夏目漱石 【なつめ・そうせき】

小説家。本名、夏目金之助。慶応3年2月9日(旧暦1月5日)〜大正5年12月9日。江戸牛込馬場下横町に生まれる。明治26年、東京帝大文科大学英文科を卒業。明治33年、文部省留学生として英語研究のため英国留学。明治36年、東京に帰り一高、東大の講師を兼任。明治38年、高浜虚子にすすめられ風刺小説「吾輩は猫である」を執筆。続けて「坊っちゃん」(明治39)、「草枕」(明治39)などを発表し、一躍人気作家となった。明治40年、朝日新聞社に入社。以後の小説は朝日新聞紙上に発表されることになる。明治43年、胃潰瘍の療養のため修善寺温泉に滞在中、大量に吐血し危篤状態に陥る。この体験は漱石の人間観、死生観に大きな影響を与えた。大正4年、初の自伝的小説「道草」を発表。大正5年12月9日、胃潰瘍の発作により死去。享年49歳。最後の小説「明暗」は未完のまま遺された。代表作は「吾輩は猫である」「坊っちゃん」「それから」「こゝろ」「明暗」など。

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著作目録

小説 : 発表年順

エッセイ・その他 : 発表年順



回想録

 先生の書斎は先生自慢の一つだつたに拘らず、こんなことがあつた。――ある時、アメリカの女(もう少し尊敬して言へば、御婦人)が二人連名で、先生へ訪問を申し込んだことがある。その女と言ふのは観光団か何かで日本に来たアメリカの文学――文学者とまで行かなくとも詩など好んで読んでゐる女らしく、勿論英語で申込の手紙を先生に寄せたのです。それに対し先生は訪問を断られた。断りの手紙は矢張り英文で認めたのですが小説を一篇書くよりもその方が骨が折れたと申されました。……アメリカの女の訪問を断られたことは如何にも不審に思はれたので、おそる/\先生に「どうしてまた、アメリカの女が折角会ひたいといふのを、断られたんです」ときくと「夏目漱石ともあらうものが、こんなうすきたない書斎で鼠の小便の下に住んでゐる所を、あいつ等に見せられるか、アメリカに帰つて日本の文学者なんて実に悲惨なものだなんと吹聴されて見ろ、日本の国辱だ」といかつい顔をしました。先生は実にかうした一面が多かつた人であります。
芥川龍之介「漱石先生の話」
昭和2年5月



 夏目さんは好く人を歓迎する人だったと思う。空トボケた態度などを人に見せる人ではなかった。それに話が非常に上手で、というのは自分も話し客にも談ぜさせることに実に妙を得た人だった。元来私は談話中に駄洒落を混ぜるのが大嫌いである。私は夏目さんに何十回談話を交換したか知らんが、ただの一度も駄洒落を聞いたことがない。それで夏目さんと話す位い気持の好いことはなかった。夏目さんは大抵一時間の談話中には二回か三回、実に好い上品なユーモアを混える人で、それも全く無意識に迸り出るといったような所があった。
 また夏目さんは他人に頼まれたことを好く快諾する人だったと思う。随分いやな頼まれごとでも快く承諾されたのは一再でない。或る時などは、私は万年筆のことを書いて下さいと頼んだ。若い元気の好い文学者へでも、こんな事を頼もうものなら、それこそムキになって怒られようが、先生は別に嫌な顔などはせられなかった。ただ「僕は困る」と言われた。と、私は、「いえ、悪くさえいわねば好いから……調法なものだ位いに書いて下さい」と頼んだ。そんな風で、いわばこちらで書き上げた物にただ署名してもらう位いにしても快諾されたことがある。
内田魯庵「温情の裕かな夏目さん」
大正6年1月



