徳田秋声 【とくだ・しゅうせい】

小説家。本名、徳田末雄。明治5年2月1日(旧暦、明治4年12月23日)〜昭和18年11月18日。金沢市横山町に生まれる。明治28年、泉鏡花の紹介により尾崎紅葉の門下に入る。初期には個性に乏しかったが、近所の酒屋をモデルにした「新世帯」(明治42)において初めて独自の作風を生み出し、「黴」(明治44)により自然主義作家としての地歩を確立。無理想無解決の冷徹な人間観照と、女性描写の巧みさによって高い評価を得た。大正4年、日本自然主義文学の代表作とされる「あらくれ」を発表。大正15年に妻と死別後、人妻、山田順子と知りあい、「元の枝へ」(大正15)など、彼女をモデルとした一連の私小説的作品を書き続ける。昭和16年、秋声文学の集大成ともいえる「縮図」を新聞に連載したが、軍部の干渉により中絶。昭和18年11月18日、肋膜癌により死去。享年71歳。代表作は「黴」「あらくれ」、「元の枝へ」、「仮装人物」「縮図」など。

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回想録

 秋声氏はどちらかと云へば、呑込みの遅い人だと思ふ。呑込みの遅い氏は、如何なる思潮にも如何なる傾向にも、容易に動かされることがない。其代り、動かされる時には根底からして動かされる。小器用に上面を撫でゝ通ることをせぬ。付焼刃を揮(ふり)回すことをせぬ。
 藤村氏なぞが、新機軸を出し、新工夫を凝らすのに潜心するとき、秋声氏の努力は、徹底と円熟とに集中される。
 同様の傾向にしてからが、氏の作は走りが出てから一二ヶ月、三四ヶ月も、半歳一年もしてやうやく現れる。その代りには、それまでに現はれた何人の作よりも、ずつと整つた、完成した、渾然たるものになつてゐる。
 最も早く開くのは、どうしても室咲の花である。熟したる果物の自らにして落つるは遅い。
 秋声氏は常に一歩づゝ、文壇の新流行におくれて進む。軽浮なるジヤナリストの視聴を惹くのに、甚だ適当してゐない筈である。
生田長江「徳田秋声氏の小説」
明治44年11月



 たしか去年の秋の頃、その年の野間賞に適当にあてはまる作品がないと云ふので、その詮衡委員であつた武者小路実篤と菊池寛が相談の結果、もつとも長いあひだ作家生活をつづけた上に、近代の日本の文学界に大きな貢献をしたといふ意味で、徳田秋声と島崎藤村に贈ることになり、その副賞の一万円も二つに分けることになつて、その授与式がある所で催された。
 その時、藤村は、病気のために、夫人が代理に出たので、秋声の挨拶だけがあつた。その時の秋声の挨拶の中に、かういふ意味の言葉があつた。
 自分は、長い文学の生活の間に何度も困つたことがある。十年ほど前にも、「藤村君のはからひで」助けられた事がある。あの時はこんなに長生しようと思はなかつたので、今まで生きてゐられるのだつたら、もつと勉強をしておいたらとも後悔するけれども、しかし又、あの時さう考へても、私のやうななまけ者は、やつばりぐづぐづして勉強しなかつたにちがひない、それは私の性質でもある。
 かういふ意味の言葉につづけて、秋声は、次ぎのやうな意味のことを云つた。
 ……五百円とか、千円とかいふのなら、小遣ひといふこともあるが、五千円はありがたい。……
 この「五千円はありがたい」といふ言葉は、皮肉な云ひ方ではなく、今の文学者の中には分からない人があるかと思ふが、私と同じくらゐの年頃の人たちには、よく分かり、心を打たれる言葉である。(中略)
 つまり、私たちの大先輩は、困難な仕事を実に長い間つづけながら、生活の方でも、かういふ道を通つて来たのである。
宇野浩二「道なき道」
昭和19年1月



