シロクマの屑籠(汎適所属) このページをアンテナに追加 RSSフィード

2009-02-09

女医さんのジェンダー的葛藤がビンビン伝わってくる本に出会った

 

病院はもうご臨終です (ソフトバンク新書)

病院はもうご臨終です (ソフトバンク新書)

 

 

 昨今、いわゆる“医療崩壊系の本”というのはそこらじゅうにあって、食傷気味の感も否めないけれど、おおよそ文章には著者の情念が宿るもので、本から滲み出てくる著者特有のエッセンスが掛け替えのないビジョンを提供する、ということは珍しくない。

 

 今回読んだ本も、まさにそのような一冊だと感じた。

 

 第一章《強烈キャラの患者たち》----難しいケースへの対応、

 第二章《医者ってやつは…》----ドクターの多忙な生活の実状

 第三章《医者の人生スゴロク》----医者はそんなにハッピーじゃない

 第四章《病院はご臨終なのか!?》----医師不足問題について

 

 こうして目次を列挙するだけだと、医療崩壊系の書籍としては(良くも悪くも)オーソドックスな構成だ。医療現場をレポートする新書として、よくできてるなぁと感じるが、ただそれだけの本であれば、他にも良い本が出版されているかもしれない。

 

 ところが実際に読んでいくと、さにあらず。

 濃厚な情念が行間から伝わってきて、驚かされた。

 

 『病院はご臨終です』というのは、あくまで表向きの看板なのかもしれず、文章からビンビン伝わってくるのは、医療崩壊への危機意識よりも、むしろ一人の女性医師が直面している葛藤にまつわる、強い情念だと感じた。実は、この本の正体は、女性医師たる筆者の、魂の叫びなのではないか。そういうアングルで読み進めていくと、やたらユーモアたっぷりの軽妙な筆致も、ちょっと迫力を帯び始めてくる。

 

 

矛盾だらけの『女医』という立場

 

 思えば、『女医』という立場は本当に難しい。

 

 そもそも『女医』という言葉が独り歩きして、今なお生き残っているということが、彼女達の立場の特殊性を物語っている。男女平等パラダイムのなかで、看護婦保母が男女の区別のない名称へと変わっていった*1のに対し、『女医』という言葉が『医師』という言葉に吸収されて消滅する兆しはまったくみられない*2。“医師は男の役割”という固定観念が未だに根強く残っていて、女性医師というのは特別な存在、という意識が、どこかしら漂っているようにみえる。『女医』という言葉が生き残っている現状こそが、医師という職業が未だに男性性を帯びまくっていることをよく象徴している。 

 

 そのくせ、『女医』が女性としての役割を期待されることは少なくないし、女性としてまなざされる機会が無くなったわけでもない。女性ナース達からの嫉妬、友達からの「男の医者を紹介してくれ」、医局の宴会芸で割り当てられる“役回り”etc…。男性性を帯びた職業人としての役割を期待されている一方で、妙なところで女性扱いされるという矛盾を『女医』はつねに突きつけられている。

 

 かと言って、彼女達がジェンダーとしての女性性から解脱して、割り切って仕事ロボットになりきれるかというと、殆どの場合、そうではない。プロフェッショナルな医師としてどれほど洗練されようとも、“彼女達は女であることをやめることができない”。言い換えるなら、自分自身のなかに強固に内面化された、女性としての夢・女性としての理想・女性としてのかくあるべき、といった価値観を抱えたまま、自分自身の境遇を省みずにはいられない。そして、内面化された女としての理想や願望と、自分自身の現状とのギャップが大きければ、その分だけ葛藤せずにはいられない。

 

 あくまで私個人の感想、と前置きしておくが、この『この病院はもうご臨終です』という本は、医療崩壊系の本というアングルで読み解くよりも、『女医』が直面しているジェンダー的葛藤というアングルで読んでいったほうが、新鮮な省察が得られると思う。著者の方がどの程度自覚的なのかは分からないけれども、少なくとも私が一番迫力を感じたのは、『ご臨終しそうな病院の話』ではなく、『迷いながら必死に生きる女医さんの等身大の声』、のほうだった。

