、これらは皆終戰後に決められました千八百五十字という漢字制限の中に入つておる文字であります。その文字が或ものによつては二二%しか讀めない。こういうのであります。即ち外國の學校では大抵小學校に行く前、殆ど大抵の子供が新聞が讀めるというのに比べると非常な差であります。
http://kokkai.ndl.go.jp/SENTAKU/sangiin/001/1344/00108261344003c.html
国民が自らのことは自らの力で解決するという自立の精神と気概を失うとき、その国家社会は滅亡するほかないということである。福祉の代償の恐ろしさはまさにこの点にある。
http://sankei.jp.msn.com/west/west_life/news/140927/wlf14092707000004-n2.htm
まあお隣のウリナラ民族同様に精神論が大好きな東朝鮮人こと日本人の特徴ではありますが、こういう人に
と言うとワシは福祉の恩恵を受けても良ぉぉぉいッ!!となるのだろう。脳機能の事情で3日以上未来の事は考えられないタイプだろうが、あまりにも数が多いと鬱だ。
雇用保険を拡充して労働力の流動化と業務の標準化を促し、産後の既婚女性&新卒逃した若者&失業した中高年が努力次第で再就職しやすい社会をつくろうと言い切る前に
けしからん甘えるなワシが若い頃はうんぬんかんぬんってパターンになる。
失業率が日本よりも尋常じゃないほど高いのに何で犯罪も自殺もせず暮らせるのか?逆に日本はなんで失業率が低いのに自殺が多いのか?
若年層失業率 国際比較 http://www.globalnote.jp/post-7527.html
精神論だけで物事を片付けるのはこういう国ならOKかもしれないけど
高等教育を受けたのならエラーが出てるシステムをデバッグする発想を持たないといけない。
もっと言うと
賃金も、http://matome.naver.jp/odai/2137073785257146801
一人あたりのGDPも、http://ecodb.net/ranking/imf_ngdpdpc.html
おまけ
自殺率 http://www2.ttcn.ne.jp/honkawa/2770.html
青年層自殺率 http://tmaita77.blogspot.jp/2014/08/blog-post.html
出生率 http://www2.ttcn.ne.jp/honkawa/1550.html
キャリア教育 http://tmaita77.blogspot.jp/2013/07/blog-post_11.html
男女間賃金格差 http://www2.ttcn.ne.jp/honkawa/3350.html http://www2.ttcn.ne.jp/honkawa/3352.html
子供向け公的支出 http://www2.ttcn.ne.jp/honkawa/5120.html
少子化対策と出生率 http://www2.ttcn.ne.jp/honkawa/1580.html
睡眠時間 http://www2.ttcn.ne.jp/honkawa/2329.html
なるほど。勉強になりました。
なので、女性の方が、美容に対し男性よりはるかに多くお金を投資しないといけない社会なんですね。
男性はよく、体を鍛えて健康になるのにお金を使っているじゃないか、と言うのですが、
女性のしなければならない事は、美容、育児、家事、仕事、介護と、やるべき事は青天井。
(男は保守派で改革する気はないので、これら反対派を持ち上げないといけない。
男性側はどうしたらいいか知恵を出す気が丸でない。)
この時代を生きて社会を切り開いたキャリアウーマンは、尋常じゃない仕事量。
かたや、何もしない(どころか足を引っ張る)ダメダメ中二病男子。
いやいや小2病?かな。
現実の女性から嫌われてるけど、性欲だけはあるから頭の中はエロネタばっかりなので。
女を見る目がなく、アホな女を持ちあげておいて、これが女だろ!と例を出す。
http://zhaozhou-zenji.hatenablog.com/entry/2014/08/11/202644 を拝読しました。コメント欄が付いていないので、読んだ感想はこちらに書きます。
>仏教は、ご存知の通り「無我(Anatt?)」の教えである。
(中略)
>だから、仏教の修行というのは、「私がない」ということが前提なのだ。
