田山花袋 【たやま・かたい】

小説家。本名、田山録弥。明治5年1月22日(旧暦、明治4年12月13日)〜昭和5年5月13日。栃木県邑楽郡館林町に生まれる。初期には紀行文作家として活躍していたが、明治34年、モーパッサンの強い影響により新しい文学に開眼。「重右衛門の最後」(明治35)、評論「露骨なる描写」(明治37)により、自然主義作家としての地歩を確立。美醜善悪を超え、人間の真実を赤裸々に表現することを主張した。明治40年、「蒲団」を発表。花袋に師事していた女性との関係を露骨に告白するこの小説は、その後多くの作家に影響を与え、日本の私小説的伝統の出発点とされることになる。後期には、自伝的回想録「東京の三十年」(大正6)や、花袋文学の集大成ともいうべき「百夜」(昭和2)などを発表した。昭和3年、脳溢血で倒れ、昭和5年5月13日、死去。享年58歳。代表作は「蒲団」、「生」、「田舎教師」、「時は過ぎゆく」、「百夜」など。

〔リンク〕
田山花袋@フリー百科事典『ウィキペディア』

田山花袋@文学者掃苔録図書館


著作目録

小説 : 発表年順

紀行文 : 発表年順

エッセイ・その他 : 発表年順



回想録

 渠の創作に於ける態度若しくは筆つきが遅鈍であつたことは、渠の大抵の友人どもが自然主義運動の当初から歯がゆく思つたところである。これを渠に一番思ひ切つて注意してゐたのは、恐らくy氏だらう。y氏は渠に最も親しい友人の一人でまた新思想には同情と理解とを持ちながら、創作界に何等の情実を持つてゐなかつた。この人は渠の『生』や『妻』が出た頃こんなことではとても駄目ではないかと渠を面と向つて余ほどひどく攻撃したのだ。こゝまでのことは田山氏もこれを否定することができまいが、その後間もなく僕がy氏から直接に聴いたところによると、田山氏はこの攻撃を受けた時、そんならどうしたらいゝのかと衷心から泣いたと云ふのだ。正直で、忠実な方面が見えて、これは渠自身に取つても美談の一つではないか――少くとも、マチの箱をようかんと間違へて口に入れたと云ふやうな逸話よりも?
 ところが、渠はこれを否定した。僕の聴きかじりか捏造かだと云つた。渠がほんのよそ行き口吻を以つてそらとぼけてゐるのでない以上は、これを解釈する心理状態は二つの外にない。y氏が余り主観的に物を見て、田山氏のその時の様子を泣いてると思ひ取つたのか? それとも、田山氏が涙を落してゐながら自分でそこまで気が付かなかつたのか? 孰れにしろ、僕自身のことではないから、本人の云ふところにまかせて置けばいゝのだが、僕の知つてる範囲でも、自然主義運動の当初に於いてかかるはめに落ちた程の苦心が少くはなかつた事情の一部を今の人々に知らせて置けばいゝのである。
岩野泡鳴「感情家の花袋氏」
大正6年8月



 深くは知らないが、田山君は昔から書生風な、割合ガサ/\した人だ。こんな話を聞いたことがある。紅葉山人の家へ出入りする者は、皆先生々々と云つたもんだが、田山君は初めて会つた時から、君、僕でやつた。其所で大いに紅葉に嫌はれたと云ふ話がある。嘘かも知れないが然うらしいところもある。私の家へ初めて田山君が見えたのは、同君が文壇に立たれて、一年が其処らの時だが、口の利き方は百年の知己のやうな風であつた。その初めに江見水蔭君に依つて「小桜縅」と云ふ雑誌に作品を公にされたのが、田山君の出世のそも/\である為め、硯友社の諸君とは他人でない関係があつた。硯友社に出入りしたのはあながち硯友社に依つて利益を得やうとされたのみではなからう。独歩君は能く知らないが、田山君は独歩君に比べれば、より多く実務家らしいところがある。一口に言へば世渡りが上手である。世渡り上手の人が決して傲岸であるわけはない。
内田魯庵「田山花袋論」
明治43年9月