 

 

高学歴キャリアウーマン』とも共通した問題

 

 こうした、[内面化された女性性と、自分自身の現実]との葛藤に直面しているのは、もちろん『女医』に限った話ではないだろう。今のご時世、大車輪の活躍をしている独身の『キャリアウーマン』というのは珍しい存在ではない。しかし、職業人としてのキャリアと、内面化された女性的価値観との狭間で暗中模索しているというのが、表向きは強気で華やかな、彼女達の素顔のような気がしてならないのだ。

 

 おそらく彼女達は、頑張って、頑張って、幸せになりたいと願って、高ステータスの職業に就いたのだろう。しかし、そんなライフスタイルを突き詰めて彼女達が手に入れたものと、彼女達が本当に欲しいと願っていたもの*3との間には、甚大なギャップが横たわっているのではないか。小さい頃から成績優秀と期待され、社会に出てからも職業人として活躍しながらも、『いつかはお嫁さんになりたい』『母として子を育てたい』的な、女性らしい価値観からは自由になれず、葛藤を余儀なくされている“強い女達”。彼女達とて、高級マンションでネコと孤独を分かち合うために、わざわざ『女医』や『キャリアウーマン』になったわけではあるまい*4

 

 昨今、『婚活』という言葉が流行っているのをみるにつけても、キャリア女性に代表されるような、内面化した女性性ジェンダーと仕事との折り合いの問題は、まだまだ地獄の一丁目、むしろこれからが本番、という予感がする。そういえば、この世代の男性側も男性側で、“中年童貞”問題をはじめ、内面化された男性性ジェンダーを持て余したまま、加齢しつつある男性が増え続けているようにみえる。

 

 これから先、古典的なジェンダーの枠組みの外側を突き進もうとする人々が辿り着く境地が奈辺にあるのか?そういった未来を想像するにあたり、『女医さん達の葛藤』は示唆的で、参照しやすいクラスタだと思う。著者の仁科先生の今後の活躍に期待したい。

 

 ジェンダーの問題を考えたい人や、これから医学部を受験したいと思っている女性の方にもお勧めの本です。あと、愛娘を医学部に入学させたいと思っている父兄の方には超お勧め。色々と、みえてくるんじゃないでしょうか。

 

 

 


 

 ※ちなみに、以下の一冊は、全く関係ないようにみえて、この本とコインの裏表のような関係にあると思う。なにげに。中年童貞の本ではあるけれど。↓

 

 

中年童貞 ―少子化時代の恋愛格差―

中年童貞 ―少子化時代の恋愛格差―

  • 作者: 渡部伸
  • 出版社/メーカー: 扶桑社
  • 発売日: 2007/05/30
  • メディア: 新書

 

*1:看護婦→看護師、保母→保育士

*2:もともと、『女医』という呼び方が俗称であることが、この傾向を一層しつこいものにしているようにもみえるが。

*3:または、彼女達がよいこととして内面化していたもの

*4:しかも、そんな彼女達を、男性然とした白馬の王子様が抱きかかえるような出会いは滅多に無いのである

2009-02-05

『俺の妹がこんなに可愛いわけがない』にみるオタクナルシシズム

 

 

俺の妹がこんなに可愛いわけがない (電撃文庫)

俺の妹がこんなに可愛いわけがない (電撃文庫)

 

 『俺の妹がこんなに可愛いわけがない。』(略して『俺妹』)という作品が、ライトノベル界隈で話題になっているようだ。売れ行きのほうもけっこうなものらしく、地方の国道沿いの書店でも見かけるようになってきた。

  

