ぼくの近代建築コレクション
東京の都心と下町を中心に、戦前に建てられた古い建物の写真を投稿していきます。
 




築地6・7丁目のメインストリート。中央区築地6-5。1985(昭和60)年6月

築地市場に入る海幸橋から晴海通りを突っ切り、聖路加病院の横から、明石小学校の前を通る通りで、晴海通りの築地6丁目から東北へ入ってすぐの北側。写真左から、栄寿司、井上写真館、喫茶レイ、津多屋、マカロニほーれん草、木村治療院、横浜ナスカイ、と並ぶ。


左:井上写真館、喫茶レイ、津多屋。築地6-5。1987(昭和62)年5月24日
1枚目の写真にある栄寿司がなくなっている。津多屋は江戸文字を入れた暖簾・半纏・手拭い・大漁旗などを扱う店。昭和6年の創立だからそのときの建物らしい。

右:木村治療院。築地6-5。1986(昭和61)年
波除稲荷神社の夏の大祭だから6月10日前後だ。

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ダルマ薬局。中央区築地6-4。1991(平成3)年5月5日

写真右端が晴海通りの築地6丁目交差点。左方向が銀座。晴海通りに面してまだ看板建築が並んでいるが、その裏の家並みはすでにないようだ。
ダルマ薬局は昭和25年頃の地図に載っている。



晴海通りの裏。築地6-4。1987(昭和62)年5月24日

ダルマ薬局の裏になる。
築地6・7丁目の横丁や裏通りはどこも、こんな家が並んでいたがしだいにビルに変わってきて「町並み」といえるほどのものは、今はずいぶん減った。

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門跡橋。中央区築地3、6。1988(昭和63)年10月9日

晴海通りの築地川南支川に架かる橋。工事用のフェンスが立てられて、撤去もまじかだ。築地本願寺のある築地3丁目側からの撮影。
現在、写真左手前辺りに門跡橋の親柱が残されたが、表札が漢字のものだから写真の親柱とは別のものらしい。



築地川南支川。築地2、6。1985(昭和60)年6月2日

備前橋から門跡橋を撮ったもの。築地川南支川というのは、築地本願寺の裏の堀川をいう。堺橋から小田原橋までの430m。


備前橋の親柱
築地7
1985(昭和60)年6月2日

大正14年5月の竣工。築地本願寺が写っていて墓石のようにも見える。
三島由紀夫の「橋づくし」に『三味線の箱みたいな形のコンクリートの柱に、備前橋と誌され、その柱の頂きに乏しい灯がついている。見ると、川向こうの左側は築地本願寺で、青い円屋根が夜空に聳えている。』とある。
三島が見たときから30年経って傷みが進んでいるようだ。

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日東紡ビル。中央区八重洲2-2。1985(昭和60)年11月10日

外堀通りと鍛冶橋通りの鍛冶橋交差点に面している。外見は銀座の和光に似ていなくもなく、やはりルネサンス様式による昭和初年の建築か、と見ていたら日東紡>建材事業の歩みに『1952、旧日東紡ビル竣工』の記述を発見した。戦後も昭和20年代までは様式建築が少しは建てられていたらしい。
昭和10頃の地図を見るとその場所(槙町3丁目)にあるのは「旅館中央館」である。
現在のビルは1989(平成1)8月の竣工。



日東紡ビル・外堀通り側。1985(昭和60)年11月10日

外堀に架かる鍛冶橋のあった下に「鍛冶橋座」という映画館があったのを憶えている。外堀を埋め立てた時、橋の下を埋め残して映画館にしたのではないかと想像する。昭和40年頃は洋画の2本立てだった。

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明治製菓。中央区京橋2-4。1992(平成4)年4月

明治製菓の本社ビル。1933(昭和8)年にこのビルを建てて本社を移してきたらしい。設計は渡辺仁。ビルの後ろは、1階が石張り、上部壁面はタイル張りなので正面もそのようなものだったかもしれない。
現在のビルは2004(平成16)年の竣工。