 兎に角氏から受ける印象を、一口にまとめて言ふと氏はどこまでも「田舎者」だといふことである。大きな田舎者だといふことである。感情がラツフで、正直で、武骨で、都会人のやうな洗練された、濃かな情調などに欠けて居るやうである。又気の利いた才走つた所もない、通がつたり粋がつたところがなく、如何にも野暮臭い田舎者丸出しといつた風である。且つ氏には趣味性といはうか、道楽気といはうか、そんなものは余りないやうだ。芝居や寄席は好かないやうだし(若い時は知らないが)食物や衣服に凝るといふこともなさゝうだし、何かの芸能に嗜み耽るといふこともないやうだし、琴棋書画骨董の遊に耽ることもないやうだ。つまり「遊び」や「余裕」や「楽しみ」がないのである。近頃自製の和歌を半折などに書いて「老後の楽しみ」などと笑つて居られたが、精々その位のことである。併しこれも何時まで続くことか?
 道楽のないものは一面から云ふと不幸である。そして淋しいものである。非常に元気で、何時までも若々しい青年らしい感情を失はぬやうな氏ではあるが、それでも何処かに寂しいやうな影がある様に感ぜられるのは、思ふにさうした「遊び」や「楽しみ」がない為めではなからうか。(内面生活上の孤独とかいふやうなことは別として)。
加能作次郎「大きな感じの田舎者」
大正6年8月



 さうして、私のお尋ねした時には、何時でもあの門の潜り戸が二三寸ほど締め残してあつて、ちやんとなつてゐたことは一度もない。それが私には気になつてたまらない。私なら人の出入りするたびに、書斎を出て潜り戸がちやんと締つてあるか何うかを確めてからでなければ、仕事が手に着かぬところなのである。
 田山さんの小説にはよく小道具の使ひ誤りがあつて、駅長が発車の笛を吹いたり、混合列車の急行が走つたりするが、門の潜り戸を締め残したまゝに、敷居へ郵便配達が泥を付けたなりに、平気で書斎へ坐り、火鉢へ巻煙草の吸ひ残りをドツサリ突きさし、膝の上へ落した灰を碌に払ひもせず、長押の額が二分や三分曲つてゐようと頓着なしに、執筆したり、談笑したりしてゐられる田山さんの大胆不敵が、私には寧ろ羨ましい、コセ/\した私は、とてもそんな風にゆツたりとは出来ないのである。
 田山さんの側に居ると、何んとなしに『大丈夫』と言つたやうな気がする。
 田山さんの作物を見ても思ふことであるが、氏は蓋し現代の良民であるらしい。
上司小剣「大胆不敵が羨ましい」
大正6年8月



 私たちから見ると田山君は極く内気な、神経質な人である。それだから硯友社の全盛時代には、矢張り硯友社の後を追つて、紅葉の処へも出入りをして、作品の技巧にも力を尽したものだ。然し、その時分には何うしても紅葉門下の人々を抜くことが出来ず、僅かに紀行文などを書いて居た。気の利いた江戸趣味へ西洋の思想を加へた硯友社一派の作風の中で、花袋氏の田舎者のやうな無骨な作品は、手足を伸ばすことが出来なかつたのだ。内気な人だから交遊は狭く、僅かに気の合つた小範囲の人と交際して、従つて世間を見ることが狭かつた。その間に西洋の物を読んで見ると、それが気に入つて、之れでなくては可けないと云ふことになつて来た。融通の利かない一方向きの猪武者的の人だからそれに凝り固つて今日の自然主義を主唱する原因になつたのだ。そして外の自然主義連中に比すれば、兎に角頭抜けて居る。外の人よりは議論も大胆で、批難されるやうなことをもずん/\云ふ。その時ぎりで向ふ見ずのことを、後先関はず云つて了ふ。先月云つたことゝ今月云ふ事と違つてゐても一向平気なものだ。だから其の議論を文字通りに解釈して正直に相手になると、面喰つて了ふ。だから往々にして青年の頭を掻き紊すことになる。
後藤宙外「田山花袋論」
明治43年9月