「君。なんだね。ときどき、自分のふるいものを読みかえすと大変ためになるものだね。このあいだ、何の気なしに読みかえして見て、だい分、読んで見たが、いま読むと、自分のいいとこ、悪いとこがはっきりとわかるね。」
「先生はどれが、一番いいとお思いになりました。」
「坊っちゃんなんか、一ばん気持よく読めたね。」
「吾輩は猫はどうです。」
「あれも悪くはないよ。」
「草枕は、いかがでした。」
「草枕かい。あれには、辟易したね.第一、あの文章に。」
「例の智に働けば角が立つ。情に棹させば流されるというやつですか。」
「ううむ。読んでいくうちに背中の真中がへんになって来て、ものの五枚とは読めなかったね。」
 みんなが思わずどっと笑った。
「虞美人草はどうです。」
「虞美人草はまだ読みかえしてみないが、あれも駄目だろう。」
江口渙「漱石山房夜話より」
昭和28年7月



 自分は出立前上京して長い間準備に費したが、上京後早速先生を早稲田南町に訪うて留学を拝命した事を話し、あちらでの生活に就いて自分の参考となることを伺ひたいと乞うた。その時先生は、他省の留学生と違つて文部省の留学生が貰ふ学費ではあちらで相当の生活が出来かねる事を話し、先生が居られた場末のクラパムの下宿屋の食物のまづかつたこと、ロンドンの空気の悪いこと、ロンドンよりもケンブリヂかオクスフォードがよからうがそれではなおさら留学費が少いので困るだらうといふことを話し、御両親があり奥さんがあるのに俸給を一文も与へぬといふ文部省はけしからぬ、御断りになつたらよいでせう、辞令書を返へしたらよいでせう、とおおいに辞令返却を勧告されたのには自分は内心はなはだ驚いた。それが少しも皮肉や戯談では無くて、全く真剣であつた。
大谷饒石「所感」
昭和4年3月



それからこの一篇の標題がまだきめてなかつた。「猫伝」としやうか或は冒頭の一句の「吾輩は猫である」といふのをとつてそのまゝ標題としようかどうしたものであらうと私に相談をした。私は無論「吾輩は猫である」の方を取ると云つた。それから漱石に所々に冗文句と思はるゝものがあるのを削りとつても好いかと念を押した。漱石はどうでもしてくれとの事であつた。その席上でも一二の文句は削り去ることを勧めた。漱石は筆を執つてそこを削り去つたと記憶してゐる。
 後の漱石は私がさう云ふことを云つても軽々しくは肯じなかつたであらう。殊に虞美人草を書くやうになつてから後の漱石は自分の原稿を消して書きなほすといふやうなこともしなかつた。一旦筆を下した以上は丁度相撲がとり組んだものの様で、もう後には引けぬと云つてゐた。自分でも直すことを肯んじぬ位であるから、まして他人の言を聞いて抹殺するとか改削するとかいふやうなことは容易に承知しなかつたであらう。が始めて猫を書いた時分の漱石はまだそれほどに自信がなかつたので容易に私の云ふ事を聞いた。
高浜虚子「「猫」の頃」
昭和2年6月



 上野の音楽学校で毎月開かれる明治音楽会の演奏会へ時々先生といっしょに出かけた。ある時の曲目中にかえるの鳴き声やらシャンペンを抜く音の交じった表題楽的なものがあった。それがよほどおかしかったと見えて、帰り道に精養軒前をぶらぶら歩きながら、先生が、そのグウ/\/\というかえるの声のまねをしては実に腹の奥からおかしそうに笑うのであった。そのころの先生にはまだ非常に若々しい書生っぽいところが多分にあったような気がする。
 自分の白いネルの襟巻がよごれてねずみ色になっているのを、きたないからと言って女中にせんたくさせられたこともあったが、とにかく先生は江戸ッ子らしいなかなかのおしゃれで、服装にもいろいろの好みがあり、外出のときなどはずいぶんきちんとしていたものである。「君、服を新調したから一つ見てくれ」と言われるようなこともあった。服装については自分は先生からは落第点をもらっていた。綿ネルの下着が袖口から二寸もはみ出しているのが、いつも先生から笑われる種であった。それから、自分が生来のわがまま者でたとえば引っ越しの時などでもちっとも手伝わなかったりするので、この点でもすっかり罰点をつけられていた。それからTは国のみやげに鰹節をたった一本持って来たと言って笑われたこともある。しかし子供のような心で門下に集まる若い者には、あらゆる弱点や罪過に対して常に慈父の寛容をもって臨まれた。そのかわり社交的技巧の底にかくれた敵意や打算に対してかなりに敏感であったことは先生の作品を見てもわかるのである。
寺田寅彦「夏目漱石先生の追憶」
昭和7年12月