>今は、「私」という感覚があるけど、修行して、それを幻想と喝破する。
まず、「前提」という言葉の使い方について、念のために確認しておきます。
ある過程なり推論の出発点において成り立っていないものを、その過程なり推論の「前提」とは呼ばないでしょう。「私がない」という理解が成り立つことを、ブログ主さんは「喝破」と読んでおられるのでしょうが、その「理解=喝破」が成り立つタイミングが、「仏道修行の流れ」の出発点ではなくて途中または最後であるなら、その「私がない」という理解が成り立つよりも前においては、「私がない」というのは「前提」ではないでしょう。
「私がない」ということを知識としてだけ知っているという状態もあるでしょうが、修行による理解=喝破がそこに伴わなければ、「私がない」を「前提」という位置に据えることはやはりできないでしょう。「知識として知っているだけ」なら、その知識の中身は真偽不明でしょうから、真偽不明のものを「前提」という位置に据えてはいけないでしょう。(ブログ主さんも上記のとおりに「修行して喝破するのがふつうの流れだ」という意味のことを仰っているから、このことは分かっておられると思いますけれど)。
「私がない」という命題の真偽が不明である間は、「私がない」は「前提」というよりもむしろ「仮説」と呼ぶべきでしょう。だから、例えば下記の「~わけだ」という引用文も、ある時点まではあくまでも仮説ですよね。
>「わたし」なんてものは単なる幻覚、Sakka-ya-dit.t.hiだから、初めからないわけだ。
「私がない」ということを「理解=喝破」したときに初めて、「私がない」ということが単なる仮説の域を脱するので、そこで初めて、「私がない」を「前提」として採用することができる。修行する当人にとっては、そうなるでしょう。
「私がない」ということが「前提」として成り立っているにもかかわらず、なお残る或るもの、について言及されているということが分かるのが、例えば共著のほうのp.131(下記)。
《雲であるわたしがいなくなった。それがナーマとルーパの生滅が終わったということです。要するに青空だけになった。だけど、青空だけになったのに、青空であることを認識することはできる。これは理論的にもそうなってるし、経験的にもそうなります。》
《青空だけになって、しかもそれを認識できたとき、その時に「じゃ、わたしって誰?」という根源的な問いを発すると、もう答えは簡単明瞭ですね。わたしは青空なんですよ。》
この引用文にある「問い」と「答え」をおこなっている主体も、この引用文にあるとおりに「わたし」という普通の代名詞で指されているけれども、それは代名詞が普通であるだけであって、その代名詞で指されている対象は尋常の「わたし」ではないのではないか。だとすると、尋常の「わたし」でないものを取り扱う営為に「有身見の疑い」をかけることは妥当なのか、それはどういう意味があるのか、ということが問われるのではないか。
上述の引用文にある「問い」と「答え」は、上述の「私がない」という「前提」が成り立っている時に行われているという文脈になっているので、「有身見の疑い」について検討するときも、この文脈は踏まえられなければならないはずなのだが、ブログ主であるid:Zhaozhou_zenjiさんがこの文脈を踏まえておられるのかというと、踏まえておられないのではないか(下記)。
>今は、「私」という感覚があるけど、修行して、それを幻想と喝破する。
>「私」という前提が暗黙裡にあり、パオ・メソッドの最終段階で「空」を体験し、「なぜわたしが『空』を体験できるか?」と混乱する。しかし、「わたし」なんてものは単なる幻覚、Sakk?ya-di??hiだから、初めからないわけだ。
「私がない」という「前提」は上述のとおり(共著p.131)に成り立っているはずだから、そこにおいては、「『私』という前提が暗黙裡にある」とは言えないはずではないか。
そもそも、ある人に或る〈前提〉が「暗黙裡にある」ということを、その本人でない人がなぜ言えるのだろう。他人の立場で外から観察しているだけで、〈誰それには○○が暗黙裡にある〉ということが分かるのだろうか。
もしも、何らかの推論の結論として〈誰々には○○が暗黙裡にある〉ということを主張しておられるのなら、その推論の過程は書かれなければならないだろう。(それを書き上げてもなお、それは仮説であるにとどまるけれど)。