 十一日の午後私が病床を見舞うと花袋君は大変喜び「もう自分も死を覚悟しなければなるまい、時の問題だ」というので田山君も生とか死とかいうことについては随分考えた人だから「この世を辞して行くとなるとどんな気がするかね」と問うと「何しろ人が死に直面した場合にはだれも知らない暗い所へ行くのだから中々単純な気持のものじゃない」といっていました、田山は人の好意を喜ぶ美しい所があり、私が花袋集に寄せた一文のことを口にし「大変自分でもうれしかった」と礼をいいましてね……何しろ長い青年時代からの知合で急に半生のことを思いだしたか万感胸に迫ったか私の顔をジッと見て目に一杯涙をためましてね、看護婦にふいてもらいました、しかし中々元気で、ともすれば舌がもつれる中を色々と話すから「少し休みたまえ」と止めたほどでした。
 医者が来たので私が立とうとすると「もう一度顔を見せてくれ注射すると眠くなるかも知れぬ、その前にお別れを告げよう」といいます、その時床の間の七言絶句が目についたので「よく出来たね」とほめると「ごく最近書いたのだ、自分でもこの字はよく書けたと思う、君にあげよう」と私にくれました。
  雨五六條春尚浅
  鴬三四囀産庭枝
  点々隣家羨花早
  雖有園梅我発遅  録
 これが絶筆になろうとは思わなかった、柳田国男君が贈った紫陽花の鉢のこと顔真卿の石刷のことなど語り「苦しいか」と聞くと「苦しい」といっていました、つくづく見ると毛深い手もやせ頭も銀髪となっているが六十年生がいを働き続けて来たことを物語り特に白く長い眉毛が二本眼につきました、しっかりした鼻、雄健な感じのする額――田山の所を辞してから眼に浮んだことは友人ではあるがいかにも大きな人がこの世を辞して行くという感じが致しました。
島崎藤村「田山花袋との最後の対面」
昭和5年5月



 田山氏などは同情なんかは要らないもんだと云ふ。さうして同情と云ふ厳存の事実を否定しやうとする。こいつが又大嘘だ。全体今の小説家の中でも、田山氏などぐらゐ同情がなければ一日でも立ち得ない人はないと思ふ。幾ら何と云つたつて島村抱月氏などは、自分の雑誌で公然と自分の提灯を持たすやうなことはさせない。何も知らぬ知識の程度の低い、地方の読者などの浅薄なる同情を欲する花袋氏は、余つ程同情に渇えて居る人である。能く、何でも食ひたい時に、口に入れるものであれば按摩の笛でもよいと云ふが、田山氏は按摩の笛的の同情をも欲する人である。だから、思想と実生活に矛盾があると云つて、田山氏くらゐの人も稀れである。そして、何故此の矛盾があるかと云ふのに、先刻も申した如く田山氏は紳士的親切な優しいところのある人である。それが妙に文壇に於ては臭気の多い、灰汁の濃い人間の如く現はれて居ると云ふのは、余りに自分の作品の価値の値上げをしようと思つて、焦り過ぎるからだ。
近松秋江「田山花袋論」
明治43年9月



 ある時、ある女が田山花袋氏を次のやうに批評した。
『先生は実に好い方です。決して人のわる口とか蔭口とかいふものをきいた事はありません。』
 このちょつと聞くと、いかにも平凡な、批評にも何にもなつてゐないやうな言葉を、私は至言だと思つて聞いた。(中略)
 忍苦の人、努力の人、不器用の人、せつかちの人、正直の人、誠実の人、――いろ/\と田山氏に冠せてよさゝうな言葉はあるが、遂に前掲の或女の言葉には如かないと私は思ふ。(中略)
 議論文なぞで、田山氏が躍起となつて、対手選ばずに喧嘩腰で筆をやつてゐるのを見ると、誰も氏を『温厚にして長者の風』があるとは思ふまい。けれども個人的に親しく接してみると、田山氏位ゐ温厚な人はすくない。実にいゝ人である。いゝ人それ自身である。
中村星湖「或る処で或る女の批評」
大正6年8月



 それは坪内先生の養嗣子であつた鋭雄さんが今の士行君の兄さんが、大石橋で戦死した時の実況を、同じ軍に従つてゐて見て来た田山さんが、矢来倶楽部で開かれた鋭雄さんの追悼会の席上で語られたのであつた。正面には故人の写真が飾られてゐた。オリイブ色の卓子掛をかけた小さなテエブルが其の前にあつて、お定まりのコツプと水差とが其の上に載つてゐた。
 やがて其処に、白地の単衣に黒絽の紋付羽織を着た田山さんが立つたのであつた。戦地から病気で帰つて来た直き後のことでまだ蒼ざめた顔色をして痩せてゐた、そして其処で、先きにも言つたやうにぽつり/\と、時々絶句しながら戦争の光景を語つて行つた。併しそれは描くがやうにであつた。弾丸が飛んで来て、炸裂したかと思ふと、鋭雄さんの姿はもう見えなかつたといふ所に来ると、田山さんの声は震へた。其の大きな目は潤んでゐた。聴いてゐた者は皆な涙を呑んだ。暫く室内はしいんとした。
前田晁「不機嫌な顔和々の顔」
大正6年8月



