森鴎外 【もり・おうがい】

小説家、戯曲家、評論家、翻訳家、陸軍軍医。本名、森林太郎。文久2年2月17日(旧暦1月19日)〜大正11年7月9日。島根県津和野町に生まれる。明治14年、東大医学部を卒業し、陸軍軍医となる。明治17年から21年にかけてドイツに留学し、医学を学ぶ傍ら、文学、哲学、美学への造詣を深める。明治23年、小説「舞姫」を発表。雅文体ながら近代小説の骨子を持ち、日本文学の前時代からの戯作気質脱却を促進した。また、新しくかつ該博な海外思潮・文芸の知識により、訳詩集「於母影」(明治22)や、評論集「月草」(明治29)など、小説以外のジャンルでも同時代を啓蒙しつづけた。明治40年、陸軍軍医総監となり、軍医行政のトップとなる。後期には創作を離れ、「渋江抽斎」(大正5)など、史伝、考証の世界へ入っていく。大正11年7月9日、死去。享年60歳。代表作は「舞姫」「ヰタ・セクスアリス」「雁」「阿部一族」「渋江抽斎」など。

〔リンク〕
森鴎外@フリー百科事典『ウィキペディア』
森鴎外@文学者掃苔録図書館


著作目録

小説・戯曲・詩歌 : 発表年順

翻訳 : 発表年順

医事・軍事 : 発表年順

日記・手記 : 執筆年順

エッセイ・その他 : 発表年順



回想録

 晩年には武鑑を集められたが、その動機は例の伝記物を書く必要からであつたらう。書物は和漢洋にわたつて随分沢山あつた。ドイツの物は丸善の手を経なくて、特約のある向ふの本屋から直接に買はれたが、一年かの勘定が何時も知らぬ間に千円以上に上るので、愚痴をこぼしながらやっぱり注文する事をやめられなかつた。
 新刊物を読んで、ある作家が気に入ると、その作家の在りたけの著述を向ふへ注文される。新本の売り切れた分は古本で集められる。そういふ徹底したやり方であつた。(中略)
 一しきり夜店の古本を買集める事に興味をもち出して、毎晩陸軍省からの帰りに本郷の露店を漁られた。それに軍服では目立つといふので、わざわざ宅から役所へ和服を取り寄せて、帰りにはそれに着替へられた。しかもかやうにして買い集められた古本は一々消毒した上で、製本屋へ廻して製本を仕直された。中身よりも製本料が高くつくけれど、先生はそれを何とも思はれなかつた。
伊原青々園「鴎外先生」
大正11年8月



 余り深く親灸しないから能くは知らぬ。ただ鴎外君の読書癖に至つては実に驚嘆する。恐らく文壇と言はず総べての方面を通じて、鴎外君の如く多読する人は、その匹を求め難いであらう。専門衛生学――此の方面に於ける鴎外君の造詣の大なることは、文壇の人々は余り知らぬが、矢張り偉いものであると云ふ話だ。鴎外君の「日本食論」「日本建築論」は、何れも独逸の学界を動かしたものである。――及び何より好きな文学は勿論、その他どんなものでも、手当り次第に読んで居るらしい。その一例を挙げると、鴎外君は嘗つて東京気象台の報告を、尽く調ベて居たことがある。また嘗つて地質学会編纂の辞書を、丁寧に写して居たことがある。凡そ学術に関するものは、大抵な問題には相当の造詣を持つて居るし、意見も貯へて居る。また驚くのは斯く云ふ高尚なものばかりでなく、下らぬ都々逸や川柳までも読んで居る。一頃あつた「おやかましゆう」などゝ云ふ雑誌も読んで居たものだ。鴎外君の衛生学ではどう云ふか知らんが、鴎外君が精神上の糧として貪ぼる食物は、味噌も糞も皆一緒のやうだ。立派な滋養分も取るかはりには、毒までも呑んで居るやうだ。何しろ偉い読書家である。
内田魯庵「森鴎外論」
明治43年11月



