斎藤緑雨 【さいとう・りょくう】

小説家、評論家、随筆家。本名、斎藤賢(まさる)。慶応4年1月24日(旧暦、慶応3年12月30日)〜明治37年4月13日。三重県鈴鹿市に生まれる。坪内逍遥の「小説神髄」(明治18)をいち早く味読し、新文学の創作に意欲を燃やす。明治24年、花柳小説「油地獄」、「かくれんぼ」を発表し、文壇的地歩を確立。小説以外にも、パロディ批評「小説八宗」(明治22)などの啓蒙的な文学評論を書き、森鴎外、幸田露伴との三人による文壇時評「三人冗語」(明治29)などがある。毒舌、皮肉家で知られ、風刺諧謔に富んだ批評を展開した。終生、妻子を持たず、本所横網の小さな借家に住み続けた。明治37年4月13日、肺患により死去。あらかじめ友人馬場孤蝶に頼んでおいた次の死亡広告を新聞に掲載した。「僕本月本日を以て目出度死去致候間此段広告仕候也」。享年36歳。代表作は「小説八宗」、「かくれんぼ」、「油地獄」、「新体詩見本」、「門三味線」など。

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著作目録

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回想録

『僕、本月本日を以て目出度死去仕候』といふ死亡の自家広告を出したのは斎藤緑雨が一生のお別れの皮肉といふよりも江戸ツ子作者の最後のシヤレの吐き仕舞ひをしたので、化政度戯作文学のラスト・スパークである。緑雨以後真の江戸ツ子文学は絶えて了つた。
 紅葉も江戸ツ子作者の流れを汲んだが、紅葉は平民の子であつても山の手の士族町に育つて大学の空気を吸つた。緑雨は士族の家に生れたが、下町に育つて江戸の気分にヨリ多く浸つてゐた。緑雨の最後の死亡自家広告は三馬や一九や其他の江戸作者の死生を茶にした辞世と共通する江戸ツ子作者特有のシヤレであつて、緑雨は死の瞬間までもイヽ気持になつて江戸の戯作者の浮世三分五厘の人生観を歌つてゐたのだ。
 此の緑雨の死亡自家広告と旅順の軍神広瀬中佐の海軍葬広告と相隣りしてゐたといふは其後聞いた咄であるが、之こそ真に何たる偶然の皮肉であらう。緑雨は恐らく最後のシヤレの吐き栄えをしたのを満足して、眼と唇辺(くちもと)に会心の“Sneer”を泛べて苔下にニヤリと脂下つたらう。『死んでまでも「今なるぞ」節の英雄と同列したるは歌曲を生命とする緑雨一代の面目に侯』とでも冥土から端書が来る処だつた。
 緑雨の眼と脣辺(くちもと)に泛べる“Sneer”の表情は天下一品であつた。能く見ると余り好い男振では無かつたが、此の“Sneer”が髯の無い細面に漲ると俄に活き/\と引立つて来て、人に由ては小憎らしくも思ひ、気障にも見えたらうが、緑雨の千両は実に此の“Sneer”であつた。ドチラかといふと寡言の方で、眼と唇辺に冷やかな微笑を寄せつゝ黙して人の饒舌を聞き、時々低い沈着(おちつ)いた透徹るやうな声でプツリと(とゞ)めを刺すやうな警句を吐いてはニヤリと笑つた。
内田魯庵「斎藤緑雨」
大正2年4月



 緑雨が一日私の下宿で暮す時は下宿の不味いお膳を平気で喰べてゐた。シカモ(いなだ)の味噌煮といふやうな下宿屋料理を小言云ひ/\奇麗に平らげた。が、()ざ何処かへ何か食べに行かうとなると中々(やか)ましい事を云つた。三日に揚げずに来るのに毎次(いつ)でも下宿の不味いものでもあるまいと、何処かへ食べに行かないかと誘ふと、鳥は浜町の筑紫でなけりやア喰へんの、天麩羅は横山町の丸新でなけりやア駄目だのと、ツイ近所で間に合はすといふ事が出来なかつた。家の惣采なら不味くても好いが、余所へ喰べに行くのは贅沢だから選択(えりごの)みをするのが当然であるといふのが緑雨の食物哲学であつた。其頃は電車の無かつた時代だから、緑雨はお抱への俥が毎次でも待つてるから宜いとしても、此方はわざ/\高い宿俥で遠方まで出掛けるのは無駄だと思つて、近所の安西洋料理にでも伴れて行かうもんなら何となく通人の権威を傷つけられたといふやうな顔をした。『通人てものは旨い物ばかり知つてゐて不味い物が解らんやうでは駄目だ』と、或時近所の、今なら七銭均一とか十銭均一とか云ひさうな安西洋料理へ案内した時に云ふと、『だから君の下宿のお膳を一生懸命研究してゐるぢやアないか、』と抜からぬ顔をして冷ましてゐた。夫でも西洋料理は別格通で無かつたと見えて、一向通も云はずに塩の辛い不味い料理を奇麗に片付けた。ドダイ西洋料理を旨がる田舎漢(ゐなかもの)では食物の咄は出来ないといふのが緑雨の食通であつたらしかつた。
内田魯庵、同上



