ぼくの近代建築コレクション
東京の都心と下町を中心に、戦前に建てられた古い建物の写真を投稿していきます。
 




堀内商店(食料品)。中央区日本橋蛎殻町1-29。1985(昭和60)年4月28日

新大橋通りの蛎殻町交差点と水天宮交差点の間にある交差点で、上の写真で右手へ入れば区役所の日本橋特別出張所がある。当時は堀内商店の南の向かいは富士銀行蛎殻町支店、正面向かいには大新ビルがあった。堀内商店の左は共和園(茶)、立見酒店、テーラー白鳥、カミヤ(もつ焼き)、中村歯科と並ぶ。
『日本近代建築総覧』では「堀内商店、日本橋蛎殻町2、大正末、2階建て、設計・施工=島崎組」となっている。見たところ3階建てのビルなのだが、1階が3面とも木の引き戸になっていたり、上部の軒が看板建築風のラインで、構造上は2階建てということもあって木造なのだろう。当時は建物を裏側から見ようなどという発想は持っていなかった。
「大正元年日本橋区地籍地図」の同地点に「堀内鰹節店」として載っている。


堀内商店2・3階の正面
1985(昭和60)年2月17日

撮影時にはすでに「移転しました」という張り紙があった。
上の写真の看板に「鶏卵」とある。プラスチックの専用容器が出回る前は、卵でも新聞紙の袋なんかに5個・6個と入れただけで渡されたものだ。堀内商店でもリンゴ箱に籾殻を詰めた中に卵が入っていて、12円・15円と1個あたりの値段を書いた札をさして売っていた。

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辰口商会の並び。中央区日本橋蛎殻町1-20。1986(昭和61)年5月31日

当ブログ前回の晴東寮の前の道路を少し西へ行ったあたりだ。木村湯がこのすぐ北側にある。写真左の家は個人住宅、中央の蔦の家は木造アパート。写真右のモルタル塗りの看板建築は昭和30年頃の地図では「辰口本店」で、撮影時にはただの住宅だったようだ。



OK紙工、辰口商会。1987(昭和62)年頃



辰口商会。1992(平成4)年7月19日

正面入口の上に「辰口」の文字だけが残っている。剥がれた文字の跡を、中央にはマークが置かれていたのだろうということにして、無理やり「商會」としてみた。この家はごく最近まで残っていたと思う。後ろは富国印刷。写真右端にほんのわずか写っているのが新大橋通り沿いの「ライオンズマンション日本橋」だろう。

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晴東寮。中央区日本橋蛎殻町1-33。1985(昭和60)年10月10日

当ブログ前回の「四軒長屋」の左に続く家並みである。写真中央の洋風の3階建ては木造らしいが、「晴東寮」と表札にある。この建物は今も残っている。写真右の家は昭和30年頃の地図では「文港堂印刷所」。写真左のモルタル塗り看板建築にかかっている看板は「西陣帯地卸/道家商事株式会社/東京店」。



晴東寮の隣の和風住宅。1987(昭和62)年6月

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平沢理髪店。日本橋蛎殻町1-29。1987(昭和62)年5月31日

新大橋通りから日本橋特別出張所のほうへ入ってすぐのところ。写真左奥の建設中のビルは新大橋通りの交差店角の堀内商店(食品)があったところで、共和園(茶)や戦前はミルクホールで戦後は喫茶店だった店などの家があった。平沢理髪店は戦前からあるようだ。



カースル産業。日本橋蛎殻町1-30。1987(昭和62)年5月

平沢理髪店のある四つ角の別の角である。写真右へ行くと日本橋特別出張所。銅板貼りの家は磯島畳店。



四軒長屋(高橋菓子店)。中央区日本橋蛎殻町1-33。1985(昭和60)年10月10日

これも新大橋通りから日本橋特別出張所のほうへ入って、出張所からさらに箱崎町のほうへ行ったところ。看板に「コーヒー」とあるから喫茶店もやっているのかもしれない。

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日本橋特別出張所。中央区日本橋蛎殻町1-31。1987(昭和62)年頃

新大橋通りのかつて富士銀行があった交差点から南に入ったところ。東京市日本橋区の区役所だったのが、中央区が成立して中央区役所日本橋支所となり、さらに特別出張所になったものだ。竣工:昭和5年、設計:東京市。
k-kai氏の「廃景録>消えた近代建築>中央区日本橋特別出張所」で言っているように、けっこう大きい建物で、上の写真では上部と右側の半分ほどが切れてしまっている。写真では西日のせいでスクラッチタイルの色に見えなくもないが、全体を白く塗ってある。「窓と窓の間がスクラッチタイル」というのは「廃景録」の記述で気がついた。縦長の窓、丸くした角に持ってきた正面玄関と、古いビルの特長は持っているのだが、大味というかどうも魅力に欠ける建物のように感じられる。
現在は建て変わって、区役所の出張所、区民施設、公会堂(日本橋劇場)が入る「日本橋区民センター」という名称のビルになった。このビルが変にゴタゴタしたすっきりしない建物である。


左:日本橋特別出張所・西側。1987(昭和62)年4月29日
右:南側、日本橋公会堂の入口の方から見る。1996(平成8)年5月6日



正面右の掲示板。1991(平成3)年

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日本橋消防署浅草橋出張所。中央区日本橋馬喰町2-7。1987(昭和62)年10月4日