また、例えば単著のほうのp.157末尾の記述(下記)をみると、ピッチャーとか青空という「主体らしきもの」を設定する言説は、「実際の瞑想で起こること」を説明するための方便であるという読み取りもできる。
《ピッチャーは二人いると考えるほうが、実際の瞑想で起こることを、はるかにうまく説明できます。このリリーフ・ピッチャーを、私は青空と呼んでいるのです。》
これが実際に方便であるのだったら、方便である言説に「有身見の疑い」をかけることは妥当なのか、それにはどういう意味があるのか、という点も検討されるべきだと思います。(説明のための方便として読める表現は、この「ピッチャー」の例以外にも、2冊の本の各所で述べられていますよね)。
方便の字面が「有身見っぽい」としても、その方便に導かれて何ごとかを実践している本人が有身見を起こしているとは限らないですから、有身見の存否は字面だけでは判断できませんよね。勿論ブログ主さんも分かっておられると思いますけれど。
>山下師はSatiの「奥」にアートマン的な青空を設定している。
それはブログ主さんの仮説ですよね。真偽不明の仮説だから、もしもこれを「前提」として採用して何らかの推論を進めたら、その推論は、真偽不明の命題を推論過程に含むことになるので、その推論過程や結論の信頼性は低くなりますね。
>「形ない存在である『青空』が形ある存在である呼吸やNa-maru-pa(名色)を認識する」
>というのは、おかしいのではないだろうか。
>師の論拠の前提である「形ないものと形あるものでカテゴリが別なものは認識できない」
そういう「前提」の出典が分かりません(同3行目)。
2冊の本の中で「できない」と明言されているのは上記のbだけではないですか。例えば、単著のほうのp.154。
「別のカテゴリー」という言及は、共著のほうのp.259に出てきているけれども、「カテゴリが別なものは認識できない」という「前提」なり「結論」を著者が採用していることを示す出典(ソース)は、どこにあるのだろう。
むしろ、著者がそういう「前提」なり「結論」を採用していないらしいということが、共著のp.260~261にかけて「生死即涅槃」とか「わたしにおいて有為法と無為法が一つ」という表現で書かれているではないですか。
>「『私の本質』であって、無我とも矛盾しない青空」というのは、論理的に破綻している。
>だとすれば、それは「論理的に謎だが、そういう存在」として、信じこむしかない。
>「理屈じゃないんだ。体験なんだ」と体験のないものをねじ伏せる「詰め将棋」がそこにはある。
「論理的に破綻している」ということが、誰にとって、どういう文脈において、どういう意味をもつのか。それがわからないと、「○○は論理的に破綻している」ということ自体の意味がわからないと思いますが、ブログ主さんにおいては、そのことは具体的に整理がついておられるのですか。
「~として、信じこむしかない」という判断がうまれてくる経緯というか推論過程がわかりません。
また、「~として信じよ」という主張がどこかでなされていましたか?
〈「詰め将棋」がそこにはある〉という判断がうまれてくる推論過程もわかりません。(「詰め将棋」という比喩の意味は了解しています)。
「ねじ伏せる」という表現が該当するような行為や言説が、どこかでなされていましたか?
上記引用文の3行目について。「理屈で言うことができない」という制約が在るとしたら、その制約があることの原因や責任は、属人的であるか、そうでないか。制約が原理的なものであるなら、その制約があることの原因や責任を個人に帰することはできないでしょう。
>師の主張は、「青空は無我と矛盾しない」というものだ。しかし、それについて、納得行く、根拠はついに聞けずじまいだった。
もしかすると、「納得」で処理というか対応しようとすること自体に何か問題があるのかもしれない。(あくまでも可能性の指摘ですからね。「詰将棋が始まった」なんて言わないでくださいね。言わないと思うけど)。
>ある体験に対しての「青空」という「解釈」は論理的に不可解な部分がある。
>だから、「そういうもの」と無理矢理受け入れるしかなく、偶像化、形骸化すると思う。
「論理的に不可解な部分がある」という前提から、「無理矢理受け入れるしかない」という結論が出てきていますが、この前提から結論へ至る推論過程がわかりません。
「論理的な整合性の有無」と、「偶像化/形骸化の可能性の有無」との間に、必然的な関係は無いのではありませんか。有りますか?