 果して漱石氏に政策あるや否や、深く知らず。何れかと云へば余は漱石党である。昔から彼の技倆に服してゐる。何故文壇に早く地位が出来なかつたかを怪しんだ一人である。明治二十六七年の哲学雑誌に発表された論文を見たことがあるが、論旨極めて明晰で、いかにも頭のはつきりした人だと思つた、それは『英吉利文人の自然に対する観念』と云ふもので、その時初めて漱石氏の文を知り、大変偉い人と思つた。それは論文であるが、彼の倫敦通信に依つてその創作的の才にも感服した。早く既に今日の地位にならねばならぬ筈の人が、『猫』を発表するまで遅れて居たのだ。されば、今日の地位になりし彼に策略などあらうとは思えぬ。以前より真価のあつた人が、早く世の中に認められなかつたのだ。
戸川秋骨「夏目漱石論」
明治43年7月



 私が夏目さんと知り合ひになつたのは、ロンドン滞在中のことで、当時夏目さんが下宿してゐたファミリーに私も入つて、同じ屋根の下に暮らした時からである。そのファミリーといふのは、ロンドンの西郊にあつて、主人はドイツ系の人で、市中に洋服店を開いてゐた。当時、夏目さんは、文部省から送つて来る僅少な学費で暮らしてゐたが、その学費も大半は書籍を買ふのに費されて、その残額で暮らしてゐるといふやうな有様で、実際気の毒な位貧乏な暮らしをしてをられた。(中略)
 またロンドン滞在中のその下宿といふのは、オールドメードが一切の世話をしてゐたが、そのオールドメードはディナーの時などには、ピアノを弾きまた歌などを歌ふといふ風であり、また英語は勿論、元来がドイツ系の人なのでドイツ語も話せるし、それにフランス語も少しは話せるといふので、時々得意になつて芝居の事やその他いろいろな事を話すが、そんな時夏目さんは、よく聞いてゐて、そのあやまりを正すといふ風であつた。もっともそのオールドメードは、自説を固守したが、元来夏目さんの方が芝居のことなどに関しては素養もあり、その説も根底の深いものなので、すぐに負けてしまふといふ有様であつた。そして結局、その主人が、パパと呼ばれてゐたが、ミストルナツメは学者だからといつて然るべくとりなすといふ風で、夏目さんは、物事に対して非常に敏感緻密で、少しでもまちがつたことは容赦しないといふやうな、几帳面な潔癖なところがあつたやうに思ふのである。
長尾半平「ロンドン時代の夏目さん」
昭和3年7月



 大学の英文科へはひつてからは始終先生の授業をうけるやうになつた。(中略)先生は身体の小さいに似合はない、わるく底力のあるかなり大きな声で講義をした。先生は講義中に今まで知らなかつた奇癖を数々見せた。片つぱうの口もとをへんてこに捩ぢあげたり、へんに首をくね/\やつて草稿を見たり、下唇を口の中へ曲げ込んで口をあきながら天井を見あげてゐたり、何かいひながら机の上に白く積つてゐる埃を人さし指の先へ二度も三度もくつゝけてみたり、むちやくちやに顔をしかめて頭をかいたあとで、指を鼻先へもつてつて丁度犬が非常な臭いものをかいだ時のやうに、鼻を噴かないばかりに鼻の上へ皺をよせてみたり……よく皆をくす/\笑はせることがあつた。そんな時に先生は気がついて一緒に笑ひだすこともあつたし、真面目な顔で講義を続けることもあつた。
中勘助「漱石先生と私」
大正6年11月