 さて、この『俺妹』という作品、オタク向けの消費コンテンツとしてみればかなりあざとい。オタクナルシシズムを充たすうえで最適のキャラクターと物語が展開されている。オタクな自意識・オタクな後ろめたさを持った読者を、気持ちの良いナルシシズムの境地へといざなう、魔法のライトノベルとさえ言えるだろう。

 

 

 「ところで、ナルシシズムって何?」という人もいるかもしれないので、ここで確認しておこう。

 

 『大辞林*1』によれば、ナルシシズムnarcissismとは、

(1)自分の容姿に陶酔し、自分自身を性愛の対象にしようとする傾向。自己愛。ギリシャ神話ナルキッソスにちなむ精神分析用語。

(2)うぬぼれ。自己陶酔。

 となっている。この定義から連想しやすいのは、たぶん、自分自身を鏡で眺めて自己陶酔しているようなイケメンナルシストではないかと思う。だから『俺妹』を読むことがナルシシズムとどう関係しているのか、すぐにはピンと来ないという人も多いかもしれない。

 

 

 しかし、考えてみて欲しい。

 

 洗面台の鏡にうつった自分の顔をみてウットリするだけが“自分自身を鏡で眺める自己陶酔”といえるのだろうか?

 

 決してそんなことはない。

 

 自分自身の映し鏡として利用できるものならなんでも映し鏡にしてしまうのが、自己陶酔の大好きな人のサガというものだし、えてしてそういう人は、自分自身の映し鏡として利用可能な存在に対して敏感だ*2。そして、オタク界隈にはその映し鏡として利用できるキャラクターがごまんと存在している。自分によく似た心理状態のキャラクター・自分と似た境遇のキャラクターに対して“あたかも自分自身であるかのように”感情移入できる人なら、そのキャラクターを自分自身の映し鏡として、いくらでもナルシシズムに耽溺することが可能だったりするのだ。

 

 

オタクを可愛く映す鏡としての『俺妹』ヒロイン

 

 この視点からみた『俺の妹がこんなに可愛いわけがない』は、オタクがナルシシズムに耽溺するうえで非常に優れた作品、と言わざるを得ない。

 

 たとえばメインヒロインで妹キャラの『桐乃』。

 

 彼女はギャルゲーエロゲーが大好きだけれども“一般人を装っている”という美少女キャラクターだ。彼女は、本当はオタクっぽい話題で盛り上がる仲間を欲しがっていて、オタク蘊蓄の開陳に快感を覚えるようなタイプなのだが、親やクラスメートとの確執を避けるべく、自分のオタク趣味をひた隠しにし、孤独なオタクライフを過ごしている。そして、オタクにありがちなこの手の心理的葛藤を持て余している程度には、不器用だったりもする。

 

 これって、そこらのオタクの心理や葛藤そのまんまじゃないですか。

 

 [キモオタ扱いされることに怯えてエロゲー趣味をひた隠しにしているオタク] [オタク仲間が欲しいけれども周りにいない孤独なオタク] [オタクならではの心理的屈折を持て余しているオタク]といった人達にとって、『桐乃』の振る舞いや心理は、親近感を感じやすい、オタク自身を重ね合わせやすい部分が非常に多い。すべてのオタクが『桐乃』のような心理や境遇を抱えているわけではないにせよ、親近感をおぼえるオタクならば決して少なくない筈だ。

 

 そんな、“自分自身の似姿のような境遇のキャラクター”が、美少女中学生という外観を与えられ、泣いたり笑ったり、それはもう可愛らしく振る舞うのが『俺妹』というライトノベル作品なのである。

 

 『俺妹』を読めば、鏡に映った自分自身に唾を吐きかけたくなるようなオタクでも、『桐乃』という美少女のテクスチャを貼り付けられた自分自身の似姿を眺めて、自己陶酔に耽ることができる。あるいは、自分自身の似姿を性愛の対象にすることさえ可能になってくる。これこそ、ナルシシズムの辞書的定義そのままである。

 