 そのころの二三年は、すさまじい自然主義勃興時代であった。花袋の「蒲団」がこの時代の代表的作品として史上に残ることになったのだが、これは自然主義のためには賀すべきことではなかった。詩は云うまでもなく、小説でも戯曲でも、新気運の萌した時の代表作には、いつになっても人の心をときめかすような魅力があるものだが、「蒲団」には、その対人生態度や創作態度に画期的のものがあったにかかわらず、作品そのものははなはだしくお粗末なのだ。今思うと、こんなものをとさげすまれるが、しかし、あの時代にこういう暴露小説を敢然として書いたのは、馬鹿正直の花袋であったればこそだ。(中略)私は田村松魚に聞いたのだが、彼が米国で苦学していた時分、「蒲団」の掲載されている「新小説」を読んだ友人が、二階から笑いころげて下りて来て、「オイ見ろ、田山がこんな馬鹿なことを書いてる」と云って、雑誌を突きつけたそうだ。異郷で故国のこんな小説を読んだら、さように感ぜられたであろうと想像される。日本においても、もしこれを死せる紅葉が読んだなら、あるいは生ける露伴が読んだなら、嘲笑冷罵したかも知れなかった。数年前に発表されていたら、一般の文壇がさして問題にしなかったかも知れなかった。しかし、日露戦役後のあのころは、心ある者は自我に目醒めんとしていたのだ。「汝自身を知れ」という、ギリシアのデルフォイの神殿の教訓を真面目に服膺せんとした知識人も多くなったのである。それで「蒲団」に現わされている気持に一概に笑えなくって、むしろ共鳴を覚えたのであろう。
正宗白鳥「自然主義盛衰史」
昭和23年3〜12月



 私が客間の隅にかしこまると間もなく、廊下続きの書斎から足音強く出て来られた先生は、「やあ失礼しました、一寸思ひ出せなかつたものですからね」と初めてとは思へぬやうな親しい調子で、「いつこちらに出て来ました」などゝ早速煙草を燻べながらせつかちにお尋ねになります。がつしりとした相当に大きな体格と眼鏡越しに対手を見入る怖い眼――それは御自分の言葉の切れ目なぞに、対手がそれをどう受け入れたかを見ようとするやうに不用意になされる癖で、怖いけれど其怖さには陰険だとか、皮肉だとか、又は威圧しようとするやうな底意がない――とはいへ、花袋といふ優しげな(聞けば匂ひ袋のことださうな)雅号の持主としての想像に馴れた眼には全く別人の如く映る位でした。尤も其青年時代の写真などを雑誌の口絵で見た事もありますから、一面には決してそれを意外とも思はないのですが、先入主といふものはしかし可なり根強いもので、なんでも日露戦争の時、博文館発行の日露戦争実記(?)といふ雑誌の口絵に従軍記者団の写真が出てゐました。そして後列の何人目が田山花袋氏といふ事になつてゐるので、段々とそれを辿つて行つて見ると、小説家などゝは思へぬやうな巌丈なおつかない顔をした人の姿だつたので、意外と思ふならまだしも、其脇に写つてゐる一寸好男子風な男がさうなのを、編輯者が間違へたものだらうなんどゝ思つてゐたのです。私に限らず読者の此想像と実際との錯誤は、当時他の人よりも多く先生の場合にあつたやうでした。
水野仙子「眼鏡越しのこはい眼」
大正6年8月



「蒲団」が出たのは、その頃だが、岡山県の田舎町の医師の娘で岡田美知代がヒロインで後ち新聞人永代静雄夫人となつたが、その人が先生の内弟子だつたのだ。会の席で、「先生、ああいふ小説を書かれると奥さんに対して具合がわるくないですか」と、中村(武羅夫)君が質問して大笑ひになつたことがあつた。「そりやわるいよ」と、いつて先生は苦笑された。
 先生は積極的にといふことを頻りに説かれた。恋愛でも、借金でも、要するに何でも積極的にやるべきだといふ主張である。「あゝ自分は野暮だつた」と、いつた意味のことを何かで先生は書かれたと思ふが、積極的といふことも自己の体験を顧みての説だつたのだらう。
 しかし、独歩の恋愛については「国木田は短刀を持つたりして少し不良染みたところがあつたな」と、友人の積極性を批評されたことがある。
水守亀之助「わが文壇紀行」
昭和28年11月

明治39年11月 大正9年11月 昭和3〜5年頃


■トップにもどる