 十一月十四日に上つたときは、もう長くはないと思つた。浮腫が来て顔ちがひしてゐられ、可愛らしいやうなふくれた形相なのである。
『みかん。』といはれ、一穂さんがみかん汁を吸呑に持つて来られたので、唇近くへおすすめすると、ふるへる丸まつちい手が氷のやうに冷たい。
『随分お冷えになつてゐますね、おみあしの方は?』
『冷えてゐるでせう。』
 棒のやうに突張つた脚をさすつてみると、これも手とおなじに凍つたやうだ。(中略)
 お亡くなりになる前日の午後、私は刻々と呼吸の迫つてゆく先生をぢつと見守つてゐた。
『何か召上りたくありませんか?』
『なんにもくひたくない、痛くていたくて為様がない!』
 細い声である。それが最後のお声だつた。肋膜の癌とやらで、背中が迚もお痛いのださうである。丁度そこへ文学報国会から、小説部会で募つた七十幾人の見舞金を舟橋聖一氏と岩谷氏が届けに来られた。大きな熨斗紙の包みを枕辺近くにおいて、
『先生、小説部会からのお見舞金です。お分りになりますか』
 と云つたが、うむ、とも、ふむとも今はなんの答へもなし。
 その夜大分お苦しみになり、暁方御臨終なのだつた。
小寺菊子「徳田さんのこと」
昭和19年4月



 末子の私は自分の父には何によらず相談したり、いはば甘つたれて父の書斎へ日に何度となく顔を出して無駄話をしてゐたのに、ぽつくり父に死なれて、まことに処置ない思ひに浸った。その頃街上で徳田先生にお目にかかつたが、先生は妙に威儀を正して、父の死をいたんで、「さぞ力落しをしたことでせう」と平素父など知らぬ人と思つてゐたのに、矢張り先生も近くに住む父を見知つて居られて丁重に挨拶されたのには私は恐縮の限りではあつたが、また嬉しくもあつた。文芸春秋社の園遊会の時であつたか、私は酔余徳田先生に「親爺といふものは何もしなくてもいいから生きてゐるといいものだと思ひます。先生永生きしなければ駄目ですよ。」と言ふと、急に真面目な顔をされて、私の手を握り、「有難う、有難う」と繰返されたので、私は面喰らつてしまつたことがあつた。
 支那事変が勃発し、丁度上海に飛火した頃、私は渡仏することになり、騒然たる中に旅立つことになつた。その送別会を友人が催してくれた席へ、徳田先生もわざわざ病躯を押して出席して下すつたことは思ひも寄らぬ喜びであつた。そしてテーブル・スピーチまでして下すつたが、卓につかれた手はぶるぶる震へ、息も切れてゐたやうに見受け、「これは唯事ではないぞ」と思つた。先生はその時いつか私が放言した「生きてゐて下さい」と言つたことをまた繰返され、その後で「私は屹度生きてゐるから、長い旅路を生きて帰れ」と言はれたことを私は感激して聴いたものだ。
今日出海「徳田先生のこと」
昭和19年1月



「紅葉さんの時代から活動されて、現在までずつと、少しも創作力の衰えることのないのは、珍らしいことですね。どこにその秘密があるのだろうなんて、思いますね。」と、私は、いつかきいてみたいと思つていたことを口に出した。
「秘密なんて、なにもありませんよ。ただ書かせてくれるところに書いてきたというだけのものですね。」と、秋声さんは答えたが、それだけでは、少しあつけない答だと思いかえすようなふうに、ちよつと言葉を切つて、しばらく黙つていたあとで、こういいたした。「作家は、適当な舞台がなければ、仕事ができないでしよう。自分はそれについて、とやかくいつたことがありませんね。それだけではわからないかもしれませんが、たとえば、こんなことですね。かなり売れつ子の作家になると、だんだん自信というか、気位というものができて、これこれの原稿料でなけりや書かないなんていうようになるでしよう。自分は、それを口に出したことがないですね。そのために、現在まで、仕事をする場所があたえられているんぢやないかと思いますね。」
渋川驍「風の蚊帳」
昭和38年1月