 洋行から帰つて後は、がらりと容子が変つて、近頃はどうも仕事をしたくねえ、十万円欲しい、学校へも行きたくねえといふやうなことを、始終口癖のやうに云ひ出しましたよ。さうかと思ふと、自分があちらで自転車に乗ることをおぼえて来たものだから、一緒に自転車に乗らうとか、僕が子供の時から弓を引くので、おい、大弓引きに行かうとか云つて連れ出す。趣味は、古道具屋なぞをほツつき回つて、自分の気に入つたものがあれば、昔から名前のあるなしに拘らず、財布に金のあるだけ買つて来る。何でも義兄さんの持つてゐる物を、これは好いなと褒めると、きっとくれたものでした。(中略)
 が、どうも世の中には気に入らないことばかりがあるやうで、社会は盲目だとか、官吏や会社員には不当な報酬があるが、学者はたとひ社会に稗益してもその割合に報酬がないとか云つてゐましたよ。その時分からだんだん神経衰弱がひどくなつて行つたんですね。耳には絶えず自分の悪口が聞えてゐたらしい。縁側に立つて、前の下宿屋の二階にゐる書生と口論したり、姉の留守に女中を二人とも追ひ出してしまつたりしたのも、その時分のことでしたよ。
中根倫(註、漱石夫人の弟)「義兄としての漱石」
昭和11年6月



 夕方牛乳を少しばかり呑みましたが、大変気持の悪い様子でした。そこへ杉本さんがお見えになつて診察がすみます。やれやれと思つて、お医者さん達が彼方の部屋に退いて、一風呂浴びて夕食でもたべやうとなさいます間、私が側へよつて話でもしやうと近づきまして、あんまりいやな顔をしてゐるものですから、
「気持悪いですか。」
 と尋ねますと、いきなりすげなく
「彼方へいつてゝくれ。」
 と申します途端に、ゲエーッといふいやな音を立てます。様子が只事でありません。隣室に高村早苗さんがお子様方をお連れになつていらして居ましたが、そこへ女中さんが来て何やら話をしてゐます。ともかく場合が場合ですからなりふりをかまつては居られません。急にその女中さんを呼びまして、今行かれたばかりのお医者さんたちを呼んで貰はうとしました。と又ゲエーッと不気味な音を立てたと思ふと、何ともかんとも言へないいやな顔をして、目をつるし上げてしまゐました。と鼻からぽたぽた血が滴ります。私は躍起になつて通りがゝりの番頭を呼んで医者を呼ばせます。お医者さんたちは中庭を隔てゝ向ふの部屋に居るのですが、その後姿などがちらちら見えてゐるのです。その間に夏目は私につかまつて夥しい血を吐きます。私の着物は胸から下一面に紅に染まりました。
 そこへ皆さんが馳けつけておいでになります。顔の色がなくなつて、目は上がつたつ切り、脈がないといふ始末です。それカンフル注射だ、注射器はどうしたといふあわて方です。注射を続け様に十幾本かを打ちますが依然としてよろしくない。では食塩注射だといふことになりましたが、生憎と森成さんも杉本さんもその注射器を持ち合はされない。漸く土地のお医者から借りて来たものゝ、それが壊れてゐるといふ始末。壊れたつて針さへあればいゝ、浣腸器の何とかどうしてと、上を下への騒動です。一晩中壊れかけた注射器を武器にして、お医者さんと病気とが闘はれたわけですが、とうとういい案配に脈も出て来て、危いところで一命を取りとめることが出来ました。
 後で病人に聞きますと、そんなに騒がれてゐるにも拘らず、自分は血を吐いてしまつたら、実にせいせいしたさうです。
夏目鏡子(註、漱石の妻)「『思ひ出す事など』の頃(修善寺大患の思ひ出)」
昭和3年5月