 喩えるなら、『桐乃』という美少女キャラクターは、自己陶酔が可能なかわいらしい姿にオタク自身を変換する、“魔法の鏡”として機能している、と言えるだろう。

  

 

美少女キャラを映し鏡にしたオタクナルシシズムの源流は、深い

 

 尤も、自分自身を可愛く映し出して自己陶酔するべく、美少女キャラクターという“魔法の鏡”を利用するというオタクナルシシズムの形式は、今にはじまったものではない。

 

 

 例えば、『らき☆すた』の泉こなたや、柊かがみ

 例えば、コミュニケーション不全なkeyの美少女達。

 例えば、好きなものを好きと言えない、ツンデレ美少女達。

 例えば、ふたなり美少女の系譜。

 

 美少女キャラクターの系譜を紐解けば、男性オタクによく似た境遇や心理的特徴を呈した美少女達のオンパレードである。美しい外観や超常能力などのテクスチャを剥がしてしまえば男性オタクの似姿そのままの、男性オタクが感情移入しやすく、オタク自身をかわいく映す“魔法の鏡”として利用しやすい美少女達が、市場淘汰に耐え、こんにちまで支持され続けてきたのである。

 

 美少女キャラクターを“魔法の鏡”にしたオタクナルシシズムの源流は、深い。

 

 『俺の妹がこんなに可愛いわけがない』は、こうしたオタクナルシシズムの最先端を走る作品だ。そして、こういった作品が話題の中心付近に位置しているのが、ライトノベル界隈の現状でありニーズなのだろう。

 

 

 [関連]:オタクの葛藤をかわいく映す、映し鏡としての『らき☆すた』 - シロクマの屑籠(汎適所属)

 

*1三省堂の辞書。goo辞書になっている

*2:ここで、「この文章を書いているやつも敏感だよね」と思った人は、ある程度はビンゴだと思う。もし僕が、自己陶酔的性質に鈍感であれば、こんな文章を書けるわけがないのである

2009-02-03

「週刊ビジスタニュース」に『オタク中年化問題』を寄稿しました

 

 

 こちら文芸&学芸書籍編集部

 

 SoftBank Creativeさまで連載中のメールマガジン『週刊ビジスタニュース』の2月4日(水曜日)分に、僕の記事が掲載される運びとなりました。

 

 これは願ってもない機会!

 そう思い、このたびオタク中年化問題を踏まえた、オタク界隈の近未来』についての記事を寄稿させていただきました。『オタク中年化問題』については、2007の7月にも言及しましたが、あれから一年半が経過し、いよいよ近未来のビジョンが見えてきたように感じています。

 

 三十路を越え、中年化していく団塊ジュニア世代〜ロスジェネ世代のオタク達。彼らは、オタク界隈のなかでは人数的に最もボリュームの大きな世代です。この世代のオタク達が年をとっていくことが、何を意味し、どのような結果をもたらすのか?そこらへんに関心のある方に、おすすめの記事だと思います。

 

 →『週刊ビジスタニュース』の購読はこちらへ。

 

 

 

 ※このような機会を与えて下さったSoftBank Creativeの関係者様、ならびに御縁ある皆様に、深謝申し上げます。

 

2009-01-30

「努力を恐れる男達」。

 

 

 本気で努力する・時間や情熱を賭けて努力する、ということを怖がる男達がいる。

 

 「努力をしない男達」というよりも「努力を恐れる男達」。

 

 これが単なる怠惰であれば、まだしも救いがあるのかもしれない。情熱の対象がみつかれば、彼は怠惰の檻から這い出るだろう。しかし“努力が恐いから”怠惰を装うタイプの人の場合は、そもそも情熱の対象に憑りつかれてのめり込むこと自体を避けてしまうので、情熱を持つこと自体が困難だ。こういう男達は、さも冷静を装った、斜に構えたようなポーズをとることで、情熱と努力から逃げ回っている自分自身に気づかないように振る舞っている。オタク向けの表現をするなら、『涼宮ハルヒの憂鬱』のキョンのような男性、と言えば分かって貰えるだろうか。

