G.A.W. このページをアンテナに追加 RSSフィード

20090205

[]とらドラ!雑談

 なんかもう、感想書く気そのものがなくなるくらいには深くやられたので、内容としては散漫です。ほんとに散漫です。なんとなくとらドラを通じて俺が思ったこと、くらいの感じですかね。アニメ10話から15話の内容を含むかもしれません。その場合、当然ながらネタバレですのでご注意を。秋ひものさんとあんよさんは読んじゃだめです。まあ、あの状況で読むとも思えないですけどね。


 別荘話の後半から、生徒会選挙の始まりあたりまで。

 まあ、いろいろ思うことはあるんだけど……。だめだな。もう言葉にならない。いや、皮相のレベルならいくらでも言葉になるんです。常々、俺は自分の文章はうんこだとか言ってるわけですけど、それだって、38歳になるまで連綿とアニメ見て小説読んで文章書いてるわけで、それ相応に言葉にすることはできるんです。その程度の自負はある。

 なんのために感想なんて書くかって言ったら、もう、作品から受け取ったものを自分の体内に留めておくことができないからですね。それで俺は、作品について語るときにあんなに文章量が多いんですが、それも一定レベルまでなんですよ。「受け取る」なんてレベルを超えて、限界を超えて、なにかを「食らって」しまったときに、もうそこに言葉はないんです。ただもう、大河のような運命を抱きしめたい、としか。

 なんかもう、こういうのはほんとにどうにもならないです。

 そういえば、先日書いたとらドラの感想で、俺でも知ってる有名な方からブコメいただいて、あーアルファプロガー伊達じゃねえ、こいつはすげえや、と素で思ったんですけど、ただ俺は「勝手に入ってくるな」という大河のセリフを「作者のツンデレ萌え批判」と読むことは「できない」んです。別にいただいたブコメを批判したいとかそういうことじゃない。俺の理性は「こりゃすげえ」と判断している。

 実際「どういうつもりで書いたのか」は作者にしかわからないわけで、正解探しゲームには、意味はないとは言わないけど徒労に終わることが多い。だったら正解探しゲームに還元してしまうよりも「読みかたは人それぞれ」のほうがまだ平和的だし、生産的。

 そしてその「人それぞれ」のレベルで言うならば、俺は「大河の叫び」は「大河の叫び」にしか「聞こえない」という、ある意味非常に幸福な場所に立っています。他方から見ればアホっていうこととほぼ同義ですが。俺は、これだけ作品について大量の言葉を費やしていながら、ついぞ議論というものをしたことがない。それは、フィクションを摂取するそもそもの動機が、強力に「現実逃避」の一点に絞られているからだと思う。俺はこの世界に、好きになれないものがいやというほどある。というより、好きになれるものがほとんどない。嫌いなものばかりです。俺を現実につなぎとめているものは「死にたくない」という原初的な恐怖と、「俺がいなくなると困る人がいる」との二点のみ。俺自身には、別に主体的にこの世界をよりよく生きようだとか、そういう気分はさらさらない。ただ自分が、自分がたいせつに思うものが、昨日よりは今日、今日よりは明日のほうが、少しでも快適でなければ明日以降の生を受け入れる気が起きなくなる。だから努力はしますね、という程度のもの。

 好きになれるもの、抱きしめたいもの、そうしたものがないと、感情が死んでいくような気がして。

 そういえば、今日はちょっと会議みたいなのがあって一人で外出してたんですけど、そのときつくづく思ったのは、俺、基本的に感情に喜怒哀楽が揃ってないんです。少なくとも、喜び、楽しさ、そうしたものはほとんどない。いつでも世界は憂鬱で、空は曇天で、灰色の薄い絵の具がすべてを塗りこめているような。そんな気分で世界を眺めている。

 美しいものが必要だ。愛すべきものが必要だ。

 それはどこにある。

 そんなような動機でフィクションを消費している。

 13話を見終わったとき思ったんですよね。あー、俺、いま大河の近くにいるわって。結局のところそれだけが目的で、言葉を費やすのも、実のところは大河に近づくための手段のひとつでしかないのかもしれない。この心臓が締め付けられるような感情はなんというのだ。ああ、これが愛しいということか。ようやく少し、人間の感情に届いた。俺は、少しは世界を肯定できるようになったかな。大河のような運命を、抱きしめることができるようになったかな。