 鴎外は睡眠時間の極めて少ない人で、五十年来の親友の賀古翁の咄でも四時間以上寝た事は無いさうだ。少年時代からの親交であつて度々鴎外の家に泊つた事のある某氏の咄でも、イツ寝るのかイツ起きるのか解らなかつたさうだ。
 鴎外の花園町の家の傍に私の知人が住んでゐて、自分の書斎と相面する鴎外の書斎の裏窓に射す燈火の消えるまで競争して勉強するツモリで毎晩夜を更かした。が、どうしても夫まで起きてゐられないので燈火の消える時刻を突留める事が出来なかつた。或る晩、深夜にふと眼が覚めて寝つかれないので、何心なく窓をあけて見ると、鴎外の書斎の裏窓はまだボツカリと明るかつた。『先生マダ起きてゐるな、』と眺めてゐると、其中プツと消えた。急いで時計を見ると払暁(あけがた)の四時だつた。『之ぢやァ迚も競争が出来ない、』と其後私の許へ来て話した。
 尤も二時三時まで話し込むお客が少くなかつたのだから、書斎のアカリの消えるのが白々明けであるのは不思議で無い。『人間は二時間寝れば沢山だ、』といふ言葉は度々鴎外から聞いた。『那破烈翁は四時間しか寝なかつたさうだが、四時間寝るのを豪がる事は無いさ、』と平気な顔をして、明け方トロトロと眠ると直ぐ眼を覚まして、定刻に出勤して少しも寝不足な容子を見せなかつたさうだ。
内田魯庵「鴎外博士の追憶」
大正11年8月



 小さい時にはむつくりした可愛い子であつた。語学なども独逸、仏蘭西、イスパニヤ、もやつて居た。仏書も読むから、サンスクリツトも出来る。その読書もあゝ云ふ男だから、決して半解不熟な読み方ではない。直ちに眼玉は紙背に徹して了ふ。煙草は葉巻を好むが、余り多くは吸はない。不断の養生には随分気を付けて居る。
 斯う云ふことがあつた。森と私と二人で本郷へ下宿して居た時分――下宿と云つても三円ぐらゐのもので、ひじきと油揚を食つて居た。或る時私が湯から帰つて来ると、洋服など着込んだ立派な人が来て居て、森先生は居らつしやいますかと云ふ。二階に上つて見ると森は机に向つて何か勉強して居たので、「オイ、森先生。」と呼ぶと、振り返つて「先生とはなんだ。」と云ふ。「何んだか知らんが下に森先生は居るかと訪ねて来て居るよ。」森は下へ降りて行つた。暫らくして上つて来たので、「何んであつた。」と聞くと、「うん、読売新聞に蛙の話か何かを書いたので、面白いから、後も書いてくれと云つて来たんだ。」「先生なんて、大したものぢやないか。」「何んだか馬鹿に丁寧で変であつたよ。」それが森の未だ打つかぶり小僧の十三四の時分のことである。
賀古鶴所「森鴎外論」
明治43年11月



 森君は医者でありながら昔から医者を斥けて、体温も量らず、十年程前肺炎を患つたが、それでも陸軍省へ休まずに勤め、往きも帰りも時間はみんなと同じで、内へ帰れば読んだり書いたりするのが仕事でした。
 その時私が「君、肺炎だと云ふが、どの位の体温だえ、薬は飲んでゐるかえ」と聞くと、「体温は幾らあるか取らない、薬は飲まない、口が乾けば水を飲むさ」と云つたやうな具合です。森君の様子を見ると熱は高いやうであつたが、役所へ行く、行つてもうつかりはしてゐず、役所でも内の部屋と同じやうに書物が並べてあつた、それは病苦を忘れる為、つまり精神で病を押へ込んでゐるのだらうと思はれたが、まあ一体に病気に対する考は常にそんな調子でした。
 もう一度大病になつた時も、相変わらず役所へ出掛けた。すると課長が私の所へ来て、「森さんには困ります。便所へ行つて見ると赤い便なのです。お休みになつたら好いでせうと云つても、一向お聞入れになりません、あなたから一つ云つて下さい」と云ふから、私が「そんなら斯う云つたが好い。陸軍衛生の頭がさういふ糞をたれると、それが他に伝染しては困るから、赤い糞をたれなくなるまで引つ込んでゐて下さいと云ふが好い」とさう云付けたので、課長がその通りに云つたら、初めはなんとか云つて聞かなかつたさうだが、是非なく当分休んだけれど、内ではやはり読み書きを続けてゐたのです。
賀古鶴所「通夜筆記」
大正11年8月