 読売新聞に関係してゐた当時は、徳田さん、正宗さん、上司さん、この四人でよく御一緒に物を食べに行つたり、芝居へ行つたり、町を散策したりしたものだが、上司さんや正宗さんはどんな途中でも帰りたくなればさつさと別れて帰つてしまふ。「もう少し遊びませう。」と云つても御当人がいやならば、さつさとお別れにして了ふ。けれ共徳田さんには其れが出来ない。厭だと思ひながらぐづ/\と其の場に引きずられてゐると云ふ風。その癖、初めの内は中々遊ぶ説には雷同しないが、遊び初めればいつまでもその気が転換されずにゐる。芝居を観てゐても上司さんや正宗さんは用があるか、倦きるかすれば帽子と外套とを持つて「左様なら」と途中から帰つてしまふ。徳田さんは用があると云ひながら、つまらない面白くないと云ひながらとう/\お終ひまで居据わりと云ふ風。意志が弱くつて、気分の非常に上品な人。さうして愚痴なところがある。今度瑞子さんを失くされた時などは、こんなにも人の親が子を亡くすと女々しくなるものかと思つて吃驚したが、それほど悲哀の度を過(こ)えて、恐しくだらしのない愚痴に落ちてゐられた。
 豪濶な男性的なと云ふやうな印象は、まだ一度も私は徳田さんから受けた事はないが、少し「優しみ」をいぶし銀にしたやうな苦つぽい、上品な、さうして女々しいと云ふ印象の方は私の上に沢山に残されてゐる。
田村俊子「気分の上品な人」
大正6年4月



 後二三年生きのびて、居心地の悪かつた薄暗い書斎を何処か明るい海岸町の住心地のいいところに移し、少し落着いた気持で思ふがままに創作の筆をとらせたかつたと私は残念に思ふのだが、健康が衰へて創作の仕事が重荷であつたら、せめてさうした居心地のいい部屋で、長い一生のじめじめとして辛苦に充ちた生活の疲れを癒すために、何年かの楽な年月を過させて上げたかつたと私は思ふのだ。
 書けなくなつたら死んだ方がいい、と口癖にいつてゐた父のことであるから、さういふ生活は望んではゐず、一生涯ぎりぎり一杯のところで生活してゐるより外に道はなかつたのだが、もし今度の病気で生きのびたら、或はさうした世間並で楽な生活にも多少の楽しみを見出したかも知れないやうな気が私にはしないでもないのだ。
 しかし藤村さんが亡なられた時、それを耳にした昼間は一言もいはなかつたが、夜になつて私が部屋に這入つて行つた時、青い蚊帳の中から衰弱した声で、藤村氏もとうとう亡くなつたか、藤村氏を生かしておいた方がまだ仕事が出来たらう、と父はいつたが、それから察しても父は矢張り作家として仕事を何よりも重く見てゐたのだと思ふのだ。
 亡くなる二日前に、中村武羅夫さんが来て下さつた時も、殆ど最後の意識と思はれる混沌とした意識のうちででも、瞭りと、小説はむづかしい、といつて、又眠りつづけて了つたくらゐだから、普段は余り口にもしない小説に結構心の底では最後までしがみ付いていたのであらう。
徳田一穂「父の姿」
昭和19年4月