 そうだな。思いつくままに書いてみようか。

 「ポジティブ」という言葉について。

 まあ、このブログを読んでる方のなかでもご存知の方は少ないかと思いますが、その昔、渡辺多恵子に「ファミリー!」という作品がありまして。俺の「ポジティブ」のイメージは、この作品の登場するフィーというキャラなんですね。俺、こいつ嫌いでさあ。あれはコミックスで8巻あたりだったかな。ジャニスっていうキャラが出てくるんですよ。純粋でまっすぐで、傷つくことをも恐れずに前に進む、ぼろぼろになっても立ち上がる、そんなフィーというキャラクターに対するアンチとして。そんなまっすぐなものは信じられない。こいつは人の本当の悪意を知らないからいつも幸福そうに笑っていられるのだ。だから傷つけてやる。笑えないようにしてやる。自分のようになってしまえばいい。これがジャニスの行動原理ですね。でもまー、だいたい人は善意というものには勝てないようになってるので、人を傷つける自分に自己嫌悪したり、結局自分も人間を求めているのだ、という事実に絶望したり。まあ、そんなこんなで最終的には、フィーはジャニスを受け入れたりする。まあ、これをジャニスの敗北として受け止めると、人はそこから人生をこじらせたりするんですが(笑)。

 ああ、そうそう。俺、あの「要は勇気がないんでしょ」っていうのは嫌いなんですよ。それが正論であるのは百も承知で。まあ、だいたいのことは勇気があればどうにかなりますね。でもさ、それって逃げ打ったことのある人間に言われたくないんだよね。そんで、逃げ打ったことのない人間なんてそんないるもんじゃない。

 「要は勇気がないんでしょ」それを言える人の笑顔はきっと傷だらけだよ。

 だって、ポジティブっていうのは、そういうことだもの。この世界にはジャニスのような人が満ちていて、フィーの願いが通じることなんてそうはない。なるほどフィーには勇気があった。人並み外れた勇気があって、ぼろぼろになって、傷ついて、ようやくたった一人のジャニスを得た。ポジティブってそういうもの。それは他人に強要できるものではないし、「要は勇気がないんでしょ」なんて、軽々しく他人に言える言葉じゃない。本当にポジティブな人は、きっとそれを他人に強要しない。そのつらさや痛さをよく知ってるから。それでもなお、だれかに対して「勇気を出せ」と言うのなら、それはきっと、地獄の底まで付き合ってやるっていう決意の表明だし、勇気を出さないとその人が死んでしまうような局面だから。

 なんでこんな話をしてるかといいますと、みのりんは自分自身に対して、常に「要は勇気がないんでしょ」を言い続けている子だからです。まあ「ずるい」ってことですけどね。実際ずるいんですけどね。ほら、みのりんって、自分自身に対しては厳しくあることができるけど、同等の強さで他人にそれを要求できないじゃないですか。そりゃ竜児の「やさしい」っていう言葉に過剰反応もしますわね。竜児の言う「やさしさ」は、みのりんにとってはそのままで「ずるさ」ですから。

 まあ、そこんとこ折り合いつけないと大変だよ、というのはおっさんのセリフなわけです。

 ついったーのポストで「とらドラの女の子キャラって、みんなハイライト消えそう」という発言をしたのですけれど、みのりんのこの自分に対する潔癖さ、亜美の空回りっぷり、大河における愛情の欠落、こうした「ぎりぎり」っぷりは竹ゆゆ先生のキャラの大きな特徴ですね。

 というようなのが、皮相な感想、というやつでした。失礼しました。


 あー、元同居人のやざわさんは、いまごろみのりんに病的な感情移入してるころでしょうかね。みのりんのずるさや弱さ、自覚的な嘘つきっぷり、それでいてそうした自分を断罪しないと自分を保てない潔癖さ、そういうのはまさに彼のツボってやつですね。