あの人は随分悪まれ口をきいて、人の事を悪く言つたり、人の作品を強く罵つたりしました。それですから、人からは憎みも受けて、自然緑雨君その人に対して余りよい感情を持たんで評する人も多かつたやうでありましたが、私に言はすれば、緑雨氏は非常に(むご)い人でもなければ、あの人が筆を持つて物を書く、その書いたことが随分皮肉な程、皮肉な心を始終持つて居つたと云ふ人でもないやうであります。筆に毒の在る程、気に毒のあつた人ならば、私共は物に(こら)へぬ方だから、長い間喧嘩をせずに交際してゐると云ふ事は出来なかつたでありませうが、私の知つて居る緑雨氏は、内気な、遠慮深い、たゞ気の廻り過ぎるほど気の廻る人であつたのです。勿論傲慢だとか、粗暴だとか、気が廻らないとか云ふ人ではない。また兎角世間にある奴ですが、故意に人にツッカヽルと云ふ、そんな人でもない。全くコンモンセンスの人でありました。たゞあの人は気が廻つたから、気の廻らぬ奴は馬鹿に見えたでせう。自分が内気だつたから、無遠慮な無法な奴は憎くも思つたでせう。自分がおとなしかつたから、エラがツて居る奴は忌みもしたでせう。私に言はすれば、緑雨君はたゞ自分の持つて居る思想感情と反対して居る事物に就いては喜ばなかつた、即ちどこまでも自分の思想感情に負かなかつた。その結果として陰気の人だつたゞけに、一旦それが筆に発すると随分恐ろしい毒口や、諷刺的の言語になつて出て来たのだらうと思ひます。ですから、ただ書いたものばかりを見て云つたら、どうも多くの人は緑雨氏を誤解して居ないかと私は思はれます。一言で言へば、内気な、感じ易い、優しい人であつたのです。どう云ふものか、それが筆を持つと、丁度内気の反対に馬鹿に手強く、優しい反対に酷い厳しい、無口の反対に達筆なといふ現象が表はれたのです。
幸田露伴「故斎藤緑雨君」
明治37年5月



一つ私が残念に思ひますのは、斎藤君がチヨイ/\した物を多く書いて、それをまた世間で歓んで迎へた為めに、大きいものが出ずにしまつた事です。さうで無く、やはり小説を頻りに書くと云ふ事にしたならば―ツマリ油地獄のやうな物が沢山出ましたならば、随分おもしろい事だつたらうと思ひます。如何せん緑雨氏は余り短い物の方に力を入れてゐたものですから、まとまつた物が割合に少なかつたと云ふ事は残念な次第です。(中略)
私思ひますに、あの人は多く小説を書けば小説家たり得たのです。私は寧ろあの人が短い警句を連ねた小品文を作つて人の賞讃を買ひ得た事を惜んで居ります。それよりも小説に専ら筆を振って小品文になって現はれたやうな事の一つと一つとの間に脈絡を持つて居つて、そして一塊に成つて居るものを作られたならば、モット結構な物が見られたであらうと思ふのです。それと云ふのも病気の為めに根気が薄くなつて居つたので、自然に短時間的の事は能く為し得ても―才が有つたから短時間的の物は為し得ても長時間的の事は病気があつたから為し得られなかつたかとおもひます。申上げる通り、内にはさう云ふ状態が有り、外には世間があの人の短文を悦んで迎へたと云ふ事情が有つた為めに諷刺的の小品文を以つてあの人の晩年を終つてしまつたやうです。(中略)若しあの人が小説を書いたならば、土台が気のよく廻る、観察の細い詩筆のある人であつたから、無論小説家としても立派にやれるだけの天稟の才は持つて居た人です。
幸田露伴、同上



○緑雨を語るに就て一つ残念に堪へないのは、彼れが肺病に殺されたよりも寧ろ貧乏に殺された一事である、彼にして多少の財産、若くば一二の保護者あつて、相応の療養を加へたならば、猶ほ若干の歳月を生延び若干の作物を出すことを得たのは確かであつた。樗牛さんもエラかつた、紅葉さんもエラかつた、子規さんもエラかつた、梁川さんもエラかつた、死ぬまで病床で書きつゞけられた、が彼等は兎も角寝床の上に安んじて居られるだけの月給若くば収入があつたさうな、緑雨は夫れすらなかつたのだ。三十七年の春寒く、北風身を切るやうな晩を骸骨のやうになつて咳入りながら、本所の横網から有楽町まで、僅かの小遣ひを相談に来たのも幾度であつたらう、彼は其瞑目の二三週間前まで、重体の病苦を忍んで米代を拵へに歩いたのだ。今思ひ出しても実に涙の種である。
○恐るべきは実に貧乏である、社会に貧乏てふことを絶たざる限りは、緑雨の如く、正直、潔白、真摯なる人物は常に此非惨の運命を有するのである。僕は緑雨の末路を思ふ毎に今の社会に対して万斛の恨なきを得ないのである。
幸徳秋水「緑雨に就て」
明治40年10月