 徳田さんの生涯で、徳田さんが意見を持たれ、主張を持たれ、他に対して相当強い批判をされたり抗議をされたりしたのは「元の枝へ」一連の作を書かれた前後ではなかつたかと思ふ。正宗白鳥氏の批評に対して、珍らしい語気の強さで「人の商売の邪魔をするな」といふやうに答へられたのもこの時代であつた。芥川龍之介の「点鬼薄」をやつつけられたのもこの時代であつた。シユニツツラアを浅いと云はれ、ストリンドベルヒに共感を持たれたのもこの時代であつた。(中略)
 丁度この当時、自分は徳田さんと「新潮」の合評会で同席した事があつた。
 その月には志賀直哉氏の「痴情」が発表されたので、その合評会でそれが問題になつた。すると徳田さんは「痴情」を不道徳の名に於いて非難し始めた。
 自分が「痴情」を賞めると、徳田さんは自分の方に向き直つて、君なども女に対する考へ方が不道徳だから、この「痴情」に共鳴するのだ、といふやうに相当興奮した言葉で云ひ放たれた。
 自分は徳田さんのその興奮を、興味を持つたと云つては失礼であるが、徳田さんがその生涯で最も「道徳」にとらはれた時期である事を、その時感じてゐたので、それで徳田さんのその興奮に興味を持つたわけである。
広津和郎「一つの時期」
昭和19年1月



 先生はよくいはれた。
「あれは小説なんだから、事実ではないんだ。モデルはあるが、そのままを写したわけぢやないんだから――」
 徹底したリアリストのやうにいはれる先生が、しきりに、小説と事実の区別について弁解されてゐるのを聞くと、私もはじめは不思議なやうな気もした。
 虚偽のない、過不及のない、真摯誠実の人生描写が、先生の本領といはれてゐるので、とかく、先生の小説は、事実そのものの組立てと見られ勝ちであつた。然し、これは先生にまつはる俗論の一つで、先生の小設は、事実の正確な凝視ののちに、きはめて、自由闊達に、再編成をされた一個の芸術品である点で、他の、理想主義の作家達より、却て一枚も二枚も達者な創造力をもつてゐたのである。
舟橋聖一「秋声先生のこと」
昭和19年1月



 私は秋声氏との長い交際に於て文学上の議論を取りかはしたことは殆んどなかつた。そんな事はどちらでもよかつた。私は読売新聞のよみうり抄記者になつたばかりの時、文壇人の消息を蒐めようとして、社の挿絵担当者の梶田半古氏に、硯友社では誰れを訪問したらいいかと訊くと、氏は、「それは風葉がいい。秋声は人づきがよくない」と答へた。それで、私は早速風葉を訪ねて、紅葉の病状などを聞いたのであつたが、秋声氏にも偶然、社の編輯室で会つて、案外気軽に話をすることが出来た。氏は主筆の足立氏に原稿を売込みに来たのであらうと察せられた。「足跡」はその頃か或は数年後に、読売に連載されたのであつたが、無論読者受けはせず、文壇の注意も惹かなかつた。風葉なら「青春」など、自作を新聞に発表する時には、世間受けを顧慮して意気込んで筆を執るらしく傍目に見られたが、秋声氏は「足跡」や「凋落」などを読売に出してゐた時に、何の野心も抱負もなささうに私には見られてゐた。「凋落」の出かけた時に、秋声贔屓の秋江も、「凋落は書き出しから凋落を書いてゐるのは面白くない」と云つて、その意見を読売紙上の文芸欄に寄稿した。私も同感であつたが、主筆の足立氏はそれを読んで、「折角新聞に出てゐる小説を文芸欄でケチをつけるのはよくないぢやないか」と苦笑した。私は主筆の説にも同感した。凋落をはじめから凋落として書かうとも、栄華の有様から書きはじめて次第に凋落する径路を書かうとも、作者の随意で、作品の真価如何はそんなことで極められる訳ぢやないのだが、さういふ点を顧慮しない所に、秋声氏の当て気のない特色が見られるのであらう。
正宗白鳥「秋声氏について」
昭和19年1月