 そっすねー、俺はやっぱ大河ですよ。まあ予測つくどころの騒ぎじゃないでしょうけど。だってさー、みのりん中途半端に賢いじゃん。俺、ああいう賢さあんまり好きじゃないんだよね。その賢さを賢さと認識してない無自覚っぷりもね。「だが、そこがいい」と彼は言うか。まあそうだろうなあ。みのりんはめんどくせえよー? あれ定期的に首根っこつかまえて「逃げんな」って言わないとだめじゃん。差し出した手ははねのけるし、はねのけたうえで謝るじゃん。そんなんフォローすんのめんどくせえって。

 じゃあ大河はめんどくさくないかっていう話なんだけど、そりゃめんどくせえけどさ。でもその「めんどくさい」部分まで含めて、大河かわいいっていうんじゃもうどうしようもないよね。自分のことうまく説明できないし、わかってくれなきゃ怒るし、怒ったあとで勝手に反省するし、わかってやろうと思えば「勝手に入ってくんな」じゃん。もうどうしよもないよね大河。そして「どうしようもない」と思った瞬間にいちばん愛しくなるとかさ、これはもう病気の一種じゃない。

 あー、そっか。あんたと結論一緒だな。失礼しました。

 大河がさー、ほんとに幸福になったとするじゃない。そのときに感じる欠落感はけっこうでかいんじゃないかって、俺はいまから戦々恐々ですよ。大河がほんとに幸福になることを願わないのかって? だから、そこなんじゃん。俺がフィクションの世界から蹴り出されてのって。大河を幸福にするのは俺じゃないからね。たぶん、竜児だから。そこが、原理的に、不幸なんだよ。ほんと観鈴ちんのときから進歩ねえのな俺。いや、俺らは、か。

 それでもまあ、ここは見解の一致を見るだろうけど、それでも、好きになってしまうことは、どうしようもない。ほんとに、こればっかりはね。もう、どうしようもない。大河は、愛しい。

[]着飾ることの意味がまったく理解できない人のファッション談義

 そもそもファッションというものがなぜ必要なのかがさっぱりわからなかった。「着飾る」ということにどういう意味も見出せないのだ。なにしろあれは俺のような顔面がおもしろいタイプの人のためのものではない。人間の外見において、偏差値が存在するとして、45くらいの人は、まあ努力のしようがあるだろう。60くらいの人は言うまでもない。着飾ることにより自分の外見の魅力をさらに上げることができるのだから、そこに楽しみのようなものがあることは想像できる。しかしだ。35とかの偏差値の場合はどうすればいい。すべての努力は、顔面が破壊する。どんなすばらしいセンスのある服装をしたところで、顔面が主張するわけだ。「なにどうやってもおまえの外見偏差値35だしwwwww」と。


 さて、この文章は、ファッションというものが根底から理解できなかった人が、だれでも知ってるようなあたりまえの結論に達するまでの経過を記したものです。結論あたりまえすぎて吹くわwwwwという話かもしれません。

 さて、続けます。


 こう書くとポジティブ教の人がやってきて「要は勇気がないんでしょ」などと言ってくれたりするかもしれないのだが、俺にとってはこれは単なる事実だった。そこに大して僻みの要素はなかったと思う。なにしろモノは顔だ。鏡を見るたびそこにはおもしろい顔面があるわけで、その事実は変えようがない。そりゃすばらしいイケメンだったとしたら、11歳の女の子から逆ナンされて「お兄さん、顔だけはいいかもしれないけどダメ人間ですよね☆ 見た瞬間わかっちゃいました」とかいう運命の出会いをできたかもしれない。……なんかおかしくないか、この例示。素で書いてたんだけど根本からおかしいような気がする。

 話を戻そう。イケメンだったら、と願ったことがないとは言わない。しかし、俺はひどい現実逃避癖の持ち主であると同時に「現状変えようがないものはどうしようもない」という諦観にも似たものを持つ現実主義者でもあったりするので、「とにかく、現状俺がこういう顔であることはどうしようもない。そして、世の人が顔面で他人を判断するのも、まあしかたないことだろう。なにしろ、最初に人が見るのは顔面だから」と、ふつうに思っていた。

 もっともこうした従容たる態度には裏の理由がある。俺は自分が女性には受け入れられる人間ではないということを確信していた。いくつか理由はある。顔面がおもしろいのはもちろんそうだが、シャワーを浴びて5分で顔がつやつや、というかぬるぬる、という極度の脂性であり、さらに、致命的に足がくさい。最近の俺は、生まれ変わったら包茎じゃないちんちんをください神様とか思ってたけど、よく考えたら足のにおいをなんとかするほうが先決だ。自分を嫌いになってしまいそうだ。家に帰ったらまず足を洗わないと自分が悲しい、そんな人生はもういい。