世間一般に伝わっている父は、たいてい無理解な母に悩まされ、家庭的にはあまり恵まれなかった人のように考えられている。今までそれについてずいぶん語られたり、また書かれたりしているのだが、それらについて私達が発言する機会はあまりなかった。そこで父について少し言うと、ふだんの父はとても温和な、よい人であった。すぐ上の姉は、父と散歩などに行った帰りはかならずおんぶしてもらって家まで帰って来たと、父のやさしかった面を私達に話してくれた。また晩年の母も時々トンチンカンなことを言って皆に笑われると、よく私達に言ったものだった。「お前達は何かというと私を笑うけれど、お父さまはそんなときけっして笑ったりはしないで、いつも親切に教えてくれたよ」と。この親切な父が突然機嫌が悪くなり、ヒステリーのようになって、近よることが出来なくなるのである。要するに、よい時と悪い時との差があまりにもひどいため、とうてい同じ人と思えないくらい変ってしまうのだ。残念なことに私などは、その悪い方の記憶が多く頭に残っていて、やさしかった父のことはあまりおぼえていない。
夏目純一「父の病気」
昭和44年2月



 恐らくまだ私が小学校へあがらない、小さい時分の事だつたらう。丁度薄ら寒い曇つた冬の夕方だつた。私は兄と父と三人で散歩に出た事を覚えて居る。(中略)私等はいつの間にか、色々と見世物小屋の立並んだ神社の境内へ入つて居た。親の因果が子に報いた薄気味悪いろくろつ首や、看板を見た丈でも怖気をふるふ安達ヶ原の鬼婆など、沢山並んだ小屋がけのうちに、当時としてはかなり珍しい軍艦の射的場があり、私の兄が其前に立ち止つてしきりと撃ちたい、撃ちたいとせがんで居た。恐らく私も同様、兄と一緒にそれを一生懸命父にねだつて居た事だらう。父は私等に引張られて、むつつりと小屋の中へ入つて来た。(中略)
「おい?」突然父の鋭い声が頭の上に響いた。
「純一、撃つなら早く撃たないか」
 私は思はず兄の顔へ眼を移した。兄はその声に怖気づいたのか急に後込みしながら、
「羞かしいからいやだあ」
と、父の背後にへばりつく様に隠れて仕舞つた。私は兄から父の顔へ眼を転じた。父の顔は幾分上気をおびて、妙にてら/\と赤かつた。
「それぢや伸六お前うて」
 さういはれた時、私も咄嗟に気おくれがして、
「羞かしい……僕も……」
 私は思はず兄と同様、父の二重外套の袖の下に隠れようとした。
「馬鹿つ」
 その瞬間、私は突然怖ろしい父の怒号を耳にした。が、はつとした時には、私は既に父の一撃を割れるやうに頭にくらつて、湿つた地面の上に打倒れてゐた。その私を、父は下駄ばきの儘で踏む、蹴る、頭といはず足といはず、手に持つたステッキを滅茶苦茶に振廻して、私の全身へ打ちおろす。兄は驚愕のあまり、どうしたらよいのか解らないといつた様に、ただわく/\しながら、夢中になつてこの有様を眺めてゐた。その場に居合せた他の人達も、皆呆つ気にとられて茫然とこの光景を見つめて居た。私はありつたけの声を振絞つて泣き喚きながら、どういう訳か、かうしたすべてを夢現の様に意識して居た。また自分自身地面の上を、大声あげてのたうちながら、衆人環視の中に曝されたかうした自分の惨めな姿を、私は子供ながらに羞かしく思はずに居られなかつた。
夏目伸六「父夏目漱石」
初出未詳