 僕が故人と面会したのは妙な機会で、文士としての氏ではなかつた、僕の知人で世話になつたことのある人の妾が、緑雨の借用証文を持つてゐて、其の証文をさる高利貸に差押へられた、緑雨氏の為には気の毒だが、今取り返す方法が立ちにくひといふ話で、当代の高名な文士が高利貸にいよ/\苦しめられるのも気の毒だが、何とかなるまいかといふ。僕も思ふし、其の妾の方では、(さまで名高い人とも思つてゐなかつたが)勿論非常に気の毒がつて、何とか話して見て呉れよといふことで、中へはいつたのが最初のことである。例の緑雨君流で、話はついても実行が緩漫で、何でも其の高利貸にも頗る悩まされた様だつた。
 その妾といふのは本は柳橋の人で、氏の青年時代をよく話して聞かせた。氏はハンケチさんといふ異名で通つた者で、何時も恥かしさうにハンケチで口を覆つてゐた、何でも小西などといふ人達が、例へば京伝に対する文魚や、魯文に対する香以といふ格で、氏は勿論金なしに遊んでゐたのだが、少し懐が暖まるとお酌などを集めて遊んでゐたさうで、それに当時の流行児であつた某妓が、頗るハンケチさんと中の好かつたことは、評判だつたといふことだ。晩年のみすぼらしい程痩せてゐたのは病気の為であらうが、青年時代から好男子といふ方でもなかつたと聞いてゐる、其の気質に自ら人を惹き着ける所があつたことは、この事実に見ても明なことで、晩年にも、氏の為に多少の着物なども失ひ果てながら、臨終までも守つてゐた婦人のあつたことは人の知る所であらう。僕にとつても、緑雨氏といふと自らなつかしい友人といふ記憶が起つて、所謂る文壇の名士といふ風の考とは別物である。
佐々醒雪「緑雨氏のはなし」
明治40年10月



 緑雨君ですか。私の緑雨君に初めて逢つたのは仮名垣魯文翁の仮名読新聞だかいろは新聞だか忘れましたが其の新聞を新橋の竹川町だと思ひます――出して居られた頃で。或日私が其社を音づれて翁と色々の話をした折り。「時に先生、近日の雑報には大変面白い結構なのがある、一昨日の心中話(両国の百本杭あたりで有つた心中話だと覚えて居る)などは近来の名文章だがあれは誰方(どなた)の筆ですな。」と聞きますと、翁は笑つて「あの筆者を君に紹介しやうと思つてゐた処。それは彼処(あすこ)あの角に机を控へてゐるあの青い眼の怖い男さ。」と云つて「斎藤君一寸と来たまへ。此が日報社の塚原君だよ。――此人は斎藤賢で江東みどりと云ふ社中の秀才さ。以後は御心易く願う。」と云つて引合されたのが抑もの初めでありました。其時君は伏目になつてにやりと嫌な笑ひを見せられたを、私は今日でも覚えて居る。其折り私は心に思つた。成る程此の人にしてあの文章が書けるのであらう。何う見ても感情の鋭い、鑑察に(さと)い、硝子の如き頭脳を持てゐる先生だ。何しろ後来恐るべき文壇の一飛将となる人であらう。と私も実は恐れた。其の恐れたのは右申す氏の文章の奇警にでもあるが、其れよりもあの青白い、今()から出た計りの村正(むらまさ)とでも云ふやうな其の凄い眼でしたよ。
塚原渋柿園「斎藤緑雨子」
明治40年10月