 

 

 なぜ、彼らは努力を恐れるのか?その要因は多岐にわたるだろうが、一言に集約するなら、

 

 努力して自分が満足するような成果が得られなければ、高いプライドが傷ついて、自分自身が無価値であるかのように感じられて落胆するから。

 

 という表現にまとめられるだろう。

 

 

 努力を恐れる男達は、表面的にはどうあれ、非常にプライドが高く、傷つきやすい。自分が100の成果を期待している努力に対して、100の結果が速やかに得られなければ、それだけで傷つくぐらいにはプライドが高い。70や80の結果や、ゆっくりとしか成果の出てこない結果でさえ、ときには彼らの繊細な自尊心を傷つけ、落胆させたり怒らせたりすることもある。

 

 そんな彼らであれば、男女交際のような、見かけのうえでは0に近い結果もあり得るような挑戦から尻込みするのも、無理ならぬことだろう。ほんらい、片思いで終わってしまう恋愛のなかにも“失敗から学ぶ余地”“経験を蓄積する余地”が多々あるわけだけれども、自尊心が高い男達にとって“俺が真正面から努力を尽くしたのに振られた”などという結果はとうてい受け入れられるものではないし、傷つきと苛立ちで頭が真っ白になってしまう。だから、この手の自尊心の強い男達は、努力・失敗・挫折から貴重な教訓を学び取ることが著しく困難だし、自尊心の傷つきで頭が真っ白になりかねない体験に、なんの意味も見いだすことが出来ない。

 

 また、努力の成果が実感できるまで長く待てない彼らは、長期間の修練を必要とする業種や、成果がみえてくるまで時間のかかりやすいジャンルに耐えることが難しい。数年前、「入社してもすぐ転職する新入社員」が注目された時期があったが、さもありなん*1。一箇所に留まって地道に修練を重ねるような業種は、彼らには向いていない。自分の実力が速やかに評価される会社・自分の自尊心に見合うスポットライトが速やかに用意される会社・“自分らしさを存分に発揮できる”会社をこそ、どこかで待望している。しかし、そんな会社は世の中に滅多に存在しないので、結局は「本当の自分はこんなもんじゃない」と不平を抱きながら日々を過ごさざるを得ない。そういう男達が、世の中のあちこちに点在している。

 

 

努力を恐れる男達の、例外状況

 

 ここまで書くと、「そこまで努力できない奴は少数だ」「俺は大学院ニートだけど受験勉強は努力できてました」と反論する人もいるかもしれない。

 

 しかし、ここまで書いてきたように、「努力を恐れる男達」が恐れているのは

 

  • 成果が期待通りにあがらないかもしれない努力
  • 成果がすぐにはみえてこない努力

 

 であって、成果が期待通りにあがりやすい努力や、成果がはっきりみえやすい努力に対しては、むしろ熱狂的なほどのめり込むことが多い。そのような「安全な」努力であれば、傷つきやすい自尊心を痛めるリスクを冒すことなく、そこそこにプライドを充たすことが可能なのだから。

 

 受験勉強、なかでも自分の得意教科に特化した受験勉強などは、この典型例に該当する。受験勉強は、成果が得点や偏差値となってはっきり数値化されるため、受験勉強に特化した育ちの子どもにとっては、「成果があがりやすく、しかも成果がはっきりみえる」ジャンルとなりやすい。とりわけ日本の受験勉強の場合、模範解答がはっきり決まっており、マークシート方式も多いわけで、丸暗記一辺倒であってもある程度の得点が可能な教科もある。

 