 夏目先生が大学をやめて小説家にならうと決心された時の心境には可なり悲壮なものがあつたやうに思ふ。今から考へれば当然な道を当然に転回したときり思へないやうであるが、その時の状態は必ずしもさうではなかつた。大学といふ所はえらい所で、大学の先生は皆えらい人であつた。少くとも世間ではさうであつた。そのえらい大学教授の仲間入をすることをあきらめて、例の博士などをもことわつて、当時それほど尊敬されてもゐなかつた文士にならうといふのであつたから、多くの人が首を傾けた。可なり強硬に反対して思ひ留まらせようとした人もあつたやうだ。しかしそんなことで動くやうな決心ではなかつた。「百年の後百の博士は土と化し、千の教授も泥と変ずべし。余は吾文を以て百代の後に伝へんと欲するの野心家なり。」これが先生の本統の声であつた。この大望を遂げるためにまづ思ひ切つて背水の陣を布いたのだと解すべきである。
野上豊一郎「『虞美人草』の頃」
昭和3年4月



 これは最近或る人に聞いた話であるが、先生がよく図書館に入つて行くと、教授閲覧室の隣が事務室に当つてゐて、談笑の声が洩れる。それが先生の神経に触るので、顔色をかへて「静かにしてくれないと困る」と抗議を申込まれた事があるさうだ。しかしそれでも止まなかつたので、学長にあてゝ手紙で訴へたさうである。それからまたその近処で医料の実験用の犬が泣いてそれで神経を痛められた話は、朝日の入社の辞に図書館攻撃となつて現はれた程である。何しろ自分が真面目に物を云つてるのに、他人が真面目で対手にならないので、ひどく怒られたのに相違ない。
野上豊一郎「大学講師時代の夏目先生」
昭和3年11月



 いよいよ講演の夜である。その時分はまだ今の大阪公会堂が出来ない前で、木造の相当大きい建物だつたが、超満員で演壇にまで聴衆を座らせる騒ぎで、講演者はテーブルの傍で講演が出来ないで演壇の前の方に立つてやつた。
 当夜は漱石の前にはやはり社員の故本多静一郎氏が得意の財政演説をやつたが、すばらしい雄弁で踊るやうなヂエスチュアー入りで、盛んに政府の財政を攻撃して聴衆を湧かしたので、その後で地味な文学論をやる――たしかあの「創作家の態度」といふのがその時の講演の筆記だつた――漱石の迷惑想ふべしと、私は気の毒で聞くのもつらいやうだつたが、いよいよ漱石が演壇に立つて一言二言話し出すのを聞いて私は全く驚いた。政談演説の会場のやうにざわついてゐる真中で文学論などを落ちついてやる気分も出なからうし、第一演説使ひのやうな声でなければ通らない会場なので、大声で講義じみた講演をどうしてやるかと心配してゐたのだが、少し聞いてゐるうちにそんな心配がとんだ見当違ひであつたことを知らされて私はほんとうにホツとした。
 漱石は、ざわついた会場の空気に応じた、言葉とヂエスチュアーとでまづ聴衆の心理を捉へておいて、徐ろに話をすゝめて行つたが、私の最も驚いたのは、大劇場で世話物を演ずる俳優のやうに、通常の会話風の言葉を大声で語り得る技術だつた。これは今日でもまだ新劇の連中などには充分出来てゐるといはれないほど修練を要するものだが、漱石はあの座談風の言葉を二千人もの聴衆で埋めてゐる会場に行きわたるやうに発声することが出来るのである。これには全く驚ろかされた。
長谷川如是閑「始めて聞いた漱石の講演」
昭和12年10月