 もっとも、そうした肉体的な理由は決定打ではないと思っていた。人間は外見で判断されるが、しかし顔はすべてではない。もし顔がすべてであるとするなら、街中でけっこう見かける「あきらかに男のほうに問題がありそうなカップル」というものの説明がつかない。説明がつかないということは「人間は顔がすべてである」という前提のほうがまちがっているということだ(ただし、これは15年、20年前の話であって、現在では状況が若干変わっているように思える。街中でいわゆる「不釣合いなカップル」を見かけることは少なくなったような気がするし、なによりバイトの現場で高校生の女の子と会話をしていると「外見重視」の雰囲気は強くなっているように思える。ただし、この根底には「どうせ男なんて」という男性不信があるように見える。「男なんて、生涯を託すに足るものではないのだから、外見だけよければそれでいいよね」という諦観だ。ただ、同時に「外見なんかよりも、まず対等に自分と接してくれる男」を欲する気分も強いようなので、いちがいには言えない。俺は知らないだけで、このへんを綿密にフィールドワークの対象とした考察はどこかにあるかもしれない。身近な少ないサンプルのなかでしか判断できないので、あくまで個人的な印象にとどまるが「旧来の男女観」が音を立てて崩れはじめている先端の世代が、いまの十代なのではないかと思う。特に女性においてこのことは著しい)。

 話を戻す。なにより決定的なのは、俺の性欲の対象が同年代の女性にはまったく向いていないということだった。よって、俺は同年代の女性とセックスができない。俺はひどい(ほんとにひどい)二次オタだが、実は現実での恋愛にまったく否定的というわけではない。人に好かれる可能性はともかく、自分が人を好きになる可能性は絶無ではないと思っていた。しかしセックスが登場した瞬間、もうどうにもならない。俺にとっては、同年代の男も、女も、ひとしく欲望の対象ではないからだ。よって、恋愛感情を持つべきではないと思った。

 ここにおいては、俺にとって「ファッション」の意義というのは、恋愛対象との出会いの可能性を高めるツール、という以上のものではなかった。だから、恋愛の可能性のない俺には、特にファッションは必要ない。自分の外見については、投資するだけ無駄。なにをどうしたところで「あらかじめ低偏差値」という一点は変えようがないからだ。余談としてつけくわえるなら、この点は、俺が女でなくて救われていた部分だと思う。男ならば「外見に気をつかわない」という一事だけをもって、男性社会から弾かれるということは、ままあることではあるにせよ絶対の事実ではない。女性ならおそらくこうはいかないだろう。


 さて、こうした俺のファッション観とでもいうべきものを決定的に変えたものがある。ユニクロの登場がそれだ。

 ある程度の年齢の方なら覚えていると思うが、ユニクロ登場時のフリースのブームはすごいものがあった。みんながユニクロを着ているような状態。というより、フリースという素材そのものがユニクロの登場と同時にクローズアップされたような状態だった。

 ファッションに興味のない俺にしても、ユニクロの服は、コストパフォーマンスに優れているように見えた。もともと柄物や派手な服装に嫌悪感があった俺にしてみれば、シンプルで、カラーバリエーションが豊富なユニクロの服はなかなか魅力的に思えた。そしてそれは当時の社会全体の判断とそんなにずれていなかったのだと思われる。なにしろあれだけブームになったのだから。

 しかし、しばらく経つと状況が変わった。全身をユニクロで固めた人間が「ユニクラー」などという蔑称に近いもので呼ばれるようになり、Tシャツや家のなかでの普段着以外の用途でユニクロの服を着る人間はださい、というような風潮になってきた。

 これが俺にはまったく理解できなかった。ユニクロの服はシンプルだ。デザインだって、そう急激に古びるようなものでもあるまい。それになにより、店内に飾られているユニクロの衣服を着た人の写真はなかなかおしゃれに見える。いったいなにが変化してユニクロの扱いが変わったのだろう。ユニクロの服にそんなに変化がないとするなら、変わったのは人の意識のほうだ。