「概念として理解して下さい」という主張が、どこかにありましたか?
>何を信仰するかは個人の自由だが、「これが仏教3.0だ。次世代の仏教だ」などと仏教界全体を巻き込んでくるとなると話は違ってくる。
仮説にすぎないものを「信仰せよ」という主張が、「仏教3.0」なるものにおいて存在しているのかどうか。私なら、まずそこから調べたいと思います。
>個人的に、「青空理論」は、仏教のメソッド、哲学を使っているが、なんか全然仏教とは異質な新宗教理論だと思う。
「個人の感想」であっても、その「感想」を成り立たせている何らかのロジックなり推論過程はおそらく存在しているでしょうから、それをお書きになっても構わないと思います。
ブログ主さんへ:反論などありましたら、ご自身のブログにお書きになってください。定期的に読みにうかがいますので、いずれ気づきますから。
去年結婚したばかりの友人が、昨日仕事を終え帰宅したら、命の次位に大切にしていた車が消えていて、代わりに軽自動車が置いてあったらしい。
嫁さんに聞いたら、知らぬ間に勝手に買い換えていたそうだ。
https://twitter.com/orange_misaka/status/482325153792028672
釣り釣りと言われているけどザラに居るよこういう人。特に田舎の「おかん」。
都会に住んでいる人は、田舎に特有の「私有財産やプライバシー意識の希薄さ」から逃げて引越している人が多い。
(逆に言えば生まれつき都会の人は「おかん」レベルの意識であることもザラだということ)
基本的に「他人の趣味嗜好を尊重する」というのは高度な能力だと感じている。
尊重するよう育てられなければ、他人の趣味を嬉々として踏みにじり、自分の趣味が踏みにじられると激怒する人間になる。
教育を受けなければそうなるのが自然で、それこそ動物的な姿なのだと思う。
モノを捨てるという行動に出るのは女性に多いけど、趣味嗜好を言葉で踏みにじるのは男性に多い。
人が「好き」と言っているものを、ニヤニヤと下衆な笑顔を浮かべながら全否定する男性はとても多い。
というより「下衆な笑顔を浮かべながら全否定」をしないというだけで、その男性はレアなくらいだ。
朝の地下鉄での事。
立っているが、人に触れないくらいの混み具合だった。
何事かと皆がホームを見る。
「お前痴漢しただろう!」
尋常じゃない切れっぷりで男性の手首を掴み、逃げられないようにする女性。
50歳くらいでロングスカートを履いていたが少し変なコーディネートだった。
「いまー!!!!!痴漢されたんですけどー!!!!!!」
わめいて何言ってるか分らない状態。呂律も回っていなかった。
言葉遣いが男みたいで、吠えているようなかんじだった。
男性の方は30代くらい。
髪の毛が短く、爽やかなサラリーマンだった。
尋常じゃない女性を前に、怒りを抑えながら電話をかけようとしていた。
この状況で私は、ああ冤罪かなと思った。
とにかく女性の行動が、気が狂ってるとしか思えない人の行動だったからだ。
外見もあるだろう。
おばさん。
そしてよくわからない服装。
痴漢の被害者って、大人しそうな服装か露出が激しかったり制服だったりそれなりの「ありえる」な格好だと思うんだ。
でもあの女性の服装は「へん」だった。
原宿みたいな奇をてらったコーディネートではなくて。
例えば、上は薄汚れたトレーナーで下は夏のバカンスで履くような大柄花模様のひらひらスカート、
見ていて不安になるようなそんな服装だった。
普通に近づきたくない感じだし。
外見で判断してはいけないと良く言うけれど、あれは仕方ないなと思う。
でも本当の痴漢は滅ぶべし。
最近夜間頻尿が続いている。
夜間頻尿の定義はわからないけど、とりあえず僕は就寝してから1,2回は確実に尿をしに起きる。
元々尿の回数は人より多かった。
