ぼくの近代建築コレクション
東京の都心と下町を中心に、戦前に建てられた古い建物の写真を投稿していきます。
 



米井ビル。中央区銀座2-8。左:1986(昭和61)年9月7日、右:1999(平成11)年1月2日

都市の記憶>ヨネイビルディング」で株式会社ヨネイの蓑田義文氏がビルのことを語っていられる。米井商店の本社ビルとして1930(昭和5)年4月に竣工(起工は1929年1月)、設計は森山松之助、施工は清水組である。同サイトで「昭和26年の増築時の外観」が見られる。増築というのは屋上に1階分付け足したことだ。それを見ると2階から上の壁面はスクラッチタイル貼りだったようだ。屋上や6階の窓の間の壁面、3階の丸窓とアーチ型窓の縁取りなどを飾っているのはテラコッタのようだ。現在の外観は昭和59年の改修による。そうするとぼくは何度も竣工時の姿を見ているはずだがなにも記憶がない。見ようとして見ないと見えないのである。
ビルの持ち主であるヨネイが愛着を持って活用しながら残そうとしているようなので、ぼくも近所に行ったらその姿を目にしてこようと思う。

左:1992(平成4)年4月、右:1999(平成11)年1月2日

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五十嵐提灯店。台東区根岸3-2。1991(平成3)年9月23日

五十嵐提灯店は1876(明治9)年創業で現在のご主人は4代目になるらしい。建物は昭和4年建築の元は2軒長屋だったのを、撮影時の5年位前に半分だけ解体してしまった。
写真右の3段の屋根の家は文芸社印刷所。なんとも不思議な造りだ。1894(明治27)年に建てられたという。〔『東京路上細見3』(酒井不二雄著、平凡社、1988)を参照〕


田中書店
根岸3-2
1991(平成3)年6月30日

金杉通りの西側の裏通り。撮影時には、斜め向かいには有名な鶯荘アパートがある。

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和泉屋蒲鉾店。台東区根岸3-2。1989(平成1)年3月26日

和泉屋の建物は前面を黒塗り漆喰仕上げ、側面は板張りで塗屋造りというのだそうだ。根岸界隈ではこの一軒のみで、他は全面板張りの焼屋造りになる。川越には和泉屋に似た立派な土蔵造りの建物が見られるが、和泉屋はそれと比べると間口がずいぶんと狭い。それでも周囲の建物が同じ規模なので造りの重厚さが目立つ。
和泉屋の右は五十嵐提灯店だがその間にガラスの引き戸だけがあるのが見て取れる。五十嵐提灯店の建物は二軒長屋だったが半分だけ取り壊したのである。ガラス戸は他人が入らないように塀の代わりにしているらしい。

左:1989(平成1)年3月26日、右:1991(平成3)年6月30日

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吉田ろうそく店、柳澤製袋所。台東区根岸3-1。1989(平成1)年3月26日

前の通りは金杉通り、かつての電車通りである。
吉田商店は出桁造りの建物になるのだろうが、1階の屋根をなくしてベランダにしている。関東大震災以降の形式かもしれない、などと考えているのだが……



吉田ろうそく店の並び。2006(平成18)年4月9日

写真左から、長谷川雑貨店、吉田商店、柳澤製袋所、和泉屋蒲鉾店、五十嵐提灯店。最近の景観である。


吉田ろうそく店
1991(平成3)年6月30日

『東京の町を読む』(陣内秀信・板倉文雄・他著、相模選書、昭和56年)に1階の間取りが載っている。前面はもちろん売り場だが、左側に土間が奥へ通じている。売り場の後ろは4畳半の居間、その後ろに台所。一番奥が作業場となっている。

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西郷会館。台東区上野公園1。2007(平成19)年3月2日

上野のレストラン「聚楽台」がこの4月21日に一時閉店すると、新聞・テレビで報道された。そこで話題になっているうちに当ブログでも取り上げてみる。このブログは20年も前の写真を取り出しては、昔はこうだったという記録資料的な内容が主だが、たまには最新のニュースに便乗してみてもいいだろう。ただし写真はごく最近のものしかない。



2007(平成19)年4月20日

西郷会館という名称は新聞の記事で初めて知った。看板は「上野百貨店」だ。新聞記事によると西郷会館は、上野百貨店と上野広小路商店街協同組合の所有で、周辺の闇市の露天を移転させるために1952(昭和27)年に建てられた。
1952年というと年表にある、「李承晩ライン、エリザベス女王即位、もく星号墜落、白井義男(ボクシング)、水爆実験、明神礁爆発、君の名は(ラジオドラマ)、原爆の子(映画)」などは覚えがある。
建物の設計者は土浦亀城だという。当ブログでは、土浦の作品は銀座のパールハウスビル(徳田ビル)がある。

左:3階のレストラン。2008(平成18)年3月2日
閉店のお知らせのような張り紙が出ていたが店名を確認するのを忘れた。

右:上野公園からの階段の出入り口。2007(平成17)年10月24日
ここからの眺めは上野の台地から下町を見下ろすような気分だが、よく考えるとビルの屋上だった。

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松本屋化粧品店。台東区根岸3-1。1989(平成1)年3月26日