 私は、秋声とは長い間親しくしていたので、藤村花袋独歩泡鳴などのような新時代の文学者らしく見られる人々と異った文人気質文人趣味に接触し得られたように記憶している。(中略)秋声の小説には目標がない。生存の意図がない。人生観がない。技巧だけのものであるなどと、自然主義仲間でも云われていた。上べには見えなくても硯友社系統の旧さが心の底に淀んでいるのであろうと思われたりしていた。しかし、それにかかわらず、他の同輩のように行き詰らず、とぼとぼといつまでも書きつづけられたのは、天賦の才能があったためであろう。彼は同輩の会合においても、あまり文学上の意見を述べることはなかった。他人の意見を身を入れて聞いている風でもなかった。彼は読書家ではなく、古今東西の作品をいくらも読んでいなかったようだ。そして、どういう作家に感化され影響されたということもなかったようだ。田山花袋などの、「自分の生活をそのままに書く」自然主義的作風によって世間並みに啓発されたことだけが、他の作家から受けた最大の感化であったのだろう。その作風を取り入れては、あとは自分の好みで通って行けたのだ。
正宗白鳥「自然主義盛衰史」
昭和23年3〜12月



 あの頃の作家の恵まれない生活は、今日から考へると、まるで、想像もつかぬ位であらう。発表機関が少く、稿料も安く、印税といふ制度も出来てゐなかつたせゐもあるが、世間の遇し方も表面の華やかさとは反対に小説家などといふものは、まるで水商売同様に見られてゐたのである。坪内逍遙や、夏目漱石になると、学者とか、大学教授とかいつた肩書が物をいふので、平作者は決して尊敬の的にされてゐなかつた。徳田家とても同じことで、「新世帯」(国民新聞)を書き、「秋声集」を出し、名作「足跡」(読売新聞)が出づるに及んで、推しも推されぬ自然主義文学の大家となつても、一と月として月末が満足にすむことはなささうだつた。先生は鶴田久作氏のやつてゐた「国民文庫刊行会」の出版原稿の訂正などを内職的にやつてゐられたこともあつた。何か火急の費途が生じたりすると私は質屋への使ひもちよい/\してあげた。家賃の談判に差配のところへも出かけた。「朝日新聞」に「黴」を連載中ですら郷里金沢からの来客で国技館へ案内することになり、その費用をつくるために五回分の前借をしに私が「朝日新聞」へ出かけ一回分五円として二十五円をうけとつて来たことがある。明治四十三四年の頃は「中央公論」でも先生の稿料は一枚一円だつた。島崎藤村は一円五十銭だといふ噂だつたが真偽は判らぬ。
水守亀之助「わが文壇紀行」
昭和28年11月



 二十代でもずゐぶん老けて見える人が年をとつてから若々しい気分が出て来るのと、若い時はずゐぶん華やかで明るいが、案外早く年寄りくさくなつて行くのと二種類があるやうだが秋声は前者に属すると思ふ。前にいつたやうに明治から大正へかけての十年位はイブシ銀ながらくすんだ人だつた。それが、次第にイブシ銀独得の光沢が輝くやうに若々しくなつて行かれた。
 老いらくの恋ともいふべき山田順子の事件はともかく、おめず臆せず、世間へも顔を出しダンスホールへ若い人達と通つたり、藤村流に拘泥しないでさつさと芸術院入りもされた。社会民衆党におだてられて、危ふく逐鹿戦に出場しさうになつた茶目気さへ出て来たから面白い。広津和郎氏が褒め出したのも作品にさういふ明るさがほのかにそこはかとなく漂ひ出した頃からではなかつたか。(中略)
 山田順子との恋愛沙汰はずゐぶん物議をかもし先生も大あまなところを暴露して、ある人たちを可なりヒンシュクさせたらしいが、一方からいへば純真さ、正直さの現はれと見て興味がある。洗い髪にツゲの横櫛をさした順子をつれて私の宅に来られ、いつしよに神楽坂の川鉄へ出かけたが、道行く人はみんな目をそばだてて見返つてゐた。いくら年をとつても恋には盲目になる。先生の一時期にはそんなところもあつたらう。
水守亀之助、同上

年代未詳 大正5年 昭和14年


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