 頓才のすぐれておられたのは誰でも気のつく事であると思うのだが、演説とか講演とかいうものを聴いた人は誰でも皆夏目君の当意即妙の頓才に感服したことと思う。門下の某君が自身の小説の中に「子を作るのは awful なことである。何となれば自分の伝えている一切のものが子に伝えられ、子はまたそれを子に伝え、その子はまたその次の子に伝えるという風で、親がもっているすべてのものが永遠に伝えられて行く。子を持つのはオーフルなことである』と書いたときに、夏目君がその某君に――『おれがクソをするとそのクソが野菜にかかり野菜が育って人に食われ、人の血となり肉となる。で、その人はまた子を作るというわけになる。故にクソの効果も永遠である。君のいう通りにすれば、クソをするのもオーフルだ』と言われた。で、その某君が夏目君は他人の熱心を打ち消そうとするのに、恋愛のところへクソを持出したのはいかにもうまい、これにはひどく閉口したと話したことがある。
馬場孤蝶「漱石氏に関する感想及び印象」
初出未詳



 父は一生書斎の人でした。朝起きるときから夜寝るまで、ほとんど全く書斎で暮らして居りました。四十近くなつてから御承知のとほり小説を初めて書き出した頃には、随分興にのつて無理をしたものださうですが、大病をしてから後といふものは、新聞にのる小説一回分がその日の日課のやうで、毎日午前中にきちつと書き上げて居りました。そしてそれを自分でポストに入れに行きました。外へ出るのはそれと中食後の短い散歩位のもので、あとは小説を書いてゐない時でも、薄暗い書斎に閉ぢこもつて居りました。その間何をしてゐたか書斎とは縁のない私には分かりませんが、大概本を読んで、あきると絵や書を書いて楽しんでゐた様子でございました。
松岡筆子「父漱石」
昭和4年8月



 神経衰弱といえば、そのために父自身がどれ程悩み、家族全体がどれ程、脅かされ、苦しめられたか、それは計り知れないことでございました。(当時精神病(狂気)とその道の大家によって診断され、母も生涯それを信じていたのでしたが、近年それは誤診であって、鬱病の発作であったことが千谷七郎先生によって証明されたと聞き、本当に安心いたしました。)
 たとえば、帰国後まもない事だったと思いますが、ある日、私は突然、父に書斎にすぐ来る様にいいつけられ、そして訳もなく私は正座させられて、父に睨みつけられました。その只ならぬ父の形相に怯えて、私は火をつけた様に泣き出してしまいました。
 父はいきなり力まかせに私の額を押し飛ばします。私は引っくり返って、そのままの姿勢で、恐ろしさと突然ぶたれた悲しさ、くやしさで、手足をばたばたさせて一層激しく泣きじゃくりました。しかし、こういう時は触らぬ神に崇りなしで、家中がひっそりと息をひそめ、母もお手伝いさんも救いには来てくれないのです。
 それで父はといえば、今こづいた事も、私が側で泣き喚いている事もそれきりで忘れてしまったようで、そ知らぬ顔で机に向って、読書に耽っているのでした。
松岡筆子「夏目漱石の『猫』の娘」
昭和41年3月



 先生が大学を止めて朝日新聞社へ入社されると聞いて、私はひそかに先生の為に惜しんだ。たまたま上京したので先生を駒込の邸に訪うて
「先生なぜ大学を止めますか。先生が大学教授として小説を書かれるから、先生の小説が一層有難いのです。先生が新聞社へ入社されゝば唯の小説家となられます。」
 と如何にも残念さうに言つた。すると先生はにつこり笑つて
「そんな理由で止めるなら私は止まらない。大学をやめて、小説家になつて食へますかと言つて止める者には、私も目下すこぶる考へさせられてゐる。読者の趣味を果して何年間繋ぎ得るか、これは甚だ心細い。しかし私も男だ。大胆にやつて見る積りだ。」
 と言はれた。今から考へて見れば私の抗議も幼稚なものであつた。
八波則吉「漱石先生と私」
昭和4年4月

明治25年12月 明治40年5月 大正3年12月



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