写真右の緑地は神田川に架かる浅草橋際の小公園。日本橋女学館のビルの懐にあるような消防署である。望楼があるから昭和40年以前の建築かと思える。
浅草消防署のHPには浅草消防署の浅草橋出張所(日本橋区馬喰町4-5)が、「昔西両国消防署と呼称していた時からの結びつきで、浅草の指揮下に入っていた」とある。昭和28年に、「第6方面 浅草消防署」となったときに日本橋消防署に移管されたのかもしれない。廃止されたのは平成3年4月。現在「浅草橋出張所」というと浅草橋3丁目の旧本署のあったところになる。




日本橋女学館
日本橋馬喰町2-7
上:2000(平成12)年1月4日
左:1986(昭和61)年12月

入口のある古い建物は1933(昭和8)年竣工のもの。
現在はすっかり取り壊されて8階建ての新校舎を建設するところだ。創立100年を記してのことらしい。完成するまでは台東区浅草橋1丁目の旧福井中学を代替している。

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小笠原紙工。台東区浅草橋5-15。左:1986(昭和61)年4月6日、右:1987(昭和62)年頃

左衛門橋の通りの忍岡高校入口交差点のすぐそばにあった。その交差点の北側だったか南だったか記憶があやふやだが、住宅地図を睨んで北にある小笠原紙工としておく。写真左の家は酒屋のようだが、それが鈴木酒造という見当である。
古典様式のデザインをかなり忠実に表現した看板建築といえると思う。


一番館(中華料理)が入るビル
浅草橋5-4
1987(昭和62)年頃

忍岡高校入口交差点からはかなり離れている。清洲橋通りと、そこから東へ江戸通りへ通じる通りの交差点の角にある。
縦長の窓をつないでひとつの窓に改装しているが、装飾は残されているほうだろう。

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台東区立柳北小学校。台東区浅草橋5-1。1987(昭和62)年頃

総武線の北にそれと平行して、清洲橋通りと江戸通りを結ぶ通りがあり、柳北小はその通りに面している。写真の左右の道路がそれで、写真左奥へ行くと、校舎の切れた先が柳北公園、その先に都立忍岡高校がある。
柳北小は2001(平成13)年4月に育英小学校と合併して台東育英小学校になり、校舎は一部「柳北スポーツプラザ」という区の施設に建替えられたほか、まだ残っている古い校舎を「東京リセ・フランコ・ジャポネ」としてフランス大使館が借りているらしい。
写真の校舎は解体されて柳北スポーツプラザになった西側の校舎。1926(大正15)年の竣工である。機能を重視した合理的な建物のようだ。ただ、屋根の軒周りの3重の線はかなり特徴的だ。



旧・柳北小学校。2007(平成19)年6月7日

バス停は「台東区循環バス『めぐりん』」の「南めぐりん」路線の「柳北スポーツプラザ」停留所。100円で大江戸線蔵前駅、田原町、かっぱ橋道具街、入谷を巡って上野駅へ行く。

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日本大学本部。千代田区西神田2-6。1987(昭和62)年1月4日

白山通りの三崎町交差点から水道橋西通りへ抜ける通りの北側にあった。この通りの南側は三崎町2丁目になる。現在は2004(平成16)に竣工したガラス張りのビルになり、以前と同じ、日大法学部の図書館になっている。図書館としては使いにくくなったのだろうが、古い建物を残して大学の歴史を誇るための旗艦にはなりそうだが。一般には真新しいビルのほうが自慢で、古い建物は恥ずかしいのかも知れない。
写真のビルは1927(昭和2)年に竣工した。『近代建築ガイドブック』(東京建築探偵団著、鹿島出版会刊)では、設計:日大復興部、施工:中島辰造、である。「中島辰造」でネット検索したら、1件も該当するサイトがなかった。やたら変わった名前でもないと思うが、意外だった。


左:日本大学本部・東面。1983(昭和60)年2月24日
右:日本大学本部・北面。1987(昭和62)年1月4日

北側の正面中央には中庭のような広場を造って、奥に玄関を設けている。その玄関の右の柱にある表札は「日本大学法学部/図書館」。日本大学のHPでは「1927年、旧・法学部本館が落成」という記述がある。推定だが、日本大学の総本部として建てられ、本部が移転した後、法学部本部と法学部図書館が入った、という経過だろうか?



日本大学本部・西面。写真右には西神田小学校がまだ残っている。1992(平成4)年5月4日



日本大学本部・南面。手前の空地は取り壊された西神田小の跡。ちょっと離れて見ると、中央の塔屋がかなり大きい。1995(平成7)年6月25日

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左:千代田区立西神田小学校。千代田区西神田2-6。1987(昭和62)年11月1日
右:西神田小・北西の角。1992(平成4)年5月4日

現在は西神田コスモス館という区営住宅と区の施設が入る高層ビルが建った。
お茶の水小のHPによると、西神田小は明治36年に東京市西小川尋常小学校の名称で設立された。今なら都立ということだろうか。昭和3年に西神田尋常小学校と改称している。町名が西小川町から西神田に変わったのだろう。写真の校舎はその前年の昭和2年の竣工である。1993年4月に、錦華小・小川小とともに併合されて「お茶の水小学校」の名称になった。お茶の水小の場所は猿楽町の錦華小のあったところだ。



西神田小・南西の角。1992(平成4)年5月4日

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