 弁当は長い間宅から奥さんの作られたものを持つて来られたが、小豆の煮たのを入れておられることもあり、また沢山小さな新聞紙などに包んであるものを持つておられるから、何かと思ふと、その中から福神漬とか、沢庵とか色々な漬物が出る。私は始めはお医者さんだから非常に滋養のあるものを食はれるかと思つて居つたが、小豆とか、葉漬とか、沢庵と云ふものばかりだから不思議に思つて一遍訊いたことがある。「先生は一体何がお好きです」と云ふと、曰く「僕は好き嫌いはない。何でも食ふ。」と云ふことで、西洋料理など取られたことは一回もない。(中略)先生が云はれるには、西洋料理などでドロドロにして居るものなどは、あれは多くの人の手を経て居るから黴菌が多く食付いて居る。だからあんなものを食ふと下痢するんだ。それで僕は西洋料理は食はない。仕出の弁当を食はなければならぬ時には卵焼とか奈良漬とか梅干とかだけ食つて他のものは捨てるのだ。と云つておられたから、不断のことも衛生上から来て、倹約の上からではないらしい。それからパンを食つておられたが、妙なことには焼芋を好んで食はれた。これは非常に美味しくて、一番安価で、十銭も買つてみると僕が食つて、残つたのは給仕にやることが出来、焼いてあるから黴菌は死んで、これくらゐ安くて、甘いものはない、と云はれた。
神谷初之助「帝室博物館長としての森先生」
大正11年8月



 本年二月号の「文藝春秋」の幸田露伴氏の談話中、小島氏の「森先生は胸襟を開いてお付合出来た方でございましたか」といふ問に答へて、「さうですね、だけどもこれは西国の方の人の臭がある人だから、それで人によつては何だかどうも話しにくい、城府を設けて居る奴だといふ評を受けることにもなつたのでせう。」といふ一節がある。我々弱輩に対しても先生は少しも甘い所はなかつた。間違つた事を云へば遠廻しに匡すし、こちらが少しでも攻撃的に出れば、手厳しく返報する。それで森先生といふ方は、いつも楯の中から首を出してゐるやうだと考へたことがあつた。
 先生にお目にかかつて同じ話を二度聞いたことが無い。いつも新しい話題を持つて居られた。新刊の外国雑誌又新聞に拠つたことでなければ、人から入つた新しい知識である。大塚甲山などといふ人も先生を信頼して、その数奇なる閲歴を口づから物語り、又或人はその日記を委托したりなどした。僕等に対しては先生はかなり腹蔵なく物を話された。殊に人物に対する批評(偶然の機会で話される短評)は甚だはつきりとしてゐた。好く言はれなかつた方は、忘れもし、また言ひにくゝも有るが、好く言はれた方は今茲に伝へて可からう。夏目さんをば大に重じて居られた。副島種臣氏の漢学は正統なる古典の学であると云はれた。女では与謝野晶子、平塚雷鳥の二女史を挙げられた。上司小剣氏の小説はいかにも小説の体を得てゐていつも面白いと批評せられた。何しろ先生の点は辛いので、好く言はれた人の名を思ひ出すこと中々困難である。
木下杢太郎「森鴎外先生に就いて」
昭和8年4月



 先生の日常生活は甚だ規則正しく一見甚だ平坦無奇でありました。然しそれは調節の作用の結果で、不必要な事に活動しなかつたからであります。旅行の如きも極々必要でない限り為さらなかつたやうでありました。即ち奇が無いと云ふことは消極的のことでなく、積極的の意志のはたらきに由来してゐることだつたのであります。
 また先生の行動は極めて保守的でありました。過激のところは少しも無かつたのであります。「俗の為めに制馭せられさへしなければ、俗に随ふのは悪るい所ではない」と、己に壮年の時代に言つて居られます。即ち試験室、研究室にも譬ふべき脳髄内の思想活動と、社会、国家の裡に処する行動との間には、なほ幾段の階級が有り、社会、国家の健全なる活動を営むにはこの間に十分の思慮と抑制の作用を施さねばならぬと云ふことを明にしたことだと思ひます。
 がまた同時に東洋のあきらめの思想、日本の武士道の精神などが、その一つの源動力になつてゐたことも否めないと考へます。先生の進歩的の思想とその平坦な生活との間の関係はなほ十分研究する価値が有るのであります。
木下杢太郎「森先生の人と業と」
昭和11年6月



 子供の頃眼のつるしあがつた細面の人を見ると、理由も無く私は意地悪と決めてしまつてゐた。
 博物館の玄関番をしてゐた人に恰度そんな顔をした人がゐたので、
『あの人はきつと悪い人よ』
と言つたら、
『そんな事を言ふものでは無い』
と言つて父に叱られた事がある。
 軍服を着た父と肴町の電車通を歩いてゐたら、汚い男の子が四五人ばらばらと馳寄て来て、てんでに父を見て眼を光らせながら、
『やあ、中将だ、中将だ』
と叫んでゐたがやがて、
『なあーんだ、軍医か』
と如何にも軽蔑したらしく言つて向ふへ行つてしまつた。
 父はにこにこしながら、
『よく知つてゐるものだな』
と言つて驚いてゐた。
小堀杏奴「回想」
昭和11年4月