 同じ傾向は、たいていのコンピュータゲームにも当てはまる。ネットゲーム・ロールプレイングゲーム・シューティングゲームなど、いずれのゲームジャンルであっても、努力に伴うレベルやスコアが数値化されて分かりやすく、努力が裏切られることも少ない。これらのゲームは「報われないかもしれない努力」「すぐに見える形にならない努力」の対極に位置しており、はっきりと目に見える形で自尊心を充たすことができる。あるゲームで自尊心を充たしにくいと感じたとしても、さっさと見切りをつけて他のゲームに移動してしまえば良いのだ。

 

 なので、努力を恐れる男性達であっても、ひとつの分野や狭いジャンルのなかで“いわゆる専門バカ”として大成することならあり得なくもない。「設計は最高技能だが、他はてんでダメ」のような形で、運良く専門職に就くことが出来れば、狭いジャンルの内側で自尊心をいっぱいに充たした“いわゆる専門バカ”として、案外たのしく人生を歩めるかもしれない。しかし、博士課程を出た人が就職難を迎えている現状が示す通り、“いわゆる専門バカ”のための椅子の数はあまりにも少ないのが現状だ。

 

 

「努力を恐れる男達」が生まれてくる背景は?

 

 なぜ、努力を恐れる男達・自尊心の傷つきやすい男達がこんなに巷に溢れているのか?

 

 個々の事例ごとに、原因や要因は様々だろうし、はっきりとしたことは私にも分からない。けれども、こうした努力を恐れるプライド高き男達がやたらと生まれてくる背景には、おそらく、

 

  • 「目に見える努力ばかり認めて」「目に見えない努力を評価しない」ような価値観が小さい頃から植え付けられている
  • 「結果だけを褒められ」「結果に至るまでの過程は褒められない」
  • 親の自尊心を仮託する対象として、子どもが選ばれた結果、自尊心が天狗になっちゃった*2

 

 などが含まれているのではないかと疑っている。小さい頃から塾通いに励み、テストの点数ばかりを褒められたり叱られたりしながら、親の自尊心を無言のうちに背負わされて育ったような男達は、狭い分野の内側でしか努力できない人間になりやすいように思える。あるいは、分かりやすく即座の結果が出なければ、自尊心が落ち着かない人間になりやすいように思える。もちろん、それだけでもないだろうけれど。

  

 私は、自尊心やプライドを持つことが悪い、とは思わないし、人間である以上、むしろ適度なプライドは必要だろうと思っている。けれども、プライドが高すぎて傷つきを恐れるあまり、努力できる範囲が限定されてしまうと、人生の可能性は狭くなってしまうだろうし、スキル獲得の偏りの大きな、融通のききにくい人間になりやすいとも思う。

 

 にも関わらず、「努力を恐れる男達」は、今も増え続けているような気がする。団塊ジュニアロスジェネ世代だけの話ではなく、もっと下の世代にも共通した心性だという印象を、私はどうしてもぬぐい去ることが出来ない。一体いつまで、こんな傾向が続くのだろうか?「努力を恐れる男達」がこれからも増え続けるのだとしたら、なかなか大変な世の中になっていくような気がする。

 

 

 [関連]:「彼女がいない」より、「惚れない」ことのほうが深刻なのでは? - シロクマの屑籠(汎適所属)

 

 

*1:例外は、実力主義の会社に入社していて、なおかつ速やかに実力が認められるようなバケモノ的才覚を持った人間ぐらいだろうか。ちなみに、いわゆる実力主義の会社というのは、逆説的に、努力を恐れる男達の格好の飛び込み先となり得る。短期間で目に見える成果を出せば評価されるという看板は、即戦力の人材や天才的な人材を惹き付けると同時に、自分は努力しなくても評価されて当然という自尊心を隠し持っている、才覚も無ければ努力も出来ない人材をも同時に惹き付けやすい点には、注意しておきたいところだ。

*2:これには勿論、少子化による影響もある。子どもが五人いれば、親が仮託する自尊心は五等分されるが、一人しかいなければ、その子が一身に親の自尊心を請け負わなければならない。