 そこで、俺は、ユニクロの対極にあると思われるブランドものについて考えてみた。これは、仮説程度ならわかる。価格と希少性と、そしてそうしたものに金を注ぎ込めるという意思の表明だ。それだけのコストを払う理由は俺には思いつかなかった。ファッションが恋愛対象に対するアピールであるとしても、女性の財布がルイ・ヴィトンであることになにかを感じる男はそこまでいるだろうか。だとしたら、そこには自己満足というものが根深く関わっている。

 しかし、それでもまだ納得がいかない。自己満足のためだとしたら、そこには真実自分の欲求に適合するもの、人とは違うものを求める熱意がはたらくはずだ。しかし、そう見えるか? みんな、なんとなく、しかたなく、でブランドものの財布を持っており、それなりの衣類を着ているのではないか?

 ここまで考えて、ようやくそれなりの納得にたどりついた。それはひょっとしてパスポートのようなものではないのだろうか。ヴィトンの財布を持っていること、ユニクロではないこと、そうしたことは「私は外見に気をつかっています」という意思の表明そのものであり、人の内実はそこまでファッションを希求していないのではないか。だいたい俺は疑問だった。「着飾る」ということに強い興味を持っている人間はそこまで多くないように見えるのに、なぜ人はあそこまでファッションに金をかけるのか。そんな金があったらえろげ買ったほうがいいではないか。みんなえろげをやろう。

 すいません。ちょっと話をねじ曲げました。

 ものを考えるにあたって参考資料というものを使わない俺は、ここでようやくドレスコードの存在に思い至った。場には、それにふさわしい服装がある、ということだ。クラブに行くにはそれなりの、コミケに行くにはそれなりの服装がある。15年前のコミケなんて、そりゃすごいもので、徹夜組なんかだと、学校ジャージにグンゼシャツみたいなのがごろごろいたりした。その状況で、全身をスーツで固めてきたなら、扱いは「コスプレの一種」になるのではないか。

 そうした、社会的なドレスコードのようなものが存在するのは、社会がそれを要求するからだ。服装には意味がある。だから人は意味をまとっている。そして人間の側の主体的な理由としては、それは鎧だ。裸の自分、なににも守られていない自分が弱いこと、脆いことをたいていの人は知っている。だから、鎧を着るのだ。

 たいていの人は同時に、日常的に社会と違和感なく関わっているからわからないかもしれない。しかし、たとえどんなものであろうとも、そこに人間の集団がある以上、それは常に恐怖の対象にしかならなかった俺にとっては、この答えは納得のいくものだった。だとしたら、たとえばデートに気合を入れた服を着ていくのも意味合いは変わる。「よく思われるため」というのは実に皮相な理由であり、真実は武装なのだ。


 ファッションにつぎ込む金などバカらしい、俺には二次元があるし人にどう思われても別にいいし、と思っていた俺の考えかたは、ここでだいぶ変わった。ファッションに金を払える人間に対する考えかたも変わった。それは「意味」であり、かつ「武装」であるとするなら、観察対象としては興味深い。人がなにをもってして「おしゃれ」と判断するのか。それは、シルエットであり、色合いであり、雑誌の情報であり、それを自分なりにどうアレンジするかであり、そのアレンジの幅もまた社会的に規定されている。または自分の体型、顔のかたち、髪型、そうしたものが複雑に絡み合った関数のようなものであり、それらが安定したところに、その人にとってのベストの服装というものがある。つまり、目の前の人間の服装には、その人自身の思想や背景となる社会などのさまざまな要素があらわれている。それはとてもおもしろいものだ。

 かつての俺がそうであったように、自分の外見に頓着がない人は、実際のところ参加したい「場」がこの世にあまりないのだと思う。「場」に参加したい、人とつながりたいという強烈な、それは本能と呼んでも差し支えないほどの強烈な意思があって、初めてファッションというものは有効に機能する。

 これが自分にとって完全な答えというわけではないが、暫定的に納得している答えだ。


 え、俺? ユニクロとオフハウスで全部済ませてますよ。服装とかどうでもいいし。参加してえ「場」なんてねーし。スーツ着たくねえからコンビニのオーナーになったんだよwwwwwwwww

 今回のオチはことのほかひどいですね。