 しかし、さらに厳密に考へて見ると、森林太郎氏は、文壇の先覚者であつたには相違ないけれども、教師といふよりはやはり研究者と云つた方が適当であらう。何となれば、森林太郎氏は後年になるに随つて書斎に閉ぢこもつて、講壇にも、もちろん街頭にも、立たなくなつたから、森林太郎氏は初めから、通俗的の分子は一つもなかつた。坪内逍遥氏は最初から、講演者であり、尾崎紅葉氏も純然たる小説家であつたのである。森林太郎氏は通俗の文字を嫌つて、例へばハルトマンの紹介が難解だと云つて非難された時、昂然として「是れ予の素より期する所」であると云つた。この態度は最後まで保持された。もし言葉の正しい意味において文壇の教師であつたならば、決してそんな態度は取らなかつた筈である。少なくとも教へ導くといふ心の動きが現はれてゐなければならなかつた。森林太郎氏はしかし決して書斎を出なかつた。少し皮肉な云ひ方をするやうであるが、自分が常に世間の大衆より一歩を先んじてゐることをひそかに誇りながら勉強を続けてゐるやうな人であつた。
野上豊一郎「森林太郎氏の功業」
大正11年8月



 夜になつて、話が大分はづんで来た時分であつたと思ふのだが、私が、
『此度の戦争は実際日本が勝つたのですか』
と、聞くと、大人は、
『いや、大変なことを聞くぢやァ無いか』
 と、身じろぎするやうな身振りをして、快ささうに笑はれてから、可なり真面目な顔になつて、
『兎に角、世間でいふやうな訳のもので無いだらうと思ふ。奉天の戦の時などは、陸軍の公報では「敵は潰乱せり」といふのであつたが、私はさうは思は無かつた。露軍は十分に退却の用意を整へて居たことは明かであつたんだ』
と、云はれた。
 それから、金州城の攻囲の際にも、日本軍には砲撃の準備が不十分であつたが為めに、殆んど苦戦であつたことを話され、
『城を陥れてみて、始めて防備の完全であつたことが分つて、日本軍の砲撃の効の無かつた訳が明かになつたのだ』
 と云はれ、それから尚進んで、日本軍が有効な砲弾をは如何にして得たかといふことの説明を吾々に与へられた。
 私が新聞の従軍記事なるものが、何れも此れも千遍一律の観があつて、陳套を脱し得無いことを笑ふといふと、大人も顔を顰めて、
『いや、実に馬鹿な話で、彼等は実際にはさまざま特徴のある事を見るのだが、それを筆に上(のぼ)すことになると、忽ち陳言套語の行列になつて了ふのだ。例へば、満洲では、気候が寒いのだから、土がすつかり凍つて了つて、ぽろぽろになつて、それが河の氷上などには、黒く吹き寄せられてゐて氷が見えぬ位になつて居る。一望皚々たる眺などゝいふのはウソである。遼河の氷上などが矢張り黒土の吹き溜りであるんだ。所が、それが新聞の従軍記事では、全軍白雪を蹴立てゝ突進したとなつて居る。何処へ行つたつて、黒い白雪といふのがあるものか」
 といふやうに答へられた。
馬場孤蝶「鴎外大人の思出」
初出未詳



 私は先生の頭の働きの輪郭を述べたが、そこへ太い線として挿入したい特性を二三書き加へると、その第一は非世俗的といふことである。先生は何事にもあれ俗な事を嫌つた。菊人形、花火、見世物から通俗作家に到るまで皆嫌ひである。デウデルマンなどは読まないことを誇り(?)として居られた。その二は組織力である。これはドイツ留学中に学ばれたのかも知れないが、陸軍省医務局、博物館、図書寮など先生の行く処、新しい秩序の出来ない処はなかつた、この組織力の賜である。その三は何にも几帳面であつたといふこと、煙草の灰の畳にこぼれることさへ好まなかつた先生のことだから、書物の整理などのよかつたことは言ふまでも無い。古今東西に渉る万巻の蔵書の所在をほとんど誤らず、必要に応じて引き出して来られ、直にまた元の処へ直された。その四は強いて異を樹てなかつたことである。之は情の人、意志の人として周囲の為にぢつと我慢せられたのである。この為にも一部には多少の誤解を受けたかもしれないが、それをどうかう思はれることも無かつた様である。
平野万里「森先生の輪郭」
大正11年8月