友達と遊んでる時、ちょっとトイレしてくるといってから戻ってくるスピードが尋常じゃないと言われた。
もしかして頻尿って、尿の噴射するスピードと関係あるかもしれない。
でまあ。
最近はベッドに入ってる時間は長いけど、寝てる時間はすくない。
寝て、尿がしたいということに気づくまでの間、半覚醒みたいな感じになっちゃって、多分この状態も寝てない状態に入ると思う。
昨日は合計睡眠時間は多かったけど、平均睡眠時間は4時間くらいだと思う。
もし僕が睡眠不足で入院、事故、過労死でもしたならば、原因は頻尿にあるのだ。
今晩はぐっすり寝たい。
大して頑張ってないけど上達する分野もあると体感する自分にとって、努力していないから上達していないのだ、とする話は辻褄が合わない印象を受ける。
僕は努力しなくても人より上の実力を持っている分野がありました、と言うと、今度は生意気な姿勢だと勘違いされて叩かれる。
一方で全く才能がない分野で頑張ってみて、明らかに言い訳の範疇を超えて才能の問題だと気付かされたこともある。それは僕以下の人間を見てもはっきり分かる。この練習を取り入れたらいいのに、と思うこともあるが、自分が思う練習を既に取り入れている人もいて、そうなるともう、後は気づくか気付かないかの違いになる。
剣術家(古武術家)の甲野さんは、やたら滅多に練習せず、気づいた時だけ訓練を開始する、を実践した日があったそうで、しかし猛練習しない甲野さんは現代体育からしてマジックとすら言える体術を身につけている。
だから僕の上の人たちが「あいつ鈍いな~これやりゃ直ぐ覚えられるのに」なんてことを思ってるだろうし、しかし彼らが思うことも実践していたりする自分もいる。
要するに分かっているのに出来ない。そもそもの学習ハードルが高すぎてできない。
出来ないのは分かっていないから出来ないんだ! と言った話ではない。それ以前の問題。
才能の壁が分かったら、天才の方法論を分解して理解することに務めるが、そのハードルが尋常ではなかったらどうするのだろう?
僕は哀れみでもなく老婆心でもなく、何も言われぬ気持ちで自分以下の人間を見つめることがある。そこいるのはグレードの低い自分であり、結局は下段スパイラルにいる鏡にすぎない。
上から僕のうなじに、そうした目線が向けられているのだろうか? 下から見上げると、努力すれば何でも叶うと思い込んでいる人種共が、と思ってしまう自分もいる。
彼らは本当にそう思っているだろうか?
彼らは彼らで上を見上げていることを、度々目撃する。
医学部は、1年か2年はクッソ楽。普通の学部と変わらない。普通にドイツ語とかフランス語だけやっとけば普通に受かる。
エグイ。確かに、医学を学ぶにはまず人体を知らなければ。という理屈は分かるのだが、とにかく量が多くてびっくりした。広辞苑みたいな教科書がドカドカと数冊積まれて、「この量を覚えるんだよ」と言われる。パニックになる。
周りが「この学年の勉強はキツい!ガチでやらないと普通に留年する!」と焦るのだが、何をしていいのか分からない。暗記をしてみるもとてもじゃないが追いつかない。覚えられるはずがない!となる。
まず始まるのが、過去問や授業資料の取引。先輩などからもらった資料を元手に他の友達からも資料を交換しまくる。
また、仲がいい奴らで集まって、効果的な勉強法なり、周りとの足を揃えて知らず知らずに処置無し状態にならないように必死になる。先輩などからどの時期に何を勉強するのか必死に情報を手に入れる。
「暗記は無理」→「過去問から1割くらいは出るし、勉強すべき分野が絞れるぞ」→「そうやっても全然覚えられない」→「できるやつがまとめノートなり、全体のオリエンテーションをつける講義をやってくれる」→「全然覚えられない!!!」→「テスト2ヶ月前にガンガンひたすら覚える」→「1ヶ月前に2周目に入ったでも全然覚えてない!」→「2週間前に3周目、なんとかなるかな???過去問もなんとか合格点超えるなあ」→「テスト直前に長文などブーストが効く奴をやりつつ短期記憶に詰め込みまくる」→「なんとか受かる」