明治製菓・裏側
1987(昭和62)年7月25日

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三弦師菊岡、栗田印舗、文洋堂印刷。台東区東上野3-36。1989(平成1)年7月23日

浅草通りの東上野3丁目交差点の西側の町並み。栗田印舗から仏壇の池田屋の裏がホテル大泉。鉄塔にネオンの文字を置いた看板を立てているが、見たところ2階建ての建物らしい。たぶん連込み旅館(今はなんというのか知らない)だと思う。



米洲家の倉庫。東上野3-36。1987(昭和63)年頃

当ブログ前回の三洋パッキンの向かい。酒井不二雄著、『東京路上細見3』に、『昔、「亀の子の灸」というお灸屋があった。建物は残っているが…』とある建物。撮影時は「米洲(べいしゅう)さんの倉庫」で、原米洲は有名な人形師だという。米洲の住む家で、一階を倉庫に貸しているということだろうか?

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三洋パッキン。台東区東上野3−37。1987(昭和62)年頃

写真右後方のビルは台東区役所で、浅草通りから入る横丁に角を向けている建物は現在も残っているが使われていないらしい。
看板は「日本バルカー工業株式会社代理店/三洋パッキン株式会社/東京出張所」と「麻雀巽」。


三洋パッキン
1988(昭和63)年頃

角の2階の窓周辺に洋風の装飾を施している。パイナップルの紋章みたいなレリーフは意味があるのだろうか?

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玉川電気商会。台東区東上野3-37。1989(平成1)年2月12日

写真左の縞模様の家は浅草通りに面していて、上野警察署前交差点の角。現在は玉川電機の家が無くなって空地になっているがその他の建物はまだある。
左角の家は岡本和菓子店で、撮影時はまだ営業していたかもしれない。以下は「酒井不二雄著、『東京路上細見3』」からの引き写し。写真に写っている横丁の方には「喫茶・軽食おかもと」ののれんが下がっていて喫茶店もやっていた。創業は明治30年頃。建物は昭和2年に建てた。玉川電機の家は岡本の家作。


宝運道具製作所
東上野3-18
1987(昭和62)年頃

写真左手へ行くとすぐ昭和通りの上野駅前に出る場所である。
塔屋のようなものが建物本体にはめ込まれた感じでくっついている。ビルの装飾がはぎ落とされて、写真で見る姿になってしまったものだろうか? 
塔屋に付けられた袖看板は「キングゼブラ印スポーツ製品卸/タカラスポーツ」。

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津田胃腸病科医院。台東区台東3-18。1985(昭和60)年10月27日(3枚とも)

昭和通りの2本東の裏通り。台東区台東は結構広い地域だが、戦前の建物は下町らしい和風の長屋や看板建築の商店長屋が多い。看板建築を除くと、洋風の建物はあまり見かけない。昭和通り沿いなら建てられたかもしれないが、残されていない。ということで、写真の医院はこの辺りでは珍しい西洋館だった。
歴史的建築総目録DBでは「昭和10年建築、木造2階、設計・施工=小林為吉(大工)」。
医院は現在も建て変わったビルで営業しているようだ。



正面全体の写真を撮っておけばよかった。


玄関

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湯浅光陽会計事務所。千代田区神田小川町2-10
左:1987(昭和62)年8月1日、右:1988(昭和63)年6月5日

左写真は当ブログ・筑摩書房の3枚目の写真と同じ並びを南方向に向いて撮ったもの。写真右の突き当たりは靖国通り沿いにある優美堂の裏のビル。
湯浅光陽会計事務所の建物は1階の半分を車庫にしてしまっているが、あまり改装はされていないようで、2階左の白く塗った窓枠は建築時のもののようだ。



豊盛堂小川町工場。神田小川町2-10。1988(昭和63)年6月5日

湯浅会計事務所と同じブロックの東側。「浅見司法書士事務所」の看板がかかっている銅版貼りの家が湯浅会計事務所と背中合わせになっている。

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