 私の父は頭が大きかったので、普通の人の帽子を見馴れた眼で父の帽子を見ると平たく、横に大きい感じがして独特で、あった。私は父についてよく帽子屋に入った。
 番頭が出して来る帽子はどれも父の頭には小さかった。「もう少し上等の分を見せてくれ」と父が言った。「上等の分」という言葉は番頭には直ぐには分らなかったが、意味が解ると、番頭の顔には薄ら笑いが浮ぶのであった。奥から出して来る帽子も、父の頭には嵌(はま)らなかった。番頭達は人並外れて大きな頭の人を、笑いを耐えたような顔で、眺めた。灰色の単衣を着て、薄茶の献上を下手に結び、太いステッキをついている父はカイゼル皇帝が浴衣を着たというようで、奇妙であったし、態度や言葉もふつうの人と少し違っているので、彼等にはどんな人なのか全く解らなかった。それで彼等は田舎から出て来たお爺さんだろうと定めてしまうらしかった。父はそういう番頭達に対していつも深く腹を立てていた。そうしてその怒りは母なぞが不思議に思う程ひどかった。(父は普通、人がどうでもいいと思うような小さな事に、深く腹を立てる人であった。相手は電車の車掌、精養軒のボオイ、車夫、店員なぞで、父が怒るのは彼等が父を田舎のお爺さんのように扱う時、又は料理の名を英語で言って解るまいという顔をする時なぞで、あった。父は直ぐに正しい英語で命じ直したり、又或時には、目的地に着かないのに俥を下りて歩いたりした)。
 そういう風にして何軒も帽子屋を廻って歩いて、父は自分の帽子を見つけるのであった。
森茉莉「父の帽子」
昭和31年7月



或時は私達は植物園にゐた。父は東屋のべンチに膝を曲げて横になり、麦藁帽子の下に半ば顔を見せて、本を読んでゐた。私達は芝生の中の小さな花を摘んだり馳け廻つたりするのに厭きると、黒い木立の底に光つてゐる池の方へ馳け下りたりしてゐた。或時は夏座敷の真中に父は肱を突いて低く坐り、本を読んでゐた。傍に白い大きな茶碗にチョコレエトが半分飲んで置いてあることもある。夜は明るい部屋と庭の闇との間に、淡赤い岐阜提灯が瞬いてゐた。そんな時の父の周囲にほ不思議な静かさがあるのを、私は感じてゐた。私にはどうして父がそんなに静かなのか、解らなかつた。父は広い世界の中で、静かで安楽な場所を見つけ、さうして其処に坐つてゐるやうに、見えた。私は生れつき落ついた質ではないけれども、さういふ父のそばにゐると自分の心が、まるでゴム風船のやうにフワフワとしてゐるやうな気がした。小さな私にはさういふ父の静かさがひどくつまらなくて、厭な時が、あつた。そんな時私はよく父の背中に飛びついた。私が父に飛びついたのは父が好きだからだつたけれども、ただそれだけではなかつたやうだつた。読んでゐる本から来るのか。何処から来るのか知れないその静寂に、軽い反抗を感じて、その静かさを動かし、父の注意を自分に向けさせようと言ふやうな心持が、その中にはあつたやうな気がしてゐる。
森茉莉「父と私」
昭和32年2月



 私は鴎外先生の部下にあつて、先生の指揮の下に活動して居つたことはおよそ七年間であつたが、私をして先生を評せしむれば淡々水の如き人であつたと言ひ得る。而して寡言沈黙の人であるとともに、非常に恩義に厚い人であつた。またすこぶる鷹揚なる人であつて、事務上の事なぞでは小事に拘泥せられなかつた。さらばといつて全然小事は放擲せらるゝのではなくつて、よく知つて居られた。ここが実際先生が傑出せられて居つた点であつて、我々から考へれば実際先生は何を考へて居られたのか想像がつかないやうな場合が多かつた。また先生は何事に対してもあまり多くを語られなかつた。たまたま文学上の事なぞについて先生に質問しても、その答はすこぶる簡単明瞭であつた。また演説をなさることなぞはすこぶる稀であつた。(中略)また我々が日常の事務を持つて行くと、その採決は瞬く間であつた。時には我々が持つて行つた文案を訂正なさることもあつたが、その文章は何時でも原文よりも短かくなり、意味は却つて明晰となつたのであつた。さうして常に「君達の書いたものは文章ではないね、ただ意味がようやく分かるばかりだよ」と云つておられた。
山田弘倫「陸軍軍医総監時代の森博士」
大正11年8月

ドイツ留学時代 明治45年2月 大正6年



■トップにもどる