『東京の町を読む』(陣内秀信・板倉文雄・他著、相模選書、昭和56年)によると、松本屋の蔵は明治20年頃に建てられたもので、明治31年の坂本の大火でも焼け残った。元は店の敷地の奥にあったのが、明治40年頃に金杉通りが拡幅され、前に出てきてしまった、とある。
『下町残照』(村岡秀夫著、朝日新聞社、1988年)には、松本屋のご主人の談として、「蔵は明治元年のもの」となっている。



松本屋のショーウインドウ。1991(平成3)年9月23日

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光陽楼、松本屋。台東区根岸3-1。1989(平成1)年3月19日

金杉通りの言問通りとの交差点のすぐ北である。金杉通りは出桁造りの商家が並ぶ伝統的街並みが残っている街道として有名だ。江戸時代初期に奥州裏街道として通された道だという。
上の写真は逆光で家が黒くつぶれてしまっているが、光陽楼と松本屋が1枚に納まっている写真はこれしかないので掲載した。光陽楼と松本屋の間が開いているのは永藤パン店という店が取り壊された跡である。銅板張りの看板建築だったようだ。平成3年9月に撮った写真ではそこにビルが完成している。



光陽楼。1989(平成1)年3月26日

銅板張りの2軒長屋。光陽楼という中華料理店はあちこちにあるようだがチェーン展開をしているのだろうか。

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交詢ビル・玄関。中央区銀座6-8。1985(昭和60)年6月2日

財団法人交詢社というと「交詢社紳士録」である。『日本紳士録』が正式な書名。一般的な連想ではないだろうが、ぼくが勤めていた会社が紳士録の印刷に関わっていた。ぼく自身は担当したような覚えはないが耳には入ってくる。発行元の「ぎょうせい」という社名も懐かしい。
2007年の第80版で出版は最後になったようだ。やはり個人情報保護法の影響が大きいらしい。昔は紳士録に名前が載るのが名誉だったのに、「個人情報保護」という言葉を聞くともうなにもかも隠さねば、と思ってしまう人がいるのである。氏名と住所だけでは名簿になってしまう。建物には関係ない話になってしまった。



交詢ビル・西(西五番街)側。1987(昭和62)年5月31日




上:西側後方の3階の窓
1986(昭和61)年5月11日

100坪の広さがある大食堂の窓。大食堂の奥には中庭風のロビーがあるらしい。


左:交詢ビル正面
1988(昭和63)年2月21日

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交詢ビル。中央区銀座6-8。1984(昭和59)年1月



交詢ビル・東(すずらん通り)側。1986(昭和61)年5月11日

設計:横河工務所(横河時介)、施工:清水組、着工:昭和3年6月、竣工:昭和4年12月。交詢社という慶応義塾のOBを中心とする社交クラブのクラブハウスとして建てられたもの。
外観は古い様式建築のような印象を受けるが、どの様式とも決められない。尖塔アーチが使われているのでゴシックのような感じもするが、いろいろな様式を取り込んだということだろうか。「近世ゴシック式」となっているサイトが多い。外観から適当についた名称かと思っていたが、工事仕様書に記されていたという。クラブハウスとして、伝統・気品・格調・重厚さが要求された結果だろう。
6階の上の軒周りはロンバルディア帯のような飾りをめぐらしているが、剥落防止のカバーがかけられている。6階の上に一段後退して7階が乗っているのだが、これもカバーしか見えない。昭和7年に講堂を増築している。(『震災復興<大銀座>の街並みから―清水組写真資料』(銀座文化史学会編、秦川堂書店、平成7年)を参照)



交詢ビル・東側。1986(昭和61)年2月2日

平成10年頃の地図だと思うが交詢ビルに入っている店が書いてあるので抜き出してみる。だいたいが写真の看板と一致する。皇家飯店、RENA LANGE、アイスバーグ、ピルゼン、テーラー渡邉、やねうら、サンスーシー。



交詢ビル・3階の張出し窓。1984(昭和59)年1月

4つある張出し窓のある3階の部屋は、手前がサロン、後ろが撞球室になっていた。写真左端の窓は洗面所。

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三ツ喜ビル。中央区銀座7-6。1987(昭和62)年5月31日

前の道路は並木通りで資生堂本社の向かい。この建物は火事を出した後、現在のノエビア銀座ビルに建て変わった。
『近代建築ガイドブック』(東京建築探偵団著、鹿島出版会、昭和57年)には「川喜田煉七郎、昭和初期」として載っている。木造の洋風7軒長屋のようだ。長屋といっても銀座の街並みにしっくりといくしゃれたファサードだ。店舗は写真から、「ギンザジャルダン(花屋?)、(2階に)洋服店、GINZA歌吉、Chryso Zephyr(シャッターにGOLD SILVER ACCESSORY)、鳥居ドラッグ」が認められる。


1987(昭和62)年5月24日

まちもり通信」という伊達美徳という方の運営するサイトがある。都市計画が専門の人らしいが、そこに「創宇社、山口文象そして竹村さんのこと」という小論があって、創宇社に関して書いているが、「三ツ喜ビルは仲田定之助(美術評論家、バウハウスを日本に紹介した)の持ち物で、山口文象に屋根裏部屋を提供したので、創宇社のたまり場になった」ということらしい。また、三ツ喜ビルの設計者は山口文象、石本喜久治、川喜多練七郎と諸説がある、とも書かれている。
川喜田煉七郎に関しては「分離派建築博物館」の「商都東京の街並みを巡る」の「?掘ヅ絞淦澤廚粒?拓者―川喜田煉七郎」がある。

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