その日は寒い(やみ)の晩で風が少し吹いて居りました。斎藤君も酒は飲まない方だが、その時は少しは飲みました。その帰りに二人で歩きながら色々話をしたのです。斎藤君はその頃は、シメリ勝ちで余り人に話をする事も無かつたが、その時には特に意気銷沈の有様で話かけました。その話は『今日まで自分は十分の学問も出来なかつた。それは何ういふ訳であるかといふと、自分には弟が二人あるので、自分が学問をして高等の学校へまで行かうとすれば、その二人の弟に学問を廃させなければならなかつたから、自分は二十歳前で学問はやめてしまつた。また自分が小さい時分には家が困窮であつたと見えて、まだ自分が小さい時分に母さんに色鉛筆を買つてくれと言つた処が、母さんは宜しいと言つて引受けは引受けたが、然しよく/\金がなかつたものとみえて、頭の物か何か、当時母さんは銀の平うちか何かの頭の物を売つた容子だつた。母さんは観音様へ行くと言つて出て行つて、色鉛筆を買つてくれたのは買つてくれたのであるが、見ればいつもさしていた簪が無くなつて居つた。母が親の遺物であると言つて居た物を売つて鉛筆を買つてくれたと云ふ有様であるから、私は学問をやめて弟共に修行させました。それで自分は毎月幾日かを記念の日として観音堂に詣るのであるが、それが丁度今日なんだから観音様へ行く積りだ。今夜は寒いけれども一所につきあはないか』と云ふので観音堂へ行つて、二人で話をして、その晩家に帰つてきたのでした。
馬場孤蝶「斎藤緑雨君」
明治37年5月



 斎藤君は死ぬ朝までも気分は確かであつたさうで、朝台所でガダ/″\と音がした処が、あれは何の音かときくから、水を汲んで来たのですと言つたら、新らしい水を飲ましてくれと言ふので、水を持つて来て出した処が、斎藤君は快く飲んで寝返りをさせて呉れといつたので、手伝つて寝返りをさせると、皆次の間へ行つて居てくれと云ふ事であつた。それでほんの一寸の間家の人は次の間へ避けて居て、一二分たつて皆引返して来た処が、モウ息が絶えて居つたさうです。斎藤君は兼ねて世を罵ることの烈しかつた人であつたから、死ぬ時にも定めて恐しい事を言つて死んだであらう、生れ代つて来てエライ文章を書かうといふやうな大言壮語を吐いて死んだであらうと思ふやうな人もあるかも知れませんが、至極臨終は静であつたと云ふ事は、あの人の勝れた人であつたといふ事を現はす証拠の一つであると私共は思ひます。不遇でも、短命でも一生は一生である。何も万事の終である死期に及んで怨がましいことをいふにも及ぶまいと思ふのです。此点に於て、斎藤君の死期の静穏であつたことは、同君に対する我々の敬意をますます深かうする訳であるのです。翌朝になりますと本人の遺言通り朝早く火葬すると云ふ事になりました。外の諸君へは一寸も通知をしないで置いたのですから、その供をしたのは、幸田君与謝野君私と友人で三人、親戚の男の人が四人で、朝五時に横網を出棺して隅田川の岸を伝つて、厩橋へでて、あれからまつすぐに西行し、本願寺の方へ曲がり日暮里の方へ行つたのですが、その道で色々の事を考へたのです。文壇に同じく名を馳せた人で、病が危篤だと言へば、各新聞にその事を書き立てられ、その死するや知るも知らぬも打寄つて立派に行列を整えて葬ひを送つたと云ふ人も少くはないのに、之れ等の人に才も作も劣る所のない人で、今此のごとく僅かの人数で遺骸を送つて行く、またその人の身の上を見れば、年齢も既に三十八と云ふのであるのに、妻もなく子もなく、一人で寂しく此の世を送つて、今屍を送るに当つても極く近い親類といふのは極少なく、寂しい葬ひの行列を整へて行くといふのは、余程その相違が異様であると色々の事を考えて行つた。然し此の考えは幸田君も与謝野君もそうであつたらう、余程沈んで歩いて居られた。天の模様は雨を含んでおり、草は露を含んで居る、その中を分けて吾々が寂しい柩を護つて行くのは、あたりの景色のハデヤカなのに相対して、吾々どもには寂しい何とも言へぬ感じがしました。
馬場孤蝶、同上



 三十五年の一月の元日と覚えて居るがその時分小田原の緑新道に居た緑雨を訪問すると茶だの煙草盆を持つて来た打見には二十三位な小奇麗な田舎芸者あがり位には見える女があつたが、我輩は、大分小奇麗な下女を置いたものだな位に思つて別に気にも止めず、雑談を続けて居ると、緑雨は酷どく調子を低くして、『(覿面)の主義などは全く擲つて了まつた』といふのであつた。あ、左様かと、かういふ事には遅鈍な我輩は、初て悟ることが出来た。それから後に、東京では斎藤の家に居る女は一体何であらうといふ様な話が方々であつたものと見えて、与謝野氏が、手紙で『大兄の家に居る婦人は何んだらうといふ噂が東京では方々に伝はつて居るが』といふ様に言つてやると、その返事には『妻にあらず、妾にあらず、婢にあらず、唯の女なり』とあつて、前途は何うなるか解らず、今試験中であると云つて来たといふので与謝野氏共々大笑を為たことがある。この女が金沢たけ女であつて緑雨の晩年はこの女の世話に随分多く為つたのである。
馬場孤蝶「緑雨醒客」
明治40年10月

明治29年頃 明治34,5年頃





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