多分、このパターンが一番多いと思う。ちなみに、2ヶ月は無いと受からない。前期後期とテストがあるなら1年の内4ヶ月は受験生より勉強することとなる。1日15時間という勉強量に焦るが、周りも普通にやっており、やらないと終わらない。
ここで気づかずに2ヶ月残せない状態でノーベンだと、だいたい留年する。
次の学年くらいから、一般的な病気にかかわるものを学んでくいく。
このあたりから勉強法が自分に合ったものを採用したり、効率がよい勉強を覚えていくようになる。なにしろ高校までの勉強とは明らかに異質な暗記マシーンとなるので、自分を変えなければならない。
「全く臨床に関係無いものにどうやって興味持つんだ無理だ」→「書くと覚えやすいかなオレは」→「質より量で長時間の勉強でできるだけストレスをかけないのがいいから音楽聴きながらやるといいな」→「とにかく学校で友達とやると肝外しな勉強にならずにすむ」→「とりあえず3周すると忘れにくいかな」→「授業の参考資料+成書での深い記述+とりあえずまとまりがいい資料の3コンボでまわすのが覚えやすいな」→「むしろ出題者の意図を読めば選択脚が覚えやすいな」→「友達とやらないと、出題者特有のその問題ごとの攻略の仕方が膨大すぎてとらえられない」→「コツコツ1年ずっと勉強するのは不可能だ」
まあ、いろいろ工夫をしだす。
ハッキリ言って、マトモにやったら絶対無理な量をこなすこととなる。「試験って次何教科?→18教科かな→(゜Д゜)」リアルである。全員ものすごく焦る。信じられないからだ。2ヶ月で終わるのか?と思う。
しかし、一応この学年まで生き残った人々、それなりに勉強法は心得ている。が、それでもキツい。ほぼ1年、勉強に費やすというのも普通。
頭では、「実際の患者さんの為に、ここが本番なんだ」となるが、そんなもの、人格を破壊するかのような学習量にズタズタになる。何も考えられないほど1日勉強でつぶれるなんてざらである。10日風呂に入ってない、ありがちである。
ところで、ここまでで気づいた人もいるかもしれない。「2ヶ月なんて毎日勉強とか時間取れるの?」当然だが、夏休み、冬休みを突っ込むことになる。再試にならなければ、1,2週間は遊ぶことはできるが、再試にかかるとその年の夏休みは終了。
④さあ、臨床の場へ!
正直楽だった。テストが無く、ひたすら目の前の患者さんと臨床に尽くすだけでいいからだ。勉強はそりゃほぼ毎日する。目の前で横行する臨床を見て、知識が足りない!と焦って学校の後に知識を補充すべく勉強する。
ああ、これが本当の勉強だよなあ、と感動する。
⑤国家試験
正直楽だった。臨床の場で得た体験が結びつけば覚えやすいなあという感じであった。それに、1回やったことの繰り返しの部分も多かった。また、コレまでに比べて考えればなんとかなる問題も多く暗記量を理解で減らしまくれた。
思えば①~③までの勉強がキツかった理由を考えると
Ⅰ 勉強方法が明らかに高校までのものと違い勉強法が分からない
Ⅱ 2ヶ月前からずーっと1日10時間以上勉強する、などという経験がなく合宿みたいで辛い
Ⅲ 暗記量が尋常でなく、数学や物理みたいな暗記いらずの分野で稼ぎまくったタイプかつ、歴史など暗記がまったくできなかった自分の能力特性が悪すぎた
Ⅳ 試験前に病気や怪我をしたことが多く、それでも勉強しなきゃという現実が辛かった
Ⅴ 理解して暗記するというプロセスの有効さや復習の有効さが理解できていなかった
Ⅵ 先生の趣味みたいな問題が多く、しかも出題する先生が1教科15人×10教科など多すぎて過去問を見ても出題傾向がつかみにくい
Ⅶ とにかく先生の趣味みたいな問題でまったく取れない分野が多い
といったことがあげられる。